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本編(つづき)

data48:焦燥、不安、嫉妬、執着

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 ────,48


 ソーヤが廊下に出ると、もうそこにヒナトの姿はなかった。

 静寂がひたひたと辺りを満たしているような気配に背筋をぞっとさせながら、ソーヤは足早に廊下を突っ切っていく。
 行先は決まっていない。
 ヒナトがどこに行ったのかわからないから、決めようがない。

 とりあえず廊下の突き当りにあるトイレの前に立ち、さすがに中を覗き込むのはやめて声だけかけた。
 大きな声でヒナトの名前を呼んでみるが、返事はない。

 少しようすを見てみたが、そこに人の気配も感じられなかったので、見切りをつけて次に行く。

 階段を使って下の階に降りるが、そこにもヒナトはいない。
 給湯室を覗いてみたがアツキがいるだけで、驚いている彼女にヒナトを見なかったか尋ねてみたが、首を振られただけだった。
 もし見つけたら教えてほしいと言いおいて、また次へ。

 そんなふうにあちこち探し回った。
 資材倉庫などの人気のない場所も覗いたし、ロビーも見に行った。
 隣の生活棟に行ってヒナトの自室のドアを叩いてみたり、食堂にも顔を出してみたりしたが、どこにも彼女の姿はない。

 あと見ていないのはラボくらいなものだが、そのラボだけでも五階層はある。
 いずれも秘書である彼女には行く用事などない場所ばかりで、つまり親しい顔見知りの職員などもいないだろうし、あたりをつけるのは難しそうだ。
 いったいヒナトは何を思い、どこへ行ってしまったのだろう。

 そしてソーヤはなぜ、こんなに必死で彼女を探しているのだろう。
 いくら気になるとはいっても今は業務時間内で、本来ならオフィスで自分の仕事をしながら彼女の帰りを待つべきなのであって、それから叱るなり事情を聞くなりするのがソーヤの職務なのではないか?

 などと頭では思っても、身体が言うことをきかない。

 あたりがつけられないのなら片っ端からしらみつぶしに探すしかない、という即物的で短絡的な思考に陥ったソーヤは、オフィス棟に戻った。
 まず五階のシステム室は、あまり期待していなかったが当然いない。
 次に六階、ここは生活棟の管理をしている部署と、医務部とが隣り合って入っている。

 管理部をさっと確認して見慣れたヒヨコ頭がないのを確かめると、ソーヤは意を決して医務部の扉を開く。

 正直、ここには来たくなかった。
 ラボの中でもソアが普段から訪れる機会が多く、いちばん可能性が高そうな場所ではあったが、同時にソーヤにとっては嫌な現実を突きつけられる忌まわしい鬼門なのだ。

 また面倒なことに、入り口近くにいたのはまた例のリクウだった。

 隠れようかと一瞬思ったが、眼が合ってしまったので今さら逃げ出すわけにもいかず、ソーヤは腹をくくって彼に声をかける。
 そしてここがどうやら正解だったらしいと、訳知り顔で手招きするリクウを見て理解した。

「来たか。ついさっき内線でワタリに声かけたとこなんだが、入れ違いになったっぽいな」
「……らしいな。で、俺んとこの秘書はここに来てんのか?」
「ああ」

 ついてこい、というジェスチャーをして歩き出したリクウの背を追う。

「ところで検査結果は見たか?」

 ふり返りもせずにリクウがそう尋ねてきた。
 フーシャが倒れたころ、彼は見舞いにきたソーヤを掴まえて検査をするよう迫ってきたことがあり、結局ソーヤは押し負かされて言われるがままになったのだ。
 その結果を先日、自室に直接届けられたところだった。

「見た。だいたい予想どおりだったし、何の希望もありゃしねえ結果だったけどな」
「でもこれで自分の状況をきっちり把握できたろ」
「あんなもん見なくてもわかる」
「実感するのと客観的事実を見るのとでは違うぞ。……とくにおまえの場合、自覚症状がない部分も多いからな。けっこう悲惨だっただろ?」
「……放っといてくれ」

 そこで急にリクウが足を止めた。
 振り向いた男の眼からは普段の温かみが失せていて、ソーヤは思わず息を呑む。

「おまえひとりなら放ってもいいんだが、先頭者リーダーってのがあってな。おまえが死ぬとそれが引鉄になって周りがバタバタ倒れるようになる。
 最初は同期組に影響が出て……それが広がると別期のソアにも伝染するんだよ。
 ガーデンにいるチビたちや、最悪その面倒を見てるメイカにまで。……結局おまえひとりの問題じゃ済まされない」

 そうなったところで死人には責任が取れない。
 そもそも生きていても無理な話だ。
 だからこの件についてソーヤがひとりで抱え込むことは許さない──そう言われているように感じた。

 返す言葉が思いつかないソーヤをよそに、リクウは近くの扉を軽くノックする。
 はい、という返答の声はまさしく探し回っていたヒナトのもので、思案に俯いていたソーヤも思わず顔を上げる。

 妙な感覚だった。

 今までとは逆の光景がドアの向こうに広がっていたからだ。
 つまり、室内に置かれたベッドの上にヒナトがうずくまっていて、いつも彼女に見舞われていたソーヤが今は病室を訪ねる側になっている。
 こんな日が来る可能性など、これまで少しも考えたことがなかった。

 ヒナトも顔を上げてこちらを見る。
 眼が真っ赤に腫れていて、また大泣きしていたらしかった。

 それを見て妙に腹が立つのはなぜだろう。
 誰の胸を借りたのか、どうして自分を頼らなかったのか、などと詰め寄りたい衝動がふっとソーヤの内に湧き上がった。
 同時に己のあまりの身勝手さに幻滅もして、このくだらない感情を押し込むために、ソーヤは呻くような声を漏らしながら、なかば頭を掻き毟るようにして前髪をかき上げた。

「~っ……、何があった」

 ヒナトは答えなかった。
 たぶん彼女の眼にはソーヤが怒っているように見えたのだろう、一瞬びくりと肩を震わせたのだけが見えた。

「彼女を責めるな。手落ちがあったのはラボのほうだ」
「……どういうことだよ」
「簡単に言うと、あまりにもラボからの説明が足りなかったんでパニックになってたんだよ。それでさっきまでその足りない部分について聞かされてたところだ。
 そうだよな、ヒナト」

 代わりにソーヤの問いに答えたリクウの言葉に、ヒナトは黙って頷く。

 ──私のことで混乱してるみたいで。
 ミチルがそう言っていたが、説明が足りない部分というのはそのあたりについてだろうか。
 あの少女が何者で、ヒナトとはどういう関係なのか──最初にミチルを連れてきた人間は姉妹のようなものと言っていたが、どちらかといえばクローンの類だろう。

 当事者であるヒナトにすら満足な説明がなされていなかったことにも呆れるが、班長である自分にも同じく説明がないことには腹が立つ。
 ヒナトは第一班の班員なのだから、その長で管理役である自分には、彼女に関わることのすべてにおいて知る権利があるはずだ。

「……その説明しに来てた職員ってのはどこのどいつだ?」
「忙しいんでもう帰ったよ。ラボの部署まで言ったら、おまえ今にも押し掛けそうだな」
「当然だ。俺にも説明するべきだろ」
「うん……ソーヤ、ちょっとこっちに来い」

 リクウに腕を掴まれて、ソーヤは病室から引きずり出されるようにして廊下に戻った。
 しかもリクウは丁寧に扉まで閉めてソーヤとヒナトを遮断する。
 どういうつもりかと怪訝に思いつつも、たしかにヒナトにはソーヤの質問に答える気力がなさそうなので、まだ少し休ませたほうがいいというのはわかる。

 それにソーヤは今あまりにも己に余裕がないことを自覚してもいた。
 ピリピリした荒い態度を彼女にぶつけてしまうのは、ソーヤとしても好ましいことではない。

「おまえの言いたいこともわかるんだが、今回ヒナトが聞かされた説明ってのは、彼女自身のプライバシーにも関わることなんでな。おまえが勝手にラボに聞き込みに行くのはやめてやれ」
「なんだよそれ? どういう……」

 ふいに頭の中にもやがかかったような感覚に陥り、ソーヤは言葉を途切れさせる。
 それはこのごろめっきり起きなくなったあのひどい頭痛の、前触れとしてしばしばあった異常に似ていたが、そのときのような苦痛がやってくる気配はない。
 何かが変だ、と内心で誰かが呟いているのをソーヤは他人事のように聞いていた。

 そして、ばちん、と。
 もやの奥で何かのスイッチが入ったような音がして、ソーヤは次の瞬間自分でも驚くような声を出してリクウに詰め寄っていた。

「なんでそれをあんたが知ってるような口ぶりなんだ!?」

 叫んで、すぐに正気に返る。
 目の前にはソーヤに胸倉を掴まれ、それでも平然とこちらを見下ろすリクウがいる。
 彼の冷静な眼差しがすっとこちらに降りてきて、ソーヤの脳にこもった熱をそぎ落とすように、次第に頭が冷えていくのがわかる。

「……落ち着け。たしかに俺は事情を知ってるが、それは俺も多少は関係者だからだ」
「関……係者……」
「とにかくヒナトは今日はもうオフィスには出せない。まだ心の整理が必要な状況だろうから。
 最初に言った、ワタリに内線で伝えた内容もそういうことだったんだが、おまえは顔見るまで納得しなさそうだったんで特別に面会させてやったんだ」
「……入れ違いってそういう意味かよ」

 ソーヤは脱力するようにしてようやくリクウから手を離した。
 そして、しわになったシャツの襟元を直しているリクウのことを、黙ったままぼんやりと眺める。

 関係者であるというのはどういう意味なのか。
 いったいこの男とヒナトの間にどういう繋がりがあるのか。
 ミチルはそこにどう関わっているのか。

 ……ヒナトが受けた説明とは結局なんだったのか、そしてそれをソーヤが知るにはどうすればいいのか。
 わからないことが多すぎて、だからたぶん、妙にイラつくのはそのせいだ……。

 そのとき通りがかった医務部の職員が、リクウに何ごとかを話しかけた。
 ソーヤの耳には会話の内容まで入ってこなかったが、というのも、リクウの横顔を見たときふと、誰かに似ているような気がしたからだ。
 思わず考え込んでしまったが、なんにせよ彼らの話はソーヤにもヒナトにも関係がなさそうだった。

 そして結局答えを見つけられないまま、リクウにGHに戻るよう促されて、ソーヤは医務部をあとにした。


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