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本編(つづき)
data49:観察者かく語りき (2)
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────,49
一夜が明けてしまったが、ヒナトの頭はまだぼんやりとしていた。
情報の整理が追い付いていない。
聞かされた難解な言葉たちが耳の奥でぐるぐると回っているけれど、それを脳みそのどこに運べばいいのかわからなくて、神経のぜんぶが肩を竦めて首をかしげているようだ。
たぶんこのままではまともに仕事ができないだろうな、と自分で思えるほどだった。
それでも時間に合わせて自然と身体が動く。
これまでずっとそうしてきたように、いつもと同じ時間に食堂に行って、いつもと同じ椅子に座って、いつもと似たようなメニューを手に取るのだ。
この『いつも』も、作られたのはヒナトが『目覚めて』からの話で、それまでは存在しなかった。
ミチルが言ったように、それまでのヒナトは存在してなかったも同然だったのだ。
じゃあどこで何をしていたのか。
ヒナトは何のために生まれ、どうして目覚めてしまったのか。
そんな話を、聞かされていた。
とてもにわかには信じがたい、そして数時間経った今もなお、まだ呑み込み切れていない嘘みたいな現実を。
「おはよう」
聞き慣れた、けれど珍しい声がしたのでヒナトはゆっくりと顔を上げた。
そこには穏やかな笑みを浮かべたワタリがいた。
「向かい、座っていいかな」
「どうぞ。……あ、おはようございます」
この時間に彼に会うのは初めてかもしれない。
前にちょっと観察してみたことがあったが、そのときはワタリがGHでいちばん起きてくるのが遅かったし、たぶんそれも『いつも』のことだったはずだ。
今日は早起きですね、という軽い言葉が、上手く喉から出てこなかった。
まだ頭が半分くらい活動を放棄しているみたいだ。
いつもよりぽやんとしているヒナトを見て、まだちょっと眠そうだね、と少し笑って言うワタリに、ヒナトも曖昧な微笑みを返す。
ふたりの間にゆっくりと湯気が躍った。
今朝はトーストとミルクに、温かいコーンスープがついている。
「……ミチルのことなんだけど」
ワタリの声を聞くと同時に、手許でスプーンがかちりと硬い音を立て、ヒナトはそれで自分の身体が強張ったことに気付いた。
そんなヒナトにワタリも気づき、もともと柔和な顔に苦笑が混じる。
「彼女の相手はできるだけ僕がするよ。ヒナトちゃん、昨日、彼女にキツいこと言われたんじゃないかな」
「……えっと、その、……言われたといえば、言われたかも、です」
「うん……これからも、あの子がきみに優しくなるのは難しい。けどそれは仕方がないことなんだ。あの子にもいろいろあるから……だから許してあげてとは、僕からは言えないけど」
とうもろこしの甘い香りに、ミチルに吐かれた悪態が混ざって苦くなる。
ヒナトの存在が第一班にとって不必要だと断じられた、その言葉のほんとうの意味も、今のヒナトはなんとなく理解できる。
でも、だからといって秘書の席を譲ろうとは思えなかった。
それだけはどうしてもできなかった。
ヒナトがするべきことが別にあるとわかった今も、ヒナトはやっぱり、ソーヤの秘書でいたいのだ。
それはたぶん、彼のことが好きだから。
できるだけ長く、できればずっと、彼の傍にいたいから。
だから今日もそうするべきではないと知りつつも、ヒナトはGHのオフィスに向かうつもりだ。
「ほんとはミチルを異動させたいんだけど、その権限は僕らにはないしね。ソーヤが上に直訴してもすぐには動かないだろう。
だからひとまず、あの子ときみがふたりきりになることを避けよう。ソーヤにも言っておくよ」
「ありがとうございます。……あの」
「ん?」
「ワタリさん、どうしてそんなに、あたしたちに気を遣ってくれるんですか?」
不思議だったので、ヒナトはそう尋ねた。
何よりもまずワタリのその気遣いが向けられている相手というのが、第一に自分ではなくミチルであることを、なんとなく言葉の端々に感じられたのが奇妙だった。
まるで彼はもともとミチルのことを知っていたみたいだったから。
そしてワタリは紅茶を置いて、静かに答える。
「……きみの笑顔が曇ってほしくないから、かな」
妙に芝居がかったその言葉を、なぜかワタリは泣きそうな声で口にした。
まるで何かの罪を告白しているようだったけれど、かつて彼がどんな罪を犯したのかなんて、ヒナトは知らない。
・・・・・+
「ヒナと何話してたんだよ」
ワタリが隣に座るなり、挨拶もなしにそんな言葉が飛んでくる。
もっともこちらも何も声をかけなかったので無礼さでは同列だろう、とワタリはひとりで納得して、それから吐き捨てるような声音で返した。
「知りたかったら自分から来なよ、遠巻きにじろじろ見てないで。僕が気付いてないとでも?」
「……朝からなんなんだよ、クソ……あ、おまえらは先行ってろ」
「あ、うん……」
不安げにこちらを見ていたタニラとエイワが、しかし残留してもソーヤの機嫌を損ねるばかりだと気付いたらしく、なおも未練がましい視線を残しながら去っていく。
それを横目に見送りつつ、ワタリは容赦のない追撃をソーヤへ送った。
「ソーヤの視線がうるさいんでわざわざ来てやったんだよ。感謝されこそすれ、開口一番になじられる謂れはないね」
「マジでなんなんだ? 喧嘩売りにきてんのか?」
「半分くらいはね。もう半分は真面目な話だから、先にそっちを言おうか。これ以上ソーヤの聞く気を削ぐ前に」
「削いでる自覚あんのかよ」
げんなりしているソーヤに、そっちはこれっぽっちも自覚がないよね、と言いたいのを堪えて話を進める。
「ミチルとヒナトちゃんをできるだけ離しておいたほうがいい。昨日みたいにふたりだけで給湯室に行かせるようなことはやめよう」
「……それ、唆したのおまえじゃねえか」
「うん、だから、反省してます。……ミチルが思ったより攻撃的だった」
「春ごろにヒナが一回騒いでたことあったろ。恫喝してきたヒナそっくりなやつっての……あれはミチルのことだよな」
「ああ、そうだろうね」
「……あいつらがどういう関係なのかとか、そのあたりを昨日ラボから説明されたらしい。ただプライバシーがどうとかで俺らには教えられないんだと。
で、……やっぱりただヒナがひとりでパ二くってたわけじゃねえんだな? あの女がヒナになんか言うかするかして、ヒナが戻れないように仕向けたってことだな? 具体的に何があったかミチルから聞いてねえのかよ」
ワタリは首を振った。
ほんとうは多少なりと聞いたし察しもついていたが、まだソーヤに言うべきではないと思ったからだ。
まだ、というか、今後もいつなら言えるのかわかったものではないが。
なにせソーヤには自覚がない。
自らのアマランス疾患がどれほど進行しているのかも、それでここ最近はとくに情緒面に問題が出てきていることに自分で気付いていないのだ。
ことにヒナトに対する執着が顕著で、彼女に関わることを冷静に聞けるとは思えない。
それは彼女がソーヤの『標的』だから。
ソアにとって生命の存亡に影響を与えるほどの重要人物、思考の中心に縛り付けられる興味関心の最大の対象であり、たいていは親密な関係を築こうとする相手──それをラボでは『支柱』とか『標的』などと称する。
呼び名が二種類あるのは、対するソアの執着の現れ方を同様に大別しているからだ。
端的に言えば相手の感情を尊重するかどうかの違いで、前者が『支柱』で後者が『標的』らしいが、ワタリにはどちらもそう大差ないように思える。
とにかくソーヤの心身の平衡はヒナトの存在で保たれているのだ。
彼が目覚めたときには過去の記憶がすべて失われていて、その不安と混乱の時期にたまたま傍にいたのが彼女だったから、そうなるのはほとんど必然だったと言っていい。
それからずっとソーヤは無意識にヒナトを支配して生きている。
自分の命令には絶対に従うようにしつけ、たわいもない空想すら泣いて白状させ、ともすれば高慢な態度で「自分が彼女の主である」と少しずつ彼女に刷り込んでいる。
それらをすべて無自覚にやっているのが質の悪いところで、正直たまにヒナトが可哀想になることもあった。
しかしワタリはあまり口を挟まずに彼らを『観察』してきた。
究極的なことを言えばそれでソーヤが健康なら問題がないと判断してきたからだ。
しかし現実にはそうではない。
ヒナトがソーヤに従順でも、ソーヤの身体は確実に蝕まれている。
進行速度はかなり遅くなっているかもしれないが、それでも病が足を止めないのなら、このまま平穏な時間がいつまでも続きはしない。
ワタリは知っている。
GHの誰よりも花園のことをよく知っている。
ヒナトがほんとうはソアではないことを。
彼女がなぜ生まれ、そして、ほんとうは目覚めるべきでなかったということを。
それなのに予定外に目覚めてしまった彼女の代わりに、暗闇に閉じ込められた哀れなミチルのことを。
そう、ワタリは知っているのだ。
彼女たちが──その身体を構成する神の御業が、他でもない己の細胞から造られたことを。
→
一夜が明けてしまったが、ヒナトの頭はまだぼんやりとしていた。
情報の整理が追い付いていない。
聞かされた難解な言葉たちが耳の奥でぐるぐると回っているけれど、それを脳みそのどこに運べばいいのかわからなくて、神経のぜんぶが肩を竦めて首をかしげているようだ。
たぶんこのままではまともに仕事ができないだろうな、と自分で思えるほどだった。
それでも時間に合わせて自然と身体が動く。
これまでずっとそうしてきたように、いつもと同じ時間に食堂に行って、いつもと同じ椅子に座って、いつもと似たようなメニューを手に取るのだ。
この『いつも』も、作られたのはヒナトが『目覚めて』からの話で、それまでは存在しなかった。
ミチルが言ったように、それまでのヒナトは存在してなかったも同然だったのだ。
じゃあどこで何をしていたのか。
ヒナトは何のために生まれ、どうして目覚めてしまったのか。
そんな話を、聞かされていた。
とてもにわかには信じがたい、そして数時間経った今もなお、まだ呑み込み切れていない嘘みたいな現実を。
「おはよう」
聞き慣れた、けれど珍しい声がしたのでヒナトはゆっくりと顔を上げた。
そこには穏やかな笑みを浮かべたワタリがいた。
「向かい、座っていいかな」
「どうぞ。……あ、おはようございます」
この時間に彼に会うのは初めてかもしれない。
前にちょっと観察してみたことがあったが、そのときはワタリがGHでいちばん起きてくるのが遅かったし、たぶんそれも『いつも』のことだったはずだ。
今日は早起きですね、という軽い言葉が、上手く喉から出てこなかった。
まだ頭が半分くらい活動を放棄しているみたいだ。
いつもよりぽやんとしているヒナトを見て、まだちょっと眠そうだね、と少し笑って言うワタリに、ヒナトも曖昧な微笑みを返す。
ふたりの間にゆっくりと湯気が躍った。
今朝はトーストとミルクに、温かいコーンスープがついている。
「……ミチルのことなんだけど」
ワタリの声を聞くと同時に、手許でスプーンがかちりと硬い音を立て、ヒナトはそれで自分の身体が強張ったことに気付いた。
そんなヒナトにワタリも気づき、もともと柔和な顔に苦笑が混じる。
「彼女の相手はできるだけ僕がするよ。ヒナトちゃん、昨日、彼女にキツいこと言われたんじゃないかな」
「……えっと、その、……言われたといえば、言われたかも、です」
「うん……これからも、あの子がきみに優しくなるのは難しい。けどそれは仕方がないことなんだ。あの子にもいろいろあるから……だから許してあげてとは、僕からは言えないけど」
とうもろこしの甘い香りに、ミチルに吐かれた悪態が混ざって苦くなる。
ヒナトの存在が第一班にとって不必要だと断じられた、その言葉のほんとうの意味も、今のヒナトはなんとなく理解できる。
でも、だからといって秘書の席を譲ろうとは思えなかった。
それだけはどうしてもできなかった。
ヒナトがするべきことが別にあるとわかった今も、ヒナトはやっぱり、ソーヤの秘書でいたいのだ。
それはたぶん、彼のことが好きだから。
できるだけ長く、できればずっと、彼の傍にいたいから。
だから今日もそうするべきではないと知りつつも、ヒナトはGHのオフィスに向かうつもりだ。
「ほんとはミチルを異動させたいんだけど、その権限は僕らにはないしね。ソーヤが上に直訴してもすぐには動かないだろう。
だからひとまず、あの子ときみがふたりきりになることを避けよう。ソーヤにも言っておくよ」
「ありがとうございます。……あの」
「ん?」
「ワタリさん、どうしてそんなに、あたしたちに気を遣ってくれるんですか?」
不思議だったので、ヒナトはそう尋ねた。
何よりもまずワタリのその気遣いが向けられている相手というのが、第一に自分ではなくミチルであることを、なんとなく言葉の端々に感じられたのが奇妙だった。
まるで彼はもともとミチルのことを知っていたみたいだったから。
そしてワタリは紅茶を置いて、静かに答える。
「……きみの笑顔が曇ってほしくないから、かな」
妙に芝居がかったその言葉を、なぜかワタリは泣きそうな声で口にした。
まるで何かの罪を告白しているようだったけれど、かつて彼がどんな罪を犯したのかなんて、ヒナトは知らない。
・・・・・+
「ヒナと何話してたんだよ」
ワタリが隣に座るなり、挨拶もなしにそんな言葉が飛んでくる。
もっともこちらも何も声をかけなかったので無礼さでは同列だろう、とワタリはひとりで納得して、それから吐き捨てるような声音で返した。
「知りたかったら自分から来なよ、遠巻きにじろじろ見てないで。僕が気付いてないとでも?」
「……朝からなんなんだよ、クソ……あ、おまえらは先行ってろ」
「あ、うん……」
不安げにこちらを見ていたタニラとエイワが、しかし残留してもソーヤの機嫌を損ねるばかりだと気付いたらしく、なおも未練がましい視線を残しながら去っていく。
それを横目に見送りつつ、ワタリは容赦のない追撃をソーヤへ送った。
「ソーヤの視線がうるさいんでわざわざ来てやったんだよ。感謝されこそすれ、開口一番になじられる謂れはないね」
「マジでなんなんだ? 喧嘩売りにきてんのか?」
「半分くらいはね。もう半分は真面目な話だから、先にそっちを言おうか。これ以上ソーヤの聞く気を削ぐ前に」
「削いでる自覚あんのかよ」
げんなりしているソーヤに、そっちはこれっぽっちも自覚がないよね、と言いたいのを堪えて話を進める。
「ミチルとヒナトちゃんをできるだけ離しておいたほうがいい。昨日みたいにふたりだけで給湯室に行かせるようなことはやめよう」
「……それ、唆したのおまえじゃねえか」
「うん、だから、反省してます。……ミチルが思ったより攻撃的だった」
「春ごろにヒナが一回騒いでたことあったろ。恫喝してきたヒナそっくりなやつっての……あれはミチルのことだよな」
「ああ、そうだろうね」
「……あいつらがどういう関係なのかとか、そのあたりを昨日ラボから説明されたらしい。ただプライバシーがどうとかで俺らには教えられないんだと。
で、……やっぱりただヒナがひとりでパ二くってたわけじゃねえんだな? あの女がヒナになんか言うかするかして、ヒナが戻れないように仕向けたってことだな? 具体的に何があったかミチルから聞いてねえのかよ」
ワタリは首を振った。
ほんとうは多少なりと聞いたし察しもついていたが、まだソーヤに言うべきではないと思ったからだ。
まだ、というか、今後もいつなら言えるのかわかったものではないが。
なにせソーヤには自覚がない。
自らのアマランス疾患がどれほど進行しているのかも、それでここ最近はとくに情緒面に問題が出てきていることに自分で気付いていないのだ。
ことにヒナトに対する執着が顕著で、彼女に関わることを冷静に聞けるとは思えない。
それは彼女がソーヤの『標的』だから。
ソアにとって生命の存亡に影響を与えるほどの重要人物、思考の中心に縛り付けられる興味関心の最大の対象であり、たいていは親密な関係を築こうとする相手──それをラボでは『支柱』とか『標的』などと称する。
呼び名が二種類あるのは、対するソアの執着の現れ方を同様に大別しているからだ。
端的に言えば相手の感情を尊重するかどうかの違いで、前者が『支柱』で後者が『標的』らしいが、ワタリにはどちらもそう大差ないように思える。
とにかくソーヤの心身の平衡はヒナトの存在で保たれているのだ。
彼が目覚めたときには過去の記憶がすべて失われていて、その不安と混乱の時期にたまたま傍にいたのが彼女だったから、そうなるのはほとんど必然だったと言っていい。
それからずっとソーヤは無意識にヒナトを支配して生きている。
自分の命令には絶対に従うようにしつけ、たわいもない空想すら泣いて白状させ、ともすれば高慢な態度で「自分が彼女の主である」と少しずつ彼女に刷り込んでいる。
それらをすべて無自覚にやっているのが質の悪いところで、正直たまにヒナトが可哀想になることもあった。
しかしワタリはあまり口を挟まずに彼らを『観察』してきた。
究極的なことを言えばそれでソーヤが健康なら問題がないと判断してきたからだ。
しかし現実にはそうではない。
ヒナトがソーヤに従順でも、ソーヤの身体は確実に蝕まれている。
進行速度はかなり遅くなっているかもしれないが、それでも病が足を止めないのなら、このまま平穏な時間がいつまでも続きはしない。
ワタリは知っている。
GHの誰よりも花園のことをよく知っている。
ヒナトがほんとうはソアではないことを。
彼女がなぜ生まれ、そして、ほんとうは目覚めるべきでなかったということを。
それなのに予定外に目覚めてしまった彼女の代わりに、暗闇に閉じ込められた哀れなミチルのことを。
そう、ワタリは知っているのだ。
彼女たちが──その身体を構成する神の御業が、他でもない己の細胞から造られたことを。
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