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本編
data12:観察者かく語りき
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────,12
そっくりさん遭遇事件から、いつの間にか一週間経っていた。
あれだけ警戒したにも関わらず、これといってヒナトの身辺を脅かすようなできごともなく、正直ヒナトは拍子抜けしている。
もちろん平和に越したことはないが。
困ったことがあるとすればソーヤとワタリの視線が痛くなってきたことくらいである。
一応ふたりにもそっくりさんの話はしており、当初はそれなりに驚き心配してくれていたのだ。
それがあれきり何の音沙汰もないものだから、やっぱりヒナトがどこか大袈裟に話していたんじゃないかとか、寝ぼけて夢でも見てたんじゃないか、という疑惑があるのだろう。
ヒナト自身だんだんそんな気がしてきたから怖い。
いや、もう、夢でしたでいいんじゃなかろうか。
それともしばらくなりを潜めることでこちらの油断を招く作戦だろうか。
だんだん考えるのが面倒くさくなってきて、ヒナトは視線をコンピュータから離した。
仕事にも一旦きりをつけて、そろそろ飲みもののおかわりでも淹れてこようかなと、隣のソーヤのデスクを見る。
どうもお茶汲みを集中が切れたときの言い訳にしている感のあるヒナトである。
基本的にデスクに齧りつきっぱなしの班長や副官に比べ、秘書は好きなタイミングで席を立つ理由が作れるのは少しありがたいかもしれない。
しかし、そもそもどうしてオフィスのソアを三種類に分けたのだろうと、ヒナトは今さら不思議に思った。
なんとなく、会議に出るのは班長で、雑用を頼まれるのは秘書で、結果的に実際の作業量がいちばん多くなるのは副官だ、という違いはある。
でも基本的にソアはみんな優秀だ。
ヒナトのような破格のドジさは超常現象の部類に入る。
わざわざ分ける必要はあるのだろうか。
役割を持たせること自体が何らかのシミュレーションなのかもしれないが、それが何のための実験なのかはヒナトにはよくわからない。
しかし、そんなことを呑気に考えている余裕は、次の瞬間なくなった。
ソーヤのようすが変だ。額を押さえてじっとしている。
「……あ、あの、ソーヤさん?」
恐る恐る声をかけてみるが、どうしても以前倒れたときのことが頭をよぎって、ヒナトの声を震わせてしまう。
そうだ、あのときはっきり原因がわからずちゃんとした治療ができていないから、だから、また何か起きる可能性は充分にある。
ヒナトの声にワタリも事態に気がついたようで、作業の手を止めソーヤのほうに向き直り、大丈夫かと尋ねる。
ソーヤはそれにはすぐに答えなかった。
痛みでも堪えるようにゆっくりと息を吐いてから、平気だと呟くように返すけれど、それさえ聞き取るのがやっとというほどの小さな声だった。
何が平気だというのか、ヒナトは毅然として立ち上がる。
「ちゃんと医務に見てもらってください。あ、あたし、付き添います」
「……いいっての、ちっと頭痛ぇだけだよ」
「だめだよ。また前みたいに倒れでもしたら、班全体で連帯責任なんだからね。
それとも……歩くのも億劫なくらい痛むのかな?」
ワタリの言葉にはソーヤは言い返さない。
図星なんだなと、ヒナトにもわかった。
たぶん立ち上がるのもしんどいくらいなんだ。
なおさら医務に行かなくては。
また原因がわからなくても、せめて痛み止めくらいは処方してもらえるだろう。
前になんの前触れもなく昏倒した前例がある以上、頭痛とはいえ恰好つけたり強がっている場合ではない。
「ヒナトちゃん、先に連絡入れてきてくれる? 僕らはあとからゆっくり行くから。
できればエレベーター前で待っててもらえるように頼んどいて」
「……わかりました! 行ってきます!」
指示を得たヒナトがぱたぱたと飛び出していくのを見送りながら、もういっそ内線かナースコールの設置も頼もうかなあとワタリがぼやく。
嫌味のつもりなのにソーヤからの返答はない。
そんなに辛いのかと、ワタリはそっと班長を見下ろした。
……ああ、ヒナトがいなくなったらすぐこれだ。デスクに突っ伏して小さく呻っている。
このあいだのプリン騒動でもそうだが、ヒナトはどうも他人の痛みにものすごく敏感であるらしい。
彼女の怯えかたはちょっとヒステリックにすぎる部分もあった。
ソーヤの殴られた頬をまともに見ることもできないほどに。
だから大して痛くないようなふりをして、心配をかけまいとしている、ソーヤの気持ちはわからないでもない。
多少なりと生来の恰好つけも手伝っているのだろう。
だが……それで対処が遅れて、ほんとうに不味い事態になったなら、そのときいちばん傷つくのもまたヒナトなのに。
ワタリは溜息をついて、不器用な男の肩を叩く。
ほんとうに歩くのが無理なら特別におんぶしてあげるけど、と言い添えると、ソーヤは勘弁してくれよと小さく答えた。
「てめーに負われて医務行きとか、いい笑いもんだぜ……」
「笑いごとで済むうちはいいんじゃないの。ほら、肩貸すから、がんばれ」
「……ヒナを頼む」
「わかってる」
また今日もヒナトは動揺してしまうかもしれない。
前回は見かねて医務部に行かせてやったが、それでソーヤが無理をして症状を悪化させかねないのなら、引き離したほうがいいだろうか。
業務についてはもうぜんぶワタリが請け負うつもりで、場合によっては他班の力も借りればいいし。
ま、仕事についてヒナトには良い意味で元から期待してはいないから、今さらだけれど。
それよりソーヤの状態が想像以上に芳しくないことのほうが問題だ。
もちろん、前から危惧してはいた。
彼が倒れるよりもずっとずっと前から。
なぜならワタリは知っている。
──永い長い眠りよりも前からずっと、──のことを、知っている。
ワタリの指示どおりエレベーターの前でソーヤは寝台に乗せられ、そのまま医務部へと運ばれていった。
ともかく鎮痛剤を打ってもらって、あとは徹底的に精密検査でも何でもして原因を突き止めてくれるよう頼み込むと、ワタリとヒナトは一班のオフィスに戻る。
もちろんヒナトはソーヤに付き添いたかった。
検査といっても何をするのかよくわからないが、大なり小なり心細いものではないだろうか?
もしもヒナトがソーヤの立場なら、誰か知っている人間が傍にいてくれたほうが、きっと遥かに安心して検査に臨めると思う。
しかしソーヤ自身にも戻るよう言われ、ワタリにも促されたとあっては拒むわけにはいかない。
こういうときヒナトは秘書という自分の弱い立場を恨む。
そして戻る道中、案の定というかタニラに出くわした。
一体どこで情報を手に入れてきたのか、前と同じく半泣きになっても決して不細工にはならない美少女は、ヒナトを見るなりぎっと睨んでくる。
これにはもはや慣れているヒナトより隣のワタリのほうがぎょっとしているのが、なんとなく顔を見なくても伝わってきた。
「……あなた、ほんとに、ソーヤくんの秘書だって自覚、あるの?」
そして予想され尽した常套句に、わかっていても少しかなりむっとしてしまうヒナトだったが、言い返す前に口を開いた人物がいた。
もちろんこの場に他にいないので、それはワタリだ。
「これはヒナトちゃんに責任を問う問題じゃあないんだよ。……きみも薄々はわかってるでしょ」
「……っ」
意外にもタニラは言い返さない。
いや、たぶん彼女が口撃できるのは基本的にヒナトだけなのだろう。
それにワタリは男の子で、しかも他の班の副官だから、GHにおいてもタニラより立場が上だ。
結局タニラが何か言うことはそれ以上なくて、彼女は医務部のほうへ歩き去っていった。
たぶん泣いていたと思う。
すすり泣く彼女の声が、遠くから聞こえるような気がした。
真っ白な廊下にふたりだけが残されて、なんだかとても広く感じる。
なんというか彼女が撃退されるところなど初めて見たヒナトは、思わずワタリのほうを振り返ってしまうが、そのとき彼は予想外の表情を浮かべていた。
しかも何と例えていいのかわからない、複雑な顔を。
悲しいような、寂しいような、それなのに笑っているような、呆れているような……。
もしかしたら口許しかないのでわからないのかもしれない。
生憎ヒナトがいたのは彼の右隣だったから、ちょうど眼帯で片眼さえ隠れてしまっていた。
「わ、ワタリさん、あの」
「いやあ、タニラちゃんってあんな顔するんだね。驚いた」
「ええとその、まあ、あたしの前だと……基本あんな感じというか……」
「……それは辛いだろうなあ」
ワタリは慰めるような声音でそう呟くので、べつにもう慣れたし平気ですよう、とヒナトは強がってみる。
そりゃあ多少は腹が立つし怖いし完全に平気ってことはないけれど、ここでワタリに泣きつくのも何かが違うと思った。
けれどそこでワタリは少し笑って、いやヒナトちゃんじゃなくてね、と言った。
そのまますたすたと先へ行ってしまうので、ヒナトもわたわた追いかけながら、どういう意味ですかぁと問いかける。
こういう状況は前にもあったような、と思いつつ。
二ノリのときもそうだった。
ワタリはもちろんアツキに同情したり、あるいは殴られたソーヤを憐れむこともなく、ただニノリ自身についてのみ、苦労してるとかどうとか言っていたのだ。
「タニラちゃんは、普段は誰にでも優しい子だからね。
それがヒナトちゃんにはどうしてもきつく当たらざるをえないわけだ。それもたぶん、さっきみたいに理不尽な文句も多いんだろう。
当然それは彼女自身も理解しているわけだから、自己嫌悪しないはずがない」
「……どーでしょうかねえ。そもそもなんであたしにだけなんでしょーねえ……」
「ああ、たぶんね、タニラちゃんがほんとうに文句を言いたい相手はヒナトちゃんじゃないよ。
だけど言うに言えない相手だから、矛先がずれちゃってるんじゃないかな。貧乏くじ引いちゃったね~」
「茶化さないでくださいよー! ていうか言えない相手ってなんですかラボの人たちとかお偉いさんとかですか!?」
「さあね」
「……ワタリさんもしかしてあたしたちで遊んでません?」
「かもね」
ワタリはけらけら笑いながら、帰りついた一班オフィスのドアを開ける。
班長病欠というこの非常時になんてブラックな副官なんだろう。
このあとしばらくこの人と二人きりで仕事しなきゃならないとかヒナトの人生けっこうハードモードじゃないですか。
しかも前回ソーヤが倒れたときのヒナトのダメっぷりを思い出してしまい、ヒナトの胃はにわかに痛み出した。
もうやだ医務室に戻ってソーヤの看病とかしてたい。
たぶん戻って仕事しろって怒られるけど。
早々にしょんぼり状態に陥るヒナトであったが、そんな秘書を横目にワタリは何やらキャロライン(※ヒナトのコンピュータの愛称)をちょこちょこ弄り始めた。
キャロちゃんに何してるんですか、とヒナトがようやく尋ねる気になったのはまるまる一分半が経過したあとで、そのときすでにキャロラインの画面表示はいつもとは違う雰囲気に変貌していた。
なんていうか数字が少ない。
ちゃんと文章っぽくなってる。ヒナトにも読める。
「僕ひとりでこのあとの処理はさすがに辛いからさあ。
少しでもヒナトちゃんが手伝える範囲が広がればいいなということで、暗号化解除ソフトを仕込んでみました」
「……えええ! そんなものがあったとは! でもなんでもっと早く入れてくれなかったんですか!」
「ないよ。これは僕が作ったの、それにまだ未完成だし。
今日はソーヤに倒れられたから特別にベータ版をね……あっ触るのは操作方法聞いてからにしてよ」
ソフト作るってどういう世界に生きているんだろうこの人は。
というかそんな暇いったいいつあったというのだろう、毎日朝から夕まで仕事だったし余暇というと外出許可くらいしかなかったのだけれど。
まさかお出かけ返上して、と考えたところで、あの日ワタリを見かけなかったような気がしてきた。
仮にそうだったとして、そもそもプログラミングの知識や技術はどこで得たものなのだろう。
言えばラボの職員が教えてくれたりするんだろうか?
よくよく考えたら先日サイネたちが使っていた特殊な暗号解読ソフトも自作したようだったし、それ以前に彼女らは花園研究所のネットワークに侵入して隠しファイルを見つけてくるという芸当もしていた。
さすがに後者はラボの職員に聞いて教えてもらえるレベルの話ではないだろうし、ヒナトにはわからない分野の話なので確証はないけれども、たぶん勝手に非開放データベースにアクセスするのにもそれを可能にするツールが必要なんじゃないか。
それを作ったのもサイネかユウラという話になるが。
……。
あまりにも世界とか次元が違いすぎてヒナトにはついていけない。ソアの本気って怖い。
ともかくこれでヒナトも格段に作業に加われる状態になった。
操作方法の説明はかなり簡素なものであったが、結果としてヒナトでも理解できたわけだから、たぶん教えるのが上手いのだろう。
ソフト自体の作りやインターフェースが単純で見やすいのもある。
持ち前の破壊スキルを発揮してしまわないよう注意しつつ、ヒナトは画面に向き直った。
→
そっくりさん遭遇事件から、いつの間にか一週間経っていた。
あれだけ警戒したにも関わらず、これといってヒナトの身辺を脅かすようなできごともなく、正直ヒナトは拍子抜けしている。
もちろん平和に越したことはないが。
困ったことがあるとすればソーヤとワタリの視線が痛くなってきたことくらいである。
一応ふたりにもそっくりさんの話はしており、当初はそれなりに驚き心配してくれていたのだ。
それがあれきり何の音沙汰もないものだから、やっぱりヒナトがどこか大袈裟に話していたんじゃないかとか、寝ぼけて夢でも見てたんじゃないか、という疑惑があるのだろう。
ヒナト自身だんだんそんな気がしてきたから怖い。
いや、もう、夢でしたでいいんじゃなかろうか。
それともしばらくなりを潜めることでこちらの油断を招く作戦だろうか。
だんだん考えるのが面倒くさくなってきて、ヒナトは視線をコンピュータから離した。
仕事にも一旦きりをつけて、そろそろ飲みもののおかわりでも淹れてこようかなと、隣のソーヤのデスクを見る。
どうもお茶汲みを集中が切れたときの言い訳にしている感のあるヒナトである。
基本的にデスクに齧りつきっぱなしの班長や副官に比べ、秘書は好きなタイミングで席を立つ理由が作れるのは少しありがたいかもしれない。
しかし、そもそもどうしてオフィスのソアを三種類に分けたのだろうと、ヒナトは今さら不思議に思った。
なんとなく、会議に出るのは班長で、雑用を頼まれるのは秘書で、結果的に実際の作業量がいちばん多くなるのは副官だ、という違いはある。
でも基本的にソアはみんな優秀だ。
ヒナトのような破格のドジさは超常現象の部類に入る。
わざわざ分ける必要はあるのだろうか。
役割を持たせること自体が何らかのシミュレーションなのかもしれないが、それが何のための実験なのかはヒナトにはよくわからない。
しかし、そんなことを呑気に考えている余裕は、次の瞬間なくなった。
ソーヤのようすが変だ。額を押さえてじっとしている。
「……あ、あの、ソーヤさん?」
恐る恐る声をかけてみるが、どうしても以前倒れたときのことが頭をよぎって、ヒナトの声を震わせてしまう。
そうだ、あのときはっきり原因がわからずちゃんとした治療ができていないから、だから、また何か起きる可能性は充分にある。
ヒナトの声にワタリも事態に気がついたようで、作業の手を止めソーヤのほうに向き直り、大丈夫かと尋ねる。
ソーヤはそれにはすぐに答えなかった。
痛みでも堪えるようにゆっくりと息を吐いてから、平気だと呟くように返すけれど、それさえ聞き取るのがやっとというほどの小さな声だった。
何が平気だというのか、ヒナトは毅然として立ち上がる。
「ちゃんと医務に見てもらってください。あ、あたし、付き添います」
「……いいっての、ちっと頭痛ぇだけだよ」
「だめだよ。また前みたいに倒れでもしたら、班全体で連帯責任なんだからね。
それとも……歩くのも億劫なくらい痛むのかな?」
ワタリの言葉にはソーヤは言い返さない。
図星なんだなと、ヒナトにもわかった。
たぶん立ち上がるのもしんどいくらいなんだ。
なおさら医務に行かなくては。
また原因がわからなくても、せめて痛み止めくらいは処方してもらえるだろう。
前になんの前触れもなく昏倒した前例がある以上、頭痛とはいえ恰好つけたり強がっている場合ではない。
「ヒナトちゃん、先に連絡入れてきてくれる? 僕らはあとからゆっくり行くから。
できればエレベーター前で待っててもらえるように頼んどいて」
「……わかりました! 行ってきます!」
指示を得たヒナトがぱたぱたと飛び出していくのを見送りながら、もういっそ内線かナースコールの設置も頼もうかなあとワタリがぼやく。
嫌味のつもりなのにソーヤからの返答はない。
そんなに辛いのかと、ワタリはそっと班長を見下ろした。
……ああ、ヒナトがいなくなったらすぐこれだ。デスクに突っ伏して小さく呻っている。
このあいだのプリン騒動でもそうだが、ヒナトはどうも他人の痛みにものすごく敏感であるらしい。
彼女の怯えかたはちょっとヒステリックにすぎる部分もあった。
ソーヤの殴られた頬をまともに見ることもできないほどに。
だから大して痛くないようなふりをして、心配をかけまいとしている、ソーヤの気持ちはわからないでもない。
多少なりと生来の恰好つけも手伝っているのだろう。
だが……それで対処が遅れて、ほんとうに不味い事態になったなら、そのときいちばん傷つくのもまたヒナトなのに。
ワタリは溜息をついて、不器用な男の肩を叩く。
ほんとうに歩くのが無理なら特別におんぶしてあげるけど、と言い添えると、ソーヤは勘弁してくれよと小さく答えた。
「てめーに負われて医務行きとか、いい笑いもんだぜ……」
「笑いごとで済むうちはいいんじゃないの。ほら、肩貸すから、がんばれ」
「……ヒナを頼む」
「わかってる」
また今日もヒナトは動揺してしまうかもしれない。
前回は見かねて医務部に行かせてやったが、それでソーヤが無理をして症状を悪化させかねないのなら、引き離したほうがいいだろうか。
業務についてはもうぜんぶワタリが請け負うつもりで、場合によっては他班の力も借りればいいし。
ま、仕事についてヒナトには良い意味で元から期待してはいないから、今さらだけれど。
それよりソーヤの状態が想像以上に芳しくないことのほうが問題だ。
もちろん、前から危惧してはいた。
彼が倒れるよりもずっとずっと前から。
なぜならワタリは知っている。
──永い長い眠りよりも前からずっと、──のことを、知っている。
ワタリの指示どおりエレベーターの前でソーヤは寝台に乗せられ、そのまま医務部へと運ばれていった。
ともかく鎮痛剤を打ってもらって、あとは徹底的に精密検査でも何でもして原因を突き止めてくれるよう頼み込むと、ワタリとヒナトは一班のオフィスに戻る。
もちろんヒナトはソーヤに付き添いたかった。
検査といっても何をするのかよくわからないが、大なり小なり心細いものではないだろうか?
もしもヒナトがソーヤの立場なら、誰か知っている人間が傍にいてくれたほうが、きっと遥かに安心して検査に臨めると思う。
しかしソーヤ自身にも戻るよう言われ、ワタリにも促されたとあっては拒むわけにはいかない。
こういうときヒナトは秘書という自分の弱い立場を恨む。
そして戻る道中、案の定というかタニラに出くわした。
一体どこで情報を手に入れてきたのか、前と同じく半泣きになっても決して不細工にはならない美少女は、ヒナトを見るなりぎっと睨んでくる。
これにはもはや慣れているヒナトより隣のワタリのほうがぎょっとしているのが、なんとなく顔を見なくても伝わってきた。
「……あなた、ほんとに、ソーヤくんの秘書だって自覚、あるの?」
そして予想され尽した常套句に、わかっていても少しかなりむっとしてしまうヒナトだったが、言い返す前に口を開いた人物がいた。
もちろんこの場に他にいないので、それはワタリだ。
「これはヒナトちゃんに責任を問う問題じゃあないんだよ。……きみも薄々はわかってるでしょ」
「……っ」
意外にもタニラは言い返さない。
いや、たぶん彼女が口撃できるのは基本的にヒナトだけなのだろう。
それにワタリは男の子で、しかも他の班の副官だから、GHにおいてもタニラより立場が上だ。
結局タニラが何か言うことはそれ以上なくて、彼女は医務部のほうへ歩き去っていった。
たぶん泣いていたと思う。
すすり泣く彼女の声が、遠くから聞こえるような気がした。
真っ白な廊下にふたりだけが残されて、なんだかとても広く感じる。
なんというか彼女が撃退されるところなど初めて見たヒナトは、思わずワタリのほうを振り返ってしまうが、そのとき彼は予想外の表情を浮かべていた。
しかも何と例えていいのかわからない、複雑な顔を。
悲しいような、寂しいような、それなのに笑っているような、呆れているような……。
もしかしたら口許しかないのでわからないのかもしれない。
生憎ヒナトがいたのは彼の右隣だったから、ちょうど眼帯で片眼さえ隠れてしまっていた。
「わ、ワタリさん、あの」
「いやあ、タニラちゃんってあんな顔するんだね。驚いた」
「ええとその、まあ、あたしの前だと……基本あんな感じというか……」
「……それは辛いだろうなあ」
ワタリは慰めるような声音でそう呟くので、べつにもう慣れたし平気ですよう、とヒナトは強がってみる。
そりゃあ多少は腹が立つし怖いし完全に平気ってことはないけれど、ここでワタリに泣きつくのも何かが違うと思った。
けれどそこでワタリは少し笑って、いやヒナトちゃんじゃなくてね、と言った。
そのまますたすたと先へ行ってしまうので、ヒナトもわたわた追いかけながら、どういう意味ですかぁと問いかける。
こういう状況は前にもあったような、と思いつつ。
二ノリのときもそうだった。
ワタリはもちろんアツキに同情したり、あるいは殴られたソーヤを憐れむこともなく、ただニノリ自身についてのみ、苦労してるとかどうとか言っていたのだ。
「タニラちゃんは、普段は誰にでも優しい子だからね。
それがヒナトちゃんにはどうしてもきつく当たらざるをえないわけだ。それもたぶん、さっきみたいに理不尽な文句も多いんだろう。
当然それは彼女自身も理解しているわけだから、自己嫌悪しないはずがない」
「……どーでしょうかねえ。そもそもなんであたしにだけなんでしょーねえ……」
「ああ、たぶんね、タニラちゃんがほんとうに文句を言いたい相手はヒナトちゃんじゃないよ。
だけど言うに言えない相手だから、矛先がずれちゃってるんじゃないかな。貧乏くじ引いちゃったね~」
「茶化さないでくださいよー! ていうか言えない相手ってなんですかラボの人たちとかお偉いさんとかですか!?」
「さあね」
「……ワタリさんもしかしてあたしたちで遊んでません?」
「かもね」
ワタリはけらけら笑いながら、帰りついた一班オフィスのドアを開ける。
班長病欠というこの非常時になんてブラックな副官なんだろう。
このあとしばらくこの人と二人きりで仕事しなきゃならないとかヒナトの人生けっこうハードモードじゃないですか。
しかも前回ソーヤが倒れたときのヒナトのダメっぷりを思い出してしまい、ヒナトの胃はにわかに痛み出した。
もうやだ医務室に戻ってソーヤの看病とかしてたい。
たぶん戻って仕事しろって怒られるけど。
早々にしょんぼり状態に陥るヒナトであったが、そんな秘書を横目にワタリは何やらキャロライン(※ヒナトのコンピュータの愛称)をちょこちょこ弄り始めた。
キャロちゃんに何してるんですか、とヒナトがようやく尋ねる気になったのはまるまる一分半が経過したあとで、そのときすでにキャロラインの画面表示はいつもとは違う雰囲気に変貌していた。
なんていうか数字が少ない。
ちゃんと文章っぽくなってる。ヒナトにも読める。
「僕ひとりでこのあとの処理はさすがに辛いからさあ。
少しでもヒナトちゃんが手伝える範囲が広がればいいなということで、暗号化解除ソフトを仕込んでみました」
「……えええ! そんなものがあったとは! でもなんでもっと早く入れてくれなかったんですか!」
「ないよ。これは僕が作ったの、それにまだ未完成だし。
今日はソーヤに倒れられたから特別にベータ版をね……あっ触るのは操作方法聞いてからにしてよ」
ソフト作るってどういう世界に生きているんだろうこの人は。
というかそんな暇いったいいつあったというのだろう、毎日朝から夕まで仕事だったし余暇というと外出許可くらいしかなかったのだけれど。
まさかお出かけ返上して、と考えたところで、あの日ワタリを見かけなかったような気がしてきた。
仮にそうだったとして、そもそもプログラミングの知識や技術はどこで得たものなのだろう。
言えばラボの職員が教えてくれたりするんだろうか?
よくよく考えたら先日サイネたちが使っていた特殊な暗号解読ソフトも自作したようだったし、それ以前に彼女らは花園研究所のネットワークに侵入して隠しファイルを見つけてくるという芸当もしていた。
さすがに後者はラボの職員に聞いて教えてもらえるレベルの話ではないだろうし、ヒナトにはわからない分野の話なので確証はないけれども、たぶん勝手に非開放データベースにアクセスするのにもそれを可能にするツールが必要なんじゃないか。
それを作ったのもサイネかユウラという話になるが。
……。
あまりにも世界とか次元が違いすぎてヒナトにはついていけない。ソアの本気って怖い。
ともかくこれでヒナトも格段に作業に加われる状態になった。
操作方法の説明はかなり簡素なものであったが、結果としてヒナトでも理解できたわけだから、たぶん教えるのが上手いのだろう。
ソフト自体の作りやインターフェースが単純で見やすいのもある。
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