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本編
data16:ソーヤの痛み、ヒナトの痛み
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────,16
希望どおり食堂でサイネとアツキと落ち合えたので、テーブルにトレーを置くなりさっそくヒナトは切り出した。
アマランス疾患のこと。
ソーヤの置かれている状況について、泣きじゃくるタニラから聞いたこと。
サイネたちが調べているということもタニラに聞いたので、ぜひ相談したい、ということも。
もしかしたら自分も発症しているかもしれないことは、まだ話せなかった。
できるだけ冷静に話をしたかったからだ。
話を聞いてくれている間のサイネは終始険しい表情をしていた。
もともと穏やかとは言いがたい顔つきの彼女ではあるが、やはりソア全体に関わる問題だからだろう、真剣な姿勢だった。
それがなんというのか、ヒナトは少し、嬉しいような気がした。
とりあえずだ。
ヒナトがサイネに求めたいのは、現状彼女が掴んでいるアマランス疾患に関する情報を分けてもらうことと、今後もそれを共有してもらうこと、そして何より具体的にソーヤに対してできることのアドバイスである。
ひとりで考えたり悩んでも大した結果が得られないのはわかりきっていた。
悲しいが、そう自負していた。
なんでもいいから何かしたい。
ソーヤの秘書として、彼を支えなくてはいけないと思う。
そして、それはいつか、ヒナト自身を救う方法にもなるかもしれない。
「気持ちはわかるけど、対処法はない」
返ってきた言葉は辛辣なものだったが、その声にいつもの棘はない。
「当然だけど疾患についてはラボの連中が対策チームを組んでもう何年も調べてる、で、その原因すら未だにわかってないの。
そもそも先天性疾患を持たないようゲノム操作しておいてこのざまなんだし……」
「そ、そんな」
「とりあえず食べなさい。話はそれから」
話すのに必死で少しも手をつけていない昼食を指差してサイネが言う。
温かかったうどんはいつの間にかほとんど湯気を上げていなかった。確かにそろそろ食べ始めないと伸びてしまうかもしれない。
ヒナトがうどんをすすりはじめたのを確認してから、サイネはまた話し始めた。
「医務部にリクウっていう人がいるでしょ」
「あ、うん。前にあたしとタニラさんがバチバチやってたときに仲裁してくれたよ」
「あの人は私たちより上の代のソアの生き残りの片割れで、GH時代にアマランス疾患についてのある程度まとまった仮説を立ててるんだけど。
そのリクウ説においては、アマランス疾患は過剰な自己淘汰機能であり、花園(アマランタイン)で一定数以上のソアが"発芽"すると自動的に年長のソアが発症するとされる──」
「……ごめん。じことうた、って何ですか……」
「淘汰、っていうのは不必要なものを排除すること。それをソア自身が無意識に行ってるってことらしい」
ある程度は予想していたが案の定難しい話になってしまい、ヒナトはそそくさとメモ帳を取り出した。
最近はこれが活躍する機会が多い気がする。
アツキにも言われたとおりいろんなことが起こりすぎて、自分の頭だけではどうにもならないことが多いので、まあ内容も扉のパスワードだのコーヒーの淹れかただのとしっちゃかめっちゃかなのだけれども。
えっと。
なんだ。
リクウさん、医務部の人。ソアだった。
生き残りの片割れ、という言いかたが気になったので尋ねてみたところ、彼と同期のソアがもう一人いるだけだそうだ。
そういえばみんな死んじゃったとタニラも言っていた。
それからええと、リクウさん、アマランス疾患について調べてた、と。
リクウ論が今のスタンダードらしいが、サイネの話しぶりがどうも懐疑的というか、彼女自身はいまいち納得がいっていないようすだ。
じことうたきのう。自己、淘汰、機能。
難しい字だな。
自分で自分をもう必要がないと判断してしまうこと。
そして、身体が勝手におかしくなって、具合が悪くなったり記憶がなくなったりする問題が起きて、最後には死んでしまうようだ。
……なんでそんなことをする必要があるのかヒナトにはまったく理解できない。
ちなみに発芽っていうのは、アマランス処理を施された胚が発生することを差す花園用語です。
「一定数っていうのは?」
「それがそもそもわかってない。リクウが統計を採ったところによれば閾値は二十四人ってことになってて、"植木鉢(プランター)"──長期睡眠装置の数がそれに合わせて削減されたけど、実際にはソーヤの発症は防げなかった。
まあ彼の場合、植木鉢に不具合があったみたいだから外的要因もありといったところでしょうけど」
「え、不具合って」
「なんかね~、途中で装置の管理システムがストップしちゃったらしいのね。だから中途半端なところで一回起きちゃったんだっけ? そういうログがあったってユウラくんが言ってたよね」
「そう。記憶障害そのものの直接的原因はそれでしょうね。
ガーデン時代のことだけ完全に忘れたわりに、GHに上がって以降の記憶には問題ないみたいだし。
とにかくリクウの論にはいろいろ不備が多すぎる。
当時はある程度当てはまった部分もあったみたいだけど、たとえば年長のソアから死んでいくという仮説はリクウが存命である時点で否定されたようなものだし。世代で区切るにしてもソーヤは私たちの代の年長じゃない」
「そーなんだよね。その説でいくと危ないのほんとはユウラくんとうちだもんね」
あ、そうなんだ。
……ソーヤさん、ユウラくんとアツキちゃんよりは歳下らしい、と。
これからユウラにも敬語で対応したほうがいいだろうか。
なんだかんだで一班の人とタニラとニノリくらいにしかちゃんと敬語を遣ってないヒナトであるが、ニノリ以外は全員歳上のはずだ。たぶん。
アツキには無理な気がする。
なんていうか、アツキの纏っているほわほわした空気が強すぎて、たぶん敬語で話し続けるための集中力が持たない。
「それなんだけど、アツキ、あんたは何ともないわけ?」
「幸い、このとおりとっても元気ですよぉ。あと、あえて言っちゃうと、ユウラくんのこともちゃんと心配したげてね?」
「あいつはいいの。
そんなことよりヒナト、あんたも今後この議論に入るっていうなら、幾つかそれなりの仕事をやってもらうからそのつもりでいなさいよ。私も毎回ただで情報あげるほど暇じゃないし」
「えぇ……仕事って何を……」
「適材適所。私やユウラにはできないけど、あんたやアツキなら得意なこともあるでしょ。
直接ラボの職員に聞き込みしてみるとかね。
もちろんそのまま尋ねても素直に答えはしないでしょうけど、どうでもいい雑談を長々続けてるうちに、うっかり何か零すってこともある」
「ああー……そっか、うーん、それはそれで難しそうだけど、お喋りするのは好きだしやってみる!」
思わず拳をぐっと握って宣言するヒナトを、サイネはやや苦笑の混じった表情で見ていた。
それからしばらく作戦会議が続き、結局ヒナトはうどんを完食するのにランチタイムを時間ぎりぎりまで使ってしまったので、今日は少なくとも仕事終わりまでは活動できそうにない。
しかしやることが多少明瞭になったせいか、ヒナトの気分はさっぱりしていた。
「そういえばあたし、タニラさんに宣戦布告されたよ」
気持ちが上向いてきたのでつい、トレーを返却場所に戻しながらそんなことまで報告してみる。
「何それ? っていうかなんであんた嬉しそうなの」
「今までは存在すら認められてない感じだったから……なんかこう、秘書として一段階なにかのレベルが上がったんじゃないかなって」
「うーん? ……とりあえず、よかったね?」
ヒナトは上機嫌ですらあったが、うしろでふたりは顔を見合わせていた。
なんか勘違いしてんじゃない、とサイネが呟いていたけれど、その声はヒナトには届かなかった。
もっとも聞こえていたところで意に介さなかっただろう。
階段のところでサイネたちとは別れてオフィスに向かう。
扉越しに電気が点いていないのを見とめ、意外にも自分がいちばん早く戻ってきたのかと思ったヒナトだったが、ドアノブに手をかけたところでそうではないことに気付く。
声ともつかない音がしたのだ。
誰かの、静かにゆっくり、絞り出すようにして息を吐き出す気配だった。
決して正常な呼吸音ではない。
確信すると同時に、ヒナトは迷わず扉を開け放った。
薄暗いオフィスに廊下から差し込んだ光がそろりと忍び込んで、そこにいる人のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。
デスクの前で俯いているのは、予想はついたがやはりソーヤだった。
黒髪を手のひらで握りつぶして縮こまっている。
ヒナトが電灯のスイッチを押すと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……なんだ、ヒナか」
「なんだじゃないですよまた調子悪いんですか!?」
「いや、……ちっと早めに飯切り上げてきたから仮眠してただけだよ。心配すんな」
なんて下手な嘘だろうとヒナトですら思った。
ソーヤ自身もさすがにそう思ったのか、ばつが悪そうに眼をそらす。
「医務部行きましょう。あたし付き添います」
「いい……もうだいぶ落ち着いたんだ。それにまたヤバくなりそうだったら自分で行く」
「一回気絶したことある人が言ってもぜんぜん説得力ないんですけど」
「あんときゃ自分でもよくわかってなかったんだよ、けどもう五回目だぜ。さすがに慣れたっつの」
「……五回!?」
ちょっと待て。
ヒナトは決して回転の速くない頭を無理くり回して思い出してみたが、いちばん最初がココアを飲んでから倒れたあのときで、次は頭痛がすると言って医務室に送ったのが二度目。
それ以外でソーヤが体調を崩した記憶はない。
あと三回もいつどこで倒れたりしていたのだろう。
しかもヒナトに一切知らせずにとは!
険しい表情になったヒナトだが、逆にソーヤの顔色は良くなってきたようだった。
もしかするとこうやって、短時間だけ具合が悪くなるようなことが三回あって、そのときヒナトがその場に居合わせなかっただけなのかもしれない。
仕事時間以外に一緒に過ごしたことはないから、その間に。
それってつまり逆に考えて、ヒナトが知らないときに倒れてしまう可能性があるということだ。
そのとき周りに誰かいればいいが、例えば自室にいるときだったら?
一応プライベートエリアにもセンサーの類は設置されているというが、それがどれほどの感度なのか、異常に対してどれくらい早く対応してもらえるかはわからない。
ヒナトは青ざめ、やはり引きずってでも医務部に連れていくべきではないかと思った。
治療法がなくても、大した処置はしてもらえなくても、とりあえず報告は上げるべきだ。
「ソーヤさ──」
「あれ、珍しくふたりとも早いね。ただいま」
上げかけた声を遮るようにして背後のドアが開き、ワタリが入ってくる。
珍しく、というのはたいていいつもヒナトがいちばん遅いからだ。
「おまえが時間ギリなのも珍しいな」
「ああ、ちょっと職員に掴まっちゃってさー。それよりなんかあったの? ヒナトちゃんが怖い顔してるけど」
「大したこっちゃねーよ。ヒナも突っ立ってないで席につけ、時間厳守っていつも言ってんだろ」
でも、と言いかけたヒナトの顔を、ほっぺたを掴むようにしてソーヤの手が包んだ。
くちびるが突き出してたぶん今ヒナトはかなりブサイクになっているが、それどころではない。
思いのほか大きな手に顎をしっかり押さえられて声も出せない状態にされた挙句、ソーヤは口パクでこう言ってきた。
──誰にも言うなよ。
ワタリにも。
タニラにも。
他のソアや、ラボにいる人たちにも。
ソーヤは自分の身体の異常を大げさにしたくないというのだ。
なぜだろう。ひとりで抱えるのは辛くはないのだろうか。
不安を感じないのだろうか。
ああ、でも……。
やがて手は離されたけれど、ヒナトは黙って席に腰を下ろした。
思えばヒナトもそうだった。
サイネたちにソーヤのことを相談したとき、自分も発症しているかもしれないということは伏せた。
──怖いからだ。口に出したらもっとひどくなるような気がして。
ソーヤもそうなのかもしれない。
あるいは彼のことだから、
(やっぱりタニラさんを泣かせたくないのかな)
そう思うと胸の奥がつきりと痛んだ。
→
希望どおり食堂でサイネとアツキと落ち合えたので、テーブルにトレーを置くなりさっそくヒナトは切り出した。
アマランス疾患のこと。
ソーヤの置かれている状況について、泣きじゃくるタニラから聞いたこと。
サイネたちが調べているということもタニラに聞いたので、ぜひ相談したい、ということも。
もしかしたら自分も発症しているかもしれないことは、まだ話せなかった。
できるだけ冷静に話をしたかったからだ。
話を聞いてくれている間のサイネは終始険しい表情をしていた。
もともと穏やかとは言いがたい顔つきの彼女ではあるが、やはりソア全体に関わる問題だからだろう、真剣な姿勢だった。
それがなんというのか、ヒナトは少し、嬉しいような気がした。
とりあえずだ。
ヒナトがサイネに求めたいのは、現状彼女が掴んでいるアマランス疾患に関する情報を分けてもらうことと、今後もそれを共有してもらうこと、そして何より具体的にソーヤに対してできることのアドバイスである。
ひとりで考えたり悩んでも大した結果が得られないのはわかりきっていた。
悲しいが、そう自負していた。
なんでもいいから何かしたい。
ソーヤの秘書として、彼を支えなくてはいけないと思う。
そして、それはいつか、ヒナト自身を救う方法にもなるかもしれない。
「気持ちはわかるけど、対処法はない」
返ってきた言葉は辛辣なものだったが、その声にいつもの棘はない。
「当然だけど疾患についてはラボの連中が対策チームを組んでもう何年も調べてる、で、その原因すら未だにわかってないの。
そもそも先天性疾患を持たないようゲノム操作しておいてこのざまなんだし……」
「そ、そんな」
「とりあえず食べなさい。話はそれから」
話すのに必死で少しも手をつけていない昼食を指差してサイネが言う。
温かかったうどんはいつの間にかほとんど湯気を上げていなかった。確かにそろそろ食べ始めないと伸びてしまうかもしれない。
ヒナトがうどんをすすりはじめたのを確認してから、サイネはまた話し始めた。
「医務部にリクウっていう人がいるでしょ」
「あ、うん。前にあたしとタニラさんがバチバチやってたときに仲裁してくれたよ」
「あの人は私たちより上の代のソアの生き残りの片割れで、GH時代にアマランス疾患についてのある程度まとまった仮説を立ててるんだけど。
そのリクウ説においては、アマランス疾患は過剰な自己淘汰機能であり、花園(アマランタイン)で一定数以上のソアが"発芽"すると自動的に年長のソアが発症するとされる──」
「……ごめん。じことうた、って何ですか……」
「淘汰、っていうのは不必要なものを排除すること。それをソア自身が無意識に行ってるってことらしい」
ある程度は予想していたが案の定難しい話になってしまい、ヒナトはそそくさとメモ帳を取り出した。
最近はこれが活躍する機会が多い気がする。
アツキにも言われたとおりいろんなことが起こりすぎて、自分の頭だけではどうにもならないことが多いので、まあ内容も扉のパスワードだのコーヒーの淹れかただのとしっちゃかめっちゃかなのだけれども。
えっと。
なんだ。
リクウさん、医務部の人。ソアだった。
生き残りの片割れ、という言いかたが気になったので尋ねてみたところ、彼と同期のソアがもう一人いるだけだそうだ。
そういえばみんな死んじゃったとタニラも言っていた。
それからええと、リクウさん、アマランス疾患について調べてた、と。
リクウ論が今のスタンダードらしいが、サイネの話しぶりがどうも懐疑的というか、彼女自身はいまいち納得がいっていないようすだ。
じことうたきのう。自己、淘汰、機能。
難しい字だな。
自分で自分をもう必要がないと判断してしまうこと。
そして、身体が勝手におかしくなって、具合が悪くなったり記憶がなくなったりする問題が起きて、最後には死んでしまうようだ。
……なんでそんなことをする必要があるのかヒナトにはまったく理解できない。
ちなみに発芽っていうのは、アマランス処理を施された胚が発生することを差す花園用語です。
「一定数っていうのは?」
「それがそもそもわかってない。リクウが統計を採ったところによれば閾値は二十四人ってことになってて、"植木鉢(プランター)"──長期睡眠装置の数がそれに合わせて削減されたけど、実際にはソーヤの発症は防げなかった。
まあ彼の場合、植木鉢に不具合があったみたいだから外的要因もありといったところでしょうけど」
「え、不具合って」
「なんかね~、途中で装置の管理システムがストップしちゃったらしいのね。だから中途半端なところで一回起きちゃったんだっけ? そういうログがあったってユウラくんが言ってたよね」
「そう。記憶障害そのものの直接的原因はそれでしょうね。
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「そーなんだよね。その説でいくと危ないのほんとはユウラくんとうちだもんね」
あ、そうなんだ。
……ソーヤさん、ユウラくんとアツキちゃんよりは歳下らしい、と。
これからユウラにも敬語で対応したほうがいいだろうか。
なんだかんだで一班の人とタニラとニノリくらいにしかちゃんと敬語を遣ってないヒナトであるが、ニノリ以外は全員歳上のはずだ。たぶん。
アツキには無理な気がする。
なんていうか、アツキの纏っているほわほわした空気が強すぎて、たぶん敬語で話し続けるための集中力が持たない。
「それなんだけど、アツキ、あんたは何ともないわけ?」
「幸い、このとおりとっても元気ですよぉ。あと、あえて言っちゃうと、ユウラくんのこともちゃんと心配したげてね?」
「あいつはいいの。
そんなことよりヒナト、あんたも今後この議論に入るっていうなら、幾つかそれなりの仕事をやってもらうからそのつもりでいなさいよ。私も毎回ただで情報あげるほど暇じゃないし」
「えぇ……仕事って何を……」
「適材適所。私やユウラにはできないけど、あんたやアツキなら得意なこともあるでしょ。
直接ラボの職員に聞き込みしてみるとかね。
もちろんそのまま尋ねても素直に答えはしないでしょうけど、どうでもいい雑談を長々続けてるうちに、うっかり何か零すってこともある」
「ああー……そっか、うーん、それはそれで難しそうだけど、お喋りするのは好きだしやってみる!」
思わず拳をぐっと握って宣言するヒナトを、サイネはやや苦笑の混じった表情で見ていた。
それからしばらく作戦会議が続き、結局ヒナトはうどんを完食するのにランチタイムを時間ぎりぎりまで使ってしまったので、今日は少なくとも仕事終わりまでは活動できそうにない。
しかしやることが多少明瞭になったせいか、ヒナトの気分はさっぱりしていた。
「そういえばあたし、タニラさんに宣戦布告されたよ」
気持ちが上向いてきたのでつい、トレーを返却場所に戻しながらそんなことまで報告してみる。
「何それ? っていうかなんであんた嬉しそうなの」
「今までは存在すら認められてない感じだったから……なんかこう、秘書として一段階なにかのレベルが上がったんじゃないかなって」
「うーん? ……とりあえず、よかったね?」
ヒナトは上機嫌ですらあったが、うしろでふたりは顔を見合わせていた。
なんか勘違いしてんじゃない、とサイネが呟いていたけれど、その声はヒナトには届かなかった。
もっとも聞こえていたところで意に介さなかっただろう。
階段のところでサイネたちとは別れてオフィスに向かう。
扉越しに電気が点いていないのを見とめ、意外にも自分がいちばん早く戻ってきたのかと思ったヒナトだったが、ドアノブに手をかけたところでそうではないことに気付く。
声ともつかない音がしたのだ。
誰かの、静かにゆっくり、絞り出すようにして息を吐き出す気配だった。
決して正常な呼吸音ではない。
確信すると同時に、ヒナトは迷わず扉を開け放った。
薄暗いオフィスに廊下から差し込んだ光がそろりと忍び込んで、そこにいる人のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。
デスクの前で俯いているのは、予想はついたがやはりソーヤだった。
黒髪を手のひらで握りつぶして縮こまっている。
ヒナトが電灯のスイッチを押すと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……なんだ、ヒナか」
「なんだじゃないですよまた調子悪いんですか!?」
「いや、……ちっと早めに飯切り上げてきたから仮眠してただけだよ。心配すんな」
なんて下手な嘘だろうとヒナトですら思った。
ソーヤ自身もさすがにそう思ったのか、ばつが悪そうに眼をそらす。
「医務部行きましょう。あたし付き添います」
「いい……もうだいぶ落ち着いたんだ。それにまたヤバくなりそうだったら自分で行く」
「一回気絶したことある人が言ってもぜんぜん説得力ないんですけど」
「あんときゃ自分でもよくわかってなかったんだよ、けどもう五回目だぜ。さすがに慣れたっつの」
「……五回!?」
ちょっと待て。
ヒナトは決して回転の速くない頭を無理くり回して思い出してみたが、いちばん最初がココアを飲んでから倒れたあのときで、次は頭痛がすると言って医務室に送ったのが二度目。
それ以外でソーヤが体調を崩した記憶はない。
あと三回もいつどこで倒れたりしていたのだろう。
しかもヒナトに一切知らせずにとは!
険しい表情になったヒナトだが、逆にソーヤの顔色は良くなってきたようだった。
もしかするとこうやって、短時間だけ具合が悪くなるようなことが三回あって、そのときヒナトがその場に居合わせなかっただけなのかもしれない。
仕事時間以外に一緒に過ごしたことはないから、その間に。
それってつまり逆に考えて、ヒナトが知らないときに倒れてしまう可能性があるということだ。
そのとき周りに誰かいればいいが、例えば自室にいるときだったら?
一応プライベートエリアにもセンサーの類は設置されているというが、それがどれほどの感度なのか、異常に対してどれくらい早く対応してもらえるかはわからない。
ヒナトは青ざめ、やはり引きずってでも医務部に連れていくべきではないかと思った。
治療法がなくても、大した処置はしてもらえなくても、とりあえず報告は上げるべきだ。
「ソーヤさ──」
「あれ、珍しくふたりとも早いね。ただいま」
上げかけた声を遮るようにして背後のドアが開き、ワタリが入ってくる。
珍しく、というのはたいていいつもヒナトがいちばん遅いからだ。
「おまえが時間ギリなのも珍しいな」
「ああ、ちょっと職員に掴まっちゃってさー。それよりなんかあったの? ヒナトちゃんが怖い顔してるけど」
「大したこっちゃねーよ。ヒナも突っ立ってないで席につけ、時間厳守っていつも言ってんだろ」
でも、と言いかけたヒナトの顔を、ほっぺたを掴むようにしてソーヤの手が包んだ。
くちびるが突き出してたぶん今ヒナトはかなりブサイクになっているが、それどころではない。
思いのほか大きな手に顎をしっかり押さえられて声も出せない状態にされた挙句、ソーヤは口パクでこう言ってきた。
──誰にも言うなよ。
ワタリにも。
タニラにも。
他のソアや、ラボにいる人たちにも。
ソーヤは自分の身体の異常を大げさにしたくないというのだ。
なぜだろう。ひとりで抱えるのは辛くはないのだろうか。
不安を感じないのだろうか。
ああ、でも……。
やがて手は離されたけれど、ヒナトは黙って席に腰を下ろした。
思えばヒナトもそうだった。
サイネたちにソーヤのことを相談したとき、自分も発症しているかもしれないということは伏せた。
──怖いからだ。口に出したらもっとひどくなるような気がして。
ソーヤもそうなのかもしれない。
あるいは彼のことだから、
(やっぱりタニラさんを泣かせたくないのかな)
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