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本編

data35:優しい花には毒がある

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 ────,35


 前回までのあらすじ。
 外出先で知らない女性に話しかけられているユウラとニノリを発見。
 あらすじ終わり。

 説明するとたった一行のできごとである。
 しかし、これがサイネとアツキにとってはただならぬ状況らしい、ということはヒナトにもわかった。

 なぜならふたりは噴水の陰からじっとその光景を眺めている。
 どちらも何も言わず、もちろんユウラたちに駆け寄ったりすることもなく、ろくに会話も聞き取れない微妙な距離からようすを窺っているのだ。
 妙に空気が張りつめていて、ヒナトも迂闊に話しかけられそうにない。

 そして覗かれているユウラたちはというと、そちらも穏やかとは言いがたい雰囲気だった。

 主に相手をしているのはユウラらしかったが、彼はいつもの無表情のままほとんど口を開いていない。
 女性のほうが一方的に、しかもやや興奮気味にまくし立てているようすで、ユウラは彼女の勢いに気圧されているようにも見える。

 そしてニノリに至ってはユウラの陰に隠れていた。
 そこだけ見るとユウラを信頼しているのがよくわかって微笑ましいが、当のニノリの表情はかなりこわばっていて、女性に対してかなり警戒しているようだった。
 ユウラもそれを感じているのか、どことなく片腕がニノリを庇うような動きをしている。

 そしてふいに状況が変化した。
 どうやら女性がニノリに向かって話しかけたらしい。

 少年はびくりと肩を跳ねさせて、おっかなびっくりというようすでユウラの陰から顔を覗かせる。
 しかしすぐにまた引っ込んでしまい、ユウラも限界を感じたのか、ニノリの腕をとってその場を離れようとしたらしかった。
 だが、それを女性は許さなかった。

 女性はまずユウラの腕を掴んで引き留め、それからあやすような仕草でニノリの頭を撫でようとした。

「──サイちゃん、ごめん」

 そこで急にアツキが動いた。
 なぜかサイネに対して謝罪の言葉を述べた彼女は、まっすぐにユウラたちのところへと駆け寄っていく。

 ヒナトはぽかんとしていたが、次の瞬間サイネに手を掴まれ、そのまま引きずられるようにしてアツキのあとを追うことになった。
 それゆえ追いつけはしなかったものの、アツキが彼らに向かって何と言ったのかは聞き取れた。

「ニーノり~~んッ、お待たせ! 遅くなってごめんねぇ!」

 アツキはそう言って人目も憚らずニノリを抱きしめた。
 彼らと待ち合わせる予定などなかったはずなのだが、ニノリはそれに突っ込む以前に、急なアツキの登場および公衆の面前での熱烈なハグに驚いてそれどころではなさそうだった。

「ちょっ、あ、アツキ、なんでいる……っていうかここ外だッ……」
「帰りはこの公園を通るって話したでしょ~? うりうりー、照れてるニノりんもかわいいぞー、うりー」
「やめろやめろ人前でそれはやめろ……!」

 アツキに思い切り頬ずりをされ、ニノリは真っ赤になっている。
 普段ほとんど話す機会もなく、不愛想でかわいげのない彼しか知らないヒナトにしてみれば、それはなかなかに新鮮な姿だった。
 確かにこれはちょっと、アツキが彼をかわいいと言うのが理解できるかもしれない。

 しかし和やかな空気はそこでふっつりと途切れる。
 アツキはぴたりとニノリを愛でる手を止め、くるりと顔だけで女性のほうを向いたのだ。

 先ほどまでのようすとは打って変わって、人形のような無表情で。

 女性はもともとアツキの乱入と奔放な言動に驚いて固まっていたのだが、アツキと眼が合った瞬間、その喉からひっとひきつったような声を上げた。
 ニノリに対する温かさはなりを潜め、アツキは冷ややかな声で静かに言った。

「……うちの子に触らないでくれる?」

 その瞬間、こちらまで頭から氷水をぶちまけられたような心地がした。
 普段の温厚で優しいアツキを知っているからかもしれない。
 今の彼女はまったくの別人のようで、いつもの柔らかさは微塵もなく、ただただ頑なで冷たい。

 初対面の女性にしても、直前の言動との落差に驚いただろうし、何よりアツキが向ける目線があまりにも敵意に満ちているのに気付いただろう。

 彼女は青ざめ、よろけるようにして後ずさる。
 何か言おうとしたのか微かに口を動かしたのは見えたが、その喉から声らしいものは出てこなかった。

 呆然としてそれを眺めるヒナトの隣を、ふいに誰かがすり抜ける。

 気付けば手が離されていて、サイネはするりとユウラの隣にいくと、なんと彼の腕をぎゅっと抱き込んだ。
 それも普段のサイネからは考えられない行動だった。
 誰よりもユウラがいちばん驚愕した表情でそれを見下ろしているのが印象的だった。

「あなたがどこのどなたかは存じ上げませんけど、時間がないので失礼します」

 サイネは妙に折り目正しく、しかも存外に穏やかな声音でそう告げる。
 そして言葉を失っている女性にそれ以上は構わず、ユウラの腕を抱いたまますたすたと歩き出した。
 アツキとニノリも彼女たちに続いたので、ヒナトも慌てて後を追う。

 途中、少し気になったのでふり返った。

 まだ女性はその場に留まっていた。
 そして呆然としたまま、その後もしばらくこちらを見ていたようだった。



 ・・・・・*



 隣の少年は縮こまっている。
 大丈夫か、と声をかけてやると頷いたものの、表情は固いままだった。

 帰りの車の中で、ユウラとニノリは重苦しい空気に包まれていた。

 まずいことになってしまった、とユウラは思っている。
 じつのところ、解放中に外界の人間から声をかけられること自体は、ユウラにとってはそれほど稀ではない。
 問題はその現場をアツキと──他ならぬサイネに目撃されたことだ。

 いつもならあれほど長々と立ち話をすることはない。
 たいていの相手はきちんと断ればそれで了承し、こちらも離れることができる。

 そういう意味で今日の女は別格だった。
 どうしても写真を撮らせてほしい、一枚だけでいいからと、こちらが何度断ってもしつこく食い下がってきたのだ。
 向こうの目的についてはよく知らないが、雑誌がどうとか言っていた。

 ソアの情報を外部に漏らすことは固く禁じられている。
 むろん写真も許可は下りないだろう。

 しかし研究所の存在を匂わせることすら不可能とあっては、ユウラとしても拒否するための言葉が曖昧になってしまった部分はあっただろう。
 だから相手がどうこうというより、上手くあしらえなかった自分が悪いのだ。
 その点については深く反省している。

 人見知りの激しいニノリが女性の勢いに怯えていたのも事実で、ユウラは彼を守り切れなかった。
 それを見たアツキがああいった行動をとったのも無理はない。

 やや態度が過剰だったが、彼女はニノリを護ろうと必死だったのだろう。
 ニノリ自身はあれから口を開いていない。
 たぶんアツキのああいう顔を見たのが初めてで、まだ呑み込み切れないでいるのだろうと、ユウラは敢えて放っておくことにした。

 ユウラにとっては、昔何度か見た顔だった。
 まだニノリと出逢う前の、自分たちが幼かったころ──苗床ガーデンの時代に。

 だが、それはいい。

 そんなことは大した事件でもなんでもない。
 ニノリだってそのうち見慣れることになるし理解できるようにもなるだろう。
 アツキはそういう女で、彼女にとって自分は庇護の対象なのだと、……彼には酷だが男として見られるにはまだ遠いのだということも。

 それはアツキとニノリの問題であって、ユウラには関係がない。

「……」

 サイネがいた。
 サイネが見ていた。

 いつからかはわからないが、ユウラが他の女と話しているところを観察された。
 対処しきれず困っていたところを見られた。
 止めもせず──というか、彼女の性格を考えたら止めに入ってくれるはずもないのは明白だが。

 まずいことになってしまった。
 絶対にサイネにだけは見られたくなかったのに。

 思わず顔を覆ってしまう。
 いつも無表情だ鉄仮面だとからかわれているユウラだが、今ばかりはそうもいかないだろう。
 せめてニノリには見せるまいとしての行動だったが、逆に目についたのか、ニノリが心配そうな声で沈黙を破った。

「……そっちこそ、大丈夫か? 気分が悪そうだな」
「いや、……なんでもない。平気だ」
「なんだ、車に酔ったのかと思ったぞ」

 そのほうがどんなによかったか。
 などと、このまだ十代の初めに近い少年に言えるはずもなく、ユウラは深く息を吸った。

 そしてそれをゆっくり吐き出しながら、車窓の外をぼんやり眺める。

 もう街は遠く置き去りにされて、見慣れた緑の樹々が周囲を取り巻いていた。
 そのうち舗装された道すら外れて人の踏み入れぬ山奥に入っていくのだ。
 そこではある意味では人道に悖る研究が行われ、しかも身勝手に生み出された無数の命は、そのほとんどが若くしてこの世を去っている。

 昔、誰かが冗談めかして、花園は天国だと言った。
 冗談にしても悪質だとは思ったが、ユウラもそれに同意した。

 ラボにしたってどうせ長生きしないとわかっているからソアを乱造している部分があるのだ。
 閾値は二十四人といいつつも、すぐにのだから。
 だからここは、地上で最も天国に近しい場所。

 やがて見えてきた建物の、外壁の白さが真夏の光を浴びて眩しい。
 無機質で冷たいという意見もあれば、その純白を美しいと言う者もいるが、ユウラはそのどちらの感想も抱いたことはなかった。

 ただ、ここは確かに天国だと思う。
 そして同時に地獄であるとも思う。

 車は玄関の脇で順に停まり、そこからソアたちがぞろぞろと降りる。
 内側から誰かが開錠しないと入れないため、運転手を務めた職員が中に連絡している間、ソアたちは扉の前にたむろした。
 ユウラにとってのたった一人はその中で、ドアには眼もくれず建物に背を向けて立っている。

「ねえ」

 黄金の眼に絡めとられる。
 肉食獣に見つめられた獲物はきっと、こんな心地がするのだろう。

 ドアロックが解除される音を意識の彼方に聞きながら、ユウラは静かに息を呑んだ。

「……あとで部屋に行くから、開けといて」

 他の誰にも聞こえないように小さな声で、ユウラの耳元でそう囁くと、サイネはすぐに人込みに紛れて研究所に入っていった。

 ユウラは立ち竦んだまま、黙ってそれを見つめていた。
 心臓がちぎれそうだった。


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