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本編(つづき)
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────,78
飛び出していったミチルのことを、ふたりはすぐに追いかけなかった。
悪意はない。ただ彼女のパニックがあまりにも唐突で、何が起きたのか理解できなかっただけだ。
ソーヤとワタリはだから、座ったまま互いに顔を見合わせた。
「……おまえ何かまずいこと言ったか?」
「そんなつもりは……なかったけど、たぶん原因は僕だよね……?」
状況からして、引鉄を引いたのはワタリだったのだろうと察せても、具体的に何が問題だったのかがわからない。
ふたりは原因を探るべく直前の会話を思い出すけれど、どれがヒントなのかも判然としない。
ヒナトを取り戻そうと躍起になっていた。
だからそのために必要な時間を捻出するべく、少し無理をしてでも他の作業を先に終わらせよう、という会話をした。
その無理を通すのにソーヤとワタリだけでは不可能だから、ミチルにも手を貸してくれと言った。
決して彼女にすべて押し付けようとしたわけではないし、強要もしていない。
悪意ととられる言い回しでもなかったはずだから、考えられるとすれば、もともとミチルの中では限界に近いところまで何かが溜まっていて、それが最後の一滴で決壊したということだ。
「……何を言ったか、じゃないかも」
「は?」
「あ……そういえばソーヤは覚えてるかな。まだヒナトちゃんがいなくなる前のことだけど……ミチルから直接、あの子のことを聞かされてるはずだ。そのときはオペラのことは伏せてただろうけど、もしかしたらソーヤの中でヒナトちゃんと関連づけられて、薬物処理で抜けちゃったかな」
「ちょっと待て。……、病室にいたときだよな、何か話したのは一応覚えてる。内容は思い出せねえ」
やはりそうか、と思いながら、ワタリはざっとミチルの経歴を伝えた。
すでにオペラとヒナトの関係を知っているので、説明自体はかなり簡素なもので済んだけれど、話を聞かされたソーヤのほうは、かなり複雑そうな表情ではあった。
一方でワタリも改めて己の引き起こした事故の話をするので、胃が痛まないはずもない。
ふたりは揃って重い空気に包まれながら、今は沈黙しているドアを見る。
ミチルが戻ってきそうな気配はない。
「……話はわかった。でもそれが今さらこのタイミングでキレる原因になるか?」
「ずっと我慢してるから、ちょっとした拍子で爆発するってこともあるんじゃないかな。……そういえば前にもあった」
「俺がいないとき?」
「うん。いたのは僕ひとりで、……ちょうどさっきの、自分でソーヤに話してきたって聞いた直後だったと思う」
あのときはどうだったろう、とワタリは記憶の糸を手繰り寄せる。
ソーヤに過去の話をした、と満足げに告げてきたミチルに、それはいいことだと肯定したのは覚えている。
……いや、ストレートには認めなかった。何を企んでいるのか、と先にくぎを刺しもした。
我ながら嫌な奴だったよなあと思って、ワタリは小さく息を吐く。
あのころはミチルがまだ悪意を抑えていなかったから、彼女が行動するときはヒナトを攻撃するのと同義だった、だからついそう言ってしまったのだが、それも結局は言い訳だ。
ワタリは自分が謝ることに気を取られて、ミチルのことを何も認めていなかったのかもしれない。
味方にはなってあげられなかった。彼女の肩を持つということは、誰かを攻撃することだったから。
ましてその標的がソーヤやヒナトなら尚更に。
これ以上罪を重ねたくない一心で、彼らと同じ被害者なのにミチルに何もしてやらなかった。
きっとこれはそのつけが回ってきたのだろう。
ワタリは覚悟を決め、そしてゆっくりと立ち上がる。
「……ミチルを探してくる。時間がかかるかもしれないから、強行スケジュールは無理だと思う」
まだワタリの中に、ミチルにかけてやるべき言葉が見つかったわけではないけれど、これ以上放っておくのも良くはないだろう。
せめてきちんと向き合おうという姿勢だけは見せなくては。
それが、ワタリがするべき償いの第一歩だ。
しかしワタリがドアに手をかけたところで、ソーヤが引き留めるような声を出した。待て、と。
「俺も行く」
続いた意外な言葉にワタリは驚いて振り返る。
やるべきことが山ほどあって、ほんとうならミチルひとりにかまけていられない、少なくともソーヤはそう考えていると思っていたからだ。
事実、その顔はたぶんそうだろう。進んで行きたいという表情ではないのは確かだ。
けれどソーヤは立ち上がり、退路を断つかのように椅子を戻している。
スクリーンセーバーまで起動している徹底ぶりだ。
「でも、あの、仕事は」
「……今日進まなくてもどうにでもなる。あとでいくらでも調整すりゃいい。
それより、……どっちが行っても、たぶん行かなかったほうに遺恨が残るやつだろ、これ。だったら今、多少時間をかけてでもきっちり話つけるべきだ。あとに響かねえように」
「なんかソーヤ……すごい班長っぽいこと言うね」
「そりゃ班長だからな。おまえは俺をなんだと思ってやがる」
憮然として言うソーヤに、ワタリは苦笑いだけを返して、扉を開いた。
・・・・+
というやりとりから数十分ほどあと、一班男子はふたり揃って給湯室の扉を開いた。
ここを探し当てるのにも多少なりと時間はかかったが、それは語るべきことではないので割愛する。
とにかくミチルはそこにいた。そして、彼女はひとりではなかった。
場所が場所だけに誰かが居合わせること自体はおかしくないし、それがタニラだったのも、彼女の役職を考えたら自然なことだろう。
それでも驚いたのは、ミチルと彼女が思わぬほど穏やかな雰囲気で雑談をしていたからだ。
とくに、ちょうどふたりが扉を開けた瞬間に聞こえた科白など、自分の耳で聞いたのになかなか信じがたい。
ミチルからタニラに向かって、「一緒に外出してくれるか」と問うていたのだから。
このふたりが仲がいいだなんて話は今まで聞いたことがない。
「あら、ソーヤくんに、ワタリくん。……ふたり揃ってなんて珍しいね」
「あ、ああ、まあな。……タニラはここで何やってんだ?」
「彼女の話を聞いてたの」
ソーヤに向かって麗しい笑顔を浮かべるタニラとは対照的に、ミチルは素早く彼女の背後に隠れてしまった。
まるで野生動物が警戒しているような雰囲気で、タニラの肩越しにちらちらとこちらを窺うその顔は、直前まで泣いていたらしく瞼を真っ赤に腫らしている。
「あの、ミチル……」
恐る恐るワタリが声をかけると、ミチルは噛みつきそうな勢いでこちらを睨んだ。
その剣呑なさまにワタリは思わず怯んでしまったが、ソーヤは気にせず――正確には、気にしていないふうを装って――彼女らの傍に行こうとする。
それを、制止する手があった。
タニラの白い手のひらが、ソーヤに向かって突きつけられているのだ。
さすがにソーヤもそれには面食らって足を止めた。
「……ごめんね、ソーヤくん。でもまだ近寄らないで。怖がってるの、見ればわかるよね」
「俺には……キレてるように見えんだが」
「同じだよ。怖いから、自分を護るために怒ってるの……」
じっとソーヤを見つめるタニラの眼は、乾いているのになぜか泣いているようにも見えた。
その水底のような深い青色はたしかにソーヤを非難している。それはたぶん、ソーヤ以外にはわからないだろう。
薬で塗りつぶされた記憶の中に、険しい表情をしたタニラがいる。
その向かいに、今はいない、取り戻すべき少女もいる。
まだ上手く思い出せはしないのに胸が痛むのは、きっとそれを覚えているのがソーヤの脳とは、別の場所だからだろう。
彼女の怒りや悲しみを、ソーヤは正面から受け止めてやらなかった。
たぶん同じことをミチルにもしてしまった――タニラが言いたいのは、恐らくそういうことなのだ。
「ミチルと話をさせてくれ。頼む、……そのために来たんだ」
ソーヤは懇願した。
もしかしたら、傍から見れば無様な姿かもしれない。これまでのソーヤとは違うかもしれない。
それでも、かまわない。
いつか帰ってくるほんとうの秘書のために、班の中にわだかまりなど残してはいけない。
悲願を達成するためにはすべきこと、やらなければいけないことが山積みで、一刻も早く先に進むためにはミチルの協力が必要だ。
そしてそのために必要なことなら、ソーヤは何でもすると誓ったのだから。
→
飛び出していったミチルのことを、ふたりはすぐに追いかけなかった。
悪意はない。ただ彼女のパニックがあまりにも唐突で、何が起きたのか理解できなかっただけだ。
ソーヤとワタリはだから、座ったまま互いに顔を見合わせた。
「……おまえ何かまずいこと言ったか?」
「そんなつもりは……なかったけど、たぶん原因は僕だよね……?」
状況からして、引鉄を引いたのはワタリだったのだろうと察せても、具体的に何が問題だったのかがわからない。
ふたりは原因を探るべく直前の会話を思い出すけれど、どれがヒントなのかも判然としない。
ヒナトを取り戻そうと躍起になっていた。
だからそのために必要な時間を捻出するべく、少し無理をしてでも他の作業を先に終わらせよう、という会話をした。
その無理を通すのにソーヤとワタリだけでは不可能だから、ミチルにも手を貸してくれと言った。
決して彼女にすべて押し付けようとしたわけではないし、強要もしていない。
悪意ととられる言い回しでもなかったはずだから、考えられるとすれば、もともとミチルの中では限界に近いところまで何かが溜まっていて、それが最後の一滴で決壊したということだ。
「……何を言ったか、じゃないかも」
「は?」
「あ……そういえばソーヤは覚えてるかな。まだヒナトちゃんがいなくなる前のことだけど……ミチルから直接、あの子のことを聞かされてるはずだ。そのときはオペラのことは伏せてただろうけど、もしかしたらソーヤの中でヒナトちゃんと関連づけられて、薬物処理で抜けちゃったかな」
「ちょっと待て。……、病室にいたときだよな、何か話したのは一応覚えてる。内容は思い出せねえ」
やはりそうか、と思いながら、ワタリはざっとミチルの経歴を伝えた。
すでにオペラとヒナトの関係を知っているので、説明自体はかなり簡素なもので済んだけれど、話を聞かされたソーヤのほうは、かなり複雑そうな表情ではあった。
一方でワタリも改めて己の引き起こした事故の話をするので、胃が痛まないはずもない。
ふたりは揃って重い空気に包まれながら、今は沈黙しているドアを見る。
ミチルが戻ってきそうな気配はない。
「……話はわかった。でもそれが今さらこのタイミングでキレる原因になるか?」
「ずっと我慢してるから、ちょっとした拍子で爆発するってこともあるんじゃないかな。……そういえば前にもあった」
「俺がいないとき?」
「うん。いたのは僕ひとりで、……ちょうどさっきの、自分でソーヤに話してきたって聞いた直後だったと思う」
あのときはどうだったろう、とワタリは記憶の糸を手繰り寄せる。
ソーヤに過去の話をした、と満足げに告げてきたミチルに、それはいいことだと肯定したのは覚えている。
……いや、ストレートには認めなかった。何を企んでいるのか、と先にくぎを刺しもした。
我ながら嫌な奴だったよなあと思って、ワタリは小さく息を吐く。
あのころはミチルがまだ悪意を抑えていなかったから、彼女が行動するときはヒナトを攻撃するのと同義だった、だからついそう言ってしまったのだが、それも結局は言い訳だ。
ワタリは自分が謝ることに気を取られて、ミチルのことを何も認めていなかったのかもしれない。
味方にはなってあげられなかった。彼女の肩を持つということは、誰かを攻撃することだったから。
ましてその標的がソーヤやヒナトなら尚更に。
これ以上罪を重ねたくない一心で、彼らと同じ被害者なのにミチルに何もしてやらなかった。
きっとこれはそのつけが回ってきたのだろう。
ワタリは覚悟を決め、そしてゆっくりと立ち上がる。
「……ミチルを探してくる。時間がかかるかもしれないから、強行スケジュールは無理だと思う」
まだワタリの中に、ミチルにかけてやるべき言葉が見つかったわけではないけれど、これ以上放っておくのも良くはないだろう。
せめてきちんと向き合おうという姿勢だけは見せなくては。
それが、ワタリがするべき償いの第一歩だ。
しかしワタリがドアに手をかけたところで、ソーヤが引き留めるような声を出した。待て、と。
「俺も行く」
続いた意外な言葉にワタリは驚いて振り返る。
やるべきことが山ほどあって、ほんとうならミチルひとりにかまけていられない、少なくともソーヤはそう考えていると思っていたからだ。
事実、その顔はたぶんそうだろう。進んで行きたいという表情ではないのは確かだ。
けれどソーヤは立ち上がり、退路を断つかのように椅子を戻している。
スクリーンセーバーまで起動している徹底ぶりだ。
「でも、あの、仕事は」
「……今日進まなくてもどうにでもなる。あとでいくらでも調整すりゃいい。
それより、……どっちが行っても、たぶん行かなかったほうに遺恨が残るやつだろ、これ。だったら今、多少時間をかけてでもきっちり話つけるべきだ。あとに響かねえように」
「なんかソーヤ……すごい班長っぽいこと言うね」
「そりゃ班長だからな。おまえは俺をなんだと思ってやがる」
憮然として言うソーヤに、ワタリは苦笑いだけを返して、扉を開いた。
・・・・+
というやりとりから数十分ほどあと、一班男子はふたり揃って給湯室の扉を開いた。
ここを探し当てるのにも多少なりと時間はかかったが、それは語るべきことではないので割愛する。
とにかくミチルはそこにいた。そして、彼女はひとりではなかった。
場所が場所だけに誰かが居合わせること自体はおかしくないし、それがタニラだったのも、彼女の役職を考えたら自然なことだろう。
それでも驚いたのは、ミチルと彼女が思わぬほど穏やかな雰囲気で雑談をしていたからだ。
とくに、ちょうどふたりが扉を開けた瞬間に聞こえた科白など、自分の耳で聞いたのになかなか信じがたい。
ミチルからタニラに向かって、「一緒に外出してくれるか」と問うていたのだから。
このふたりが仲がいいだなんて話は今まで聞いたことがない。
「あら、ソーヤくんに、ワタリくん。……ふたり揃ってなんて珍しいね」
「あ、ああ、まあな。……タニラはここで何やってんだ?」
「彼女の話を聞いてたの」
ソーヤに向かって麗しい笑顔を浮かべるタニラとは対照的に、ミチルは素早く彼女の背後に隠れてしまった。
まるで野生動物が警戒しているような雰囲気で、タニラの肩越しにちらちらとこちらを窺うその顔は、直前まで泣いていたらしく瞼を真っ赤に腫らしている。
「あの、ミチル……」
恐る恐るワタリが声をかけると、ミチルは噛みつきそうな勢いでこちらを睨んだ。
その剣呑なさまにワタリは思わず怯んでしまったが、ソーヤは気にせず――正確には、気にしていないふうを装って――彼女らの傍に行こうとする。
それを、制止する手があった。
タニラの白い手のひらが、ソーヤに向かって突きつけられているのだ。
さすがにソーヤもそれには面食らって足を止めた。
「……ごめんね、ソーヤくん。でもまだ近寄らないで。怖がってるの、見ればわかるよね」
「俺には……キレてるように見えんだが」
「同じだよ。怖いから、自分を護るために怒ってるの……」
じっとソーヤを見つめるタニラの眼は、乾いているのになぜか泣いているようにも見えた。
その水底のような深い青色はたしかにソーヤを非難している。それはたぶん、ソーヤ以外にはわからないだろう。
薬で塗りつぶされた記憶の中に、険しい表情をしたタニラがいる。
その向かいに、今はいない、取り戻すべき少女もいる。
まだ上手く思い出せはしないのに胸が痛むのは、きっとそれを覚えているのがソーヤの脳とは、別の場所だからだろう。
彼女の怒りや悲しみを、ソーヤは正面から受け止めてやらなかった。
たぶん同じことをミチルにもしてしまった――タニラが言いたいのは、恐らくそういうことなのだ。
「ミチルと話をさせてくれ。頼む、……そのために来たんだ」
ソーヤは懇願した。
もしかしたら、傍から見れば無様な姿かもしれない。これまでのソーヤとは違うかもしれない。
それでも、かまわない。
いつか帰ってくるほんとうの秘書のために、班の中にわだかまりなど残してはいけない。
悲願を達成するためにはすべきこと、やらなければいけないことが山積みで、一刻も早く先に進むためにはミチルの協力が必要だ。
そしてそのために必要なことなら、ソーヤは何でもすると誓ったのだから。
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