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序 天狗ノ章

壱ノ壱 空から落ちてきたヒト

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 むかしむかし、今より千年はむかしのこと。
 その国には高い山があって、山のふもとには小さな集落がありました。
 みやこからは遠く離れていて、これといって特産品もない、本当に小さな村でした。
 不幸なことに、弥生の終わりを迎えた昨日、大きな嵐にみまわれて、収穫間近だった畑の半分はだめになってしまったのです。

「収穫が近かったんにのう」

「山の神さまがお怒りなのかもしれんの」

 村人は次の嵐が来る前にと、残った野菜を収穫するのにいそしみます。

「おばあちゃん、わたしに手伝えることはある?」

 村でいちばん小さい女の子が、大根を抜くのにやっきになっているおじいさんとおばあさんの裾を引っ張って聞きました。

 まだ五才になったばかりの女の子は、前髪がふぞろいのおかっぱ頭に大きなつり眼。
 もとは紅花で染めた、色褪せた小袖を着ています。
 お母さんのものを仕立て直してもらったので丈がちょっと長めで、くるぶしが隠れてしまいそうです。

「手伝わんでええよ、ヒナ。じゃまんなんねえとこで遊んでな」

「だんが、山に入っちゃなんねぇぞ。妖怪にくわれちまうからなぁ」

「……はーい」

 のけ者にされ、ヒナはしかたなく村の近くを流れている小川に遊びにいきました。


 山神さまの山から流れてくる川は水がきれいで、魚が見えるくらい透き通っています。
 隣の家にすむ兄弟は十を越え、村の仕事を手伝っているのに、ヒナだけはなにもさせてもらえないのが不満でした。

「手伝いたかったな。わたしだけのんびり待っているなんてしょう・・・にあわないもの。そういうのごくつぶしっていうのよ」

 河の流れに乗っていく葉っぱを目で追ってひざを抱えます。
 大人の言葉を使えば早く大人になれるんじゃないかと、ヒナは最近おばあさんや近所の大人たちの言葉をまねるようになりました。

 まねているだけなので、しょう・・・も、ごくつぶしも意味なんてわかっちゃいません。
 話し相手もいないから、独り言も多くなる。
 空は晴れているのに気持ちはくもり。
 ヒナはゆううつな気持ちをかえたくて、真っ青な空を見あげました。

 暗い気持ちになったら空を見なさい。お日様が元気をわけてくれるわよ。というのが亡くなったお母さんの口ぐせでした。

「お日様、お日様。わたしはじゅうぶん元気なので、おばあちゃんたちの手伝いができるくらいおおきくなりたいわ」

 ヒナが空を見上げて両手を合わせると、願いが届いたのでしょうか。
 空に、太陽を遮るなにかが見えました。
 そのなにかはみるみる地上に近づいてきて、人だとわかるまでになりました。



 ヒナの背丈よりも大きな水しぶきをあげて、人が川に落ちました。

「た、たいへん! 大丈夫!?」

 ヒナは草履を投げ出し川に飛び込みます。ヒナの胸くらいの深さとはいえ、放っておいたら海まで流されてしまうでしょう。

 どうにかこうにか落ちてきた人を岸まで引っ張ってきて、ひといきつきます。
 腰より下まである髪はおばあさんの髪より真っ白。なのに肌は十代の若者と同じくらいきれいです。

 このあたりでは見たことのない、とても質のよい、美しい着物を着ていました。

 空から落ちてきた不思議な人。
 のちにヒナが共に旅をすることになる、翼をなくした天狗でした。



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