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本編(つづき)

data56:帰ってきたソーヤ

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 ────,56


 久しぶりに制服に腕を通す。
 といってもほんの数日ぶり程度のことなのに、もう身頃や肩まわりがだぶついて感じるのは気のせいだろうか。

 トイレの鏡で入念に寝癖を直していると、入り口から胡桃色の頭がひょっこり覗く。
 ここ最近は毎日顔を合わせている、もうそろそろ見慣れたを通り越して見飽きたという表現に到達しそうな顔──リクウだった。
 眼が合った瞬間ぴたりと足を止めたところからすると、用足しではなくソーヤを探しに来たらしい。

「黙って単独行動は控えてくれ。俺があちこち使いにやらされる羽目になる」
「一挙一動を監視されてるこっちの身にもなってくれよ」
「諦めろ。とにかく、俺の知らんところでぶっ倒れられたら困る。病室を出るときは誰でもいいから一言言ってけ」

 ソーヤは不満を顔にありありと浮かべたまま、わかったよ、と雑に答える。
 それを見てリクウも苦笑を隠さない。

「……身だしなみはそこらへんでいいだろ。あんまり時間かけすぎるとオフィスにいる時間がなくなるぞ」

 笑われている理由は他にもあったらしい。
 まだ何か所か気に入らない部分が残ってはいたが、ソーヤは憮然としながら髪を整える手を止めて、備え付けのペーパータオルで手を拭った。
 指先が、自分のものとは思えないほど冷たかった。

 リクウとはエレベーターホールで別れ、ひとりでかごに乗り込む。
 たった二階ぶんのさして遠くもない距離をわざわざ機械に頼るのもどうかと思うのだが、転倒のおそれがあるという理由で、階段を使うことは医務部から禁じられている。

 もっとも、エレベーターの特有の浮遊感にすら軽く眩暈を覚えてしまうような今の身体では、医務部の言うことももっともだ。
 沈み込むようにして壁にもたれかかりながらソーヤは溜息をついた。
 この体たらくがあまりにも情けなくて、煩わしい大人たちの言葉を何一つ否定できない現状が恨めしい。

 到着を知らせる短い電子音に、のそりと身体を起こす。
 誰にも見られていないことを確かめながら、壁に手をついて、ゆっくりと外に足を踏み出した。

 目に飛び込んでくる廊下の長さも壁の色も、閉じられた扉の形すらもどこか懐かしい。

 そこに班員たちがいる、ソーヤが来るのを待っているのだと思うと、不思議と両足に熱が灯る。
 次の一歩はだから、思ったより速く進めた。

 ワタリ。
 人が好いようにみせかけてソーヤには存外毒舌な、しかしなんだかんだで頼りになる副官。
 ミチル。
 いまいち信用しきれない部分が少なくないが、たしかに優秀な少女。書記。

 そして、それから、もっともそこに──ソーヤに必要なのは。

「──あっ! ソーヤさん!!」

 思いがけないほど眩い笑顔に出迎えられて、ほんのわずかに面食らう。
 誰より扉に近い席に座っているからか、真っ先にドアの開閉に気が付いた秘書の少女は、そこにソーヤの顔を見とめてすぐさま破顔したのだ。

 最後に見たときは暗く打ちひしがれていたはずの、ひまわりが再び顔を上げていた。

「よ。順調にやってるか?」
「はい、たぶんソーヤさんが想像してるより十倍くらい順調ですよ! ね、ワタリさん、ミチル」
「確かに調子はいいけど十倍は言いすぎじゃないかな、……ソーヤがどんな悲惨な想像してたかにもよるけど」
「……ことによっては百倍かもね」

 ヒナトのとびぬけて明るい声には劣るものの、班員たちからも概ね穏やかな返答が続く。

 そこにソーヤが危惧した光景はなかった。
 仕事をすべて取り上げられて落ち込んでいるヒナトや、彼女から何もかも奪っておいて冷たく見下ろしているミチルなんていないし、ましてそんなふたりを扱いあぐねて困惑しているワタリの姿もない。
 あるのは思いのほか平穏で、温かさすらある理想的なオフィスの形だった。

 もしかして自分がいないほうが上手く回るのか、自分よりワタリのほうが運営能力に長けているのかと一瞬ショックを受けたソーヤだったが、ワタリに手招きされてはっとする。
 呼ばれるまま彼の隣、いつもの──自分の席に腰を下ろすと、途端に持て余すほどの安堵が降ってきた。

 ここだ。ずっと、ここに戻りたかった。

「おかえりソーヤ。さっそくで悪いけど、ここからここまでの下書きになってる報告書を確認してほしいです」
「……なんだよ、ずいぶん溜めやがったな」
「用意してくれたテンプレは踏襲したんだけどね……どうも不安で送信できなくてさ」

 らしくもなく弱気な発言をするワタリに、ソーヤははっと息を吐く。
 単純な話だが、頼りにされるのは、悪い気分ではない。
 仕方ねーなぁと大儀そうに言いながら、頼まれたファイルをひとつずつ確かめていく。

 隣でヒナトがミチルと何か話している。

「──だから、また今度改めてお茶汲み一緒にやろ。お互いのために!」
「なんで今日じゃないの」
「え、えーっとそれはほら、今日はあたし、ついでの用事があるから。えと……そう、倉庫とかね、寄らなきゃだしね?」
「ふーん」
「もちろん倉庫にある備品の場所だって、おいおいミチルにも覚えてもらうからね」
「あっそ。……作業の邪魔だから黙って」
「ごめん」

 数日前までなら想像ができなかったようなやりとりだ。
 会話と言うにはかなり一方的なものだし、まだミチル側の態度には問題があるけれども、それほど聞いていて不安を感じない。
 なぜならヒナトの声に怯えや苦心の気配がなく、それどころか楽しそうですらあるからだ。

 それは少し奇妙な光景でもあった。
 ミチルは明らかに壁のある対応をしているというのに、ヒナトはまるで親しい友人と話すような明るい調子で振る舞っているので、両者の温度が違いすぎるのだ。

「……ついでの用事ってなんだよ?」

 気付いたらソーヤは口を開いていた。
 ヒナトが口走っていたことで、それ自体に興味が引かれたわけではなく、なんでもいいからヒナトに話しかける口実が欲しかっただけだ。

 うぐいす色の瞳が四つも並んでこちらを見るものだから、一瞬眩暈がしそうになる。
 すぐにミチルは顔を逸らしたので大事には至らなかったが。
 ヒナトはちょっと驚いたような顔で、丸みのある頬を少し赤らめながら、聞いてたんですか、と言った。

「大したことじゃないですよ、え、えと……ティッシュの予備とか、取ってくるだけでっ……。
 あ、……あ、そうだ! お茶汲み、そろそろ行こうかなーと思うんですけど、ソーヤさん何がいいですか!?」

 なにか誤魔化そうとしているらしいが、相変わらず嘘が下手だ。

 正直言って、医務部にいる間かなりまめに水分補給させられているものだから、今のところ喉は渇いていない。
 それでも考えるよりも先に、ソーヤはこう答えていた。

「……コーヒー、おまえの淹れたやつ」
「え、……あ、はい! 了解です! じゃあ行ってきます!」

 なにか妙にドタバタしながらヒナトは出て行った。
 彼女が無駄に騒がしいのは珍しくもないが、その原因がよくわからないことにソーヤは訝り、そっと視線をワタリに送る。

 副官もちらりとこちらを見ていた。
 それで互いに何を通じ合えたわけでもなかったが、同じ違和感を共有しているらしいのだけは察することができた。
 むろん、あれほどあからさまに挙動不審なようすを見たら誰だって何かあると思うだろう。

 少し気になって反対側──ミチルのほうも窺ってみる。
 彼女は食い入るように画面を睨みつけていて、それもどこかわざとらしかった。

 こちらの視線に気づいたミチルが、少しうるさそうな顔で口を開く。

「なにか用ですか?」
「いや……すっかり馴染んでんな」
「もう一週間経ちましたから」

 そんなことが言いたいわけじゃないと思いつつも、さすがに何の根拠もなく詰問するほどソーヤは考えなしではない。

 ほんとうは訊きたかった。
 ヒナトのようすが妙だが、何か知っていることはないのか──もっと言うと、ミチルが彼女に何かしたのではないかという疑念を抱いている。
 もちろんその証拠なんてないし、だいいちヒナトは落ち込んでいるのではなくその逆のようだが。

「……まあ何か気になることがあったら俺に言えよ。そのための班長だからな」

 言いながら立ち上がった。
 ワタリがこちらを見ているが、とくに止められるようすはなさそうなので、気にすることなく席を離れてドアへと向かう。

 なんの確証もなしにミチルを問い詰めるより、本人に聞いたほうが早いと思ったからだ。
 ヒナトは自分に対してそう長く隠しごとをしてはいられない。
 なんとなれば、そのように彼女を躾けたのは他ならぬソーヤ自身なのだから。

 オフィスを出る。
 エレベーターで下に降り、三階の給湯室に向かう。

 二班の事務室の前を通るときは少し足が強張るのを感じたが、そこからタニラが出てくるということもなかった──午後の休憩にはまだ早い時間帯なのだから当然ではあるが。
 ヒナトがお茶汲みに出ていることのほうが不自然なのだ。
 飲みものの用意を必ずしも休憩と結びつける必要はないけれども、明らかにヒナトはその場から逃げる口実にしている。

 さて、どう問い詰めてやろうか。あまり泣かせたくはないが難しいだろう。

 そう思いながらソーヤはノックもせずに給湯室の扉を開いた。

 一瞬、そこにヒナトを見つけられなかった。
 彼女以外のソアの姿もない。
 だから誰もいないのかと思ったが、よくよく見るとテーブルよりも下方にヒヨコ頭が揺れている──ヒナトが、床に蹲っていた。


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