上 下
56 / 147
伍 鬼ノ章

伍ノ漆 茨木童子の行方

しおりを挟む

 次に目覚めたとき、酒呑童子は深い森のなかにある川辺にいました。
 満月はいまだ夜空の中で明るく輝いています。いつの間にか体の痺れもなくなっていました。

「おお、無事だったか、若いの」

「うお! りゅ、龍!?」

 とつぜん銀色の鱗に覆われた龍が川面から顔を出し、からからと楽しそうな笑い声をあげました。
 鬼となって以来妖怪と出会うことは少なくなかったとはいえ、龍を見たのは初めてで、さすがの酒呑童子も驚きを隠せません。
 あまりの巨大さと、光をはじく鱗の美しさに息をのみました。

「おぬしが突然川底に沈んできたからの。急いで引き上げたのじゃ。ちいと厄介な毒を盛られていたようだから、木霊に毒消しの草を持ってこさせたが、うむ、効いたようでなにより」

 それを聞き、自分が源頼光に毒酒を盛られ、崖上にある隠れ家から落ちたのだと思い出しました。
 そして、酒呑童子を助けるために酒呑童子を抱えて飛び降りた茨木童子のことも。

「い、茨木は!? 俺と一緒に、赤毛の鬼も落ちてこなかったか」

「さあて。流れてきたのはお主だけじゃよ。もしかして、に残っているのかもしれんな」

「あちら?」

 酒呑童子が置かれた状況を理解しきれていないことを察して、龍は小さく唸り、空をあおぎました。

「フェノエレーゼ! 猿田彦様はいま庵におられるはず。一足先に行って言伝てもらえんか」

「い・や・だ。なぜ私が伝令なぞしなければならん。そんなのしたっぱの仕事だ」

 龍の呼びかけに、空を舞っていた白いカラスが不満を漏らします。

「まったく、お主はいつまでたっても口がヘらんのう。猿田彦様からありがたいお話をしてもらわなければ、その根性は治らぬか」

「わかった、わかった。伝えればいいのだろう。だからサルタヒコに余計なこと言うな、聖龍!」

 うんざりしたように、カラスはどこかへと飛び去りました。龍――聖龍は深くため息をついて、酒呑童子に向き直ります。

「名乗っていなかったな。ワシは聖龍。ここはおぬしが元いた人の世ではない。人の世と地獄との狭間にある、あやかしの里じゃ。ワシらやお主のような妖怪のみが来ることのできる場所」

「……あやかしの里? ここは大江山ではないのか? おれは、どうしてここにいる」

「お主、おそらく知らぬ間に水面に映る満月を通ったのじゃろう。あれはあやかしの郷に通じる道のひとつなのじゃよ。
 先ほどのカラスは烏天狗のフェノエレーゼ。ここの里を統治する猿田彦命様に、お主が流れ着いたことを伝えに行ってもらったのじゃ」

 聞けば聞くほど信じがたい話でしたが、見渡して視界に入るのは妖狐や鬼火などのあやかしばかり。信じるほかありませんでした。

 あやかしだけが暮らす場所、ここでなら自分たち鬼は、人間からはくがいされることなく生きていけるのではないか、そんな希望も生まれました。

 そして、聖龍に連れられ猿田彦のもとを訪れました。
 対面した猿田彦は仮面をしているから表情はわかりませんが、人間で言うなら老齢の男。左右のこめかみに結った髪は見事な白さ、裾から除く脚は烏のそれでした。

 酒呑童子は己の身の上をすべて打ち明けます。
 人の世で頭領として鬼たちを従えていたこと、自分とともに川に落ちた茨木童子を助けたいこと、そして――二度と悪行をしないかわり、このあやかしの郷に鬼たちを住まわせてほしいこと。

 望みを口にして、酒呑童子は自尊心をかなぐり捨てて頭を下げました。自分の不注意で仲間を危険にさらしてしまったことを、後悔しても悔やみきれません。

 話を聞き終えた猿田彦は頷き、酒呑童子とその仲間たちがあやかしの里で暮らすことを許しました。


 猿田彦の許しをもらった酒呑童子は、聖龍の手を借りて、すぐに人の世に戻りました。
 大江山の隠れ家――たどりついたそのときにはもう、源頼光たちは引き上げた後でした。
 仲間たちは一人残らず切り捨てられ、亡骸は放置されていました。

 酒呑童子はその場に膝をついて、拳で床を叩きます。
 悔しさ、悲しさ、怒り。そういったものがうずまいています。

「なぜ。もう二度と人を傷つけないと、そうすれば仲間の命は見逃してくれると約束したのに。おれたちは望んで鬼に堕ちたわけではないのに、どうしてここまで人間に迫害されなければならない」

「お主とともに川に落ちたという、そやつはここにはおらぬのか?」

 窓の外を飛んでいた聖龍が、いたわるように酒呑童子に問いかけます。

「ここにはいない。もしかしたらどこかに流れ着いているかも。頼めるか」

 聖龍の背に乗り川一帯を見て回りましたが、茨木童子の姿はどこにもありませんでした。
 夜が明ければ人間たちがここに乗り込んでくるでしょう。酒呑童子は仲間の弔いをして、いったんあやかしの郷に渡りました。

 せめて茨木童子が生きていたならあやかしの郷にと思い、満月の度に探しましたが、一向に見つかる気配はなく、十数年の月日が流れていました。

 つい最近になり、「分水に現れるがしゃどくろが、酒呑童子を呼んでいる」という噂を耳にしました。
 真偽を確かめるために、酒呑童子は身を隠しながらその地を目指していたのです。



 がしゃどくろは、弔われなかった死者・・の魂が集いうまれる負のかたまりです。
 もしかしたら、その死者の魂は――。
しおりを挟む

処理中です...