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本編(つづき)
data72:夜
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────,72
泣いているのかと思ったが、少年の頬は乾いていた。
恐らく彼自身がそれを許さないのだろう。
己はあくまで加害者なのであって、悲しみ嘆く権利などないと言わんばかりに、くちびるをきつく噛み締めている。
リクウもかつてそうだったから、その気持ちはよくわかった。
けれど自分と彼とは違う。
自ら狂気のうちに決意して、愛する女をこの手で蹂躙した己と、その皺寄せに業を背負わされた息子とが、同じであるはずがない。
「……そんな言いかたは止せ。ソーヤは生きてる」
罪人の口からはそんな言葉が零れ出た。
たとえそれよりマシな慰めの文句があったとしても、リクウが口にしたら陳腐になる。これが精一杯だ。
「身体は生きてても……それはあの子が救ったからで……元を辿れば、ソーヤが死にかけるほど病んだのは、記憶障害のせいで生まれた人間関係のストレスだよ……。
それに、彼らの寿命を考えたら、僕は彼の人生の半分以上を奪ったことになる。殺したのと同じだ」
「……たしかにな」
敢えて、リクウは肯定した。
それに反応したのだろう、俯いていたワタリがゆっくりと顔を上げてこちらを見る。
虹彩の色がメイカのそれとそっくりで、それに端正でおとなしい顔立ちも、思えば母親の面影を残しているようだった。
事実を知った今は余計に意識してしまうから、尚のこと似ていると感じる。
だから、こちらを見上げる絶望一色のその顔が、いつかの彼女とダブって見えた。
リクウが最初に彼女を穢したとき。……いやそれよりも、狂った関係を受け入れてからの、自らリクウを求めるようになった頃のメイカを思い出す。
泣かないで、と彼女は言った。
繰り返し、何度でも、リクウは泣いてなどいなかったのに、行為を終えるたびにそう言った。
その言葉は救いだったし、同時にこれ以上ない罰でもあった。
おまえに泣く資格などないと言われているような気がして、だからリクウは一滴だって涙をこぼすようなことはしなかった。
ほんとうならもっと憎まれて軽蔑され罵られて汚物のように扱われるべきだった、そのほうがマシだとさえ何度か思いながらも、彼女を前にするとその優しさに縋ってしまう、そんな己を嫌悪した。
けれどやはり、それでもあれは救いだったのだと、今のリクウは思っている。
だから考えずにはいられないのだ。
己の罪から生まれて、そのために咎を背負った、哀れな我が子に――ワタリに、メイカと同じ心をかけてくれる相手がいるだろうか。
ソーヤにその余裕はない。それは何より明らかで、覆らない。
リクウとメイカと違うのは、リクウがメイカを愛していたこと、彼女もまたそれに応えてくれたこと、何よりその愛こそが罪の源泉であったことで、そのいずれもがワタリとは違う。
「おまえがしたのは軽はずみな行為で、意図してなかったとはいえ、一人の人生を破壊してしまった。それは客観的に見ても事実だ。……俺が言うのは気が引けるが」
そう言いながら、リクウはベッドを下りてその場に屈んだ。
へたり込んだままのワタリと視線を合わせ、少し躊躇いながらも、手を伸ばす。
胡桃色の髪はたぶん自分に似た。
たぶん他の人間が見たら、他にも遺伝や共通点を見つけられるだろう。
生活区域がラボとGHに隔てられていて、普段どんな暮らしをしているか知らないから、性格などもよくは知らない。
「でも、そこだけを見るな。
おまえはあのオペラがソーヤを救ったと言った。たしかにあいつは死の淵から生還したよ。だが、……その代わりに別の部分が傷ついた」
「やめてよ……僕を慰めるためにあの子を否定するのは! あの子は……ただ必死で……ッ」
「ああ、必死で居場所を探してた。それは傍から見てただけの俺にもよくわかった。
……俺が言いたいのは、ワタリ、何かの価値や意味をひとつの側面だけで決めるなってことだ。
おまえは……自分勝手な言い分にはなるが、俺にとってはおまえが、メイカを救ってくれた恩人なんだ」
くしゃりとその髪を撫でる。
その行為を、ワタリが拒む気配を見せないことを、嬉しく思った。
「ずっと言いたかったよ。俺たちの子に会えたら、……ありがとう、って」
だから、後悔はしていない。
どんなに歪な形でも、どんなおぞましい方法でも、恋人を痛めつけてでも、そこに命を生したことを。
ましてその結実たる我が子に向かって、後悔しているだなんて嘘でも言いたくはない。
そして、確かめることは恐らく永遠にできないが、思う。
メイカもきっと同じことを言うだろう、と。
ワタリは答えなかった。
何も言わず、そしてやはり涙を流さないまま、もう一度俯いただけだった。
震える彼の頭をリクウもまた、黙ったまま撫でた。
こんな触れ合いなどワタリは求めていないかもしれないが、それでも構わない。
なぜなら医務部で彼はリクウに言ったのだ。
根本的な解決にならない睡眠導入剤や、何の助けにもならない緊急連絡装置を拒んで、こう言った。
『どっちも要らない。……でも、あなたと話す時間がほしい。親子として』
だから今のリクウは先輩ソアでもラボの職員でもなく、彼の父親としてここにいる。
・・・・・+
薄闇の中で眼を醒ます。
けれどここは植木鉢ではなく医務部のベッドで、エラーを知らせる赤のランプもない。
妙な時間に目覚めてしまったが、単に睡眠導入剤の効果が切れただけだろう。
薬なしでは到底眠れない状態だった。
仮に寝つけたとしても、きっとあの子のことを夢に見てしまって、みっともなく泣きながら目覚めるだけだ。
ソーヤはのろのろと身を起こした。そのまま寝台から抜け出そうとしたが、腕にあれこれつけられていることを思い出す。
肘に点滴、手首にバイタルの計測器。
少し考えてから本体の設定のほうを弄り、バイタルチェックを遠隔通信方式に切り替えて、コードだけ引き抜いた。
点滴スタンドを引きずって、ソーヤは廊下に出た。
あたりは闇に包まれ、静まり返っている。
泣きじゃくっていた女子たちもさすがに疲れたか、薬が効いたかして眠っているらしい。
ソーヤはどの病室も訪れることなく、ふらふらとした足取りで進む。
エレベーターが使えないので、スタンドを腕に抱えて、よろよろしながら階段を下りる。
身体はもう治ったはずなのに上手く力が入らない。
それでも必死に手足を動かし、なんとか転んだりスタンドを落としたりせずに四階に辿り着けたときにはもう、汗だくになっていた。
自分でも何をやっているのかと思う。けれど、脚は止まらない。
一心不乱に向かう先は、もう今となっては幸せな思い出と呼んでいいのかわからない感傷が詰まった、第一班のオフィスだった。
扉には電気が通っていないけれど、手でこじ開けることはできる。
たぶん防災上の理由だろう。
ソーヤが荒らした形跡はもう、すっかりなくなっていた。
床はきれいに掃除され、臭いすら残っていないし、そこに転がされていた花瓶も元の場所に戻されている。
ただ造花は恐らく吐瀉物で汚れてしまったのだろう、撤去されていた。
でも、ソーヤがここに戻ってきた理由はあのひまわりではない。
あたりを見回す。
棚やデスクの上には何もない。
ならばと片っ端から引き出しを開け、自分のはおろかワタリやミチルのところまで漁った。
職権乱用だ。我ながらひどい行いだと思う。
けれど今、こんなソーヤを見て横暴だとケチをつける人は、たぶんいない。
そして、見つけた。
ワタリの引き出しの、積み重なった書類のいちばん下に、一枚の紙きれを。
そこには下手というほどでもないが癖のある丸っこい手書きの字でこう書かれていた――『かびんのなか』。
これは副官の文字ではないし、現在秘書を務めるミチルのそれでもない。
だからわかる。あの子が残したヒントだと。
彼女はたぶんソーヤに記憶が残らないことを知っていて、あるいは彼女自身がそれを望んで、それでも何かを残したくて、代理人にワタリを選んだ。
――かびんのなか。
あのブローチのことだろうが、それは今ここにはない。
どこかにしまわれたか、誰かが回収したか、ソーヤは知らないのでわからない。
それとも。
ほとんど直感で、ソーヤはもう一度あの花瓶を手にとった。
そしてその中を覗き込む。
内側にセロハンテープで、また新たな紙切れが貼りつけられていた。
→
泣いているのかと思ったが、少年の頬は乾いていた。
恐らく彼自身がそれを許さないのだろう。
己はあくまで加害者なのであって、悲しみ嘆く権利などないと言わんばかりに、くちびるをきつく噛み締めている。
リクウもかつてそうだったから、その気持ちはよくわかった。
けれど自分と彼とは違う。
自ら狂気のうちに決意して、愛する女をこの手で蹂躙した己と、その皺寄せに業を背負わされた息子とが、同じであるはずがない。
「……そんな言いかたは止せ。ソーヤは生きてる」
罪人の口からはそんな言葉が零れ出た。
たとえそれよりマシな慰めの文句があったとしても、リクウが口にしたら陳腐になる。これが精一杯だ。
「身体は生きてても……それはあの子が救ったからで……元を辿れば、ソーヤが死にかけるほど病んだのは、記憶障害のせいで生まれた人間関係のストレスだよ……。
それに、彼らの寿命を考えたら、僕は彼の人生の半分以上を奪ったことになる。殺したのと同じだ」
「……たしかにな」
敢えて、リクウは肯定した。
それに反応したのだろう、俯いていたワタリがゆっくりと顔を上げてこちらを見る。
虹彩の色がメイカのそれとそっくりで、それに端正でおとなしい顔立ちも、思えば母親の面影を残しているようだった。
事実を知った今は余計に意識してしまうから、尚のこと似ていると感じる。
だから、こちらを見上げる絶望一色のその顔が、いつかの彼女とダブって見えた。
リクウが最初に彼女を穢したとき。……いやそれよりも、狂った関係を受け入れてからの、自らリクウを求めるようになった頃のメイカを思い出す。
泣かないで、と彼女は言った。
繰り返し、何度でも、リクウは泣いてなどいなかったのに、行為を終えるたびにそう言った。
その言葉は救いだったし、同時にこれ以上ない罰でもあった。
おまえに泣く資格などないと言われているような気がして、だからリクウは一滴だって涙をこぼすようなことはしなかった。
ほんとうならもっと憎まれて軽蔑され罵られて汚物のように扱われるべきだった、そのほうがマシだとさえ何度か思いながらも、彼女を前にするとその優しさに縋ってしまう、そんな己を嫌悪した。
けれどやはり、それでもあれは救いだったのだと、今のリクウは思っている。
だから考えずにはいられないのだ。
己の罪から生まれて、そのために咎を背負った、哀れな我が子に――ワタリに、メイカと同じ心をかけてくれる相手がいるだろうか。
ソーヤにその余裕はない。それは何より明らかで、覆らない。
リクウとメイカと違うのは、リクウがメイカを愛していたこと、彼女もまたそれに応えてくれたこと、何よりその愛こそが罪の源泉であったことで、そのいずれもがワタリとは違う。
「おまえがしたのは軽はずみな行為で、意図してなかったとはいえ、一人の人生を破壊してしまった。それは客観的に見ても事実だ。……俺が言うのは気が引けるが」
そう言いながら、リクウはベッドを下りてその場に屈んだ。
へたり込んだままのワタリと視線を合わせ、少し躊躇いながらも、手を伸ばす。
胡桃色の髪はたぶん自分に似た。
たぶん他の人間が見たら、他にも遺伝や共通点を見つけられるだろう。
生活区域がラボとGHに隔てられていて、普段どんな暮らしをしているか知らないから、性格などもよくは知らない。
「でも、そこだけを見るな。
おまえはあのオペラがソーヤを救ったと言った。たしかにあいつは死の淵から生還したよ。だが、……その代わりに別の部分が傷ついた」
「やめてよ……僕を慰めるためにあの子を否定するのは! あの子は……ただ必死で……ッ」
「ああ、必死で居場所を探してた。それは傍から見てただけの俺にもよくわかった。
……俺が言いたいのは、ワタリ、何かの価値や意味をひとつの側面だけで決めるなってことだ。
おまえは……自分勝手な言い分にはなるが、俺にとってはおまえが、メイカを救ってくれた恩人なんだ」
くしゃりとその髪を撫でる。
その行為を、ワタリが拒む気配を見せないことを、嬉しく思った。
「ずっと言いたかったよ。俺たちの子に会えたら、……ありがとう、って」
だから、後悔はしていない。
どんなに歪な形でも、どんなおぞましい方法でも、恋人を痛めつけてでも、そこに命を生したことを。
ましてその結実たる我が子に向かって、後悔しているだなんて嘘でも言いたくはない。
そして、確かめることは恐らく永遠にできないが、思う。
メイカもきっと同じことを言うだろう、と。
ワタリは答えなかった。
何も言わず、そしてやはり涙を流さないまま、もう一度俯いただけだった。
震える彼の頭をリクウもまた、黙ったまま撫でた。
こんな触れ合いなどワタリは求めていないかもしれないが、それでも構わない。
なぜなら医務部で彼はリクウに言ったのだ。
根本的な解決にならない睡眠導入剤や、何の助けにもならない緊急連絡装置を拒んで、こう言った。
『どっちも要らない。……でも、あなたと話す時間がほしい。親子として』
だから今のリクウは先輩ソアでもラボの職員でもなく、彼の父親としてここにいる。
・・・・・+
薄闇の中で眼を醒ます。
けれどここは植木鉢ではなく医務部のベッドで、エラーを知らせる赤のランプもない。
妙な時間に目覚めてしまったが、単に睡眠導入剤の効果が切れただけだろう。
薬なしでは到底眠れない状態だった。
仮に寝つけたとしても、きっとあの子のことを夢に見てしまって、みっともなく泣きながら目覚めるだけだ。
ソーヤはのろのろと身を起こした。そのまま寝台から抜け出そうとしたが、腕にあれこれつけられていることを思い出す。
肘に点滴、手首にバイタルの計測器。
少し考えてから本体の設定のほうを弄り、バイタルチェックを遠隔通信方式に切り替えて、コードだけ引き抜いた。
点滴スタンドを引きずって、ソーヤは廊下に出た。
あたりは闇に包まれ、静まり返っている。
泣きじゃくっていた女子たちもさすがに疲れたか、薬が効いたかして眠っているらしい。
ソーヤはどの病室も訪れることなく、ふらふらとした足取りで進む。
エレベーターが使えないので、スタンドを腕に抱えて、よろよろしながら階段を下りる。
身体はもう治ったはずなのに上手く力が入らない。
それでも必死に手足を動かし、なんとか転んだりスタンドを落としたりせずに四階に辿り着けたときにはもう、汗だくになっていた。
自分でも何をやっているのかと思う。けれど、脚は止まらない。
一心不乱に向かう先は、もう今となっては幸せな思い出と呼んでいいのかわからない感傷が詰まった、第一班のオフィスだった。
扉には電気が通っていないけれど、手でこじ開けることはできる。
たぶん防災上の理由だろう。
ソーヤが荒らした形跡はもう、すっかりなくなっていた。
床はきれいに掃除され、臭いすら残っていないし、そこに転がされていた花瓶も元の場所に戻されている。
ただ造花は恐らく吐瀉物で汚れてしまったのだろう、撤去されていた。
でも、ソーヤがここに戻ってきた理由はあのひまわりではない。
あたりを見回す。
棚やデスクの上には何もない。
ならばと片っ端から引き出しを開け、自分のはおろかワタリやミチルのところまで漁った。
職権乱用だ。我ながらひどい行いだと思う。
けれど今、こんなソーヤを見て横暴だとケチをつける人は、たぶんいない。
そして、見つけた。
ワタリの引き出しの、積み重なった書類のいちばん下に、一枚の紙きれを。
そこには下手というほどでもないが癖のある丸っこい手書きの字でこう書かれていた――『かびんのなか』。
これは副官の文字ではないし、現在秘書を務めるミチルのそれでもない。
だからわかる。あの子が残したヒントだと。
彼女はたぶんソーヤに記憶が残らないことを知っていて、あるいは彼女自身がそれを望んで、それでも何かを残したくて、代理人にワタリを選んだ。
――かびんのなか。
あのブローチのことだろうが、それは今ここにはない。
どこかにしまわれたか、誰かが回収したか、ソーヤは知らないのでわからない。
それとも。
ほとんど直感で、ソーヤはもう一度あの花瓶を手にとった。
そしてその中を覗き込む。
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