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革命戦争編(親世代)
一話 ドブネズミと、ささやかな願い
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十数の小国で構成された大陸がある。
大陸南端のイズディハルは、国土の大半が荒野と砂漠で構成された国。貧富の差が激しいことで名がしられている。
貧民は人に非ず。侮蔑を込めて、ドブネズミと呼ばれていた。
イズディハル王都は王女の誕生日を一週間後に控えているため、生誕祭を祝おうと訪れた人でごった返している。
道の反対側が見えないくらいの人波のなか、五つにも満たない幼子がパンの屋台に忍び寄った。
誰にも見られていないか確認しつつ、積まれていた一つに手を伸ばし、服の内側に隠す。
その場を離れようとするのを店主が見とがめ、幼子の手を掴んだ。
「こんのドブネズミが! うちの商品を盗むんじゃねえ!」
「いてぇな、離せよ! 腹へってたんだよ! こんなにたくさんあるんだから、いっこくらいくれたっていーじゃん、ケチーー!」
「誰がケチだ! 王女様の生誕祝いだってのに、神様に顔向けできねぇような真似しやがって!」
服と呼べないほど薄汚れた布をまとった幼子は、反省するどころか「ベー」と舌を出して抵抗する。
怒りに任せてもう片方の手を振り上げた店主の手を、止める者がいた。
青い目をした青年だ。黒髪の右側だけ短く編み込まれている。
幼子と同じように傷んだ服を着ている。服から覗く全身に古傷の痕があって、危険な場面をいくつもくぐり抜けてきたのがうかがえた。
青年に寄り添うように、小柄な少女もいる。
癖のある黒髪を背中に流した、穏やかな顔立ちの娘だ。
「ファジュル兄ちゃん! ルゥルア姉ちゃん!」
幼子に名を呼ばれ、青年──ファジュルは軽く頷いてみせた。
「なんだ兄ちゃん、このガキの兄か!?」
「……ユーニス。バレないよう確実に盗む技術がないなら店からは盗むな。お前の足じゃ逃げてもすぐに捕まる」
声を荒らげる店主をよそに、ファジュルは幼子に説教をはじめた。
それも盗みはいけないことだ、ではなく、盗む技術がないならやるな。つまりはバレないように盗る技術を身につけてから盗めということだ。
店主は一瞬あっけにとられたものの、はたと目的を思い出して、ファジュルに掴みかかる。
「何馬鹿なことを言ってやがる! 兄なら盗みがだめだってことそのものを教えるべきじゃないのか。ったく。親の顔が見たいぜ」
店主の怒りはもっとも。けれどファジュルたちにも事情というものがある。
「ルゥ」
ファジュルが短く呼ぶと、ルゥルアはユーニスの目線に屈み、ユーニスの耳を両手で挟み込むようにして塞いだ。
それを確認してから、ファジュルは口を開く。
「兄ではない。親のことなら俺も知りたい。ユーニスは二週間前、スラムの入り口に放置されていたんだ。『うちでは育てられないから、親切な方、ユーニスをよろしく』とだけ書かれた紙切れを持たされてな。スラムは人を捨てる場じゃないと、こいつの親に教えてやりたいんだが会ったことはないか」
「し、知るか! 理由が何だろうとオレのパンを盗るのは許さん。金を払え」
「あぁ、そうだったな。すまない。いくらだ」
話がずれていたのを店主が無理やり軌道修正し、ファジュルは腰布に挟んでいた小袋を取り出す。
「二十ハルドだ」
「そうか。迷惑料も含めて三十ハルド払おう」
「お、おう。わかってんならいいんだよ」
色を付けてもらえるとあって、店主は戸惑いながらも代金を受け取った。ルゥルアがユーニスの耳から手を離して一歩下がる。
「ユーニス。何をしないといけないかわかるか」
何をしろとは言わず、ファジュルはユーニスに促す。ユーニスは握りしめて形が崩れてしまったパン、屋台の店主とファジュルの顔を見て、しぼりだすような声で言った。
「ごめんな、おっちゃん」
「もうすんじゃねぇぞ。次やったらガキだろうと、問答無用で兵士を呼んでやる」
「うん」
穏便に話をつけ、ファジュルはルゥルアとユーニスをつれて裏路地に入った。
入り組んだ裏路地の先は、素人が手作りした小屋が乱雑に並び、埃とゴミにまみれたスラムがある。
ファジュルはパンを抱えてご機嫌な弟分を、ため息まじりに見下ろす。
「まったく。無茶をする……」
「だって腹減ってたんだもん。はい、兄ちゃんと姉ちゃんの分。買ってくれてありがとな」
ユーニスはパンを三つにちぎり、一番小さいのを自分の口に入れ、残り二片をファジュルとルゥルアに差し出す。
二人も食事は二日ぶり。空腹なのはユーニスと同じだった。
小さなパンをじっくり噛んで飲み込む。
最初盗もうとしていたとはいえ、一応金を払ったし、追手がついたりはしないだろう。ファジュルが路地を確認すると、見知らぬ少女が道を塞ぐようにして立っていた。
「なんの用だ、あんた」
イズティハルでは珍しい金髪に白い肌。
服の合間から見える手足には、汚れも傷もない。
着ているのはシミ一つない絹。ファジュルたち貧民がゴミ漁りして得るはした金では、十年かかっても少女のつけている髪飾り一つ買えないだろう。
この少女、スラムの民どころか平民でもない。貴族だ。
貴族の少女はハンカチで口元と鼻を覆いながら、命令してきた。
「あなたたち、ここの住人でしょう。わたくし、ここにどうしても会わなければならぬ者がいるのです。その者をここに連れてきなさい」
「断る。行くぞ、ルゥ、ユーニス」
「はい」
「おー」
即座に背を向けられて、貴族の少女は声を荒らげた。
「無礼な! これは命令です。このわたくしが連れて来いと言っているのですよ!」
「無礼なのはあんたもな。俺はあんたの顔も名前も地位も知らない。見ず知らずの他人にいきなり命令されて従う理由はない」
至極まっとうなことを指摘され、少女は唇を噛む。怒鳴りたいのをこらえ、事情を話す。
「……わたくしはシャムス。このイズティハルの王女です。国民なら敬い、従いなさい。叔父アシュラフの忘れ形見が、ここにいると聞きました。わたくしは彼を王にしなければならないの。わたくしの従兄をここに連れてきなさい。今すぐ。これは命令です」
「それはそれは。王女様でしたか。王族がこんなところにいるとは思えませんが。どうしても探して来いと仰るのでしたら資金を賜りたく存じます。ここでは他人に頼み事をするなら金か金目の物を渡すのが礼儀ですよ」
普段は絶対にしない慇懃無礼な言い回しで、シャムスをあおるファジュル。見知らぬ人にいきなり人探ししろなんて命令されて従う人間なんて皆無だろう。
「三千人を超える人間が住むここで、顔を知らない相手を探すのは至難の業だ。住人同士ですら全員顔見知りというわけではない。その大仕事を一週間でやれと言うなら、労力に見合う対価を払え」
「はあ!? さっきから聞いていたら金、金、金。お金がないと人のために動けないなんて、貧民は卑しいですね」
「俺はお前の従者じゃない。金を払わないなら自分の足でスラム中探せ」
「このわたくしにゴミの中を歩けと? ドレスが汚れてしまうじゃありませんか! ここを知っていそうなあなたに探してきなさいと言っているのです!」
シャムスは一向に引かず、それまで黙っていたルゥルアが口を開いた。
「なら、あなたの命令を無償で聞いてくれる従者に頼んで。わたしたちは今日のパンもまともに買えない。お金がないと生きていけないの」
ファジュルがルゥルアの左に立ち、二人は並んでスラムの奥に入っていく。ユーニスも一度だけちらりとシャムスを見たけれど、すぐにファジュルとルゥルアを追った。
シャムスは怒りに震えた。
ファジュルたちを追おうにも、動く虫やネズミが汚く、踏み出す気になれない。
何か言いたげにファジュルたちが去った方を睨んで、来た道を戻っていった。
少女の姿が人ごみの向こうに消えて、物陰から見ていたスラムの民たちがファジュルに声をかける。
「ヒデェな、なんだよ今の。あれがこの国の王族だって? あんなのが運営してたら国が傾くぜ」
「そうだな」
人が自分の命令に従うと信じて疑わない言動。『なんて臭く汚い場所だ』と、言わずとも顔に出ていた。
痩せこけた中年の男は空を仰いで嘆く。
「あーあ。汚くて悪かったな。アシュラフ王の治世なら、スラムはとっくにきれいになってたっての、こむすめが! なぁ、ファジュルもそう思うだろう」
「なぁと言われてもな。俺は先王が死んだ時まだ赤子だったんだぞ。知る由もない」
「なら心優しいオレたちが人生の先輩として教えてやろう。アシュラフ王はな、『スラムの民にも人権を、家と温かい食事を得られる生活を』と改革を打ち出してくだっていたんだ。それをよく思わないシャヒドやつに殺されちまったがな」
「それはもう百回聞いた」
スラムの大人たちがことあるごとに『アシュラフ様さえ生きていたら』と言うから、スラムの子どもは皆、亡き王の成そうとしていた政策を知っていた。
アシュラフ王の兄が玉座を継ぎ、スラムの救済政策はなかったことにされている。
今の王は、貧民を人と思わない王。
だからスラムの民は願うのだ。
あの人さえ生きていたなら。
「兄ちゃん。今日も母さんたち帰ってこなかったから、ラシードじいちゃん、家に泊まらせてくれるかな?」
「泊まりたきゃ自分でじいさんに頼め」
「わかった! じいちゃーん!」
ラシードとは、ファジュルの祖父だ。
スラムの中心地に住んでいる。路上に寝るよりマシな、壁と屋根しかない小屋に。
大股で駈けていくユーニスを見て、ルゥルアがうつむく。
「もしも……もしも本当にアシュラフ王のご子息がスラムにいるのなら、イズティハルを変えてくれるのかな。ユーニスは両親と一緒に暮らせていて。わたしは、お父さんとお母さんに……捨てられずに…………」
ルゥルアは嗚咽を漏らす。
ルゥルアはもともと平民だったけれど、十年近く前、スラムに捨てられた。
幼い頃旅の医師に診てもらったら、生まれつき左目が見えていないことがわかったらしい。治療するにはそうとうな金が必要。片田舎の平民には生涯かけて働いても払えないような額だと。
医師の診断を聞いた両親がルゥルアをここに置き去りにしたのは、その翌日のこと。
ファジュルはルゥルアをそっと抱きしめて背中を撫でる。
涙を拭ってやるハンカチ一枚すら、貧民は持っていない。
ルゥルアのささやかな願いも、平民が聞いたら鼻で笑うだろう。
「そうだな。本当にいるのなら、そんな国になってほしい」
泣いて願ったところで世界は変わらない。
王族は広い王宮で高価な衣服に身を包み、従者にかしずかれる。
なのにスラムはいつだってゴミだらけだし、食べるものも服も満足にない。
世界は不平等で、とても醜い。
大陸南端のイズディハルは、国土の大半が荒野と砂漠で構成された国。貧富の差が激しいことで名がしられている。
貧民は人に非ず。侮蔑を込めて、ドブネズミと呼ばれていた。
イズディハル王都は王女の誕生日を一週間後に控えているため、生誕祭を祝おうと訪れた人でごった返している。
道の反対側が見えないくらいの人波のなか、五つにも満たない幼子がパンの屋台に忍び寄った。
誰にも見られていないか確認しつつ、積まれていた一つに手を伸ばし、服の内側に隠す。
その場を離れようとするのを店主が見とがめ、幼子の手を掴んだ。
「こんのドブネズミが! うちの商品を盗むんじゃねえ!」
「いてぇな、離せよ! 腹へってたんだよ! こんなにたくさんあるんだから、いっこくらいくれたっていーじゃん、ケチーー!」
「誰がケチだ! 王女様の生誕祝いだってのに、神様に顔向けできねぇような真似しやがって!」
服と呼べないほど薄汚れた布をまとった幼子は、反省するどころか「ベー」と舌を出して抵抗する。
怒りに任せてもう片方の手を振り上げた店主の手を、止める者がいた。
青い目をした青年だ。黒髪の右側だけ短く編み込まれている。
幼子と同じように傷んだ服を着ている。服から覗く全身に古傷の痕があって、危険な場面をいくつもくぐり抜けてきたのがうかがえた。
青年に寄り添うように、小柄な少女もいる。
癖のある黒髪を背中に流した、穏やかな顔立ちの娘だ。
「ファジュル兄ちゃん! ルゥルア姉ちゃん!」
幼子に名を呼ばれ、青年──ファジュルは軽く頷いてみせた。
「なんだ兄ちゃん、このガキの兄か!?」
「……ユーニス。バレないよう確実に盗む技術がないなら店からは盗むな。お前の足じゃ逃げてもすぐに捕まる」
声を荒らげる店主をよそに、ファジュルは幼子に説教をはじめた。
それも盗みはいけないことだ、ではなく、盗む技術がないならやるな。つまりはバレないように盗る技術を身につけてから盗めということだ。
店主は一瞬あっけにとられたものの、はたと目的を思い出して、ファジュルに掴みかかる。
「何馬鹿なことを言ってやがる! 兄なら盗みがだめだってことそのものを教えるべきじゃないのか。ったく。親の顔が見たいぜ」
店主の怒りはもっとも。けれどファジュルたちにも事情というものがある。
「ルゥ」
ファジュルが短く呼ぶと、ルゥルアはユーニスの目線に屈み、ユーニスの耳を両手で挟み込むようにして塞いだ。
それを確認してから、ファジュルは口を開く。
「兄ではない。親のことなら俺も知りたい。ユーニスは二週間前、スラムの入り口に放置されていたんだ。『うちでは育てられないから、親切な方、ユーニスをよろしく』とだけ書かれた紙切れを持たされてな。スラムは人を捨てる場じゃないと、こいつの親に教えてやりたいんだが会ったことはないか」
「し、知るか! 理由が何だろうとオレのパンを盗るのは許さん。金を払え」
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「二十ハルドだ」
「そうか。迷惑料も含めて三十ハルド払おう」
「お、おう。わかってんならいいんだよ」
色を付けてもらえるとあって、店主は戸惑いながらも代金を受け取った。ルゥルアがユーニスの耳から手を離して一歩下がる。
「ユーニス。何をしないといけないかわかるか」
何をしろとは言わず、ファジュルはユーニスに促す。ユーニスは握りしめて形が崩れてしまったパン、屋台の店主とファジュルの顔を見て、しぼりだすような声で言った。
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「もうすんじゃねぇぞ。次やったらガキだろうと、問答無用で兵士を呼んでやる」
「うん」
穏便に話をつけ、ファジュルはルゥルアとユーニスをつれて裏路地に入った。
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ファジュルはパンを抱えてご機嫌な弟分を、ため息まじりに見下ろす。
「まったく。無茶をする……」
「だって腹減ってたんだもん。はい、兄ちゃんと姉ちゃんの分。買ってくれてありがとな」
ユーニスはパンを三つにちぎり、一番小さいのを自分の口に入れ、残り二片をファジュルとルゥルアに差し出す。
二人も食事は二日ぶり。空腹なのはユーニスと同じだった。
小さなパンをじっくり噛んで飲み込む。
最初盗もうとしていたとはいえ、一応金を払ったし、追手がついたりはしないだろう。ファジュルが路地を確認すると、見知らぬ少女が道を塞ぐようにして立っていた。
「なんの用だ、あんた」
イズティハルでは珍しい金髪に白い肌。
服の合間から見える手足には、汚れも傷もない。
着ているのはシミ一つない絹。ファジュルたち貧民がゴミ漁りして得るはした金では、十年かかっても少女のつけている髪飾り一つ買えないだろう。
この少女、スラムの民どころか平民でもない。貴族だ。
貴族の少女はハンカチで口元と鼻を覆いながら、命令してきた。
「あなたたち、ここの住人でしょう。わたくし、ここにどうしても会わなければならぬ者がいるのです。その者をここに連れてきなさい」
「断る。行くぞ、ルゥ、ユーニス」
「はい」
「おー」
即座に背を向けられて、貴族の少女は声を荒らげた。
「無礼な! これは命令です。このわたくしが連れて来いと言っているのですよ!」
「無礼なのはあんたもな。俺はあんたの顔も名前も地位も知らない。見ず知らずの他人にいきなり命令されて従う理由はない」
至極まっとうなことを指摘され、少女は唇を噛む。怒鳴りたいのをこらえ、事情を話す。
「……わたくしはシャムス。このイズティハルの王女です。国民なら敬い、従いなさい。叔父アシュラフの忘れ形見が、ここにいると聞きました。わたくしは彼を王にしなければならないの。わたくしの従兄をここに連れてきなさい。今すぐ。これは命令です」
「それはそれは。王女様でしたか。王族がこんなところにいるとは思えませんが。どうしても探して来いと仰るのでしたら資金を賜りたく存じます。ここでは他人に頼み事をするなら金か金目の物を渡すのが礼儀ですよ」
普段は絶対にしない慇懃無礼な言い回しで、シャムスをあおるファジュル。見知らぬ人にいきなり人探ししろなんて命令されて従う人間なんて皆無だろう。
「三千人を超える人間が住むここで、顔を知らない相手を探すのは至難の業だ。住人同士ですら全員顔見知りというわけではない。その大仕事を一週間でやれと言うなら、労力に見合う対価を払え」
「はあ!? さっきから聞いていたら金、金、金。お金がないと人のために動けないなんて、貧民は卑しいですね」
「俺はお前の従者じゃない。金を払わないなら自分の足でスラム中探せ」
「このわたくしにゴミの中を歩けと? ドレスが汚れてしまうじゃありませんか! ここを知っていそうなあなたに探してきなさいと言っているのです!」
シャムスは一向に引かず、それまで黙っていたルゥルアが口を開いた。
「なら、あなたの命令を無償で聞いてくれる従者に頼んで。わたしたちは今日のパンもまともに買えない。お金がないと生きていけないの」
ファジュルがルゥルアの左に立ち、二人は並んでスラムの奥に入っていく。ユーニスも一度だけちらりとシャムスを見たけれど、すぐにファジュルとルゥルアを追った。
シャムスは怒りに震えた。
ファジュルたちを追おうにも、動く虫やネズミが汚く、踏み出す気になれない。
何か言いたげにファジュルたちが去った方を睨んで、来た道を戻っていった。
少女の姿が人ごみの向こうに消えて、物陰から見ていたスラムの民たちがファジュルに声をかける。
「ヒデェな、なんだよ今の。あれがこの国の王族だって? あんなのが運営してたら国が傾くぜ」
「そうだな」
人が自分の命令に従うと信じて疑わない言動。『なんて臭く汚い場所だ』と、言わずとも顔に出ていた。
痩せこけた中年の男は空を仰いで嘆く。
「あーあ。汚くて悪かったな。アシュラフ王の治世なら、スラムはとっくにきれいになってたっての、こむすめが! なぁ、ファジュルもそう思うだろう」
「なぁと言われてもな。俺は先王が死んだ時まだ赤子だったんだぞ。知る由もない」
「なら心優しいオレたちが人生の先輩として教えてやろう。アシュラフ王はな、『スラムの民にも人権を、家と温かい食事を得られる生活を』と改革を打ち出してくだっていたんだ。それをよく思わないシャヒドやつに殺されちまったがな」
「それはもう百回聞いた」
スラムの大人たちがことあるごとに『アシュラフ様さえ生きていたら』と言うから、スラムの子どもは皆、亡き王の成そうとしていた政策を知っていた。
アシュラフ王の兄が玉座を継ぎ、スラムの救済政策はなかったことにされている。
今の王は、貧民を人と思わない王。
だからスラムの民は願うのだ。
あの人さえ生きていたなら。
「兄ちゃん。今日も母さんたち帰ってこなかったから、ラシードじいちゃん、家に泊まらせてくれるかな?」
「泊まりたきゃ自分でじいさんに頼め」
「わかった! じいちゃーん!」
ラシードとは、ファジュルの祖父だ。
スラムの中心地に住んでいる。路上に寝るよりマシな、壁と屋根しかない小屋に。
大股で駈けていくユーニスを見て、ルゥルアがうつむく。
「もしも……もしも本当にアシュラフ王のご子息がスラムにいるのなら、イズティハルを変えてくれるのかな。ユーニスは両親と一緒に暮らせていて。わたしは、お父さんとお母さんに……捨てられずに…………」
ルゥルアは嗚咽を漏らす。
ルゥルアはもともと平民だったけれど、十年近く前、スラムに捨てられた。
幼い頃旅の医師に診てもらったら、生まれつき左目が見えていないことがわかったらしい。治療するにはそうとうな金が必要。片田舎の平民には生涯かけて働いても払えないような額だと。
医師の診断を聞いた両親がルゥルアをここに置き去りにしたのは、その翌日のこと。
ファジュルはルゥルアをそっと抱きしめて背中を撫でる。
涙を拭ってやるハンカチ一枚すら、貧民は持っていない。
ルゥルアのささやかな願いも、平民が聞いたら鼻で笑うだろう。
「そうだな。本当にいるのなら、そんな国になってほしい」
泣いて願ったところで世界は変わらない。
王族は広い王宮で高価な衣服に身を包み、従者にかしずかれる。
なのにスラムはいつだってゴミだらけだし、食べるものも服も満足にない。
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