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Ⅰ. 二人きりの荒野

  獣の逡巡

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 初めてツカサと遭遇した時は、彼を猿族の類かと考えていた。

 だが猿族にしては耳に毛がなく形状も違い、なによりきわめて身体能力が低い。姿は成人前の者だったので、弱小な種の何物かだとばかり思っていたのだが――その弱いはずの存在が自分に立ち向かって来た時は驚いたものだった。

 弱者であるこの少年が、巨大な姿で襲い掛かったクロウを恐れもせず、別種族の強者……砂犬族達を逃がすために立ち向かって来るなんて、考えられない事だ。
 特に、獣人族からすれば珍しいことだった。

 ――――獣人は、皆すべからく誇り高い種族だ。
 武力の差から敗北を認めた獣は、黙って首の根を曝す。それが今わの際に自分の誇りを保てる最後の機会であり、自然の掟だからだ。メスや幼い子を襲う事は滅多にないとはいえ、群れの長の一族ともなれば常にその覚悟を決めている。

 それゆえ、寝首をかくような卑怯者や生き汚く最後まで歯向かう者は、父たる大地ベーマスへ還る事を恐れる臆病者と言われ、最大の恥とされてきた。
 ビジ族や砂犬族などが強者であろうが恐れられ嫌悪されている理由は、このような事も一つの原因だ。

 獣人にとって「戦い」はそれほど重大な行為であり、この大地を司る始祖の獣――聖獣ベーマスを讃える行為とも言われているのである。

 この思想は、全ての獣人が生まれてから常に抱いているものだった。
 だからこそ誰もが誇り高く、己を糧とする相手に恥じぬ行動を貫いて来たのだ。
 弱いながらも誇りは有るのだと胸を張りながら。

 ……なのに、この少年は弱くありながら強者のように立ち向かって来る。

 戦う前に逃げるのも弱者の立派な戦い方だ。だがそうせず、それどころか子を持つメスでもないというのに、他者の為に命を差し出そうとすらしていた。
 弱さを武器にして、強い存在を残そうと奮起していたのだ。

(まるで軍人の考え方だ。一兵の信念、鉄の武器に勝る……などと、昔はよく言ったものだったが……まさか、幼い風体のメスがそんな考え方をするとはな……)

 考えて、自分の横腹に背を預けて眠る小さく頼りない姿を見る。
 畜生よりも弱いと言われるマイヤカラブを何故か気に入り、枕を抱くようにして己の腹に乗せて眠っているツカサの姿は、実際“匂いづけ”もまだ知らぬような、まだまだ親に庇護されるような体格だった。

 獣の口で噛み砕こうと思えば易々と出来そうなほどの頭に、少年特有の凹凸ないすらりとした首。高価そうに思える礼装のような服は、ひっかかりのなさそうな身体を申し訳程度に包んでいた。

(……どこを見ても、普通のメスより脆弱だ。人族でなければ、この大陸では生きて行けなかっただろうな)

 そう。人族。
 初めて見る姿形だったので最初は分からなかったが、匂いを嗅いでようやくツカサが人族である事をクロウは知ったのだ。

 だからクロウは、ツカサが……人族が、あのように弱くあっても立ち向かって来るという性質を全く知らずに、虚を突かれてしまった。

(人族は、オレ達にとって最高のエサだと聞いた事がある。文献でもそうだった。オレ達の祖先であるモンスターがそうであるように、香しい匂いのする人族は体液すらも美味に思え、最高の滋養を与えてくれると学んだ。実際、出会った商人達は確かに微かな良い匂いがしていたのを覚えている。……まあ、老人のオスだったがな)

 “かつての場所”に居た頃、クロウは何度か人族を見かけた事があったが、その時に獣人の鼻に届いたのは、彼らが非常に「美味そう」なニオイをしていた事だ。

 父親が言うには「メスが最高、オスはあまり美味くない」らしいが、あまり好まない物を食べていたクロウには、老人ですら「美味そう」に思えた記憶がある。

 老い先短い存在ですら食欲をそそったのだから、それが若いメス……このような、まだオスを知らない存在なら、飢えた獣が間違った判断をしても仕方ないだろう。
 そう心の中で言葉を放り、クロウは自嘲した。

(……本当は、ここで一人で死んで行こうと思ったのだがな)

 また脳内で呟き、己の軽々しさにあきれ果てる。

 所詮獣、と言われればそれまでなのかも知れない。だが、誇り高くあったかつての自分が今の自分を見れば、目の前に極上のエサを差し出された程度で簡単に意思を変えてしまった己を嫌悪するに違いない。

 一人で死にゆくことを決めたくせに。お前はそれでも誇り高き一族の血族か。
 武人を気取っていた頃の自分からの叱責がいくつも思い浮かぶ。だが、それもまた血気盛んに鼻を高くしていた若い頃の己だと思うと、余計に恥ずかしくなった。
 結局自分は、何一つ満足に出来ない。本当にどうしようもない存在なのだと。

「…………」

 腹が減っていた。
 久し振りに「美味そうだ」と思える獲物を見つけた。
 ただそれだけで、都合のいい極上の餌を生かして連れて来てしまった。

(……浅ましい)

 畜獣にも劣る存在にまで落ちて、己の“群れ”すら作れず、弱い獣人よりもみじめな暮らしをしているくせに、高望みをした。欲望を我慢出来ず、望んでしまった。
 それがどれだけ愚かな事か。どれほど恥知らずな行為だったか。
 考えれば考えるほど己への怒りにも似た羞恥が湧いて、クロウは鼻の根に幾重も皺を寄せて己の前足を噛んだ。

(結局こうだ。オレは、いつもいつも選択を間違える。誇り高い獣でいられない。……父上のように、兄上のように、弟のように……どうしても、強くいられない)

 敵に勝てず、身内にも勝てず、己の欲望にすら勝てない。
 「もう人と関わり合わず、一人で死んで行こう」と思っていた意思すら、本能から来る浅ましい食欲に勝てなかった。

 それでも保存の手間が無い保存食だと自分に言い聞かせたが、人族は自分と同じ「ヒト」に変わり無い。どこまでいっても、クロウの意思は完全に敗北していた。
 情けなくて、己が恥ずかしくて仕方が無かった。

(だから……だからオレは、ここまで来たというのに……)

 ――――無様に敗北し、死に場所を求めて彷徨い続け辺境に辿り着いた。

 それでもまだ死にきれず、ただ無為に日々を過ごしていた自分を必死に騙して、人と関わっていないというその意地の一点だけを「誇り」の代わりにしていたのに。
 我慢が、出来なかった。

(…………無様だ……)

 口の中で音も無く呟き、クロウは再びツカサの寝顔を見つめる。

 成獣とはとても言えない未成熟な姿は、クロウの中にある自虐的な意識を強く揺り起こすほどに、無垢でいとけなかった。
 だが――。

「ん……んにゃ……も、もふもふ……ふへ……」
「ぷく~……」

 夢の中でまで何者かの体毛に触れているのか、暗闇の中でツカサの顔が緩む。
 だらしない表情だが、その幸せそうな顔は素直に可愛らしかった。そんな主の夢に触発されているのか、本来ならば人前で眠らないはずの臆病なマイヤカラブも目を閉じ、元から緩めの口元を半開きにして幸せそうに眠っている。

 こんな、薄暗くて藁の寝床もまだ満足に敷けない洞窟だというのに、それでもこの脆弱な生物達は安心しきって眠っている。
 己を一口で喰らえる獣の毛皮に埋もれているのに、それでも彼らはクロウを一部も疑わず、幸せな夢に浸りきっているのだ。

 そんな姿を見ると……何故か、不思議と苦しさが和らいだ。
 クロウ自身が連れて来た、己の罪の象徴ともいえるような存在だというのに。

(……だが、この幼い人族は……オレを、無価値ではないと言ってくれた)

 誇りすら満足に保てない、約束したことも守れない、未だに…………人の姿に戻る決意すら湧かない、そんな無様な獣。
 だというのに、彼は――ツカサは、クロウを無価値だとは言わなかった。

 それどころか、聞きかじり程度の曜術を教えた事を恩義に思い、保存食にする為に生かしていることに感謝し、食えるものを見繕っただけでクロウを庇ってくれた。
 どれも簡単で、兄弟には鼻で笑われそうな行為で、利己的な物だったのに。

 それなのに……――――与えた相手が違うだけで、こうも違う。

(心が、温かい。……こんな風に思えたのは……どのくらい前だっただろうか)

 兄弟がクロウのこの思いを聞けば、彼らは「水は低い所に流れる」と笑うだろう。
 己よりも弱き者に施して満足感を得るなど、弱者を食い物にするだけの愚行だと。
 だが、それでも。

「それでも、今は…………情けない自尊心を、満足させたい……」

 かつての部下は、仲間は、自分を見下げ果てたオスだと嘲笑うだろうか。
 弱いメス一匹を囲って“群れ”を気取るつもりかと嫌悪されるだろうか。
 実際、そう思われるかもしれない。
 クロウが今やっていることは、すぐに食えるご馳走を「家族」に仕立て上げ、寂しさを紛らわすという……児戯に等しい行為なのだから。

 けれど誰かにそう思われたとしても、今はこの懐かしい満足感に浸っていたい。

 彼が与えてくれた遥か昔の感情を、甘受していたかった。

「……ツカサ……」

 ちろりと舌を出して、その滑らかで柔らかい頬を舐める。
 こんな獣の姿では「味見だ」と言われても仕方が無いが、この行為は確かに「それ以外」を思ってのものだった。

 そんなクロウの思いを読み取ったかのように、ツカサはくすぐったそうに顔を歪め、夢を見たまま無邪気に笑う。
 害されたなどと微塵も思っていない、心からの無垢な笑顔で。

(オレは……この幼いメスの信頼に、応えられるほどのオスだろうか)

 ――――思えば、そんなことすら考えもしない生き方だった。

 けれど今は、今の自分は。

(…………ツカサ……)

 最初は、たかが獲物の猿だとしか思っていなかった。
 だが、今は……もう少しだけ、共に眠りたいと思っている。

 これが恋慕などと謳う気はないが、子供相手ならどういう感情だろう。
 考えて、クロウは鼻先を軽く左右に揺らした。

(考えてもわかるまい。初めて出会った人族に向ける感情など)

 今は、それでいい。
 いつか本当の意味で喰らう時が来るかも知れない事を考えれば、遥か昔に抱いた感情を幼い人族に対して抱くなど……無意味でしかないのだから。










 
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