眠れるオペラ

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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本編

data13:塩と砂糖 ◆

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 ────,13


 ヒナトは久しぶりに充実感というやつを覚えていた。

 いつもより仕事の内容も量もずいぶん増えて、忙しいといえば忙しいけれども満足だ。
 班のために役に立てているという感触がある。

 唯一不満があるとすれば、それは今ここにソーヤがいないということだけ。
 何かと声をかけてくれる御山の大将がいないことには、やたら大儀そうに飲みもののおかわりを注文されることも、希少な褒め言葉がもらえないかと期待することもできないのだ。

 案外ワタリはこういうとき物静かなのだと改めて思う。
 もっとも彼の場合は作業量が普段の二倍近いわけだから、無駄話をしている余裕もないのかもしれないが。

 だからといって秘書がいるのに、飲まず食わずで没頭しなくてもいいと思う。

 ヒナトがそれに気がついたときにはすでに業務再開から一時間以上が経過していた。
 配慮の足りなさに若干の申し訳なさを覚えつつ、遅ればせながらお茶要りますかと尋ねると、うん、と返事だけ返ってきた。

 ほんとうに大変そうだ。
 画面を見つめるのに忙しくて、ひとつしかない眼をヒナトに向けてはいられないらしい。

 しかし根をつめすぎて今度はワタリに倒れられると非常に困るわけで、ヒナトは敢えての提案をする。

「ワタリさん、お茶入れてきたら休憩にしませんか」
「んー……まあいいか、うん、僕はいつもの紅茶ね。砂糖もつけてくれる?」
「了解です」

 基本は無糖ストレートの彼も、今日は糖分が必要らしかった。



 *‥+…。゜о。‥


 さて数分後、見覚えのある薄色の髪が扉の陰に消えていったのを見て、まずいタイミングだったことを悟ったヒナトがいた。

 場所は給湯室前。
 ここを使うロングヘアの美少女なんてひとりしか知らない。

 普段でさえ最高に気まずい相手なのに、今日はすでに医務部の前で睨まれたばかりだ。
 ワタリが相手をしてくれたからヒナトはほとんど応対せずに済んだけれど、だからといってタニラの気持ちが治まっている可能性は万に一つもないし、むしろ一対一で今度こそ戦争が勃発しかねない。

 とはいえ早く戻ってワタリを休ませたかったヒナトには、ここでタニラが出てくるまで待っているような暇はなかった。

 諦めて深呼吸ののち扉を開く。
 コーヒー豆の香ばしい匂いがして、一瞬ほっと息をつく。

 けれども、そこですぐ物音に振りかえったタニラの顔を目の当たりにした瞬間、ヒナトの全身から安息が消え去った。

 簡単に言うと、彼女は泣いていたのだ。
 でも前に見たきれいなすすり泣きのレベルではない。
 顔をぜんぶ真っ赤に腫れあがらせて、いつもの楚々とした美しさからはかけ離れた容貌になっていた。

 もしタニラがいると知らないで給湯室に入ったのなら、一目では誰なのかわからなかったかもしれない。

 タニラはヒナトを見とめるとすぐさま睨んできたけれど、そんなのはどうでもよかった。
 それよりも内心憧れだった美少女の凄まじい崩れぶりのほうがヒナトにとっては辛いものがあった。

 だからだろう、最初に出てきた言葉は、大丈夫ですか、だった。

 そして、まあ期待もしていなかったけれど、タニラの返事はない。
 大丈夫じゃあないのは一目瞭然だ。

「どうしたんですか? ……まさか、あのあとソーヤさんに何か……」

 言いながらヒナトも気分が悪くなってきて語尾が淀む。
 もちろんソーヤの容態に変化があればオフィスに連絡が入るので、ヒナトが知らないはずはない。

 けれど、ソーヤの名前を出した瞬間タニラは大きくびくついて、それからぼろぼろと泣き始めた。

 もしかしたら彼女としてはヒナトを罵りたかったかもしれないけれど、実際に響いてきたのは押し殺した苦しげな泣き声だけだった。
 なんと言っているのかはわからない。
 ただ、何度か「ソーヤくん」と搾り出すように彼の名前を呼んでいるのだけ、聞き取れたような気がした。

 ──ソーヤくん。
 ……どうして、どうしてソーヤくんが……。

 そう嘆いていた気がする。少なくともヒナトにはそう聞こえた。

 ヒナトは悩んで、とりあえず省みられる気配のないやかんの火を消したが、タニラはそれに構うことなく顔を覆う。
 そしてそのまま膝からずるずると崩れ落ちそうになったので、咄嗟にヒナトは彼女の腕を掴んだ。
 そのとき手にしたのは二の腕なのに、肘かと思うくらい細かったのが妙に印象に残った。

 壁際にかけてあった折りたたみ椅子を引っ張りだしてそこにタニラを座らせる。
 これといって抵抗はない。

 こんなに無気力なタニラを見たのは初めてで、ヒナトの中で胸がどくどくと早鐘を打っていた。

 日頃の仕打ちなどすべて頭から吹き飛んで、とにかく今はひとりにしてはいけない、とだけ考えていた。
 給湯室には包丁やはさみのような刃物類が揃っていたし、タニラから目を離したらどうなるかわからない。

 そう感じるほど空気が痛かった。
 冷たいやすりでじりじりと肌の表面を削られるような、そんな気味の悪い感覚がした。

 何分、何十分くらいそうしていただろう。

 しばらくして落ち着いてきたタニラは、途中からヒナトが自分の背中を撫でているのにようやく気がついたようだったが、意外にも退けようとはしなかった。
 多少受け入れる気になったのか、ただそこまで頭が回らなかったのかはわからない。

 ともかく彼女が最初にしたのは、一旦ヒナトによって止められていたやかんの火を再び点けることだった。

「あ……あの」

 ヒナトはおずおずと話しかけてみる。
 もう離しても大丈夫だという確信が持てるまで、恐ろしくてここから動くこともできそうにないのだ。

 水気を帯びたタニラの深い色をした瞳がこちらを向いて、深海を覗くようだとぼんやり思う。

「何?」
「結局その、ソ……うちの班長に何があったのか、話してもらえませんかね……?」
「……言ってもわからないでしょ、あなた」

 タニラはハンカチを取り出して目許を拭う仕草をしたけれど、ハンカチは最初からすでにかなり濡れていたから、あまり意味をなしていなかった。
 仕方がないのでヒナトも自分のを出してどうぞと差し出してみる。

 なんとなくこの流れなら拒否されないかも、と思ってはいたが、実際少し驚いただけで素直に受け取ってもらえたので、ヒナトもちょっと感動してしまった。

「それでもいいから聞きたいです。ソーヤさんに関係あることなら、あたし無関係じゃないですもん」

 いつもと同じような科白を言いながらもそこに対抗心はあまり感じない。
 今と同じ状況で、もしもタニラの涙がソーヤと無関係だったとしても、ヒナトはきっと話を聞こうとしていたと思う。

 立場とか役職はたまたま理由に使えただけで、この瞬間の本心は違うところにある。
 なんだか、そんな気がした。

 そしてタニラはというと、しばらくヒナトの顔を見つめていたけれど、そこにいつものような険しさはなかった。
 こんな顔を見るのは初めてかもしれない。
 般若ではないタニラは、やっぱりきれいなつくりの顔をしている。

 ずるい──返ってきたのもやはり聞き覚えのある言葉だったけれど、嫌な気はしなかった。

「あなたなんて、何にも知らないのに」
「うん。でも知らないからやっぱり知りたいです」
「……ほんとずるい。そういうところが嫌い。……そういう私も嫌な子だけど。
 わかってるわよ、あなたがソーヤくんから指名されて正当性があるのも理解してるし、どうせ私は負け組で僻みっぽいわよ。
 あなたに当たっても仕方がないなんてことは重々承知よ、それでも嫌なものは嫌なの」

 なんだか急に自虐混じりの熱弁が始まったのでヒナトは迂闊に返事をするわけにいかず、黙って行く末を見守る。
 前にサイネとユウラについて話を聞いたときと少し雰囲気が似ている。

 それでもってヒナトはワタリに言われたことを思い出していた。
 タニラが本当に文句を言いたい相手は別にいるけれど、代わりにヒナトにぶつけているのだ、云々という話だ。

 うっすらとわかった気がする。本当にタニラが泣きつきたい相手が誰なのか。
 たぶんそれはお偉いさんでもラボの人でもない。

「昔はソーヤくんと私ともうひとり、三人で一組って決まってた。
 グリーンハウスに上がってもその三人で班を組むんだってよく話したの。もちろんソーヤくんが班長で、秘書が私、エイワくんが副官で」
「エイワくん?」
「……ソーヤくんの親友よ。まだ"眠ってる"みたい。
 休眠期間には個人差があるっていっても、長すぎだけど。ふつう二年から二年半なのに、彼もう四年近くになるから」
「それは……ちょっと心配ですね?」
「そうね、少しね。でももっと心配なのはソーヤくんのほう。

 ……私が"起きた"とき、たぶんソーヤくんも"起きて"たんだと思う。
 でも会わせてもらえなかった。なんか変だなって思ってた……」

 タニラはまた眼を潤ませて、そこで一度深く息を吐いた。

 すべてのソアが体験する『眠り』が、彼女にとっては楽しい思い出ではないのだ。
 他のソアがお互いの『起きた日』を祝いあっているのに、中にはヒナトのように自分の起きた日を知らないものがいるように、『眠り』にはあらゆる意味で個人差がある。

 一般的には短すぎても長すぎても良くはないらしい。
 ふつうに考えて、休眠が長すぎるというエイワくんのことは心配すべきだ。

 でも、それ以上にタニラとヒナトの目の前に、ソーヤという問題がそびえ立っていた。

「……やっと会えたとき、ソーヤくんはぜんぶ忘れてた。私のことも、他のみんなのことも、三人の約束も、ぜんぶ……覚えてくれてなかった……」


 暗い声音で少女は語る。白い扉を開けた日のことを。


 休眠用のカプセル型の寝台を抜け出し、ラボの職員にくまなく身体を調べられ、自分でも鏡を見て少し大人っぽくなったと感じたあの日。
 早くソーヤに会いたかったのに、職員はみんな首を振って同じことを言った。

 まだ検査が終わっていないから、もう少しだけ待ってね、と。

 鈍った身体のためにリハビリをしながら、その「もう少し」がいつ終わるのかと心待ちにしていた。
 不安はあったけれど楽しみのほうが勝った。
 休眠期間はおよそ二年、もちろんその間は一度もソーヤには会っていないのだ。

 そしてやっと許可が下りて、彼がいるという部屋に急いだタニラを出迎えたのは、もはや面影を見いだせないほどに覇気のない虚ろな表情。
 呆然とベッド上から動かない彼の傍には──本来ならタニラがいるはずだったその場所には、見知らぬ少女がいた。



 今でも忘れない第一声。
 誰何したタニラに向かい、少女は場違いなほど明るい声で答えた。

 ──あたしは、ソーヤってひとの『ヒショ』です。

 思わぬ回答にタニラが二の句を告げずにいると、ようやくソーヤが口を開いた。
 そして彼は、はじめまして、と言ったのだ。
 間違いなくその言葉と彼の視線は、タニラに向けられたものだった。

 タニラは彼を知っているのに!

「アマランス疾患、っていうそうよ。
 ソアが完璧だなんていうのは嘘で、ほんとはいろいろ詰め込みすぎて、あちこち綻びが出てるの。
 公表はされてないけどサイネちゃんたちが調べてくれて」
「じゃあ病気にならないっていうのも……」
「……外界の雑菌ですら命に関わるような滅菌環境にいるんですもの、ふつうの病気にはなりにくいでしょうね。

 ソーヤくんのはそういうのとは違うの。遺伝子とか細胞とかそういうレベルで狂ってるの。ありとあらゆる全身の神経系に異常が起きてる。
 ……記憶がなくなったり突然倒れたりするのも原因はぜんぶ同じ、アマランス疾患のせい……。

 わかってるのはね、ソアなら誰でも発症する可能性があることと、私たちの技術じゃどうすることもできないってことと、……ソーヤくんは何も悪くないってことだけ……」

 だからタニラは、代わりにヒナトを責めるしかなかったのだ。
 胸の内側に燻っていた燃えるような痛みを散らす方法がそれ以外になかった。

 他の誰に泣いても喚いても状況は変わらないし、それはヒナトに対しても同じようなものだが、それでも役職を横から奪ったという一点において彼女の非を見出すことができたから、胸を痛めず罵ることができたのだ。

 わかっている。
 そんな建設的でも健全でもない雑言は、ただの八つ当たりでしかない。

 事情を知らない新入りをいびったところでどうにもならない。
 理解はしていても顔を見合わせると冷たい怒りが湧き上がった。
 せめてヒナトが立場を変わってくれたら、もしも毎日長い時間ソーヤの傍にいられたら、少しでも彼が昔のことを思い出すかもしれないと思ってしまった。

 だが現実はどうだ。ソーヤの症状はここ最近で急激に悪化している。
 ラボの職員ははっきりとは言わないが、彼らの苦々しい顔を見れば不味い状況なのは明らかだ。

 ……考えたくもないけれど最悪の結末もありうる……。

 張り詰めていた糸が切れた。

 そうしてタニラが枯れ果てそうなほど泣いている間、大嫌いだった新入りはずっと隣にいてくれた。
 あれだけいじめて冷たくしたのに、いくら彼の秘書だといっても、その友人にまで気を遣う必要はないのに。

 まあ、わかっていたのだ。
 そんなに悪い子でもなくて、ただ要領とかタイミングが最悪なだけで、素直でまじめで頑張り屋で、たぶん負けず嫌いなところは自分とも似ている。

 それにきっとタニラとヒナトの共通点はそれだけではない。
 それはこれまでさんざん意地悪をしてきたタニラだからわかることだ。
 ある意味タニラは、他の誰よりも熱心に彼女に言葉を投げかけ、監視し、言動を観察してきたようなものだから。

 ──この子はどうやら、


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