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本編
data21:日陰の花 ◆
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────,21
ヒナトが給湯室の扉を開けると、そこで棚を覗いてぶつぶつ言っている見慣れない人がいた。
そもそもここで男子の姿を見ることのほうが珍しい。
基本的に秘書しか使わないし、ヒナトが知っている他の仲間はみんな女の子だったからだ。
開閉の音に気が付いたようで、彼はすぐに──何やらぱぁっと明るい顔でふり返った。
「お疲れさまです」
「……あ、お疲れ。えっと……ごめん名前なんてったっけ?」
「ヒナトですよ」
人の顔を見るなり明らかに落ち込まなくてもいいんじゃないかとヒナトはちょっと思った。
よくわからないが、たぶんエイワは誰かを待っていたところなのだろう。
というかどうしてひとりでこんな場所に。
今日が初日なのだし、当然まだ秘書見習い中だろう。
お茶汲みだって決して簡単な作業ではない、少なくともヒナトにとっては数多の秘書業務の中でも難関の部類に入ると思っているのに、いくらなんでも初日にひとりでやらされているのは変だ。
教育係のアツキはどうした。
「あのー……エイワくん、ああいやエイワさん、なんでひとりでこんなとこにいるんですか?」
「なんかアツキに別の用済ませてくるから先に行ってろって言われてさー。
ていうかなんで敬語? いいよタメ口で」
「え、いやでもあたし歳下だし……エイワくん、はソーヤさんと同じ歳ですよね」
「うん。でもそんなん気にしなくていいって」
にへら、みたいな擬音の似合う柔らかい笑顔でエイワはそう言った。
第一印象からしてかなり人の好さそうな感じはしていたのだが、やっぱりかなり温和そうだ。
これはもしかしたら男版アツキと言ってもさほど過言ではないのでは。
あ、そうだったらニノリとも上手くやれる可能性があるのかもしれない。
そこもちょっと心配だったので、ヒナトは少しほっとした。
とはいえ。
「エイワくんがいいって言ってもソーヤさんがたぶん許してくれないかな……」
「へ?」
「あたし初対面のとき言葉遣いすっごい直されたんですよ。ちゃんとしろー、ネンコージョレツだーとか言って」
「……あー、そっか、そうかもなぁ。あいつちょっと王様みたいなとこあるし。
ってこれ俺が言ってたっての内緒にしてくれよ! ぜんぜん悪い意味じゃねーけど、勘違いで揉めたりとかしたくないからさ」
「あはは、わかります。言いませんよう」
思わず笑ってしまったけれど、ヒナトはそこでふと、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
王様みたいだというエイワの表現に同意ができる。
エイワは眠りの前の彼しか知らないし、ヒナトは逆にGHに来てから初めて会ったのに。
ソーヤの性格自体は根本的には変わっていないということだろうか。
そして、気付いてしまった。
今のこの状況ならエイワにソーヤのことを伝えられるのではないかと。
ラボの職員に任せることをサイネには推奨されたが、そのためにあれこれ頭を使ってもヒナトにはいい方法が思いつかないし、そうこうしているうちにずいぶん時間が経ってしまった。
今ならここにソーヤがくる可能性はほぼゼロに等しいし、エイワが取り乱してしまったとしてもそのうちアツキが戻ってくるだろう。
時間帯的にタニラが来る可能性もあるのが少し怖いが。
けれど、どのみち誰かがいつか言わなければならないことなのだ。
「……えっと。とりあえず先に火、使ってもいいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。それなら俺うしろで見学させてもらおっかな」
「参考にはならないですよ」
言わなきゃ、と思ってもいざ口に出そうとすると緊張してきたので、手を動かしてそれをほぐそうと試みた。
ヒナトの性質上あまり作業中にものを考えないほうがいいのだが。
やかんに水を入れて火にかけつつ、棚からコーヒーの粉と茶葉とココアの缶を取り出す。
基本的にいつも同じものを使っているだけなのだが、エイワからすれば迷いのない動きに見えたらしく、慣れてるなあみたいな感嘆の声が聞こえてきた。
茶葉を出すだけなら誰でもできるってすぐにわかるよ……とヒナトは内心ちょっと切なかった。
しかし一度タニラに習ったこともあり、最近はさすがにヒナトも少しは上手くなったのではないかと思う。
そういえばソーヤからの批評を最近聞いてない。
まずいと言われていない、と考えるとやっぱり成長できているような気もするが、欲を言えば褒め言葉を聞きたいところだ。
旨いまでは無理でも、前よりよくなったとか、そんな感じでいいから一言欲しい。
とかどうとか考えながら粉類を量り終え、湯が沸くまで手持無沙汰になってしまった。
意識を集中しておける場所がなくなったヒナトの視線は再びエイワへと戻ることになり、彼が几帳面にもヒナトのやりかたをメモしているのを見て無性に申し訳なくなりつつも、思考はソーヤの件について翻った。
今ここで言うか、言わないか、いや、やっぱり言うべきか。
「あー……の、えっと……」
もごもごと口を動かすものの、肝心の言葉が出てこない。
そもそもどう切り出すかを考えていなかった。
ヒナトのようすがおかしいのに気付いたエイワが不思議そうな顔をしてこちらを見る。
ああ、見れば見るほど善良そうな顔立ちだ。
今からこの顔が衝撃や悲しみで歪んでしまうことを思うとやるせないし、その責任をヒナトひとりで負うのは重すぎる。
──それでも。
これ以上このことでソーヤが思い悩んだり、苦しい誤魔化しを続けてしまうほうが、もっとずっと嫌なのだ。
もうあんなソーヤを見たくない。ヒナトの良く知る、いつもの──王様みたいな彼に戻ってほしい。
「ソーヤさんの、ことなんですけど……」
心臓がぎりぎりと締め付けられる。
言わなきゃいけないのに、そう思うのに、どうしても次の言葉が出てこない。
「?……ソーヤが何か」
「じ、実はその、ソーヤさんはびッ──」
やっと病気だと言いかけたところでやかんが吠えた。
甲高い音に思わずびくついて言葉が途切れ、ヒナトは少し肩を落としながら、とにかくそれを黙らせるために火を止める。
そのまま話に戻るべきだったかもしれないが、それでせっかく沸いた湯がまた温くなってしまっては手間だからと思ったヒナトはやかんを持ち上げる。
お湯を注いでコーヒーとココアを溶かし、茶葉を蒸らして、やかんを戻してスプーンの用意。
無言で作業を進めるヒナトをエイワがじっと見つめている。
止せばよかった、淹れてしまったら冷めないうちにオフィスに運ばなくてはいけなくなる。
そう気付いたのはお盆に飲みものを並べ始めてからだった。
どうしようとパニックになったヒナトは思わずカップ類から立ち上る湯気とエイワの顔を交互に眺めてしまう。
冷めちゃうといけないから、続きはまた今度にしますね──そんな言葉が脳裏にちらつき、ヒナトが逃げてどうするのだ、とかぶりを振った。
エイワは不思議そうにヒナトを見守っている。
そして、誰かが慌てふためいたようすで駆ける足音が、だんだんとこの給湯室に近づいてくるのが聞こえてきた。
そしてヒナトが話を再開する余裕もないまま数秒後、エイワの背後で扉が大きな音ともに開く。
「うおッ!?
……なんだアツキか、おまえでも廊下走ったりすんだなぁ」
ドア枠に手をかけ、肩で大きく息をしているアツキには、エイワの声に返事をする余裕もなさそうだった。
ヒナトも驚いて言葉が出ない。
いつも温厚でマイペースでのんびりしている、エイワの言うとおり廊下を走るなど一生無縁かと思われていた彼女が、息を切らすほど慌てるようなことがあるものだろうか。
尋常でないようすに、どことなく嫌な予感がしながらもヒナトはようやくアツキに声をかける。
すると彼女はそれでようやくこちらの存在に気が付いたようで、これまたすごい勢いで顔を上げたかと思うと、どこか怖がるような眼でヒナトを見た。
「ヒナ……ちゃん?」
「う、うん、あたしだけど……どうしたの? 大丈夫? なんか顔、真っ青だよ」
「……ああ……よかった……」
何がなにやら、ヒナトはアツキにそのままむぎゅうと抱きしめられた。
さっぱり意味がわからず固まるしかないヒナトだったが、アツキの身体はあったかくて柔らかくて、なんだかとても幸せな心地がした。
ていうか前から思ってはいたのだけど、やっぱり胸がでかい……。
しばらくしてアツキは呆然としているエイワや、お盆に並べられたコーヒーたちに気がついて、あわあわしながらヒナトを解放した。
「ごめんねぇ、ちょっとびっくりすることがあったからつい~。お茶冷めてるってソーくんが怒ったらうちのせいだって言っといて」
「え、うん、いやえと、大丈夫……何があったの?」
「あーっと……え、エイワくんにお茶汲み指導しなきゃだから、また今度話すね」
なんとも雑なはぐらかされかたをしたヒナトだったが、アツキは有無を言わさずヒナトにお盆を持たせ、速やかに給湯室から退出させた。
なぜだか逆らうことができなかったヒナトはぽかんとしたまま廊下に立ち尽くすはめになる。
エイワにソーヤのことを話すこともできなかった。
戻ろうかとも思ったが、しかし手許にどんどん温くなりつつあるコーヒーがあるのも事実。
それに思った以上に「真実を伝える作業」は難しい。
これは果たしてヒナトに改めてソーヤから怒られる覚悟が足りなかったのか、それとも別な要因がどこかにあるのか、なんにせよ出直したほうがよさそうだと自分でも思えるほどだった。
やっぱり終業後にソーヤを連れ出す方向で考え直そうか。
なんて考えながらとぼとぼ歩いてオフィスに戻ったヒナトは、なにか渋い顔をしたソーヤにすっかり冷めたコーヒーをお出しし、自分もぬるいココアを味わう羽目になったのだった。
・・・・・
軽い雑談を挟みつつ紅茶の淹れかたを実演していく。
アッサムの甘い香りが室内に広がり、先ほどまでの粟立った気分を少し落ち着かせてくれそうだと、アツキは目いっぱいそれを吸った。
何があったか知りたがるエイワを牽制するのも楽ではなかった。
たしかに未だかつてないくらい動揺していたと自分でも思うから、そんなアツキを彼が心配するのも無理はないし、そういう優しさが昔とちっとも変っていなくて好ましい。
さすがに傍若無人なガキ大将だったかつてのソーヤと親友をやれていただけはある。
しかしそれはそれとして、彼にアツキが見たものを説明するのは困難がすぎた。
まずエイワは前提条件を知らない。
それにアツキが秘密の調査をしたいがために不慣れな彼を給湯室に置き去りにしたことも、その調査の内容についてもアツキの口から語るわけにはいかないのだ。
そこのところをきちんとしないと、親友のサイネに叱られてしまう。
「このお茶はねえ、ちょっと味が強めなの。だからミルクと合うんだよ」
「へー。アッサムにはミルク、と」
「ちなみにニノリんが好きな比率はお茶とミルクが七対三で、お砂糖はこの茶色いのが二個ね」
「茶色? あ、ほんとだ色ついてんな。これって白いのと茶色いのでなんか違うのか?」
「白いのはふつうのお砂糖で、茶色いのは三温糖だよ~」
「……それって味に違いあんの?」
なければわざわざ二種類も常備されたりはしないだろう。
食べ比べしてみなよ、とアツキは二色の角砂糖をひとつずつ小皿に載せてエイワに渡した。
彼はちょっと面食らったような顔をして、いや茶色いやつだけでいいよと笑う。
その後もあれこれ説明しつつ、三人分のミルクティーを淹れてふたりは給湯室を出た。
お盆を持ったエイワの背中を眺めながら、アツキは先ほどの異常な光景をもう一度反芻する。
──ラボに満ちる特有の薬品臭と電子音の中、佇んでいた少女の姿。
どこからどう見てもヒナトとまったく同じそれ。
てっきり彼女もサイネに頼まれて調査に来ていたのかとアツキは思った。
表情が暗いところなんか、いかにも真剣に相談しに来たという感じでなかなか迫真の演技だ。
『あれ~、こんなとこで何してたの?』
だめ押しに何も知らない体で話しかけておこう、とアツキは微笑みつつ手を振った。
けれど彼女は答えなかった。
アツキをちらりと一瞥はしたが、そのあまりにも冷たい眼差しは、その瞳の奥に凝った激情の色はアツキの知るヒナトではない。
ヒナトの顔をした少女はアツキを無視してエレベーターに乗った。
金属の重い扉の向こうに消えた少女を呆然と見つめながら、アツキは呟いた。
『違う、今の……ヒナちゃんじゃ、ない……』
→
ヒナトが給湯室の扉を開けると、そこで棚を覗いてぶつぶつ言っている見慣れない人がいた。
そもそもここで男子の姿を見ることのほうが珍しい。
基本的に秘書しか使わないし、ヒナトが知っている他の仲間はみんな女の子だったからだ。
開閉の音に気が付いたようで、彼はすぐに──何やらぱぁっと明るい顔でふり返った。
「お疲れさまです」
「……あ、お疲れ。えっと……ごめん名前なんてったっけ?」
「ヒナトですよ」
人の顔を見るなり明らかに落ち込まなくてもいいんじゃないかとヒナトはちょっと思った。
よくわからないが、たぶんエイワは誰かを待っていたところなのだろう。
というかどうしてひとりでこんな場所に。
今日が初日なのだし、当然まだ秘書見習い中だろう。
お茶汲みだって決して簡単な作業ではない、少なくともヒナトにとっては数多の秘書業務の中でも難関の部類に入ると思っているのに、いくらなんでも初日にひとりでやらされているのは変だ。
教育係のアツキはどうした。
「あのー……エイワくん、ああいやエイワさん、なんでひとりでこんなとこにいるんですか?」
「なんかアツキに別の用済ませてくるから先に行ってろって言われてさー。
ていうかなんで敬語? いいよタメ口で」
「え、いやでもあたし歳下だし……エイワくん、はソーヤさんと同じ歳ですよね」
「うん。でもそんなん気にしなくていいって」
にへら、みたいな擬音の似合う柔らかい笑顔でエイワはそう言った。
第一印象からしてかなり人の好さそうな感じはしていたのだが、やっぱりかなり温和そうだ。
これはもしかしたら男版アツキと言ってもさほど過言ではないのでは。
あ、そうだったらニノリとも上手くやれる可能性があるのかもしれない。
そこもちょっと心配だったので、ヒナトは少しほっとした。
とはいえ。
「エイワくんがいいって言ってもソーヤさんがたぶん許してくれないかな……」
「へ?」
「あたし初対面のとき言葉遣いすっごい直されたんですよ。ちゃんとしろー、ネンコージョレツだーとか言って」
「……あー、そっか、そうかもなぁ。あいつちょっと王様みたいなとこあるし。
ってこれ俺が言ってたっての内緒にしてくれよ! ぜんぜん悪い意味じゃねーけど、勘違いで揉めたりとかしたくないからさ」
「あはは、わかります。言いませんよう」
思わず笑ってしまったけれど、ヒナトはそこでふと、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
王様みたいだというエイワの表現に同意ができる。
エイワは眠りの前の彼しか知らないし、ヒナトは逆にGHに来てから初めて会ったのに。
ソーヤの性格自体は根本的には変わっていないということだろうか。
そして、気付いてしまった。
今のこの状況ならエイワにソーヤのことを伝えられるのではないかと。
ラボの職員に任せることをサイネには推奨されたが、そのためにあれこれ頭を使ってもヒナトにはいい方法が思いつかないし、そうこうしているうちにずいぶん時間が経ってしまった。
今ならここにソーヤがくる可能性はほぼゼロに等しいし、エイワが取り乱してしまったとしてもそのうちアツキが戻ってくるだろう。
時間帯的にタニラが来る可能性もあるのが少し怖いが。
けれど、どのみち誰かがいつか言わなければならないことなのだ。
「……えっと。とりあえず先に火、使ってもいいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。それなら俺うしろで見学させてもらおっかな」
「参考にはならないですよ」
言わなきゃ、と思ってもいざ口に出そうとすると緊張してきたので、手を動かしてそれをほぐそうと試みた。
ヒナトの性質上あまり作業中にものを考えないほうがいいのだが。
やかんに水を入れて火にかけつつ、棚からコーヒーの粉と茶葉とココアの缶を取り出す。
基本的にいつも同じものを使っているだけなのだが、エイワからすれば迷いのない動きに見えたらしく、慣れてるなあみたいな感嘆の声が聞こえてきた。
茶葉を出すだけなら誰でもできるってすぐにわかるよ……とヒナトは内心ちょっと切なかった。
しかし一度タニラに習ったこともあり、最近はさすがにヒナトも少しは上手くなったのではないかと思う。
そういえばソーヤからの批評を最近聞いてない。
まずいと言われていない、と考えるとやっぱり成長できているような気もするが、欲を言えば褒め言葉を聞きたいところだ。
旨いまでは無理でも、前よりよくなったとか、そんな感じでいいから一言欲しい。
とかどうとか考えながら粉類を量り終え、湯が沸くまで手持無沙汰になってしまった。
意識を集中しておける場所がなくなったヒナトの視線は再びエイワへと戻ることになり、彼が几帳面にもヒナトのやりかたをメモしているのを見て無性に申し訳なくなりつつも、思考はソーヤの件について翻った。
今ここで言うか、言わないか、いや、やっぱり言うべきか。
「あー……の、えっと……」
もごもごと口を動かすものの、肝心の言葉が出てこない。
そもそもどう切り出すかを考えていなかった。
ヒナトのようすがおかしいのに気付いたエイワが不思議そうな顔をしてこちらを見る。
ああ、見れば見るほど善良そうな顔立ちだ。
今からこの顔が衝撃や悲しみで歪んでしまうことを思うとやるせないし、その責任をヒナトひとりで負うのは重すぎる。
──それでも。
これ以上このことでソーヤが思い悩んだり、苦しい誤魔化しを続けてしまうほうが、もっとずっと嫌なのだ。
もうあんなソーヤを見たくない。ヒナトの良く知る、いつもの──王様みたいな彼に戻ってほしい。
「ソーヤさんの、ことなんですけど……」
心臓がぎりぎりと締め付けられる。
言わなきゃいけないのに、そう思うのに、どうしても次の言葉が出てこない。
「?……ソーヤが何か」
「じ、実はその、ソーヤさんはびッ──」
やっと病気だと言いかけたところでやかんが吠えた。
甲高い音に思わずびくついて言葉が途切れ、ヒナトは少し肩を落としながら、とにかくそれを黙らせるために火を止める。
そのまま話に戻るべきだったかもしれないが、それでせっかく沸いた湯がまた温くなってしまっては手間だからと思ったヒナトはやかんを持ち上げる。
お湯を注いでコーヒーとココアを溶かし、茶葉を蒸らして、やかんを戻してスプーンの用意。
無言で作業を進めるヒナトをエイワがじっと見つめている。
止せばよかった、淹れてしまったら冷めないうちにオフィスに運ばなくてはいけなくなる。
そう気付いたのはお盆に飲みものを並べ始めてからだった。
どうしようとパニックになったヒナトは思わずカップ類から立ち上る湯気とエイワの顔を交互に眺めてしまう。
冷めちゃうといけないから、続きはまた今度にしますね──そんな言葉が脳裏にちらつき、ヒナトが逃げてどうするのだ、とかぶりを振った。
エイワは不思議そうにヒナトを見守っている。
そして、誰かが慌てふためいたようすで駆ける足音が、だんだんとこの給湯室に近づいてくるのが聞こえてきた。
そしてヒナトが話を再開する余裕もないまま数秒後、エイワの背後で扉が大きな音ともに開く。
「うおッ!?
……なんだアツキか、おまえでも廊下走ったりすんだなぁ」
ドア枠に手をかけ、肩で大きく息をしているアツキには、エイワの声に返事をする余裕もなさそうだった。
ヒナトも驚いて言葉が出ない。
いつも温厚でマイペースでのんびりしている、エイワの言うとおり廊下を走るなど一生無縁かと思われていた彼女が、息を切らすほど慌てるようなことがあるものだろうか。
尋常でないようすに、どことなく嫌な予感がしながらもヒナトはようやくアツキに声をかける。
すると彼女はそれでようやくこちらの存在に気が付いたようで、これまたすごい勢いで顔を上げたかと思うと、どこか怖がるような眼でヒナトを見た。
「ヒナ……ちゃん?」
「う、うん、あたしだけど……どうしたの? 大丈夫? なんか顔、真っ青だよ」
「……ああ……よかった……」
何がなにやら、ヒナトはアツキにそのままむぎゅうと抱きしめられた。
さっぱり意味がわからず固まるしかないヒナトだったが、アツキの身体はあったかくて柔らかくて、なんだかとても幸せな心地がした。
ていうか前から思ってはいたのだけど、やっぱり胸がでかい……。
しばらくしてアツキは呆然としているエイワや、お盆に並べられたコーヒーたちに気がついて、あわあわしながらヒナトを解放した。
「ごめんねぇ、ちょっとびっくりすることがあったからつい~。お茶冷めてるってソーくんが怒ったらうちのせいだって言っといて」
「え、うん、いやえと、大丈夫……何があったの?」
「あーっと……え、エイワくんにお茶汲み指導しなきゃだから、また今度話すね」
なんとも雑なはぐらかされかたをしたヒナトだったが、アツキは有無を言わさずヒナトにお盆を持たせ、速やかに給湯室から退出させた。
なぜだか逆らうことができなかったヒナトはぽかんとしたまま廊下に立ち尽くすはめになる。
エイワにソーヤのことを話すこともできなかった。
戻ろうかとも思ったが、しかし手許にどんどん温くなりつつあるコーヒーがあるのも事実。
それに思った以上に「真実を伝える作業」は難しい。
これは果たしてヒナトに改めてソーヤから怒られる覚悟が足りなかったのか、それとも別な要因がどこかにあるのか、なんにせよ出直したほうがよさそうだと自分でも思えるほどだった。
やっぱり終業後にソーヤを連れ出す方向で考え直そうか。
なんて考えながらとぼとぼ歩いてオフィスに戻ったヒナトは、なにか渋い顔をしたソーヤにすっかり冷めたコーヒーをお出しし、自分もぬるいココアを味わう羽目になったのだった。
・・・・・
軽い雑談を挟みつつ紅茶の淹れかたを実演していく。
アッサムの甘い香りが室内に広がり、先ほどまでの粟立った気分を少し落ち着かせてくれそうだと、アツキは目いっぱいそれを吸った。
何があったか知りたがるエイワを牽制するのも楽ではなかった。
たしかに未だかつてないくらい動揺していたと自分でも思うから、そんなアツキを彼が心配するのも無理はないし、そういう優しさが昔とちっとも変っていなくて好ましい。
さすがに傍若無人なガキ大将だったかつてのソーヤと親友をやれていただけはある。
しかしそれはそれとして、彼にアツキが見たものを説明するのは困難がすぎた。
まずエイワは前提条件を知らない。
それにアツキが秘密の調査をしたいがために不慣れな彼を給湯室に置き去りにしたことも、その調査の内容についてもアツキの口から語るわけにはいかないのだ。
そこのところをきちんとしないと、親友のサイネに叱られてしまう。
「このお茶はねえ、ちょっと味が強めなの。だからミルクと合うんだよ」
「へー。アッサムにはミルク、と」
「ちなみにニノリんが好きな比率はお茶とミルクが七対三で、お砂糖はこの茶色いのが二個ね」
「茶色? あ、ほんとだ色ついてんな。これって白いのと茶色いのでなんか違うのか?」
「白いのはふつうのお砂糖で、茶色いのは三温糖だよ~」
「……それって味に違いあんの?」
なければわざわざ二種類も常備されたりはしないだろう。
食べ比べしてみなよ、とアツキは二色の角砂糖をひとつずつ小皿に載せてエイワに渡した。
彼はちょっと面食らったような顔をして、いや茶色いやつだけでいいよと笑う。
その後もあれこれ説明しつつ、三人分のミルクティーを淹れてふたりは給湯室を出た。
お盆を持ったエイワの背中を眺めながら、アツキは先ほどの異常な光景をもう一度反芻する。
──ラボに満ちる特有の薬品臭と電子音の中、佇んでいた少女の姿。
どこからどう見てもヒナトとまったく同じそれ。
てっきり彼女もサイネに頼まれて調査に来ていたのかとアツキは思った。
表情が暗いところなんか、いかにも真剣に相談しに来たという感じでなかなか迫真の演技だ。
『あれ~、こんなとこで何してたの?』
だめ押しに何も知らない体で話しかけておこう、とアツキは微笑みつつ手を振った。
けれど彼女は答えなかった。
アツキをちらりと一瞥はしたが、そのあまりにも冷たい眼差しは、その瞳の奥に凝った激情の色はアツキの知るヒナトではない。
ヒナトの顔をした少女はアツキを無視してエレベーターに乗った。
金属の重い扉の向こうに消えた少女を呆然と見つめながら、アツキは呟いた。
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