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本編
data06:プリン哀歌(前篇)
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───,6
今日もソーヤは平然と仕事をこなしている。
お陰さまで、そろそろヒナトたちの心配も薄れてきた。
しかしだ、心配は薄らいでもあまり問題はないのだが、注意力まで薄らぐとひどい目にあうということを忘れてはならない。
ヒナトはそれを改めて噛みしめつつ、モップと雑巾を手に取る。
同時に両方とも使うことはできないのだがそんなことを言っている場合ではない。
この場合、二刀流になるくらいの気概が必要なのだ。
……茶色と黒とオレンジが世界地図を描いている、この無様な床を見るにつけ。
「じゃ、頼むねヒナトちゃん」
「ぜんぶ拭き終ったら呼びに来い。俺らは下のロビーにいるからよ」
「はーい……くすん」
ワタリとソーヤはノート型のPCを小脇に抱えてオフィスを出ていく。
残されたヒナトはというと、とりあえず水を含んだ雑巾をきつく絞った。
思わず漏れる重い溜息。
飲みものをこぼすこと自体はわりとよくあるミスだ。
いや、もちろんそんなにしょっちゅうあってはいけないのだが。
だからって一度にすべてぶちまけることはなかったんじゃないかと思う。
とにもかくにも床が三色マーブルになってしまっては、仕事ができない。
幸か不幸かヒナトのデスクトップコンピュータ(キャロライン)以外の各種機材に液体がかかることはなかった。
それでヒナトが掃除をしている間、上官ふたりは別の場所で仕事をすることになったのだ。
ここは四階、ロビーは一階。他のオフィスは三階で、五階から上はすべてラボに属する。
ちなみにガーデンというソアの育成機関は隣の棟で、そちらにはソアや研究員の暮らす寮も入っている。
四階にはこの第一班オフィスの他には使われていない機材やら何やらを詰め込んだ物置などしかなく、要するに今この階にいるのはヒナトひとりだ。
「う、寂しい……」
ひとりになるのはあまり好きじゃない。
給湯室に行くときも、たとえタニラでもいいから誰かいてくれといつも祈っているくらいだ。
花園では小さい頃からいつも周りに誰かいて、滅多にひとりにならないから、慣れないのだろう。
──早くふたりを呼びにいこうっと。
ヒナトは焦って雑巾を動かす手を速める。
だが、うっかりコーヒー色の勢力範囲を拡げてしまい、ああもう! と自分に対して怒るはめになったのだった。
・・・・・+
やっとこさ床掃除を終えたヒナトが一階に下りると、ロビーにはなぜかソーヤとワタリだけでなく第二班の面々までがいた。
ロビーの大きなテーブルで仕事をするワタリはいい。
何やらオセロっぽいゲームをしているらしいサイネとユウラもこの際どうでもいい。
問題は何やら楽しげにくっちゃべっているソーヤとタニラだ。
……いや別にあのふたりが仲良さそうなのが問題だとかいうわけではない。
ただそこはあのタニラのこと。
よもや仕事を振り切ってソーヤのもとに駆け付けたわけではなかろうな。
っていやそうじゃなくって、えーっと、ソーヤさんも仕事してくださいよ!
「あのー、お掃除終わりました」
しかも話しかけたのに気づいてくれないときた。
タニラなら気づいても無視しそうだから最初から期待はしていないが、ソーヤにまでこれだと、なんだかめげそうになる。
ひどい。
そりゃあまあ、なんとなく気が引けて声が小さくなっていることも認めるが。
何度か粘るとやっと反応があった。
いつものごとく、遅っせーよヒナ、と呆れ口調で。
ひとりで片づけたんだから時間がかかるのも当たり前だと思うのだが理不尽だと思うのだが、タニラが恐ろしい表情をしているから我慢する。
美人による憤怒の形相ほど背筋を凍らせるものが他にあろうか、いやない。反語。あと般若。
そんなにソーヤとの語らいを邪魔されたのが腹立たしいか。
といってもなんか話してるのはソーヤのほうばかりでタニラは聞き役に徹しているようだったが、それって楽しいのだろうか。
「タニラ、なんか飲むものちょうだい」
ヒナトが蛇に睨まれた蛙になっていると、サイネから注文が飛んできた。
そこですぐさま立ち上がるタニラからは、できる女というか有能秘書オーラみたいなものが出ている、気がする。
むう、それならばヒナトもソーヤたちにお茶を汲んでこようではないか。
「あ、あのソーヤさ──」
「ソーヤくんも何か飲む?」
「あーじゃあコーヒー、ブラックでよろしく。あとワタリにも紅茶淹れてやってくれ」
……おい!
言おうとしたことを遮られるわ仕事をとられるわ、看過できない事態にヒナトはむろん憤った。
それはヒナトがすべきことだ。
「ちょっとちょっと、ソーヤさんの秘書はあたしですよ?」
「あらそうだったかしら。あんまりお仕事なさらないんで忘れてたわ」
「ぬうう、ていうかソーヤさんもさらっと他の人に頼まないでくださいよ! すぐ傍にあたしがいるじゃないですかっ」
「……分かれヒナ、俺は今すごーく、まともなコーヒーが飲みたい」
ぐぬぬ……言い返す言葉もない……!
っていうかこないだの「くそまずいコーヒーでいい」発言は撤回ですかこのやろう……!
ヒナトは大人しくうなだれることにした。
どうせ今顔をあげてもタニラが勝ち誇った笑みを浮かべているのが見えるだけだ。
美女による勝利の微笑みほど神経を逆なでするものが他にあろうか、いやない。反語。
タニラはかかとでくるりと回転して、給湯室へ向かった。
どうしていちいちかわいらしい動作ができるのだろう。
もはや一種の才能なのではないかとさえ思う。
さて、ソーヤとふたり残されてしまったが(それはいいのかタニラよ)、べつに彼と話す内容もない。
仕方がないのでワタリのほうに行った。
こちらではちゃんとすぐに返事があって、しかも「あ、お疲れさま」とねぎらいの言葉もいただけた。
やったね!
そのあと間髪いれず「次からはもうちょっと気をつけてよ」とだめ出しもくらいましたがね!
でもいいのです、ちゃんとお仕事してる人に言われた正論なら素直に頷けるというものです。
「で、どうしてサイネちゃんたちがいるのかなあ」
「そりゃあんたらのせいでしょーが。……はい王手、また私の勝ちね」
「えっもしかして床、漏った?」
「あんたねぇ……あーもう面倒だからユウラが説明してよ、負けたんだし」
きょとんとサイネを見るヒナトに構わず、サイネはオセロの玉を回収し始める。
どう見てもオセロだが、ふつう王手って将棋のときに言う科白じゃなかったか。
でもって盤上の黒白のバランスが妙である。
それより今日ヒナトがやらかしたのは、今のところ飲みものを床にぶちまけたのと、それを自分のPCにかけてしまったことの二点だけだ。
それでどうして二班に被害が及ぶというのだろう?
ユウラのほうを見るとちょっぴり顔をしかめていた。
……それは被害によるものなのか、それともゲームでサイネに負けたことでか。
どちらにしても珍しい。
悔しそうな(?)顔のまま、ユウラが口を開く。
「……給湯室に冷蔵庫があるだろう」
「あ、うん。ユウラくん秘書じゃないのによく知ってるね」
たしかに彼の言うとおり給湯室には冷凍庫つきの小型冷蔵庫がある。
ゼリーなどの冷たいデザートが入っていて、休憩のときにお茶受けと称して食べることができるのだ。
ソアたちは自由に外へ出られないので、たぶんそういうものを買ってくるのはラボの人間なのだと思われる。
最近では一班の三人でプリンを食べた。
美味しかった。
「そのプリンなんだが。おまえたちが食べたせいで、ニノリが禁断症状を起こして暴れている」
ニノリというのはアツキのいる第三班の班長だ。
でもってふたりしかいないので、二人班とも呼ばれている。
「ど、どゆこと?」
「あいつは俺たちの誰より有能だが、それだけ糖分の消費が激しいらしい。簡単に言えば病的な甘党なんだ」
「……あ、そういえばあたしたちが食べたので最後だったかも」
「おバカ。それで御奉行がご乱心しちゃって、三階はもう仕事どころじゃないんだから。
いまはアッキーがひとりで宥めてくれてるけど……あんたらも飲むもの飲んだら責任とってどうにかしてきなさいよ」
「はあ」
サイネの言う御奉行とはニノリのことらしい。
ワンマンだと言いたいのだろうか。
それにしても隣のオフィスでさえ仕事にならないほどの暴れかたって……。
さっきヒナトが降りてくるときはエレベーターを使ったのでわからなかったが。
あと今日はまだ給湯室には行っていないのだ。
ちなみに給湯室は他の階にもあるのでタニラはそちらを使ったものと思われる。
そうこうしているとタニラが戻ってきたので、ヒナトはカフェオレをゆっくり飲んでから(悔しいが美味しいので味わった)、ワタリとソーヤに三階プリン騒動の話をした。
が、どうやらふたりはとっくに知っていたようで、ソーヤなどあからさまに面倒くさそうな顔をした。
「俺様は食ってねーんだけどな。甘いの嫌いだし」
「うーそういうこと言わないでくださいよう。ワタリさんだけじゃ心細いですし、あたしだって一応はかよわい乙女なんですよ」
「どこがだよ」
「ぐっ……せ、背が低いとことか?」
「あーうんたしかにチビだな」
うっ、自分で言ったことを繰り返されただけなのに、なんだか妙に腹が立つ言い草だ。
チビっていう言いかたがよろしくない。
たしかにヒナトは背が低いほうだが、チビってほどじゃない。
「まあでも班員の失態は俺の責任だしなー。しゃあない、ワタリは五階以上の給湯室を見てきてくれ」
「りょーかい」
その班員の失態ってのはもしかしなくてもプリンを持ってきたヒナトのことか。
まったく、どうしてソーヤという男はいちいち人につっかかる言いかたしかできないのだろう。
でもってタニラもよくこのソーヤに懐いたものだ。
いや、ソーヤは基本的にタニラには甘い。
というかヒナト以外の人間にはそんなに厳しくない気がする。
なんだかよくわからないが、ヒナトに対してばかりこう、なんというか……こういうのは上から目線っていうのだろうか。
小馬鹿にしているというか偉そうというか。
実際ソーヤのほうが立場は上で偉いのだが。
ちょっともやもやしたが、オラ行くぞと急かされて、ヒナトもいそいそロビーを出た。
・・・・・+
エレベーターが三階に止まり、ドアが開く。そこまではいい。
開いた瞬間を狙ったかのように吹っ飛んできた植木鉢、これはよくない。
突然のことにヒナトはそれを避けることができず、かといって直撃するわけにはいかないという本能が働いて、咄嗟にグーパンチを繰り出した。
驚きのあまり、おあああ!とわけのわからない叫びをあげながら。
その瞬間自分でも無理だと思った。
……だというのに、その拳は奇跡的にも植木鉢を粉砕するのに成功したのだから、びっくりだ。
ヒナトは黒っぽい土と花の咲いていないシクラメンを制服の前面に被っただけで済み、左右に立っていた男性陣に至っては無傷無汚れ。
なんか損した気がする。あとひどい。
「おー、すごいすごい。さすが毎日もの壊してるだけあるね」
「ワタリさんそれは褒め言葉になってないです……理由にもなってないと思います……」
「ははは、やっぱ俺の見立ては間違ってなかったな! ぶっちゃけヒナひとりでもいけると思うぜ」
「ソーヤさんのばか……」
なんだろう、毎日何回も三人分のお茶くみをしているからだろうか。
お茶をくんではこぼして掃除しているからだろうか。
機械を壊してアナログで仕事せざるを得ない状況にちょくちょく陥っているせいもあるかもしれない。
そうやって少しずつ鍛えられていたのかも。
いやいやいや、だからって、どうしてチビいや小柄でただの秘書で貧乳なヒナトにそんな体育会系な芸当ができるというのだ!
実際できちゃったわけだが、これは偶然だ。
まぐれだ。
そうだと思いたい。
どうして美人秘書はたまに般若になるとはいえあんなにかわいらしく振舞えて、ダメ秘書はこういうときに無駄にパワフルだったりするのだろう。
どう考えても差別だ。
遺伝子でも細胞でもいいからちょっと交換してくれ。
「じゃあ僕は上見てくるから、戻るまでふたりで頑張ってねー」
おっと、落ち込んでいるわけにもいかない。
ニノリを止めなくては。
ワタリの乗ったエレベーターが上昇するのを見送りつつ、ヒナトとソーヤは三階に響き渡る物音を聞いた。
文字で表現するなら、どんがらがっしゃん、といった具合だ。
手当たり次第にものを投げつけているのだということは、先ほどの植木鉢を思えば想像に難くない。
だいいち廊下にもいろんなものが転がっている。
ティーカップらしき破片に、投げられた衝撃で中身が飛び出したファイルが数冊、さらにはひっくり返ったキャスターつきの回転椅子。
プラスチック製の防水トレーは無傷だ。
ついでに奥の部屋からはぎゃあぎゃあと騒いでいるのも聞こえる。
アツキの声に混ざって聞こえるヒステリックな少年の声がニノリのものだろう。
そこに入るのはなかなか億劫ではあったが、ふたりは歩き出した。
→
今日もソーヤは平然と仕事をこなしている。
お陰さまで、そろそろヒナトたちの心配も薄れてきた。
しかしだ、心配は薄らいでもあまり問題はないのだが、注意力まで薄らぐとひどい目にあうということを忘れてはならない。
ヒナトはそれを改めて噛みしめつつ、モップと雑巾を手に取る。
同時に両方とも使うことはできないのだがそんなことを言っている場合ではない。
この場合、二刀流になるくらいの気概が必要なのだ。
……茶色と黒とオレンジが世界地図を描いている、この無様な床を見るにつけ。
「じゃ、頼むねヒナトちゃん」
「ぜんぶ拭き終ったら呼びに来い。俺らは下のロビーにいるからよ」
「はーい……くすん」
ワタリとソーヤはノート型のPCを小脇に抱えてオフィスを出ていく。
残されたヒナトはというと、とりあえず水を含んだ雑巾をきつく絞った。
思わず漏れる重い溜息。
飲みものをこぼすこと自体はわりとよくあるミスだ。
いや、もちろんそんなにしょっちゅうあってはいけないのだが。
だからって一度にすべてぶちまけることはなかったんじゃないかと思う。
とにもかくにも床が三色マーブルになってしまっては、仕事ができない。
幸か不幸かヒナトのデスクトップコンピュータ(キャロライン)以外の各種機材に液体がかかることはなかった。
それでヒナトが掃除をしている間、上官ふたりは別の場所で仕事をすることになったのだ。
ここは四階、ロビーは一階。他のオフィスは三階で、五階から上はすべてラボに属する。
ちなみにガーデンというソアの育成機関は隣の棟で、そちらにはソアや研究員の暮らす寮も入っている。
四階にはこの第一班オフィスの他には使われていない機材やら何やらを詰め込んだ物置などしかなく、要するに今この階にいるのはヒナトひとりだ。
「う、寂しい……」
ひとりになるのはあまり好きじゃない。
給湯室に行くときも、たとえタニラでもいいから誰かいてくれといつも祈っているくらいだ。
花園では小さい頃からいつも周りに誰かいて、滅多にひとりにならないから、慣れないのだろう。
──早くふたりを呼びにいこうっと。
ヒナトは焦って雑巾を動かす手を速める。
だが、うっかりコーヒー色の勢力範囲を拡げてしまい、ああもう! と自分に対して怒るはめになったのだった。
・・・・・+
やっとこさ床掃除を終えたヒナトが一階に下りると、ロビーにはなぜかソーヤとワタリだけでなく第二班の面々までがいた。
ロビーの大きなテーブルで仕事をするワタリはいい。
何やらオセロっぽいゲームをしているらしいサイネとユウラもこの際どうでもいい。
問題は何やら楽しげにくっちゃべっているソーヤとタニラだ。
……いや別にあのふたりが仲良さそうなのが問題だとかいうわけではない。
ただそこはあのタニラのこと。
よもや仕事を振り切ってソーヤのもとに駆け付けたわけではなかろうな。
っていやそうじゃなくって、えーっと、ソーヤさんも仕事してくださいよ!
「あのー、お掃除終わりました」
しかも話しかけたのに気づいてくれないときた。
タニラなら気づいても無視しそうだから最初から期待はしていないが、ソーヤにまでこれだと、なんだかめげそうになる。
ひどい。
そりゃあまあ、なんとなく気が引けて声が小さくなっていることも認めるが。
何度か粘るとやっと反応があった。
いつものごとく、遅っせーよヒナ、と呆れ口調で。
ひとりで片づけたんだから時間がかかるのも当たり前だと思うのだが理不尽だと思うのだが、タニラが恐ろしい表情をしているから我慢する。
美人による憤怒の形相ほど背筋を凍らせるものが他にあろうか、いやない。反語。あと般若。
そんなにソーヤとの語らいを邪魔されたのが腹立たしいか。
といってもなんか話してるのはソーヤのほうばかりでタニラは聞き役に徹しているようだったが、それって楽しいのだろうか。
「タニラ、なんか飲むものちょうだい」
ヒナトが蛇に睨まれた蛙になっていると、サイネから注文が飛んできた。
そこですぐさま立ち上がるタニラからは、できる女というか有能秘書オーラみたいなものが出ている、気がする。
むう、それならばヒナトもソーヤたちにお茶を汲んでこようではないか。
「あ、あのソーヤさ──」
「ソーヤくんも何か飲む?」
「あーじゃあコーヒー、ブラックでよろしく。あとワタリにも紅茶淹れてやってくれ」
……おい!
言おうとしたことを遮られるわ仕事をとられるわ、看過できない事態にヒナトはむろん憤った。
それはヒナトがすべきことだ。
「ちょっとちょっと、ソーヤさんの秘書はあたしですよ?」
「あらそうだったかしら。あんまりお仕事なさらないんで忘れてたわ」
「ぬうう、ていうかソーヤさんもさらっと他の人に頼まないでくださいよ! すぐ傍にあたしがいるじゃないですかっ」
「……分かれヒナ、俺は今すごーく、まともなコーヒーが飲みたい」
ぐぬぬ……言い返す言葉もない……!
っていうかこないだの「くそまずいコーヒーでいい」発言は撤回ですかこのやろう……!
ヒナトは大人しくうなだれることにした。
どうせ今顔をあげてもタニラが勝ち誇った笑みを浮かべているのが見えるだけだ。
美女による勝利の微笑みほど神経を逆なでするものが他にあろうか、いやない。反語。
タニラはかかとでくるりと回転して、給湯室へ向かった。
どうしていちいちかわいらしい動作ができるのだろう。
もはや一種の才能なのではないかとさえ思う。
さて、ソーヤとふたり残されてしまったが(それはいいのかタニラよ)、べつに彼と話す内容もない。
仕方がないのでワタリのほうに行った。
こちらではちゃんとすぐに返事があって、しかも「あ、お疲れさま」とねぎらいの言葉もいただけた。
やったね!
そのあと間髪いれず「次からはもうちょっと気をつけてよ」とだめ出しもくらいましたがね!
でもいいのです、ちゃんとお仕事してる人に言われた正論なら素直に頷けるというものです。
「で、どうしてサイネちゃんたちがいるのかなあ」
「そりゃあんたらのせいでしょーが。……はい王手、また私の勝ちね」
「えっもしかして床、漏った?」
「あんたねぇ……あーもう面倒だからユウラが説明してよ、負けたんだし」
きょとんとサイネを見るヒナトに構わず、サイネはオセロの玉を回収し始める。
どう見てもオセロだが、ふつう王手って将棋のときに言う科白じゃなかったか。
でもって盤上の黒白のバランスが妙である。
それより今日ヒナトがやらかしたのは、今のところ飲みものを床にぶちまけたのと、それを自分のPCにかけてしまったことの二点だけだ。
それでどうして二班に被害が及ぶというのだろう?
ユウラのほうを見るとちょっぴり顔をしかめていた。
……それは被害によるものなのか、それともゲームでサイネに負けたことでか。
どちらにしても珍しい。
悔しそうな(?)顔のまま、ユウラが口を開く。
「……給湯室に冷蔵庫があるだろう」
「あ、うん。ユウラくん秘書じゃないのによく知ってるね」
たしかに彼の言うとおり給湯室には冷凍庫つきの小型冷蔵庫がある。
ゼリーなどの冷たいデザートが入っていて、休憩のときにお茶受けと称して食べることができるのだ。
ソアたちは自由に外へ出られないので、たぶんそういうものを買ってくるのはラボの人間なのだと思われる。
最近では一班の三人でプリンを食べた。
美味しかった。
「そのプリンなんだが。おまえたちが食べたせいで、ニノリが禁断症状を起こして暴れている」
ニノリというのはアツキのいる第三班の班長だ。
でもってふたりしかいないので、二人班とも呼ばれている。
「ど、どゆこと?」
「あいつは俺たちの誰より有能だが、それだけ糖分の消費が激しいらしい。簡単に言えば病的な甘党なんだ」
「……あ、そういえばあたしたちが食べたので最後だったかも」
「おバカ。それで御奉行がご乱心しちゃって、三階はもう仕事どころじゃないんだから。
いまはアッキーがひとりで宥めてくれてるけど……あんたらも飲むもの飲んだら責任とってどうにかしてきなさいよ」
「はあ」
サイネの言う御奉行とはニノリのことらしい。
ワンマンだと言いたいのだろうか。
それにしても隣のオフィスでさえ仕事にならないほどの暴れかたって……。
さっきヒナトが降りてくるときはエレベーターを使ったのでわからなかったが。
あと今日はまだ給湯室には行っていないのだ。
ちなみに給湯室は他の階にもあるのでタニラはそちらを使ったものと思われる。
そうこうしているとタニラが戻ってきたので、ヒナトはカフェオレをゆっくり飲んでから(悔しいが美味しいので味わった)、ワタリとソーヤに三階プリン騒動の話をした。
が、どうやらふたりはとっくに知っていたようで、ソーヤなどあからさまに面倒くさそうな顔をした。
「俺様は食ってねーんだけどな。甘いの嫌いだし」
「うーそういうこと言わないでくださいよう。ワタリさんだけじゃ心細いですし、あたしだって一応はかよわい乙女なんですよ」
「どこがだよ」
「ぐっ……せ、背が低いとことか?」
「あーうんたしかにチビだな」
うっ、自分で言ったことを繰り返されただけなのに、なんだか妙に腹が立つ言い草だ。
チビっていう言いかたがよろしくない。
たしかにヒナトは背が低いほうだが、チビってほどじゃない。
「まあでも班員の失態は俺の責任だしなー。しゃあない、ワタリは五階以上の給湯室を見てきてくれ」
「りょーかい」
その班員の失態ってのはもしかしなくてもプリンを持ってきたヒナトのことか。
まったく、どうしてソーヤという男はいちいち人につっかかる言いかたしかできないのだろう。
でもってタニラもよくこのソーヤに懐いたものだ。
いや、ソーヤは基本的にタニラには甘い。
というかヒナト以外の人間にはそんなに厳しくない気がする。
なんだかよくわからないが、ヒナトに対してばかりこう、なんというか……こういうのは上から目線っていうのだろうか。
小馬鹿にしているというか偉そうというか。
実際ソーヤのほうが立場は上で偉いのだが。
ちょっともやもやしたが、オラ行くぞと急かされて、ヒナトもいそいそロビーを出た。
・・・・・+
エレベーターが三階に止まり、ドアが開く。そこまではいい。
開いた瞬間を狙ったかのように吹っ飛んできた植木鉢、これはよくない。
突然のことにヒナトはそれを避けることができず、かといって直撃するわけにはいかないという本能が働いて、咄嗟にグーパンチを繰り出した。
驚きのあまり、おあああ!とわけのわからない叫びをあげながら。
その瞬間自分でも無理だと思った。
……だというのに、その拳は奇跡的にも植木鉢を粉砕するのに成功したのだから、びっくりだ。
ヒナトは黒っぽい土と花の咲いていないシクラメンを制服の前面に被っただけで済み、左右に立っていた男性陣に至っては無傷無汚れ。
なんか損した気がする。あとひどい。
「おー、すごいすごい。さすが毎日もの壊してるだけあるね」
「ワタリさんそれは褒め言葉になってないです……理由にもなってないと思います……」
「ははは、やっぱ俺の見立ては間違ってなかったな! ぶっちゃけヒナひとりでもいけると思うぜ」
「ソーヤさんのばか……」
なんだろう、毎日何回も三人分のお茶くみをしているからだろうか。
お茶をくんではこぼして掃除しているからだろうか。
機械を壊してアナログで仕事せざるを得ない状況にちょくちょく陥っているせいもあるかもしれない。
そうやって少しずつ鍛えられていたのかも。
いやいやいや、だからって、どうしてチビいや小柄でただの秘書で貧乳なヒナトにそんな体育会系な芸当ができるというのだ!
実際できちゃったわけだが、これは偶然だ。
まぐれだ。
そうだと思いたい。
どうして美人秘書はたまに般若になるとはいえあんなにかわいらしく振舞えて、ダメ秘書はこういうときに無駄にパワフルだったりするのだろう。
どう考えても差別だ。
遺伝子でも細胞でもいいからちょっと交換してくれ。
「じゃあ僕は上見てくるから、戻るまでふたりで頑張ってねー」
おっと、落ち込んでいるわけにもいかない。
ニノリを止めなくては。
ワタリの乗ったエレベーターが上昇するのを見送りつつ、ヒナトとソーヤは三階に響き渡る物音を聞いた。
文字で表現するなら、どんがらがっしゃん、といった具合だ。
手当たり次第にものを投げつけているのだということは、先ほどの植木鉢を思えば想像に難くない。
だいいち廊下にもいろんなものが転がっている。
ティーカップらしき破片に、投げられた衝撃で中身が飛び出したファイルが数冊、さらにはひっくり返ったキャスターつきの回転椅子。
プラスチック製の防水トレーは無傷だ。
ついでに奥の部屋からはぎゃあぎゃあと騒いでいるのも聞こえる。
アツキの声に混ざって聞こえるヒステリックな少年の声がニノリのものだろう。
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