異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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最果村ベルカシェット、永遠の絆を紡ぐ物編

20.回合

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 片腕は無くて、足は度重たびかさなる電撃についに崩れ落ちた。

 大切な人を幾度いくども包んだ外套がいとう襤褸ぼろ切れのように薄汚れて、彼がとても好きだと言ってくれた髪の色すら最早汚くよどんでいる。

 何日も必死に走って来たこの体も、どれほど不潔か解らない。森の中を這いずり泥や獣の血で汚れた服は、忌避されるに値するだろう。例え彼に会えたとしても、この姿では……受け止めて貰おうと伸ばした手は、拒否されるかも知れない。

 必死で駆け抜け、彼の事だけを思っていどんで、その挙句あげくにこの姿だ。

 こんな情けない姿で彼にどう顔を見せればいいのだろう。もしも自分の事を待っていなかったとしたら、どんな目を向けて来るのだろうか。
 怖い。こんなみすぼらしくて情けない男など、愛してくれないかも知れない。

 雨に濡れ、ぼろぼろになり、森の中を這いずる男など。

(だけど、それでも……僕は……)

 それでも、例えさげすまれようとも、忌避されようとも、会いたかった。

 記憶を失っても自分の面影だけは忘れなかった彼に、心の底から真に愛してくれた彼に慈悲をう手を伸ばして、その柔らかい体に再び顔を埋めたかった。
 だから、彼を諦められなくて自分は今まで探し続けていたのだ。

 彼……ツカサに、抱き締めて貰う。
 その希望の日を夢にまで見て、目を覚ました時の絶望を何度も体感して、その日を迎えに行くために靴の裏が擦り切れるほど、走った。
 この左腕を守り続けてくれる汚れなき“贈り物”に触れて、絶望を振り切りながら。

 例え自分がどれほど汚れ、どんな姿に成ろうとも、彼は待っていると信じて。


 だけど、もう、動けなかった。


 昨晩からの雨がなけなしの力を奪う。結界の放つ強力ないかづちを受け続けて体は満身創痍になり、ひざを付いて獣のように歩く事すら難しい。
 陰鬱な色に染まった暗い緑だらけの森は、どうしようもなく心を凍らせる。

 何もいない、生きている物の気配が無い、寂しい森。
 ツカサが好きな小さい生き物も、ツカサが喜ぶ植物も無い、自分には見つける事も出来ない静かな森の中で、雨に打たれ続けて木に寄り掛かる。

 ツカサが手入れし、小さな手で優しく梳いてくれていたおかげで軽くふわりとしていたこの髪も、今は見る影もないほどにしぼみ、顔に張り付く色は“あの男”の髪色より薄汚れて汚らしい古い血の痕のような色になってしまっていた。
 目も疲れでよどみ、輝きを失っているだろう。この泥で汚れた手では彼に触れない。
 そもそも、抱き締めようにも……腕はもう、片方しかないのだ。
 ツカサが好きだと言ってくれたものが、自分からどんどん失われていく。

 こんな自分を、本当に彼は待ってくれているのだろうか。
 こんな自分では、嫌われてしまうのではないのか。

 ああ、だったら、会いたくない。彼が大好きだと言ってくれた自分で、会いたい。
 こんな自分は嫌だ。ツカサが好きでいてくれない自分では、嫌だ。
 会いたくない。もう、会うのをやめてしまおうか。

(いや、だ……いやだよ……)

 違う。そうではない。
 会いたい。逢いたいのだ。

 例えこんな姿になったとしても、一目だけでも。

 こんな姿でも受け入れてくれると、そのはずだと、信じて。

 だけど、もう、動けない。
 声すらもううめき声しか出せない。

 口惜しい。どれほど自分は無力で情けないのだろう。
 たった一人の愛しい人が居なくなっただけで、ここまで堕ちるなんて。
 彼を救うすべを持ちながら、そのすべを使う事も出来ずつくばっているなんて。


 そう、思って。
 全てを、あきらめかけていたのに。


(つかさ、くん……つかさくん、ツカサ、君…………っ)

 目の前に、現れた。
 どうしようもなく間抜けな姿で、彼らしい姿で、現れてくれた。

 黒い髪。少年の幼さを残す愛しい表情。頼りない体に、誰よりも柔らかく優しい、戦いを知らない小さな手。無垢な瞳が自分を映すその奇跡に、手が伸びた。

 片方だけの、情けない手が。
 傷付いて、泥だらけで、みすぼらしい手が。

「あ……ぁあ、あ゛ぁあ゛ああぁ……」

 だけど、ツカサは……叩き落としはしなかった。
 こんなに薄汚れてしまった自分を嫌がる事無く、這いずって近付いてきた恐ろしい姿を忌避する事無く、ただ、目を丸くしながら。

 こんな自分を、
 再び……――――受け入れてくれた。

(ツカサ君、ツカサ君、ツカサくん、ツカサぐ……っぅ、っ……)

 柔らかい。温かい体。
 雨に濡れていても子供らしい高い体温が包んでくれる。受け入れてくれる。
 しがみ付いた小さな体はどれほど離れていても変わらない。あの時の、あの時からずっと変わらない、自分が何度も抱き締めた体だ。
 会いたかった。ずっと、ずっとずっとずっと会いたかった。

 言葉が出ない。泣き声しか出せない。
 本当はもっと綺麗な姿で、ツカサが惚れ惚れするような格好いい姿で、彼を迎えに来たかった。こんな情けない姿を見せたくは無かった。
 だけど、泣き声しか出て来なくて。片方の腕で必死にすがるしか無くて。

 汚いのに、みすぼらしいのに、格好悪いのに。
 愛しい存在から手を離す事など、出来なかった。

「…………大丈夫……?」

 頭に、暖かい何かが触れる。
 雨粒だけが執拗に叩く頭を、その痛みをさえぎるように柔らかいものが撫でた。
 何か、なんて、解らない訳がないではないか。

(ツカサ君…………ッ)

 わからないわけが、なかった。














「つ、かさ……くん……」
「しぃーっ、静かに……。大丈夫、手当てしてやるから」

 自分より小さな体で、必死に自分の事をかついで、運んでくれる。
 彼も既に雨に降られていて寒いだろうに、それでもブラックの大きな体を一生懸命に引き摺って、どこかへ連れて行こうとしてくれた。

 それだけで、嬉しい。
 こんなにも嬉しい事など無かった。

「ああ、ほら、見えてきた……あの……えっと……きこりごや? に、行くんだ」

 記憶の中のツカサとは少し違う声の調子に、妙に心が戸惑う。
 だが、ツカサはそんなブラックの事など気にもせず、草地を抜けて必死に小屋まで辿たどり着くと、ぎいぎいときしむ扉を開けてブラックを中へ引きずり込んだ。

 そうして、やっとの事で藁が摘まれた場所にブラックを寝かせる。

「ここに暖炉があったらいいんだけど……ごめんな……」

 至極残念そうに言いながら、ツカサは何かを必死に探している。だが、何を手に取ったらいいか解らないようで、薄暗い小屋の中で酷くあたふたしていた。

(ツカサ君……どうしたんだろう……)

 ツカサのすぐ隣には、たき火をする為に土を掘って作った簡易の囲炉裏があるではないか。薪も小屋の端に積んであるし、あとはわらか何かを、「フレイム」で燃やせばいい。それでたき火がすぐに出来上がる。
 そんなこと、旅をしてきたツカサならすぐ判るだろうに。
 なのに、何故全てを始めてみるかのような態度で泡を食っているのか。

 雨と涙で薄ぼけた視界を、今一度ぬぐってハッキリさせる。
 そうして、ふと、こちらを振り返ったツカサを見て――――全てを、悟った。

「ゴメンな……俺、こういう場所初めてで……どうしたらいいのか解らなくて……」

 ツカサの瞳が。
 美しい、宝石のようだった濃密な琥珀こはく色の瞳が……真紅に、染まっている。

 それが、どういう事か。
 解らないほど、ブラックは愚かでは無かった。

「ど……どうしたんだ? どこか痛むのか?」

 先程と同じように慌てながらブラックの体を確かめようとするツカサに、何故か急激に体に熱が上がって来て、思わず手を叩き落としそうになる。
 だが、そんな事をツカサにしたいのではない。これは恐らく、八つ当たりだ。
 必死に自分の中の激情を抑え込んで、ブラックはツカサに手を伸ばした。

「なに? どうした?」

 すると、ツカサは何だかぎこちない、心配している風だが表情が妙に不自然な感じで、ブラックの手を取ってくれた。それ自体は、嬉しい。けれど、なんというか……おかしい。ツカサの表情は、絵画の中の人物の曖昧な顔のようだった。

(どういうことだ……?)

 言葉は自然だ。瞳の色以外は、ツカサに相違ない。だが……。
 これは、もしかして。

「つかさ、くん……」
「ん……?」
「なんで僕が……ツカサ君の名前、知ってるか……わかる……?」

 恐る恐る、訊いてみる。
 すると、ツカサはキョトンとして……申し訳なさそうに顔を歪めた。

「やっぱり、俺……おじさんと会った事ある……? ごめん、俺……記憶を失っててさ……ここ最近の事以外は、何も覚えてないんだ」

 そう言いながらこちらに近付いて来るツカサの首には、分厚く重苦しい金属の首輪が撒き付いていた。彼には所有者が存在する、と、見せつけるかのように。

(赤い瞳、記憶喪失、奴隷…………奴隷、奴隷……!! あのクソガキ、ツカサ君を、ツカサ君をよりにもよってっ、ぐっ、あ゛、あ゛ぁああ゛ああああ……!!)

 怒りに駆られて叫びたい気持ちを必死に抑え、心の中で散々にわめく。
 顔が歪みそうになるのを歯を痛いくらいに噛み締めてなんとか保ちながら、ツカサを怖がらせないようにとつとめた。そんなブラックを見て、ツカサは至極不思議そうに目をしばたたかせて、首を傾げる。

 まるで何も知らない子供のようなその様に思わず魅入られていると、ツカサは何か思い至ったようで、少し嬉しそうにブラックに顔を近付けて来た。

「なあ、あんた……もしかして……」
「……?」

 なんだか、赤い瞳が輝いている。
 さきほどのぎこちない顔とは違って、この目はいつものツカサのように自然だ。
 先程との違いは一体なんなのだろうかと眉根を寄せたブラックに、ツカサはハッと気が付いた素振りを見せ慌てて距離を取った。

「あっ、ごめん、なんでもないんだ! その……ほら、俺は別に森を荒らしに来たんじゃないし、その、何か盗みに来たわけでも無いからな? だから大丈夫だぞ!」
「……?」

 よく解らないが、ツカサは自分を「なにか」と勘違いしているのだろうか。
 だが、これでよく解った。いや、今の会話で分からないはずが無かった。

(ツカサ君は、また記憶を失って……いや、そうじゃない……あのクソガキの“支配”の力で今までの記憶を封じられているんだ。そして、逃げられないように奴隷の首輪を付けられて、あのクソガキに飼われてるんだって……)

 真紅の瞳と、奴隷の首輪。
 何重にも縛り付けられ、記憶を奪われ、今のツカサは無垢な子供に等しい。
 表情がぎこちなかったのは、恐らく“誰の事も覚えていない本当にまっさらな状態”にして、初めから教育し直そうとした結果なのだろう。

 ツカサは、体と思考は十七歳のままで心と記憶を失った。
 残ったのは、思い出がともなわないただの情報だけ。さぞや調教しやすかっただろう。現にツカサは何でも受け入れてしまう無垢な状態だ。しかも、見知らぬ相手となったブラックにも簡単に近寄るような有様なら、今のツカサは他人とはほとんど接触してこなかったに違いない。

 それほどまでに、無知で純粋に“仕立て上げられた”のだ。

(沢山の人と関わりがあったなら……今の僕みたいな状態の怪しい奴になんて、絶対に近寄る事なんてなかっただろうしね……)

 人と出会う事は、それだけで経験値になる。
 何が普通で何が異端であるのかを自分の目で直接確認できるからだ。
 もしツカサが沢山の人を見る機会があったなら、今のみすぼらしい身形みなりのブラックなど、普通とは異なる存在だと即座に判断して警戒していただろう。
 それもなく、汚れたブラックを嫌がる事も無く受け入れたという事は……今までは人に極力会わず、しかも悪意に曝されないように囲い込まれてきた可能性が高い。

 なにより、この、ツカサのぎこちない表情の反応は……。
 ブラックには、心当たりがあった。

(僕が初めて自分の足で館から出た時、仲間達にはこう見えていたんだろうな)

 そう。
 ずっと昔に、今はもういない仲間達に言われた事が有る。だから、解るのだ。
 今のツカサは、感情を把握はあくしきれずに戸惑っている状態なのだと。

(可哀想に……ツカサ君、本当に可哀想に……)

 理由は解る。何故そうさせられたのかも。
 だからこそ今のツカサの無垢な様子がとても哀れに思えて、治まっていたはずの涙腺るいせんが緩んで涙がこぼれてしまう。

「わっ……アンタ、すぐ泣くなあ……。どうしたんだよ、もう……」

 べしょべしょになったブラックの顔を、どうしようか迷ったようだが両手で拭いてくれる。今の自分はひげも生え過ぎて毛まだらで奇妙だろうに、それでもツカサは顔が汚れている事に気付いて、シャツを脱いでその布の綺麗な所でブラックの顔を優しく拭いてくれた。……変わらない。記憶を失っても、彼の優しさは消えていなかった。
 それがどうしても胸を締め付けて、涙があふれてしまう。

 わらの山に寄り掛かって、無様な姿で赤子のように泣く中年。みっともなさすぎる。
 解っているが、それでも涙が止まらなくて。
 けれどそんなブラックを、ツカサは嫌がりもせずにただなだめてくれる。
 あきれても仕方がないブラックの様子を、笑わずに心配してくれていた。

(ツカサ君は、変わらない……例え何もかもを失っても、変わらないんだ……)

 今はそれが嬉しくて……少し、悲しかった。

「……泣きやんだ?」
「…………うん……」
「アンタ……えっと、その~……もしかして、名前とか……ある……?」

 今更な事を聞くツカサに、ブラックは悲しみに歪んだままの顔で笑った。

「……ブラック……」
「そっか。ブラックって言うんだ」

 自分の名前を聞くと、ツカサは無邪気に笑う。
 その笑顔だけは、自然だ。
 きっと、色んな事に笑っていたに違いない。自分がいない場所で。

「ブラック、俺さ、アンタの事誰にも言わないから」
「え……」
「森の中の……おっと、ええと……とにかく、ブラックが自分の家に帰るまで、俺がちゃんとお世話するからな!」

 森の中の家。お世話。どういうことだろうか。
 よく解らずキョトンとしていると、ツカサはどこか嬉しそうに自分を見つめた。

 何故だろう。どうしてツカサは、自分の事をそんな目で見てくれるのだろう。
 真意は解らなかったが……記憶を失っても、ツカサは自分を受け入れてくれる。
 今はただその事に救われたような気がして、全身の力が抜けた。

「ごめん……ぼく、疲れて……」
「えっ、あ、あぁっ、だ、大丈夫……?! 石になったりしない!?」

 石になるとはどういうことなのだろうか。
 またもやよく解らない事を言われたが、それはない。
 ブラックは苦笑して、藁の山に体を預けた。

「大丈夫……ちょっと、疲れただけ……。少し眠れば、平気になるよ……」

 そう言いながら、目を閉じる。……と。
 ぐう、と、どこかから音がした。

「…………」

 あまり考えたくない。どこから鳴ったのかなど。
 だが、ツカサには見当が付いてしまったようで、記憶を失う前の彼よりも大人しい感じで口に手を当てて、ひかえめにくすくすと笑った。

「たべもの用意して来るよ。だから、ブラックは寝てて」
「うぅ……」

 また格好悪い所を見せてしまった。だけどもう、今更かも知れない。
 今は睡眠が優先だと思い目を閉じたブラックに、ツカサが近付いてくる音がする。

「大丈夫……今度は俺が、お爺さんみたいにアンタ達を守るから……」

 お爺さん、とは……どういうことだろう?

 問いかけようとしたが……頭を撫でる優しい手に意識が緩んで、そのまま閉じた。












 
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