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本編(つづき)
data73:残された願い
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────,73
それは手紙だった。
あちこち紙が歪んでいるし、文字も潰れていて、名前のところなんてまともに読めやしない。
上からいくつも水滴を落としたような形に歪んで滲んだインクが示すのは、たったひとつの事実だけ。
この手紙を書いた誰かは、泣いていた。
涙で紙をぐちゃぐちゃにしながら、この手紙を……遺書を書いたのだ。
手紙の宛先は、ワタリではなかった。
ありかを告げるメモの場所からして、彼女が手紙を託したのは彼だったはずなのに、文面はどう考えても自分に宛てられたものだった。
ソーヤが彼女を忘れてしまうことを、彼女は知っていたのだろうに。
それに最後の行は、とくにひどく滲んではいたが、辛うじてこう読める。
――もし覚えてたら、あたしの名前を呼んでください。
叶うはずのない願いだと知りながらそう書いた、その矛盾が悲しい。
それにソーヤは未だに彼女の名前を思い出せない。
滲んでどろどろになった黒い塊が三つ並んでいるのはわかるのに、それが元はどんな字でなんと書いてあったのか、わからない。
それが辛くて、苦しくて、ソーヤは声を上げて泣いた。
・・・・・+
翌朝、ワタリはソーヤの病室を訪ねていた。
彼に頼まれたわけでも誰かに言われたわけでもなく、自分の意志でそこにいた。
気持ちは決まっているが、それでもいざ本人を前にすると、脚が震える。
出迎えたソーヤは虚ろな表情だった。
横たわったまま上半身すら起こす気配のない彼に、しかしそれに言及する気力のないワタリは、両手を痛いほど握り締めてやっと口を開く。
一音発するだけで、喉がぎりぎりと痛かった。
「ソーヤに、謝りたいことがある」
それだけ言うのに、もうほとんどの体力を使い果たしてしまったような心地がした。
思えば皮肉な関係だったと思う。
ガーデンにいたころは、迷惑な隣人であり、ささやかな憧れだった。
けれどあの事件を起こしたせいで、ワタリはすべてを白紙に戻してしまった。
それがどうしてだか、ソーヤはワタリを副官に選んだのだ。
そのとき言われた科白が、ずっとワタリの中でぐるぐる回っている。
その真意を問う勇気がないまま今日に至ってしまったが、それもきっと、これで終わりだ。あらゆる意味で。
「俺も……おまえに、聞きたいことがある」
「……うん、そっちが先で、いいよ。僕の話は少し長くなるから……」
言いながら逃げていると自分でも思ったが、ソーヤは少しも疑わずに頷いた。
「あいつの名前を教えてくれ……。あと、なんで思い出せないのか、知ってたらそれも」
「……薄々わかってるだろうけど、薬でそういう措置をとったんだよ。そうしないときっとソーヤが驚いて、怒るからって……あの子が……ヒナトちゃんが頼んだらしい」
「ひなと」
「そう、それがあの子の……オペラ全員に共通する呼称だから、彼女個人を指す名前じゃないけど、僕らはずっとあの子をそう呼んでた。ソーヤは、子どもっぽいからって『ヒナ』って……」
ソーヤは眼を閉じた。
そして両手で顔を覆いながら、もう一度ゆっくりと、ひな、と呟いた。
噛み締めるように、それがまるで何かの儀式であるかのように。
そのようすをワタリはじっと見ていた。
ソーヤが目覚めてからずっと、ワタリは彼を観察してきた――どこかに回復の兆しがわずかにでも表れはしないか、あるいはその糸口がないか……そんな期待と願望がそこにあった。
たぶん誰より『ソーヤ』が帰ってくるのを待っていたのはワタリだ。
もしかするとタニラよりもずっと強く。
そしてヒナトさえその身を捧げてくれれば済むことを知っていた、つまりワタリは心のどこかで今の状況を望んですらいた、最低な人間なのだ。
けれどずっと、彼女にほんとうのことを言えずにいた。
優しさからじゃない。ただ彼女がミチルにあまりに似ていたから、ヒナトが笑っているのを見ると、まるでミチルがそうしているようだったから。
ワタリの犯した罪でソーヤの次に割を食ったミチルが、今はそのために世のすべてを憎んでしまった可哀想な彼女が、その元凶であるワタリに笑顔を向けることなんてきっと永遠にないと知っているから。
ヒナトに救われていた。
そんなことは許されないのに、周りの無知に甘えていた。
「……ソーヤ。こうなった……そもそもの原因は、……僕だ」
知らぬ間に掴んでいたベッドの柵が、耳障りな音を立てて軋む。
「あの日、植木鉢にエラーを起こさせた……」
ソーヤはまだ顔を覆ったままで、表情はわからないが、ぴくりとも動かない。
硬直しているのだろう。
「わざとじゃ、なかった。でもそんな弁明は意味がない。事実はひとつだけ。
あの事故で……きみは記憶を失って、ヒナトちゃんが目覚めた。その原因を作ったのは、僕なんだ」
「……」
「謝って済むことじゃないのはわかってるし……許されようとも、もちろん思わない。……きみやタニラちゃんやエイワに、他のみんなに、何て罵られても軽蔑されても仕方がない。
しかも今日までぜんぶ知ってて黙ってたんだから、ほんと最悪だよね……。
ごめん、なさい」
ソーヤがこちらを手のひら越しにでも見ているかどうか、そんなことはどうでもよかった。
ただ頭を下げる。そうしないとワタリの気が済まない――したところで自己満足でしかないことをわかっている、それでも、他にできることもない。
けれど心の奥底で安堵してもいた。
ずっと黙っていたどす黒い秘密を打ち明けられたこと、するべきだと思っていた謝罪をようやく口にできたことで、少し枷が緩んだような心地がしていた。
罪は軽くならないけれど、これできっとソーヤが罰してくれるのだと思うと。
そうだ、きっと、ずっと、罰を受けたかった。
「……おまえに」
ふいにソーヤが口を開く。顔はまだ覆ったまま。
「手紙が、残されてた」
「……え?」
「これ……中身は俺に宛ててるけど、隠し場所のヒントは、おまえのデスクで……俺じゃなくて、おまえが見つけるはずだった」
突然手渡された紙は、歪んでごわごわしているうえに、折り目もひどい。
端にはテープをはがした痕が残っている。
それを恐る恐る開いて、ワタリは言葉を失った。
たしかにソーヤに宛てた手紙だった。
涙の痕がはっきり残る文面に、もはや潰れて読めない文字で、震える手で綴られた最後の言葉。
だから名前を訊いたのか。
反復するように繰り返したのは、彼女を呼んでいたのか。
「……ッな、んで……、僕に……」
こんな自分なんかに、どうして彼女は手紙を託したのだろう。
込み上げてきたものに遮られながら、絞り出すように言ったワタリに、ソーヤは静かに返した。
「おまえが、一班の副官だからだろ。……それ以外に理由が要るかよ」
「そ、……それは、そうかも、しれないけど……」
「言ったよな。……俺はおまえを監視してる、って」
その言葉にはっとしてソーヤを見た。
彼はもう顔を覆ってはいない。紅い双眸が、苛むようにワタリを見ている。
最初にその言葉を聞いたのは、ガーデンにいたころ。
引っ込み思案で運動不足になりがちなワタリを見かねて言い放った、お節介を通り越して迷惑だった発言。
そしてその次は、彼がGHに上がったあと。
適正検査により班長となることが決まったソーヤは、すでに二班の班長に内定していたサイネ以外の全員と面談をして、その中から副官を選んだ。
その決定を下した日、ワタリは彼の元に呼び出されてこう言われたのだ。
『おまえがちょうど良さそうだから副官にする。……ついでに監視できるしな』
「……それ、どういう意味なの?」
「文字どおりだよ。……おまえが何か隠してたことぐらい、最初っからわかってんだよ、……まさか大元の原因だとは、さすがに思わなかったけどな。
……正直まだ、意味がわかんねえし、頭ん中ぐちゃぐちゃだ……もうぜんぶ、何がなんだかわかんねえよ。
……なんでそんなことした? 昔の俺が、おまえに何をした!?
俺らに何があって、んなことしやがった!
ふざけんな! ふざけんな、……なんで。なんでだよ、……。
けどよワタリ……おまえがクソ野郎じゃなかったら、俺は、ヒナを知らなかった……」
ワタリの膝から力が抜けた。
ずるずるとその場に崩れ落ちて、身体中ががくがく震える。
堪えようとした涙が勝手に滲み出て、抑えようとした手のひらを、どろどろに濡らす。
まただ、とワタリは思った。
思わずにはいられず、そしてそれゆえに、涙が止まらない。
――僕はまた、ヒナトに救われてしまった。
→
それは手紙だった。
あちこち紙が歪んでいるし、文字も潰れていて、名前のところなんてまともに読めやしない。
上からいくつも水滴を落としたような形に歪んで滲んだインクが示すのは、たったひとつの事実だけ。
この手紙を書いた誰かは、泣いていた。
涙で紙をぐちゃぐちゃにしながら、この手紙を……遺書を書いたのだ。
手紙の宛先は、ワタリではなかった。
ありかを告げるメモの場所からして、彼女が手紙を託したのは彼だったはずなのに、文面はどう考えても自分に宛てられたものだった。
ソーヤが彼女を忘れてしまうことを、彼女は知っていたのだろうに。
それに最後の行は、とくにひどく滲んではいたが、辛うじてこう読める。
――もし覚えてたら、あたしの名前を呼んでください。
叶うはずのない願いだと知りながらそう書いた、その矛盾が悲しい。
それにソーヤは未だに彼女の名前を思い出せない。
滲んでどろどろになった黒い塊が三つ並んでいるのはわかるのに、それが元はどんな字でなんと書いてあったのか、わからない。
それが辛くて、苦しくて、ソーヤは声を上げて泣いた。
・・・・・+
翌朝、ワタリはソーヤの病室を訪ねていた。
彼に頼まれたわけでも誰かに言われたわけでもなく、自分の意志でそこにいた。
気持ちは決まっているが、それでもいざ本人を前にすると、脚が震える。
出迎えたソーヤは虚ろな表情だった。
横たわったまま上半身すら起こす気配のない彼に、しかしそれに言及する気力のないワタリは、両手を痛いほど握り締めてやっと口を開く。
一音発するだけで、喉がぎりぎりと痛かった。
「ソーヤに、謝りたいことがある」
それだけ言うのに、もうほとんどの体力を使い果たしてしまったような心地がした。
思えば皮肉な関係だったと思う。
ガーデンにいたころは、迷惑な隣人であり、ささやかな憧れだった。
けれどあの事件を起こしたせいで、ワタリはすべてを白紙に戻してしまった。
それがどうしてだか、ソーヤはワタリを副官に選んだのだ。
そのとき言われた科白が、ずっとワタリの中でぐるぐる回っている。
その真意を問う勇気がないまま今日に至ってしまったが、それもきっと、これで終わりだ。あらゆる意味で。
「俺も……おまえに、聞きたいことがある」
「……うん、そっちが先で、いいよ。僕の話は少し長くなるから……」
言いながら逃げていると自分でも思ったが、ソーヤは少しも疑わずに頷いた。
「あいつの名前を教えてくれ……。あと、なんで思い出せないのか、知ってたらそれも」
「……薄々わかってるだろうけど、薬でそういう措置をとったんだよ。そうしないときっとソーヤが驚いて、怒るからって……あの子が……ヒナトちゃんが頼んだらしい」
「ひなと」
「そう、それがあの子の……オペラ全員に共通する呼称だから、彼女個人を指す名前じゃないけど、僕らはずっとあの子をそう呼んでた。ソーヤは、子どもっぽいからって『ヒナ』って……」
ソーヤは眼を閉じた。
そして両手で顔を覆いながら、もう一度ゆっくりと、ひな、と呟いた。
噛み締めるように、それがまるで何かの儀式であるかのように。
そのようすをワタリはじっと見ていた。
ソーヤが目覚めてからずっと、ワタリは彼を観察してきた――どこかに回復の兆しがわずかにでも表れはしないか、あるいはその糸口がないか……そんな期待と願望がそこにあった。
たぶん誰より『ソーヤ』が帰ってくるのを待っていたのはワタリだ。
もしかするとタニラよりもずっと強く。
そしてヒナトさえその身を捧げてくれれば済むことを知っていた、つまりワタリは心のどこかで今の状況を望んですらいた、最低な人間なのだ。
けれどずっと、彼女にほんとうのことを言えずにいた。
優しさからじゃない。ただ彼女がミチルにあまりに似ていたから、ヒナトが笑っているのを見ると、まるでミチルがそうしているようだったから。
ワタリの犯した罪でソーヤの次に割を食ったミチルが、今はそのために世のすべてを憎んでしまった可哀想な彼女が、その元凶であるワタリに笑顔を向けることなんてきっと永遠にないと知っているから。
ヒナトに救われていた。
そんなことは許されないのに、周りの無知に甘えていた。
「……ソーヤ。こうなった……そもそもの原因は、……僕だ」
知らぬ間に掴んでいたベッドの柵が、耳障りな音を立てて軋む。
「あの日、植木鉢にエラーを起こさせた……」
ソーヤはまだ顔を覆ったままで、表情はわからないが、ぴくりとも動かない。
硬直しているのだろう。
「わざとじゃ、なかった。でもそんな弁明は意味がない。事実はひとつだけ。
あの事故で……きみは記憶を失って、ヒナトちゃんが目覚めた。その原因を作ったのは、僕なんだ」
「……」
「謝って済むことじゃないのはわかってるし……許されようとも、もちろん思わない。……きみやタニラちゃんやエイワに、他のみんなに、何て罵られても軽蔑されても仕方がない。
しかも今日までぜんぶ知ってて黙ってたんだから、ほんと最悪だよね……。
ごめん、なさい」
ソーヤがこちらを手のひら越しにでも見ているかどうか、そんなことはどうでもよかった。
ただ頭を下げる。そうしないとワタリの気が済まない――したところで自己満足でしかないことをわかっている、それでも、他にできることもない。
けれど心の奥底で安堵してもいた。
ずっと黙っていたどす黒い秘密を打ち明けられたこと、するべきだと思っていた謝罪をようやく口にできたことで、少し枷が緩んだような心地がしていた。
罪は軽くならないけれど、これできっとソーヤが罰してくれるのだと思うと。
そうだ、きっと、ずっと、罰を受けたかった。
「……おまえに」
ふいにソーヤが口を開く。顔はまだ覆ったまま。
「手紙が、残されてた」
「……え?」
「これ……中身は俺に宛ててるけど、隠し場所のヒントは、おまえのデスクで……俺じゃなくて、おまえが見つけるはずだった」
突然手渡された紙は、歪んでごわごわしているうえに、折り目もひどい。
端にはテープをはがした痕が残っている。
それを恐る恐る開いて、ワタリは言葉を失った。
たしかにソーヤに宛てた手紙だった。
涙の痕がはっきり残る文面に、もはや潰れて読めない文字で、震える手で綴られた最後の言葉。
だから名前を訊いたのか。
反復するように繰り返したのは、彼女を呼んでいたのか。
「……ッな、んで……、僕に……」
こんな自分なんかに、どうして彼女は手紙を託したのだろう。
込み上げてきたものに遮られながら、絞り出すように言ったワタリに、ソーヤは静かに返した。
「おまえが、一班の副官だからだろ。……それ以外に理由が要るかよ」
「そ、……それは、そうかも、しれないけど……」
「言ったよな。……俺はおまえを監視してる、って」
その言葉にはっとしてソーヤを見た。
彼はもう顔を覆ってはいない。紅い双眸が、苛むようにワタリを見ている。
最初にその言葉を聞いたのは、ガーデンにいたころ。
引っ込み思案で運動不足になりがちなワタリを見かねて言い放った、お節介を通り越して迷惑だった発言。
そしてその次は、彼がGHに上がったあと。
適正検査により班長となることが決まったソーヤは、すでに二班の班長に内定していたサイネ以外の全員と面談をして、その中から副官を選んだ。
その決定を下した日、ワタリは彼の元に呼び出されてこう言われたのだ。
『おまえがちょうど良さそうだから副官にする。……ついでに監視できるしな』
「……それ、どういう意味なの?」
「文字どおりだよ。……おまえが何か隠してたことぐらい、最初っからわかってんだよ、……まさか大元の原因だとは、さすがに思わなかったけどな。
……正直まだ、意味がわかんねえし、頭ん中ぐちゃぐちゃだ……もうぜんぶ、何がなんだかわかんねえよ。
……なんでそんなことした? 昔の俺が、おまえに何をした!?
俺らに何があって、んなことしやがった!
ふざけんな! ふざけんな、……なんで。なんでだよ、……。
けどよワタリ……おまえがクソ野郎じゃなかったら、俺は、ヒナを知らなかった……」
ワタリの膝から力が抜けた。
ずるずるとその場に崩れ落ちて、身体中ががくがく震える。
堪えようとした涙が勝手に滲み出て、抑えようとした手のひらを、どろどろに濡らす。
まただ、とワタリは思った。
思わずにはいられず、そしてそれゆえに、涙が止まらない。
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