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9 嫌な音の聞こえない世界は、しあわせだろうか

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 センリはすすめられるまま公園に行き、何をするでもなくベンチに腰をかけた。

 一般的には学生の夏休み期間だ。
 平日でもそこそこ子連れの家族がいる。

 キャイキャイとはしゃいでいる幼児に手を繋いで歩くおばあさん。
 昔の自分を見ているようだ。

(ここには嫌な音がなくていいな)

 休職期間が二ヶ月延長になるとはいえ、部署替えをさせてもらえなければ、また田井多と顔を合わせることになる。

(あの人の声だけ聞こえなくなればいいのにな)


 いっそ耳が聞こえなくなれば嫌な言葉を聞かなくていいから幸せだろうか。

 ぼんやり園内を見ていてふと気づいた。
 高校生くらいの少女が、一人。
 花壇の前に座っていた。

 ベンチがあるのになぜあえてシートも敷かず、地面に座っているのだろう。

 歩み寄ってみると、少女はA4ほどの小さなスケッチブックに絵を描いていた。
 みんなが見向きもせず通り過ぎていく、名前札も添えられていない小さな花を。

 少女の手から消しゴムが滑り落ちて、センリの足元に転がってくる。
 そっと消しゴムを拾って渡す。

「何を描いているの?」

「なあに? もういっかい、言って」

 少女がゆっくりした話し方でセンリに聞いてきた。

「なにを、描いているの?」

 聞こえやすいよう、地面に膝をついてもう一度聞くと、少女は困ったように眉を寄せる。

「ごめん、うまくきこえない、書いて。わたし、半分、ろう・・なの。耳が、すごくとおい」

 ノートを渡されて、センリはそこに『なにをかいているの?』とペンで書く。

「すみれ。かわいい花だから、わたし、好きなの」


『きれいな絵だね』とノートに書けば、少女は笑顔になる。

「わたし、ミオ。美しい音って書いて、ミオ。お兄さんは?」
『センリ』
「センリは、花が好きだからここにいるの?」
『びょういんの先生にすすめられた。うつ病の、りょうようちゅう、だから』

 他の人に聞かれたら、世間体を気にして『たまたま来ただけ』と嘘をついていただろう。
 うつ病の療養中だなんて、なんだか言いにくい。
 でも、ミオには嘘をつけなかった。ついてはいけない気がした。


「センリは、病気、よくなるといいね」
『そうだね』
「ここは、うるさい?」
『うるさいより、にぎやか』

「わたし、補聴器しても、うるさいと思うほどの音を聞けないの」

 髪で隠れて見えにくかったけれど、ミオの耳たぶには小さな機械がかけてあった。

 補聴器をしてもなお、センリの声を拾えない。
 どれほど耳が悪いのか、それでわかる。

「センリは、なんの仕事してる?」
『じむいん』
「それは、耳が聞こえなくても、できる?」

 質問の意味をはかりかねて、センリは首をかしげる。
 電話応対もしなければならないから、無理かもしれない。

 それをノートに書くと、ミオは肩を落とす。

「そう。やっぱり世界は、ふつうのひとのためにあるね」

 ふつうのひと。
 その言葉で、大きな見えない壁がそこにあるような気がした。


「わたし、かわいい服が好き。でも、目の前にいる、センリの声もまともにききとれない。だから、接客無理って、先生にいわれる。全ての仕事、聞こえる人のためにある。

 わたしは、したい仕事でなく、聞こえない人にできる仕事の中の、ほんのひとにぎりの仕事にしか、つけない」

 今の仕事が嫌で逃げたいと思っていたセンリに、ミオの悲しそうなつぶやきは堪えた。

 仕事の選択肢が限りなく少ない。

 筆談を交えないと、まともな会話ができない。
 だからなりたいものになれない、就きたい仕事はやりたい仕事になりえない。

 人の心配をしているほどの余裕なんてないのに、センリはミオの心の痛みを聞いて、涙が出た。

「ごめん、ミオちゃんは、つらいのに」


 嫌な男の声を聞かなくていいから、聞こえない方が楽だ、なんて思ったのはとてつもなく不謹慎だった。
 ミオは何もこえなくて、こんなにも辛い。

「なぜ泣くの、センリ」
『ぼくは、シゴトでひととかかわるのが、こわくてツライ。だからこうしてここにいる』

 ミオは、センリが切り捨てたい仕事を選択肢に入れることすらできない。
 接客をしたくても会話ができないから。

 人はそれぞれで、何かになれないし、なろうとしなくてもいいのだと初田に言われたことを思い出す。


「そう、よかった。センリは聞こえる世界がきれいだと言わない。安心した」

『あんしん?』

「センリみたいに耳が聞こえる人でも、しりたくない、きかなくていいものがきこえて、苦しいことあるんだね。苦しいの、わたしだけと思ってた」

 ミオは複雑そうな顔をしている。
 センリが会社で何があったか言わなくても察しているようだ。

「聞こえる世界がきれいなものばかりだったら、わたしはもっと、うらやましくて、悔しくて苦しい」

『そうだね』

 世界は健常者のためにできている。
 センリがそう意識していないだけで、
 どの仕事も、
 目が見えるのが当たり前で、
 耳が聞こえるのが当たり前で、
 当たり障りない受け答えできるのが当たり前で、
 そういう、普段自覚していない、たくさんの当たり前でできている。


 センリのしてきた仕事も、耳が当たり前に聞こえる前提でできている。


(当たり前って、普通って、なんだろうな。人の気持ちを察することができて普通、耳が聞こえるのが普通、でも、僕たちはここにいる)


 ミオにとっては、耳が聞こえない生活が普通。
 こうしてノートを介しての筆談が普通。


「わたしにできる仕事、なんだろう。いまね、わたし、高三なの。来年はるは卒業なの。でも、職業訓練でもらえるお金、小学生の子どもが家事のお手伝いをするお駄賃くらいなの。お母さんと、お父さんに、メイワクかけることになってしまう」

 耳が聞こえるかどうかなんて、見た目にはわからない。
 ミオはスケッチブックを抱えたまま、遠くを眺める。


 ミオの悩みは、どことなくセンリに通じるものがある。
 家族に迷惑をかけたくないのに、普通に働けない自分が足手まといになってしまう。


 気休めを口にするのもおこがましい。
 口先だけ、言葉だけでは、誰も助からないとわかっている。

『ぼくも、ばあちゃんとじいちゃんのために、がんばりたい。いまはまだ、なにができるか、わからないけど』

「ねえセンリ。また話せる? わたし、もうすこしセンリと話をしてみたい」

『そうだね。ぼくも、ミオの話を聞いてみたい』


 年齢も性別も違うけれど、ミオとはいい友達になれる気がした。

 

 


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