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6 かわいそうな子
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まっすぐ家に帰る気になれず、近くにあったベンチに腰を下ろす。
母親と小さな子どもが手をつないで歩いている。きゃっきゃとはしゃぐ声がとんがっていて痛い。
車のクラクションの音がやけに大きく聞こえる。
(喧騒が、音が、耳障りだな……さっき先生に言えばよかった)
薬でどうにかなる症状なのかわからない。
どれくらいぼんやりしていたのか、ふいに声をかけられた。
「ねえ、お兄さん。大丈夫?」
「え?」
顔を上げると、さきほどクリニックですれ違った青年だった。
「具合悪いの?」
「え、あ……、ちょっと、休んでいただけ」
「そっか。お兄さん、さっき先生のとこにいたよね」
「あ、うん」
先生と受付の人を除いて、家族と職場以外の人間と話したのはどれくらいぶりだろう。
これまで人とどう会話していたのか思い出せない。
相手が不快にならないように気を付けながら、話していた気がするのに。
「俺はコウキ。お兄さんの名前は?」
「センリ」
「センリ。俺ね、十六のときから通院してんだ。もうすぐ五年になるかな」
センリはあまりまともに返事をできていないのに、コウキは気分を害した様子もなく話す。
「それは、たいへんだね」
「そうでもないよ。先生と話すの楽しいから。センリは顔色悪いね。ちゃんとごはん食べてないの?」
「そうだね。あんまり、食べられない」
「やっぱり。アリスも最初お兄さんみたいな顔色してたから」
知り合いに、食事量が極端に減った人がいるようなことを言う。
「そのアリスってひとは、いまは食べられているの?」
「うん。元気にしてるよ。ほら、そこの店員さん」
コウキが指さす先には、セレクトショップというのだろうか、アジアン雑貨の店があり、若い女性が店先の掃除をしているのが見えた。
通行人に笑顔で挨拶していて、とても健康そうだ。
「だから、センリもちゃんと治療してたら食べられるようになるよ」
「……ありがとう」
「俺はお礼を言われるようなこと、なにもしてないよ。話しかけたの、迷惑じゃなかった? 俺、人の気持ちを察するのがうまくできないんだ。だからよく変な奴って言われてしまう」
「めいわくじゃ、ない」
「そっか。よかった」
コウキとの会話は、時間にしてほんの数分。
その数分で、勇気と元気をもらえた気がした。
(あの女の人が元気になれたなら、僕も、回復できるような気がする)
家に帰ってから、センリはチヨが作り置きしてくれた味噌汁を温めなおして飲む。
固形物が飲みづらいのを考慮して、青さの味噌汁だ。
それからコーンフレークに牛乳をかけて、ふやけた状態のものを食べる。やわらかい状態なら飲みやすい。
通院を始めた初日よりは食べられるものが増えた。
日記にも今日のことを書く。
コウキという青年と話して、少し気が楽になったこと。
彼はセンリがうまく会話できないのに気を悪くすることがなかった。それどころか、話しかけたのが迷惑じゃなかったか、なんて謝ってきた。
センリとは違う形で、彼もまた不器用な人なんだろうとわかる。
人の気持ちを察することができないことで、変な奴だと言われて困るのだとコウキは言っていた。
センリのように相手の気持ちを察しすぎても、コウキのように察することができなくても、どちらも辛い。
どうして人は、人の顔色を見ながら生きなければならないんだろう。
空気を読むって、自分の意見を殺すって、そんなに大切なことなんだろうか。
(本当に、先生の言うとおりだ。僕は人の顔色を見て毎回違うことを言う。僕の気持ちは、どこに行くんだろう。気を使った相手の気分が良くなるだけで、僕は辛いままだ。コウキと話すときは、気が楽だったな。彼は、僕が何を言っても、気にしていなかった。
どうして僕は、相手の顔色ばかり気にしてしまうんだろう。ダメな奴だな、本当に)
疲れて居間で横になる。
目を閉じると、小学生になったばかりの頃のことが夢に出てきた。
授業で、母の日の絵を描くことになった。
みんながクーピーを握って一心不乱にお母さんを描いていくのに、センリは何も描けない。
生きている頃の母を覚えていないから、描けるとしたら遺影の顔だけなのだ。
先生はなぜこんな授業をするのか、センリには理解できなかった。
家族を描きましょうを言われたなら、迷いなくチヨと利男を描けるのに。
父の日にも同じように苦痛を味わうのかと思うと、息が詰まった。
「秤くん、そうだ。おばあちゃんを描けばいいんじゃないかしら」
先生の提案は何の解決にもなっていない。
「ばあちゃんはばあちゃんで、母さんじゃないよ」
事情を知らないクラスメートはセンリが何も書かないことを不思議がった。
「なんで描かないの」
「秤くんだけ描かなくていいの? ずるい!」
(ずるいって、なにが? 僕からすれば、両親がそばにいるきみたちのほうが、ずっと、ずるい)
先生はセンリをかばう。
「そういうことを言わないの。それぞれおうちの事情があるのよ」
「えー。秤ってお母さんいないの? かわいそー」
(かわいそう、僕は、かわいそうなの?)
葬儀の時も親戚のみんなに、同情された。
「あの年で両親を亡くすなんてね。かわいそうな子」
子どもだからと、大人の言うことを理解なんてしていないだろうと思ってみんな大きな声で言っていた。
次第に、センリは自分の気持ちを言わなくなった。
人は勝手にレッテルを貼っていく。
秤センリは親がいないかわいそうな子。だから優しくしてあげなきゃだめなのよ。と。
(じいちゃんとばあちゃんがいてくれて、幸せなのに)
『なー』
豆大福が、センリの顔の横で尻尾を振り回す。
「うん。マメもいる。わすれてないよ」
ふわふわの毛を撫でてやると、満足そうに一声鳴いてセンリのお腹のところで丸くなる。
頭を振って記憶を振り払い、センリは眠りについた。
母親と小さな子どもが手をつないで歩いている。きゃっきゃとはしゃぐ声がとんがっていて痛い。
車のクラクションの音がやけに大きく聞こえる。
(喧騒が、音が、耳障りだな……さっき先生に言えばよかった)
薬でどうにかなる症状なのかわからない。
どれくらいぼんやりしていたのか、ふいに声をかけられた。
「ねえ、お兄さん。大丈夫?」
「え?」
顔を上げると、さきほどクリニックですれ違った青年だった。
「具合悪いの?」
「え、あ……、ちょっと、休んでいただけ」
「そっか。お兄さん、さっき先生のとこにいたよね」
「あ、うん」
先生と受付の人を除いて、家族と職場以外の人間と話したのはどれくらいぶりだろう。
これまで人とどう会話していたのか思い出せない。
相手が不快にならないように気を付けながら、話していた気がするのに。
「俺はコウキ。お兄さんの名前は?」
「センリ」
「センリ。俺ね、十六のときから通院してんだ。もうすぐ五年になるかな」
センリはあまりまともに返事をできていないのに、コウキは気分を害した様子もなく話す。
「それは、たいへんだね」
「そうでもないよ。先生と話すの楽しいから。センリは顔色悪いね。ちゃんとごはん食べてないの?」
「そうだね。あんまり、食べられない」
「やっぱり。アリスも最初お兄さんみたいな顔色してたから」
知り合いに、食事量が極端に減った人がいるようなことを言う。
「そのアリスってひとは、いまは食べられているの?」
「うん。元気にしてるよ。ほら、そこの店員さん」
コウキが指さす先には、セレクトショップというのだろうか、アジアン雑貨の店があり、若い女性が店先の掃除をしているのが見えた。
通行人に笑顔で挨拶していて、とても健康そうだ。
「だから、センリもちゃんと治療してたら食べられるようになるよ」
「……ありがとう」
「俺はお礼を言われるようなこと、なにもしてないよ。話しかけたの、迷惑じゃなかった? 俺、人の気持ちを察するのがうまくできないんだ。だからよく変な奴って言われてしまう」
「めいわくじゃ、ない」
「そっか。よかった」
コウキとの会話は、時間にしてほんの数分。
その数分で、勇気と元気をもらえた気がした。
(あの女の人が元気になれたなら、僕も、回復できるような気がする)
家に帰ってから、センリはチヨが作り置きしてくれた味噌汁を温めなおして飲む。
固形物が飲みづらいのを考慮して、青さの味噌汁だ。
それからコーンフレークに牛乳をかけて、ふやけた状態のものを食べる。やわらかい状態なら飲みやすい。
通院を始めた初日よりは食べられるものが増えた。
日記にも今日のことを書く。
コウキという青年と話して、少し気が楽になったこと。
彼はセンリがうまく会話できないのに気を悪くすることがなかった。それどころか、話しかけたのが迷惑じゃなかったか、なんて謝ってきた。
センリとは違う形で、彼もまた不器用な人なんだろうとわかる。
人の気持ちを察することができないことで、変な奴だと言われて困るのだとコウキは言っていた。
センリのように相手の気持ちを察しすぎても、コウキのように察することができなくても、どちらも辛い。
どうして人は、人の顔色を見ながら生きなければならないんだろう。
空気を読むって、自分の意見を殺すって、そんなに大切なことなんだろうか。
(本当に、先生の言うとおりだ。僕は人の顔色を見て毎回違うことを言う。僕の気持ちは、どこに行くんだろう。気を使った相手の気分が良くなるだけで、僕は辛いままだ。コウキと話すときは、気が楽だったな。彼は、僕が何を言っても、気にしていなかった。
どうして僕は、相手の顔色ばかり気にしてしまうんだろう。ダメな奴だな、本当に)
疲れて居間で横になる。
目を閉じると、小学生になったばかりの頃のことが夢に出てきた。
授業で、母の日の絵を描くことになった。
みんながクーピーを握って一心不乱にお母さんを描いていくのに、センリは何も描けない。
生きている頃の母を覚えていないから、描けるとしたら遺影の顔だけなのだ。
先生はなぜこんな授業をするのか、センリには理解できなかった。
家族を描きましょうを言われたなら、迷いなくチヨと利男を描けるのに。
父の日にも同じように苦痛を味わうのかと思うと、息が詰まった。
「秤くん、そうだ。おばあちゃんを描けばいいんじゃないかしら」
先生の提案は何の解決にもなっていない。
「ばあちゃんはばあちゃんで、母さんじゃないよ」
事情を知らないクラスメートはセンリが何も書かないことを不思議がった。
「なんで描かないの」
「秤くんだけ描かなくていいの? ずるい!」
(ずるいって、なにが? 僕からすれば、両親がそばにいるきみたちのほうが、ずっと、ずるい)
先生はセンリをかばう。
「そういうことを言わないの。それぞれおうちの事情があるのよ」
「えー。秤ってお母さんいないの? かわいそー」
(かわいそう、僕は、かわいそうなの?)
葬儀の時も親戚のみんなに、同情された。
「あの年で両親を亡くすなんてね。かわいそうな子」
子どもだからと、大人の言うことを理解なんてしていないだろうと思ってみんな大きな声で言っていた。
次第に、センリは自分の気持ちを言わなくなった。
人は勝手にレッテルを貼っていく。
秤センリは親がいないかわいそうな子。だから優しくしてあげなきゃだめなのよ。と。
(じいちゃんとばあちゃんがいてくれて、幸せなのに)
『なー』
豆大福が、センリの顔の横で尻尾を振り回す。
「うん。マメもいる。わすれてないよ」
ふわふわの毛を撫でてやると、満足そうに一声鳴いてセンリのお腹のところで丸くなる。
頭を振って記憶を振り払い、センリは眠りについた。
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