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遺跡村ティーヴァ、白鏐の賢者と炎禍の業編
18.支配者
しおりを挟む「な、んで…………どう、して、ここに……お前、が……」
声が、上手く出せない。
相手を見返す事しか出来なくて固まる俺に、レッドは何故か嬉しそうな顔をして、一歩近付いて来た。
熱された機械に左右を封じられ、その間の僅かな隙間の壁に押し付けられた俺は、動くことも出来ない。ただ相手の姿が近くなってくるのを見て、何故か体がビクリと震えた。だけど、レッドは俺に構う事無く、強張っている頬に触れて来た。
「驚かせて済まない……だが、あの悪辣な男が離れる時間を狙わねば、お前には接触出来なかったからな……。お前とあの男が風呂場で数分離れると言う事を発見出来て、本当に良かった」
なんで、そんな事を知っている。
そんな数分の間の出来事を、どうして「確実なチャンス」だと思えたんだ。
――――まさか、前から俺達の事を見てたってのか……!?
でも、い、いつから。もしかして最初から? じゃあ俺がブラウンさんだと思っていたのは全部レッドだったって事なのか!?
だけど、だったら、本物のブラウンさんはどこに…………。
「それにしても……無事でよかった……」
「え……」
何が何だかわからず考えている途中にそう言われて、思考が止まる。
無事ってどういう事だとレッドを見上げると、相手は好青年らしい爽やかで整った表情を嬉しそうに緩めて、手で触れた俺の頬を少し擦った。
「あの鬼畜にどんな酷い目に遭わされているかと心配だったが……湯上りのお前の姿と、今触れている感覚で分かったぞ。どうやら、あいつにも“中年らしい部分”はあるらしいな……。だが……」
「っ……」
頬に触れている手からゆっくりと親指が動いて、俺の下唇に触れる。
思わずびくりと反応した俺に、レッドは青い瞳をじっと向けて下唇の膨らみを少し強く押し込みながら指を滑らせた。
「森の中でお前に接吻しているヤツを見た時は、危うく村を滅ぼしかけた」
「――――!?」
「あの事に飽き足らず、俺のツカサを穢す下郎が、お前に口付けているなんて、我慢がならなかったものでな……止められていなかったら、村もどうなっていたことか」
俺の、って、何言って……。
「れ……レッド……お、俺は……」
「ああ、大丈夫。お前は何も気にしなくていい……。お前はただ、あの男に騙されて無理矢理に契りを結ばされただけの事。アタラクシアでの件も怒ってはいない。ああしろと命令されれば、当然お前は従わざるを得ないんだからな」
な……何言ってんだ……何言ってんだよお前……。
俺は、まあ、最初は無理矢理だったけど今はそうじゃないし、自分から頑張ってやってやろうとだって思ってるんだぞ。それに命令なんてされてない。ブラックは、そんな事をするような奴じゃない……!
「っ、違う……! お、俺はブラックに命令なんてされてない……!」
「ツカサ……」
「俺とブラックは、そんな奴隷と主人みたいな関係じゃない!」
やっと、声が出る。自分の事だけじゃちっとも体が動かなかったのに、ブラックが貶されたんだと思うと何故か急に体が自由になったような気がした。
頬に触れていた手を強く引き剥がして、俺は逃げ場のない場所で必死に壁に己の体を擦りつけて、少しでもレッドから離れようとする。
どこかに逃げる場所が無いか視界を探りながら、俺はレッドを睨み付けた。
「おれ、は……俺は、ブラックと嫌々いるんじゃないよ……。その……レッドには、悪い事をしたと思ってる。だけど、俺は命令されてやったんじゃない。あ……あの、夜の森での事だって……俺は…………だ、だから……そんなんじゃないんだ……! だって、おれ……俺は……!」
「…………」
「俺は――――ブラックの、恋人だから……!!」
ああ、やっとどもらずに、はっきりと言えた。
思わず泣きたくなって、目の奥が熱くなるが――――目の前のレッドの表情が、今までとはまるで違う物になっているのを認識して……俺は、絶句した。
「そこまでして……あの男を庇って何になる……?」
レッドの、主人公然とした凛々しい表情は
憎しみに染まった鬼のような、恐ろしい表情に歪み切っていた。
「ぁ」
「あの男を、恋人だと……もう一度言って見ろぁああ゛!!」
そう言われた瞬間、視界がいきなりぶれて急に首が締まる感覚に襲われ、俺は壁に押し付けられた痛みを感じながら呻いた。
「っぐぁ、がっ……! あ゛ぅ、う゛……!」
何が起こったのか解らなかったけど、ようやく、レッドが俺の首を片手だけで締めている事が分かり、必死に解こうとする。
だけど明らかに正気ではないレッドは、憎悪に染まった顔を少しも変えずに口だけを笑みに歪めた。
「は……ははは……はぁっ、は……わ、解っている……解っているからなツカサ……お前は操られているだけだ。命令されて拒否が出来ないほどに心が縛られているだけなんだ、解っている……!! だが、解っていても……怒りとは凄まじいものだな……!!」
「か、は……っ」
苦しい。爪が食い込む感覚すら、段々と曖昧になって行く。
息が出来なくて、首を自分よりも大きな手で掴まれているという感覚に体が硬直して動いてくれない。段々視界が霞んでくる。両手で掴んで引き剥がそうとするのに、もう、手には力が入らなくて。
「っ……! す、すまない、ツカサ、すまん……!! お、俺は、お前になんて酷い事を! 問題ないとはいえ、お前に罪は無いのにこんな……っ」
なに、が。もんだいない、って。
酸素が足りない頭にその言葉がジワリと染みて、急に体が解放される。
レッドの手に首を掴まれて軽く浮いていた俺はその場に崩れ落ち、失神寸前だった頭に咳き込みながら必死に空気を送り込んだ。
「ゲホッ、がっ、……っ、がはっ、ゲッ、ぐ、ぇ……っ」
吐き出す寸前になるほど息をして、唾液がその場に零れる。
だけどそれを止める事も出来ないくらい体が言う事を聞かなくて、俺は締められた跡が付いているだろう首を抑えながら、何度も咳を繰り返した。
「あ……あ、ぁ……すまん、すまない、ツカサ……」
呼吸が、やっと楽になってくる。
その頃にはレッドも少し冷静になったのか、弱り切ったような声で何度も俺に謝る言葉を投げかけて来た。下を向いたままだから良く解らないけど、目の前に跪いたレッドの足が見える。だから、もう、怒ってはいないんだろうけど……。
少し状況が変わった事で、頭がやっと正常に回り始める。
そうなると色々考えてしまい、とにかく俺はレッドに激昂させない事が最優先だと結論を出し、まだ嗚咽を漏らすように体を揺らしながら顔を上げた。
「れ、っど」
名前を呼んだ相手は、やっぱり「申し訳ない事をした」とでも言いたげな情けない顔をしている。そう、レッドだって、全くの悪人ではないのだ。
だけど……こいつは、ブラックの事を理不尽に憎んでいる。
俺が否定しても聞き入れてくれないほどの根深い恨みを、ブラックに抱いているのだ。さっきみたいに、俺を殺しかけるくらいの怒りを常に燃やして。
……そんな相手をまた激昂させたら、本当にこの村が燃やし尽くされかねない。
だって、レッドはブラックと同じ“魔導書に選ばれた人間”で……その気になれば、この村どころか周辺一帯を焦土に変えられるほどの力を持っているんだから。
俺は知っている。グリモアは、そういうものだ。
特に、レッドの【紅炎の書】の凄まじい攻撃性は、絶対に発動させてはならない。どうにかして、レッドを宥めて……ここから、逃げなきゃ……。
「ツカサ……あぁ……首はもう大丈夫なようだな……。やはり、傷は残らない……。アイツが言ったとおりだったか、本当に良かった……」
「……?」
「ようやく、実感出来た……お前はやはり、俺にとっての“特別”なんだ……」
そう言って、レッドは再び俺に触れて来ようとする。
――意味が、分からない。何を言いたいのか全然理解出来なかった。
まるで夢現の寝言でも聞いているみたいで、レッドが俺に向けて喋っている言葉は今の状況に全くそぐわなかった。
そんな事よりも、何故ここにレッドがいるのか、どうしてブラウンさんと同じ格好をしているのかを訊かなければ。
なるべく、相手を刺激しないように。さっきみたいに、ブラックの事を出さずに。
今の状況に恐れを感じていても、決してレッドに悟られないように……。
だけど、無意識に怯えた顔をしてしまっていたらしい俺に気付いたのか、レッドは再び頬を触ろうとしていた手を引っ込めて、それから腫れ物にでも触るかのように俺の震える肩を優しく掴んだ。
「レッド……?」
「さっきはすまなかった……。お前の状態は把握していたのに、言葉に惑わされてお前を思わず殺そうとしてしまうなんて……。すまない、俺はどうしてもあの男の事となると……いや……ツカサとあの男の事になると……抑えが利かなくて……」
悲しそうに歪む表情は、間違いなく本心からのものだ。
少しだけだけど、俺だってレッドの素の状態は知っている。ブラックへの理不尽な憎しみさえなければ、レッドは本当にどっかのファンタジー漫画の主人公みたいな人の良い青年なんだ。自分の過ちを悔いる心だって、ちゃんと持ってるんだよ。
ブラックに関する事が、絡みさえしなければ……。
…………いや、今そんな事を考えている場合じゃない。
とにかく今は何故レッドがここにいるかを探らねば。そして、何とかしてブラックと鉢合わせしない内に帰って貰わなきゃ。
じゃないと、本当にティーヴァ村に被害が及ぶかもしれない。
そんな事、絶対にさせてたまるか。
俺は未だに震えている体を叱咤して、一度軽く俯き強く目を瞑ると……覚悟を決めて、再びゆっくりと顔を上げた。
「もう、気にしてないから大丈夫……。それより、レッドはどうしてここに……」
問うと、レッドは一瞬言葉を失くしたが、優しく微笑んで俺の肩を擦った。
「……お前を、迎えに来たんだ」
「え……?」
聞き返すが、レッドは優しい笑みを崩さない。
だけど、俺にはその微笑みに歪められた青い瞳が怖くて仕方が無かった。
「今まで辛かっただろう? あの中年どもに良いように使役されて、したくない事を強制させられて……。だが、それも今日でおしまいだ。ツカサ、俺と逃げよう。なに心配はいらない。“導きの鍵の一族”はお前を歓迎している。統主である俺が、お前を婚約者として迎えるんだ。特別な力を持つお前との婚約なら、誰も反対などしないだろう。だから、安心してくれ」
「なに、いって」
「俺の伴侶は、お前しかいない。だからこれからは俺がずっとお前を守ろう。遅くなってすまなかった、ツカサ……」
ぜんぜん、解んない。なに、なんなんだよこれ。
レッドの言ってる事が理解できない、怖い、怖いよ、なんなんだよこれ……!
「もう、逃がさない……。ずっと俺の傍に居てくれ、ツカサ……」
レッドの顔が、近付いて来る。
相手が次に何をしようとしているのか解って、俺は全身が凍るような思いがした。
「ひっ……ぃ……!」
い……いや、だ。
こわい。近付いて来ないで。
違う、こんなの、なんか変だ。
逃げなきゃ、早く。早く!
必死に考える。俺の中の何かが、嫌だと訴える。
それなのに、体が動かない。こんな事なんて前にも有った事なのに、その時は俺もちゃんと逃げる事が出来たのに、なのに……何故か、体が全然動かなかった。
どうして。
考えるのに、体は怖くて震えているのに、動いてくれない。足にも全然力が入らなくて、一層今の状態に恐ろしさを覚えた。それに……嫌なはずなのに、レッドの手を拒みたいと思っているのに、どうしても俺は拒めなくて。
ブラックが悲しむ事は、怒る事は、もう絶対にしないって決めたのに。こんな事は自分で解決できるようになってやるって思ってたのに、レッドを拒もうとすると体がその意志を拒否するみたいに震えるだけで。
なんで。なんで動かないんだ。動けよ俺の体……ブラックとクロウ以外の奴には、あんなに拒否感が込み上げて来たのに、なんで……!!
「ああ、瞳が綺麗な赤だ……お前は俺を“認めてくれた”んだな、ツカサ……」
「ぃ……ゃ、や、だ……い、やだ……!」
腕に、力が入らない。だけどそれでも必死に振り上げて、レッドの体を押し戻そうと突っぱねる。今の自分の状態が嫌で仕方なくて、全力で拒否しているつもりなのに、それでも俺の体は全然力が入らなかった。
明らかにおかしい今の状態に視界が歪んで、情けなくて、涙が溢れて来る。
心は嫌だと叫んでいるのに、体が思い通りにならないのが本当に苦しくて。泣いたってどうにかなる訳じゃないのに、このままだとブラックに顔向け出来ないと思うと、どうしても涙が止まらなかった。
そんな俺に、レッドは少し眉を顰めた。
「ああ……ツカサ、お前はまだあの男に…………」
何か、レッドが言おうとして――――唐突に口を閉じた。
「……?」
どうしたのかと思わずレッドを見やると、相手は急に周囲を窺うように頭を動かし口惜しそうな顔で舌打ちをした。
「……チッ……。今はまだ……」
「……?」
レッドは何かを感じて苛立っているようだったが、それと反比例して俺の体は徐々に感覚を取り戻していった。
あれほど力が入らなかった体も、今は何の弊害も無い。
どういうことなのかと自分でも不思議に思っていると、レッドが急に俺の肩を掴み強引に自分の方へと俺を振り向かせた。
「いいか、ツカサ。明日この村に兵士が来る。お前達が接触しているだろう【神童】を捕えるために、だ。当然、その時に関係者であるお前達全員を捕縛する。これは、そう言う計画なんだ。……だから、お前は夜明けとともにすぐにティーヴァ村の村長の家に来い。俺は、お前だけでも助けたい。だから……いいな?」
まて。
なんでレッドが、マグナの事を知ってるんだ。
というか……どうして、そんな事を知っている……!?
「……ツカサ、待っているぞ」
そう言って、レッドは俺の頬にキスをして……去って行った。
「………………な……」
なに、して、行きやがった、あいつ……!
思わず頬を拭う。だけどそれだけじゃ飽き足らなくて、俺は袖を引っ張って、頬が痛くなるぐらいごしごしと思いきり擦り上げた。
だけどもう、たりなくて、それが悔しくてまた涙があふれて来る。
そんな風に座り込んでいると――裏口のドアを開ける音がした。
「あれ……やっぱしツカサ君先に行っちゃったのかな……」
「お前が洗うのに手間取るからだぞ。ツカサは怒っているかもしれん」
「うるさいなあ……ぶち殺すぞクソ熊……」
この、こえは。
考える間もなく俺は立ち上がって、その声の方へと駆けだしていた。
目の前に見えるのは、背の高い、いつも隣に居た二人。
間違いなく……ブラックと、クロウだった。
「え? ツカサ君!?」
驚くブラックに、俺は堪え切れず……そのまま、抱き着く。
今はもうそれ以外に何も出来なくて、俺は暫くブラックに縋りついたまま、相手の腕に抱かれていた。
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