異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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最果村ベルカシェット、永遠の絆を紡ぐ物編

5.彼が彼であればそれで良い

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 このベルカシェットでツカサと暮らし始めて、二日経った。

 目覚めた当初は物の認識すら危うい様子だったが、レッドが細かに話しかける内に頭の中にある情報は取り出せるようになったらしく、一緒に居る時は己の中の認識を確かめるかのように、あれは何だこれはこういう名前で正解かと話しかけてくるまでに回復していた。

 いや、回復と言うより――頭の中を調整している、と言う方が正しいのだろうか。

 こういう時に、彼の己ですらも認識していないさとさを感じる。

 恐らくツカサは「情報」とそうでないもの……つまり「己の記憶」を振り分けようとして、無意識に自分が本当に「ツカサ」という存在なのかはかっているのだ。
 さもありなん。阿呆あほうでも無い限りは、誰だってそこは気になるだろう。
 記憶を失ったと自覚して、その時最初に不安になるのは、自分自身の実態だ。

 己が何者であり、どんな生き方をして来たのか。
 他の人間から名を呼ばれ、気安く触られるが、それは本当に正しい事なのか。
 まるで夢の中で戸惑っている時のようで、最初は何を言われても素直には信じられないというのも当然の事だろう。記憶を失ったものにとっては、現在の状況は唐突にその場に放り出されたのと同じ事なのだから。

 ツカサの場合、記憶の大部分を失っていても、倫理観やものの考え方などは失われてはいないので、よく物を見て観察する彼ならばそうするのも不思議はなかった。

 だが、彼がそうやって見えない自分の痕跡を探そうとするのを見るたびに……レッドは、心の中の暗い感情がうずくのを感じてしまっていた。

(……本当に、“支配”されているんだよな、お前は)

 そう思わなくとも、彼の幼い顔を見ればすぐに分かる。
 解るからこそ、喜びと苦しさとくやしさがぜになって、素直に喜べなかった。

 しかし、この村に連れて来た以上、もう後戻りはできないのだ。
 そう考え直し、レッドは軽く首を振って己をたもつと、さきほど起床して来たツカサを待たせている居間に向かうことにした。

 別に何か用があった訳でもないが、こちらが落ち着かない態度でいたら彼を不安にさせてしまう。万が一にでも記憶を取り戻す切欠きっかけになるとも限らないのだから、しばらくは慎重にツカサと接さなければならなかった。

(…………よし、行こう)

 扉のない入口から、少し古びた内装の居間に入る。
 村長が「綺麗に保っていた」と言っていた通り、古ぼけた暖炉や調度品はそのままだが、絨毯や壁掛けの布などは新調されている。
 燭台しょくだいや金属製の装飾すらもさびなど無く、絵画も色鮮やかなまま落ち着いた色の壁に掛けられていた。本当に、昔のままだ。

 匂いだけは懐かしい程に古びた匂いだというのに、何だか妙な気分だった。

(二度と来たくは無かった場所なのに、こんな風に思うなんてな……)

 この別荘には、楽しい思い出も悲しい思い出もまっている。
 けれど、レッドはその全てを思い出したくは無かった。思い出してしまえば、この別荘での辛い思い出まで一気によみがえって来てしまうからだ。
 だから、今まで寄りつかなかったのだが……そんな事を言っても仕方がない。

 ツカサは、そんなこちらの事情など知らないのだ。それに今は何もかもが解らない状態であっても、やがてはレッドの態度に勘付いてしまうだろう。
 それを防ぐために、こちらもある程度自制をせねばなるまい。

 彼がもう、誰の事も思い出さないのだと、安心できるようになるまで。彼が本当に、自分の物になってくれたのだと確信できるまでは。

「……ツカサ」

 呼びかけると、暖炉の前にあるソファに座っていたツカサがこちらを向く。
 未だに己が何者かを決めかねている表情は、笑いも泣きもしていない。
 ただ、綺麗な深紅の瞳を瞬かせながら……レッドを見つめているだけだった。

(…………大切な存在の記憶を奪ってしまう事で、何らかの不都合が起きるかもしれない。それは、解っていた。だが……こんな事になるとはな……)

 ――――ツカサが目を覚まし、この美しい真紅の瞳を見せた時は、自分の“支配”が成功しているのだと確信した。だが、彼の状態を確認していく内に、レッドは自分が命令した“支配”の重要な副作用を知る事になったのだ。
 それが、今の彼の状態だった。

(やはり今も、感情が湧いてこないのか……)

 そう。ツカサの顔からは、表情が消えている。
 目覚めてからずっと、人形のように表情を動かすこともなく、レッドに付き従っていたのだ。こちらがどんなに表情を動かそうとも、まったくの無表情で。

 それは、以前のツカサからすれば考えられない事だった。

(あんなに様々な表情を見せてくれていたのに……今のツカサは、まるで白磁人形のようだ。何を話しても、笑いかけてくれないなんて……)

 記憶を失う前のツカサなら、周囲をよく観察しようとキョロキョロ見回したり、興味を引かれるような物を見つけると、不思議そうにじっと凝視したりして、とにかく表情が落ち着く事など無かったのだ。その様子はまるきり子供のようで、彼の幼さを残した姿と相まって、愛らしくて可愛らしかったのだが。
 今はもう、その表情を見る事が出来ない。

(恐らく“大切な存在の記憶を永遠に閉ざせ”と言ったせいで、あの男の記憶だけではなく、他の者の事も忘れてしまったんだろう。……俺は親兄弟の記憶まで失くせと言ったわけでは無かったんだが……やはり、繊細な部分を操作すれば、思わぬ過失を招くという事なのだろうな……)

 ツカサがこうして感情を失ってしまったのは、間違いなく自分のせいだ。
 彼を自分の物にしたいがために、禁忌の術に手を出して廃人同然にしてしまった。
 だが、だからといって支配を解く事は出来ない。それだけは出来なかった。

(しかし希望は有るはずだ。ツカサは自我までは封印されていない。さとさは失われていないし、記憶を失った事で全くの別人になったと言う訳でもない。だから……根気よく話し続けていれば、いつかはきっと感情を取り戻してくれるはずだ)

 そう。ツカサはツカサでなくなった訳ではない。
 記憶をくし感情すらもうしなってしまったが、レッドの事を気にかけようとするし、礼儀を尽くそうと言う気持ちも無くなってはいないのだ。

「レッド……どうした……?」

 自分を見上げて来るツカサ。その顔からは何の表情も感じられないが、しかし自分を見つめてくれていることに変わりは無い。
 彼は間違いなく自分を見て、自分だけを信用してくれているのだ。
 だったら、いちからはぐくめばいい。

 彼を縛る“誰かの記憶”は、もうどこにも無い。それどころか、彼が認識している他人は、自分しかいない状態なのだ。好都合ではないか。
 こちらが積極的に接すれば、相手はきちんと答えてくれる。なら、いつかは感情が芽生えてくれるかもしれない。何より、レッドの事を頼りにしてくれているツカサの事を考えると、これはこれで良い事なのだと思えるようになってきた。

 もとより、誰かの影がツカサの周囲にちらつく事に嫉妬していた自分だ。
 いっそ誰も覚えていない方が、彼を傷付けずに済んで良かったのかも知れない。

「レッド……」
「あ、ああ、すまないツカサ。少し考え事をしていた」

 ツカサの顔を見つめながら黙っていた事に不安になったのか、ツカサが問いかけて来る。いや、不安と言うか疑問に思っただけかも知れないが、しかしレッドに対して反応して来るのは良い兆候だ。

 レッドは優しく微笑んで、ツカサの頭を撫でてやった。

「考え事?」
「ああ、ツカサは記憶を失くしてしまったから、覚えなおす事が沢山あるだろう? だから、何から教えようかと思ってな」
「そうなんだ……。ありがとう、レッド」

 ほら。どうやって感情を現したら良いか解らなくても、ツカサはこうやってレッドに対してより良い返事をしようと考えてくれるのだ。
 それは、ツカサの中に感情が無いのではなく、きっと、感情をどう表したら良いかという事を忘れてしまったからに違いない。

(そうか……感情を表す行為は、基本的に赤子の内に無意識に習得する物だからな。それを親と言った“大切な人”に教わっていれば、その記憶も失われてしまうという事か……。だったら、俺が感情を一から教えてやらなければいけないな)

 自我がある状態で感情を学ぶという行為は、彼にとっては違和感がある事かも知れない。だが、自然と覚えさせてやる方法ならアテがないわけでも無かった。

「よし、ツカサ。書斎に行こう」
「しょさい?」
「本がたくさんある場所だ。そこには子供向けの絵本や童話もある。言葉だけで説明するよりも、そちらのほうが判り易いだろう」

 そう提案すると、ツカサはコクコクと素直に頷いた。
 元のツカサなら、少年らしい意地っ張りな部分を出して「俺は子供じゃない」とでも怒ったのだろうが、今の彼にはその片鱗も無い。
 それが少し寂しくは有ったが……自分自身が望んで彼をこうしたのだと思うと、何もなげく事は出来ず、レッドは笑顔の仮面を被りながら彼の手を引いて立たせた。

「……ありがとう、レッド」

 別に大したことではないのに、ツカサはお礼を言って、こちらを見上げて来る。
 深紅の瞳は別段笑みもしなかったが……しかし、彼が純粋な気持ちで自分にお礼を言うべきだと思ったのだと思うと、レッドは何故か救われたような気がした。

 ああ、そうだ。もう昔のツカサは戻ってこないかも知れない。
 けれど、ツカサはツカサであって、何も変わる事は無いのだ。
 ならば自分はまた改めてツカサを愛せばいい。彼にはもう、何の影も無い。心の器だって、穢される前の綺麗な状態に戻っているのだから。

(……そうだ。これでいい。これで良いんだ)

 自分が欲しかったのは、ツカサの心からの愛だ。
 彼の本質が彼である限り、何も問題は無い。

 そう考えながら、レッドはツカサの手を引いて書斎へと歩き出したのだった。












 
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