異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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最果村ベルカシェット、永遠の絆を紡ぐ物編

1.熊、奮い立つ

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 完全に、あなどっていた。まさかあの男がこれほど強いとは。

「追い詰めるつもりが、翻弄されていたとは……。侮らずに、最初から本気で行けば良かった……ッ」

 喋りながら走るたび、腹部から血がにじみ嫌な臭いが鼻を殴る。
 ズキズキする痛みの他に耐えがたい熱のさいなみを感じるが、全身の筋肉を緊張させてどうにか出血を制御して耐えた。今は、痛みにうずくまっているひまが無かったからだ。

「声を上げるしかなかったとは……恥だ……」

 痛みを我慢するような声を漏らす自分が鬱陶うっとうしい。
 もう喋るまいと思いながら、クロウは炎に巻かれる森をひたすら移動した。

 ――――あの時。
 ツカサが一瞬にして消え去った時、それでも自分達は冷静に彼の“目印”と匂いを追って走っていたが、まさかレッドとかいう【紅炎こうえんのグリモア】が待ち構えているとは思いもよらなかった。

 いや、ある程度予測出来ていたが、幸福に満ちあふれた時を唐突に奪われた動揺から「そうであって欲しくない」と思っていたのかも知れない。
 なんにせよ、寝耳に水とはこの事だった。
 だが、それでも、クロウは最善の判断をしたつもりだ。

 いち早く相手のニオイを感じ取ってブラックにその事を伝え、自分が足止めすると進言した。それは何も「ツカサがブラックと恋人同士だから」という理由ではなく、あの赤髪の青年を足止め出来るのは、自分しかいないと思ったからだ。

 【グリモア】という存在は、クロウにはよく解らない。
 だが、一つだけ分かる事が有る。それは――――

(死の臭い。弱者が迂闊うかつに触れれば死んでしまうような、圧倒的で気圧されるようなちからのニオイがしたんだ。……だからオレは、ブラックとツカサを逃がした。万が一にでも、オレとブラックのどちらかが死ぬ可能性があるなら……死ぬのは二番目の雄であるオレでなければならなかったからだ)

 死の臭いとは、一言に行っても意味は様々である。
 いだ瞬間に死を連想させる強者のニオイでもあれば、その名前のままの意味で「今にも死にそうだ」という時に鼻に届くニオイでもあった。
 どちらにせよ、まともに相対するような存在ではない。クロウのような獣人族にとって、その独特なニオイは忌避すべきものだった。

 もし、生き生きした相手から、死の臭いが漂ってくるのなら――その者は、嗅いだ者にとって「戦えば相手に殺されるかもしれない」という位置づけになる。
 だが、クロウは今までその“死の臭い”を嗅いだことは、ほとんどなかった。
 つまり、グリモアはそれだけ獣人族をも超える能力がある置いう事なのだろう。

(オレはまだ水麗候すいれいこうから“死の臭い”を嗅ぎ取った事はないが、初対面の時のブラックからそのニオイを感じた時、侮れない人族だと思った。その通りブラックは、とてもではないが正攻法で戦いたくない相手だったんだ。……そんな相手と同程度の、強い“死の臭い”を……あのレッドという男から感じた……)

 ブラックと同等か、もしかすると……それ以上。
 だとしたら、二人で戦っても分が悪いかも知れない。負けるつもりは全然ないが、レッドという男と一緒に居るだろうツカサの事を考えると、下手をすれば彼が重傷を負う可能性もあった。いや、ニオイからしてもうツカサは何らかの怪我をしている。それを感じ取ってしまったクロウには、一刻の猶予ゆうよも無かった。

 手負いのツカサを戦いの場に置く事は、彼を今より危険な状況に曝す事になる。
 だから、クロウはブラックに提案したのだ。

 自分がレッドという男を引き留めるから、その間にツカサを連れて逃げろ、と。

(だが……結果はこんな有様だ……ッ)

 対峙して、打ち合ったまでは良かった。
 若く戦闘の経験も少ない相手と何十年も戦いの中に身を置いていたクロウの間には、かなりの実力差がある。相手が剣術であっても、クロウの積み重ねてきた拳闘の技術ならば充分に戦える。実際、戦いなかばまではクロウが優勢だった。

 だが、ツカサがどんどん離れ、相手が何事かをブツブツ呟き始めたと思った刹那。
 クロウが認識するよりも早く――相手が、周囲を一気に炎に染め上げたのだ。

(あの時、油断して相手に近付きすぎなければ……あの剣を食らう事など無かったというのに……ッ)

 返す返すも、口惜くちおしい。
 周囲を取り囲む炎に気を取られ、クロウは炎の剣に腹部を討たれた。
 ……実際は、すんでの所でわずかに飛び退き、ほんの少し刃に刺されただけだったが、しかしその炎のおぞまましいまでの威力と熱がクロウの体を焼き、結果このように手負いとなってしまったのだ。
 かわせたからと言っても、褒められた事ではない。

(お蔭でオレは無様に『そっちへ行った』と叫ばねばならなくなった……。二番目だと言っておいてこのざまとは、本当に情けない……!)

 実質、負けたような物だ。悔しい。思いあがりや慢心が敗北を招いた。結果としてツカサとブラックを危険な目に遭わせてしまったのだ。慢心して気を抜くなんて、武人ぶじんとして恥ずべき事だった。
 だが、今はそんな恥辱にかまけている暇すらない。
 だからクロウは腹の傷を抑えて必死に走っていたのだ。

(炎のにおいがする、金属のにおいがする。何だ、何が起こっている)

 あの男とブラックが戦っているのか。
 だとすれば、一刻の猶予ゆうよも無い。

 手負いの身だが、ツカサの盾となり彼を守らなければ。二番目の雄としてブラックの手助けをしなければ。

(何か嫌な予感がする……ツカサ、ブラック、無事で居てくれ……)

 思わずそう願ったと、同時。

「――――ッ!?」

 金属とも生物とも言えない不可解なニオイが鼻に届いたと思った、瞬間。
 耳に何かが撃たれたような音が飛び込んできて、その次に――――何者かの狂ったような叫び声が熊の耳に飛び込んできた。

(なん、だ、何が起こった……!?)

 ブラックの声ではない。ツカサの声ではない。
 だが、何か嫌な予感がする。とても嫌な予感が。
 そう思い、必死に森を抜けて草原に辿たどき。そこで、クロウが見た物は――――

 焼け焦げた痕跡が無数にある草原と、崖の外を呆然ぼうぜんと見ているブラックだった。

「…………?」

 敵は。レッドと言う男と、クロッコはどこに行ったのだろう。
 今さっきまでは、強烈な金属と炎の臭いに混じってあの二人がいる事を感じていたというのに、一体どこに行ったのか。

 いや、それよりも……

(ツカサは……ツカサは、どこにいる……?!)

 匂いがしない。嗅ぐとどこでだって安心できる、あの優しくて美味い匂いが。
 自分を包み込んでくれる、誰よりも愛しいあの香りが。

「まさか………攫われた……?」

 だが、それならブラックがこんな所で呆然としているはずがない。
 自分が来るよりも早くあの二人を追っていたはずだ。なのに、未だここに留まって呆然と立ち尽くしている。何か、理由があるのだ。

 しかし、その理由と言うのがよく解らない。どうしてこんな事になっているのか。

「…………ブラック……?」

 とにかく、近付こうとする。
 もしかしたら怪我をしているかも知れない。この草原には焼けた血の臭いが充満しているが、それがブラックの物ではないという保証はないのだ。
 何せ相手は、あの【紅炎のグリモア】だ。ブラックでも手こずるだろうことは予想していた。だから、クロウはその事を覚悟しながら近付いたつもりだったのだが。

「ッ!? ブラック、お前、その腕は……!!」

 こちらには体側を向けていたせいで今まで解らなかったが、朝日を浴びて立ちすくんでいるブラックの左腕は……肘の先から、忽然こつぜんと消え去ってしまっていた。
 だが当の本人はと言うと。

「………………駄熊か」
「――――……!!」

 その、何事も無いかのような低い声が耳に届いたと、同時。


 全ての毛が一気に逆立ち、怖気おぞけが全身を支配した。


(こ、れは……)

 体が言う事を聞かない。獣である部分の全てが言い知れぬ恐怖を感じて、今すぐにでもこの場を逃げ出せと訴えていた。
 目の前の相手はただ崖の下の空を見つめているだけなのに、その横顔から見える菫色すみれいろの目を視認すると、体が勝手に逃げるように動こうとする。

 ……馬鹿な。
 仲間に対してこんな風に思う事など、有り得ない。だが、その静かな表情が、今は何よりも恐ろしいものにしか見えなかった。

 そんなクロウのことを知ってか知らずか、ブラックは崖下を見下ろしながら、平坦な声音でぽつりと呟く。

「ツカサ君がね、ここから落ちたんだ」

 その短い言葉に、耳を疑った。

「落ちた……だと……!?」

 落ちた。ツカサが、この崖から落ちたというのか。
 そんな馬鹿な。思わずブラックの前に出て崖の下を見るが、遥か遠い地上はかすみ、この島が今どこを飛んでいるのかの判別も出来ない。
 朝日の強い光も相まって、全てが白ににじんでしまっていた。

 こんな、場所から。こんなに高い所から、ツカサが。

「ば、かな……だったら何故お前はそんな顔をしている!!」

 信じられない。いや、信じたくない。
 ブラックは自分をからかってツカサを隠しているのだ。そう思いたかった。
 だが、それが真実である事は……もう、自分の体が嫌と言うほど思い知っていて。

 言い知れぬ冷たい気配を漂わせるブラックは、感情もないような顔で答えた。

「大丈夫だよ。だってツカサ君は、死なないんだから」
「ッ……!?」

 何を、言っているんだ、この男は。

 思わず己の耳を疑ったクロウに、ブラックは続ける。

「ツカサ君は黒曜の使者だ。先代の使者から死ねないって言われている。普通の体であれば死んでるけど、ツカサ君は普通じゃない。特別だ。特別だから大丈夫だよ」

 表情を変えずに、そう、うそぶく。
 その様子を見たクロウは、今までの自分の考えを改めた。

 ……違う。平然としているんじゃない。
 これは、何の感情もないという顔などではない。
 こんな、見た事も無いくらいに感情も無く落ち着いた顔をしているブラックは、

 今までにないくらい感情をこらえて――――

 半ば、狂いかけているのだと

「生きてるよ。だから、探しに行く」
「…………あいつら、は」

 クロウののどが、必死に言葉をしぼる。
 朝の冷たい風に髪を乱す相手は、それを手で留める事も無く言葉を返してきた。

「知らないよ。知る必要もない。どうせ、ツカサ君を探しに行ったんだろう」
「だからお前も探しに行くというのか、今から」

 あせってはならない。混乱してはならない。
 いま自分まで心を乱してしまえば、終わりだ。クロウの中の獣の本能がそう警鐘を鳴らしている。ブラックから目を離してはならないと、叫んでいた。

「そうだよ。今から探しに行く。当然だろう? 僕はツカサ君の恋人なんだから」
「待て、その左腕で追うのは無理だ!」

 今一番最初に考えねばならない事は、ブラックの怪我の手当てだ。
 それはブラックの為ではない。ツカサの為だ。この男が今の状態で、腕の壊死すらも気にする事なく現れたら、ツカサはきっと悲しむだろう。

 彼は、自分が傷付くよりも、自分のせいで他人が傷付く事に酷く心を痛める。
 恐らくツカサを守るために戦ったのであろうブラックが、このような状態で現れたら、ツカサは一生その事をやんで生きて行くことになるかも知れない。

(何をすべきか解らない。だが、絶対にこのまま行かせては駄目だ……っ)

 腹がじくじくと痛みにうずく。筋肉の力で押し留めていた傷が、深くなり始めた。
 自分もそろそろ危ない。早く水麗候のもとに戻らなければ、共倒れだ。
 だが、それでも、ブラックから目を離す訳には行かなかった。

 しかし当の本人は、クロウの事どころか自分の事すらどうでもいいようで。

「腕? こんなのどうでもいいだろ。後で回復薬でも掛けておけば治る。それより、早くツカサ君を回収しなきゃ。再生し切っていない時に何かに食われたら、追いきれないかもしれない。どう戻るのかも未知数だ。だから、早く降りる」
「オレ達だけでは降りられない。神族の許可がいる」
「飛び降りれば良い」
「そんなすべがない事はお前だって解っているだろうが!!」

 あまりに短絡的な言葉に、思わず激昂し怒鳴ってしまう。
 だが、そんなクロウにもブラックは表情を動かさなかった。

「…………どうしろって、言うんだ」

 ツカサに喋りかける時とは全く違う、尊大で無愛想な口調。
 だが今は、会話が成立するだけで有り難いと思えた。

「お前には“アレ”があるだろう。だったら傷を治療してからでも遅くは無いはずだ。何より、その格好のままで現れたら……ツカサがどんな顔をすると思う?」
「…………」
「水麗候に頼めば、最も近い場所に転送して下さるかもしれない。一人で突き進むな。お前の大切な物は、オレの大切な物でもある……」
「………………ツカサ君はお前の物じゃない。僕の物だ」

 減らず口を叩けるくらいの余裕があるのなら、まだ時間は有るはずだ。
 本当に狂ってしまうまでの、時間が。

「解っている。……とにかく、まずは体勢を立て直すんだ。用意もせずに飛び出しては、救えるものも救えない」
「お前に言われたくない」

 そう答えるが、ブラックはどこかへ行こうとはしなかった。

(……ツカサの言う通り……少しは、仲間だと思って貰えているようだな……)

 だがそれだって、ツカサがそう言ってくれなければ確信する事など出来なかった。
 彼が教えてくれなければ、自分はこうやって相手を止められなかっただろう。

(ツカサ……お前は本当に……生きているのか…………?)

 これほどまでに高い場所から落下して、本当に彼は生きているのだろうか。
 いや、そう信じなければどうする事も出来なかった。ツカサの体が再生するという話を「眉唾だ」と否定してしまったら……クロウまで、狂いそうだったから。

(オレが…………オレがもっと強ければ……こんな島の力に屈して、弱体化するような軟弱な体でなければ……こんな事にはならなかったかもしれないのに……!)

 そう考えれば考える程、自分の胸をかきむしりたくなる。
 だが、今はそうする訳には行かなかった。

「……ブラック、もうすぐ水麗候がここに来るようだ」
「…………そう」

 狂いかけている群れの長を、ツカサの代わりに押し留めなければならない。
 自分には受け入れる事も優しくすることも出来ないが、しかし……ツカサのために、何としてでもブラックを死なせる訳には行かないのだ。

 泣き喚く事はいつでも出来る。だから今は一刻も早く、行動しなければ。

(もう二度と、遅れは取らない……。ツカサを必ず見つける……!)

 そう、ツカサは生きている。だから必ず見つけなければならないのだ。
 早く見つけて、抱き締めて貰いたい。彼は生きていたのだと実感したい。
 だから。

 ……そこまで考えて、クロウは己の中に渦巻く暗く淀んだ感情に口をつぐんだ。

「…………ツカサ……」

 ――結局自分も、ブラックと同じように動揺し、感情を押し殺して動いている。
 それを思えば、ブラックが何故あのようになったのかも判らないでも無かった。

(だが……お前のは、危険すぎる……)

 朝の冷たい風に赤髪を靡かせながら、ただ無表情でたたずむブラック。
 その光景はツカサを失う事の次に恐ろしいものだと改めて思い、クロウは沈痛な面持おももちでブラックの姿を眺めているしかなかった。















※遅れて申し訳ない…新章始まりました。
 ツカサ以外の視点がちょくちょく入りますが、この章だけツカサ以外の視点にも
 話数番号が付きますのでご注意ください。
 
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