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本編
data03:ソーヤの問題、ヒナトの問題
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───,3
医務部のベッドに横たわるソーヤの顔には血の気がなく、ヒナトには何かの病気なのではないかと思えてならなかった。
ソアが病気になるという話は聞いたことがなかったが、しかしそうでなければ、仕事中に突然倒れるなんてことがあるのだろうか。
応対してくれた若い医務部員によれば、簡単な検査ではまだ原因が特定できないらしい。
精密検査の準備をしている間見ていてほしいと言われたので、ヒナトは一旦仕事をワタリに任せ、ベッドの傍にあったパイプ椅子に座った。
それから何度かソーヤに話しかけてみたが、やはり反応はない。
……まるで死んでしまったみたい。
嫌な発想に、胸の奥がぎゅうと掴まれたような気がした。
縁起でもない。
丈夫になるよう遺伝子操作されているはずなのに、そう簡単に死ぬわけがないのに。
もしソーヤが死んでしまったら、これから一班の仕事を誰がするというのだ。
ワタリとヒナトだけでは手が回らないだろう。
ソーヤの分まで仕事をこなすには、ヒナトには頭脳も体力もなにもかも足りない。
それに、ヒナトは誰のために、まともなブラックコーヒーを淹れる練習をすればいい?
「う」
さっきから鼻が痛い。
いや、鼻だけじゃなくて身体じゅうが痛い気もする。
泣きそうになってきたのをどうにかこうにか堪えていると、さっきの医務部員が戻ってきた。
検査の準備ができたらしい。
ソーヤはキャスターつきのベッドに寝かされていたので、そのまま検査室へと運ばれていく。
ヒナトはそれを見送ってから、オフィスに戻った。
当たり前の話だがオフィスではワタリがひとりで仕事をしていた。
いつもガキ大将がふんぞり返っている中央の椅子は、今はからっぽだ。
それを改めて確認するのが辛かった。
ワタリとヒナトとの、互いの椅子の間にこれほどの距離があったことも初めて気がついた。
おかえり、と優しい声でワタリが言う。
「どうだった」
「原因がよくわからないんで、今から精密検査です」
「そっか」
「まさかあたしのココアが甘すぎて気絶した、なーんてことは、ないですよ、ね……」
「はは、ありそう。
……じゃ、仕事しようか。少しは進めないと、あいつが戻ってきたら絶対あほみたいに文句垂れるだろうからさ」
精一杯の冗談も声が震えてしまう。
それでもワタリがちゃんといつもどおりの返事をしてくれるので、ヒナトは少しだけほっとした。
そうだ、仕事に戻ろう。
きっとソーヤは元気になって帰ってくる。そうに決まっている。
戻ってきたら、いつものようにヒナトをいじめて、コーヒーがまずいのなんのと難癖とつけてくるに違いない。
コンピュータに向きなおって、待機中の表示をした画面をタッチする。
医務部に行っている間に作業ボックスにはたくさんのファイルが溜まっていた。
この中にはラボや他の班から送られてきたデータが入っていて、ヒナトはそれを分別して上官ふたりに送るのだ。
相変わらず簡単な仕事だ。
しかも今日はソーヤがいないわけだから、どうせほとんどワタリが処理することになる。
手が止まった。
仕事なんて、ないじゃないか。
ヒナトはなんのためにここにいるんだ。
こうしてこの秘書の椅子に座っている必要なんて、どこにもないじゃないか。
「あ、あたし、お茶淹れてきますね」
そう言って立ち上がる。
ワタリの返事を聞く前に部屋を飛び出す。
自分でもなぜパニックに陥っているのかはわからなかったが、とにかくあのままただ座っているのが嫌だった。
何かもっと仕事らしい仕事をしなければ。
お茶酌みでもなんでもいい、とにかく何か、役に立てるようなことをしなければ。
給湯室は無人だった。
湯を沸かしながら、棚を探る。
紅茶は失敗するかもしれないからココア。
……いやだめだ、あんなことがあった後なのに。
じゃあ、コーヒー?
……それもだめだ、飲む人がいない。
ヒナトはもちろんワタリもほとんどコーヒーを飲まない。
唯一コーヒーを愛飲しているソーヤは、オフィスにいない。
また手が止まった。
だめだ。ここでも仕事ができない。
(とにかく、ワタリさんのだけでも淹れないと……下手だけど紅茶でいいよね)
棚の上段からリーフティーの缶を適当に引っ張り出す。
ポットに眼分量で茶葉を入れて、既に湯気を上げ始めているやかんをとった。
お湯を注いでいれるだけ、手順はそれほど複雑ではないのにどうしていつも失敗しているのだろう──。
「うあ、っつ!」
考えごとをしていたせいか、手許が狂った。
熱湯はポットの中ではなく、側面に勢いよくぶちまけられ、跳ねた水滴がヒナトのところまで飛んできたのだ。
驚いて咄嗟にやかんをテーブルに置いた。
キュロットの下にむき出しだったヒナトの脚に、こぼした湯がぼたぼたと垂れてくる。
火傷したかもしれない。
でも、それよりまた失態をしたことのほうが切ない。
とにかく火を消し元栓を閉めて、やかんを流しに移し、台拭きを手にとって、びしょ濡れになったテーブルをぬぐおうとした。
そこでまた手が震えた。
どうしよう。
もしかしたらヒナトは、ソーヤがいないと仕事ができないのかもしれない。
もともとぜんぜんできないけど、もっとダメな秘書になってしまうのかもしれない。
むしろ今現在進行形でなっている気がする。
なにせソーヤがいなければコーヒーを淹れる練習もできないし、分別する仕事だって意味がなくなってしまうし、かといって他の仕事をしようにも能力が足りなすぎる。
「うう」
泣きたい。
泣きたいけど、ここで泣いてはいけない。
これ以上足手まといになるわけにはいかないから、だから、泣いたらだめだ。
思えば思うほど、苦しさが喉許にこみ上げてくる。
どうしよう、どうしよう。
どうしようもない。
台拭きを握りしめて立ち尽くしていると、背後で給湯室の引き戸を開ける音がした。
「あれま。随分おそいなーと思ったら」
「ワ、タリさん」
そこに立っていたのは、呆れたような顔をしているワタリだった。
ヒナトが出て行ったきりもう三十分近く戻ってこないので見にきたらしい。
「どうもヒナトちゃんは仕事が手につかないみたいだね?」
「ごめんなさい、あの、あたし」
「言い訳はけっこう。……なにもサボってたとは思ってないよ。
ただ、この調子でこのあともいる気なら、いっそソーヤの看病しておいで」
突き離すような声音だった。
叱られているんだ、とヒナトは思った。
これはつまり、浮ついて仕事にならないのなら邪魔だ、と言われているのだ。
ヒナトが言葉に詰まっていると、仕事は僕がどーにかしとくよ、と言って、ワタリはすたすたと給湯室から出ていった。
ほんとうに言い訳どころか話さえ聞く気がないらしい。
呆れられたんだ。
ヒナトは愕然とした。
最悪の状況でひとりきりになってしまった。
ここでオフィスに戻っても、きっと同じことの繰り返しだろう。
ならばたしかに、ワタリの言うとおりにソーヤのところへ行って、そこで少しでも心を落ち着かせたほうがいいかもしれない。
後片付けを済ませてから、階段を上った。
途中、一班のオフィスから漏れる明かりが見えた。コンピュータの動く音もする。
そこでワタリが三人分の仕事をしているのを思うと、息が詰まった。
(ごめんなさい)
心の中でもう一度謝って、また階段に足をかけた。
・・・・・+
医務部につくと、なぜかそこにはタニラがいた。
ハンカチで顔を押さえて俯いているので、最初はどこか具合でも悪いのかと思った(そして何か伝染病でも流行っているのかとも思った)が、ヒナトの足音に顔を上げた彼女は泣いていた。
そして例のごとくヒナトを見とめた瞬間から般若へと変わった。
「あなた」
しかも声をかけられた。
いつも無視されているから、彼女と会話するのは数週間ぶりくらいになる。
「あなたはいったい、何をやってるのよ!」
そうしてタニラは強い口調でヒナトを叱責し始めた。
曰く、班長の体調管理も秘書の仕事だ、どうしてソーヤが倒れるまで何もしなかったのだ、突然倒れるわけがないのだからきっと前兆か何かあったはずだ、どうしてそれを見逃した、そのうえソーヤが倒れたというのに呑気に仕事に戻った、しかも中途半端に切り上げて今ごろやってきたのはどういうつもりだ、などなど。
ヒナトは何も答えられなかった。
タニラの言うとおりだと思った。
でも、それでもどうしても腹が立ったので、ひとつだけ言い返すことにした。
「たしかにソーヤさんの秘書はあたしです。今回はあたしのミスだと思います」
「そうでしょう!」
「じゃあタニラさんは? タニラさんは二班の秘書で、ソーヤさんの秘書じゃない。
なのにどうしてここにいるんですか? お仕事しなくていいんですか」
「そ、れは……あなたには関係ないでしょ。ちゃんと許可ももらってるんだから」
「関係あります、ソーヤさんの秘書はあたしなんですから!」
ヒナトの切り返しにタニラもうっと言葉を詰まらせる。
当然だ。
他の班の秘書であるタニラがここにいる理由など、何もないはずなのだから。
何の許可をもらってきたというのだ。
威嚇するように睨みつける。
しかしタニラも負けてはおらず、きっと睨み返してくる。
こういうときも美人のほうに分があるように思えて、ついでにヒナトの眉間にしわが増えた気がした。
「まあまあふたりとも、落ち着いて」
見かねた医務部員が仲裁に入る。先ほどヒナトに説明してくれていた若い人だ。
精密検査が終わったようで、ソーヤの横たわったベッドが運ばれてきた。
医務部員たちはそのまま個室に入っていくので、ヒナトとタニラも互いに腕をぶつけ合いながら、彼らの後をついていく。
四方を白い壁に囲まれた、寂しい感じのする部屋だ。
「あの、リクウさん、ソーヤくんは大丈夫なんですか? いつ眼を醒ますんですか……」
タニラは若い医務部員の腕を掴み、切実そうにそう尋ねる。
リクウと呼ばれた医務部員は少し困ったようすで、大丈夫だよ、と言った。
あまり説得力のない言いかただった。
ただ検査前に比べてソーヤの顔色は多少なりとましになっていた。
どんな検査をしたのかはしらないが、少しは治療のようなこともしたのだろうか。
「疲労かストレスじゃないかな。とにかく、そのうち眼を醒ますと思うから、それまで傍にいてあげてくれな。
あ、仲良くするんだぞ」
「無理です」
「あたしもです」
「……じつは仲いいんだろ、おまえたち」
仲直りしなさい、とリクウはふたりの頭をもしゃもしゃ撫でたが、ヒナトもタニラもお互いつんとそっぽを向いたままだった。
とてもじゃないが無理だ。
そもそもこれは喧嘩ではなくて、お互いのプライドとか意地とかのぶつかり合いなのだから。
いや、ほんとはヒナトとしては、同じ秘書仲間としてこういう対立は避けたい。
先にぶつかってきたのはタニラのほうだ。
一方的に敵視して、あらゆる手段でヒナトを排斥しようとしてきたのは彼女。
何が理由でそんなことをするのかヒナトにはわからないが、彼女のほうから和解を示してくれないことには、ヒナトにはどうしようもないと思う。
自分を嫌っている相手と仲良くなんて、できっこない。
ちらりとタニラを見た。
もうすっかりヒナトのことはどうでもよくなったのか、濡らしたタオルでソーヤの顔を拭っている。
しかもいつの間にか茶器とやかんまで用意してあるのだから、用意周到と言うべきか、手際がいいと言うべきか。
……というかそれは、ヒナトの仕事だろう!
「タニラさん、そーゆーことは秘書であるあたしがやりますから!」
「あなたみたいな秘書は失格よ失格! わたしがやるからオフィスに戻ってなさいな!」
「ぐっ……いやいや、タニラさんこそそろそろ戻ったほうがいいんじゃありませんか、ソーヤさんの秘書はあたしであってあなたじゃないんだし!」
「くうっ……あなたなんかがソーくんの秘書なんてずるい!
っていうかいいの、うちの班長も副官もそれなりに優秀なんだから、もう戻ったってほとんど仕事なんか残ってやしないわよ!」
「ずるくないです! ちゃんと正攻法でこの立場についてるんです!」
「知らないわよ!
あと今あなたのとこ副官ひとりだけなんでしょ、あなたみたいなのでも手伝ってあげたほうがいいんじゃないの?」
「大丈夫ですワタリさんってあれで意外に優秀なんです! たぶん!」
「あーだからふたりとも、ここいちおう他に病人が来たりするから、静かにしろよ……」
ぎゃあぎゃあと言い合っていると再びリクウの仲裁が入る。
が、ふたりの耳には届かない。
ストレスの原因ておまえらなんじゃないの、と後ろで呆れかえったリクウがぼやいているのも、もちろん聞こえてはいない。
とにかくだ。
ヒナトは、タニラがひたすらヒナトの仕事を奪おうとしていることだけは理解した。
そしてそれはヒナトとしては許し難いことだった。
燃え上がる感情は怒りに似ている。
たとえ容姿の美しさや手際で負けていようとも、秘書としてのプライドにかけて、仕事への情熱では負けない。
負けてはならない。
よくわからないけれど彼女にだけは絶対に負けたくない……!
しかしヒナトの眼光に炎が点ったそのときである。
すぐ近くで、誰かの声がしたのは。
「……うるっせ……」
すっかり炎上していたヒナトだったが、その声だけは聞き洩らさなかった。
タニラもそうだったようで、ふたりは同時に同じ方向を向いた。
白地にブルーのラインが入った清潔なベッドの上で、顔をしかめているソーヤ。
思わずがばっと音を立てる勢いで飛びつこうとする女子ふたりだが、リクウによって力いっぱい阻止された。
正しい判断だと思う。
ソーヤはうるさそうにふたりを眺める。
「ソーヤくん!」「ソーヤさん!」
「何ぎゃーぎゃー騒いでんだおまえら……こっちは頭痛えんだよ、コラ」
「あっ、ごめんねこの子がよくわかんないこと言うから……大丈夫? お茶飲む?」
「あたしのせいじゃないですよう……それよりソーヤさん、汗拭きましょうか?」
ともに鬼気迫る表情で、茶器一式を手に迫るタニラとタオルを押し付けようとするヒナト。
それなりに恐ろしい光景であったのではなかろうか。
しかし、これは戦いである。
ソーヤは少し悩んでから、
「……しいていうなら茶くれ」
と答えた。
さっそくヒナトは負けた。
→
医務部のベッドに横たわるソーヤの顔には血の気がなく、ヒナトには何かの病気なのではないかと思えてならなかった。
ソアが病気になるという話は聞いたことがなかったが、しかしそうでなければ、仕事中に突然倒れるなんてことがあるのだろうか。
応対してくれた若い医務部員によれば、簡単な検査ではまだ原因が特定できないらしい。
精密検査の準備をしている間見ていてほしいと言われたので、ヒナトは一旦仕事をワタリに任せ、ベッドの傍にあったパイプ椅子に座った。
それから何度かソーヤに話しかけてみたが、やはり反応はない。
……まるで死んでしまったみたい。
嫌な発想に、胸の奥がぎゅうと掴まれたような気がした。
縁起でもない。
丈夫になるよう遺伝子操作されているはずなのに、そう簡単に死ぬわけがないのに。
もしソーヤが死んでしまったら、これから一班の仕事を誰がするというのだ。
ワタリとヒナトだけでは手が回らないだろう。
ソーヤの分まで仕事をこなすには、ヒナトには頭脳も体力もなにもかも足りない。
それに、ヒナトは誰のために、まともなブラックコーヒーを淹れる練習をすればいい?
「う」
さっきから鼻が痛い。
いや、鼻だけじゃなくて身体じゅうが痛い気もする。
泣きそうになってきたのをどうにかこうにか堪えていると、さっきの医務部員が戻ってきた。
検査の準備ができたらしい。
ソーヤはキャスターつきのベッドに寝かされていたので、そのまま検査室へと運ばれていく。
ヒナトはそれを見送ってから、オフィスに戻った。
当たり前の話だがオフィスではワタリがひとりで仕事をしていた。
いつもガキ大将がふんぞり返っている中央の椅子は、今はからっぽだ。
それを改めて確認するのが辛かった。
ワタリとヒナトとの、互いの椅子の間にこれほどの距離があったことも初めて気がついた。
おかえり、と優しい声でワタリが言う。
「どうだった」
「原因がよくわからないんで、今から精密検査です」
「そっか」
「まさかあたしのココアが甘すぎて気絶した、なーんてことは、ないですよ、ね……」
「はは、ありそう。
……じゃ、仕事しようか。少しは進めないと、あいつが戻ってきたら絶対あほみたいに文句垂れるだろうからさ」
精一杯の冗談も声が震えてしまう。
それでもワタリがちゃんといつもどおりの返事をしてくれるので、ヒナトは少しだけほっとした。
そうだ、仕事に戻ろう。
きっとソーヤは元気になって帰ってくる。そうに決まっている。
戻ってきたら、いつものようにヒナトをいじめて、コーヒーがまずいのなんのと難癖とつけてくるに違いない。
コンピュータに向きなおって、待機中の表示をした画面をタッチする。
医務部に行っている間に作業ボックスにはたくさんのファイルが溜まっていた。
この中にはラボや他の班から送られてきたデータが入っていて、ヒナトはそれを分別して上官ふたりに送るのだ。
相変わらず簡単な仕事だ。
しかも今日はソーヤがいないわけだから、どうせほとんどワタリが処理することになる。
手が止まった。
仕事なんて、ないじゃないか。
ヒナトはなんのためにここにいるんだ。
こうしてこの秘書の椅子に座っている必要なんて、どこにもないじゃないか。
「あ、あたし、お茶淹れてきますね」
そう言って立ち上がる。
ワタリの返事を聞く前に部屋を飛び出す。
自分でもなぜパニックに陥っているのかはわからなかったが、とにかくあのままただ座っているのが嫌だった。
何かもっと仕事らしい仕事をしなければ。
お茶酌みでもなんでもいい、とにかく何か、役に立てるようなことをしなければ。
給湯室は無人だった。
湯を沸かしながら、棚を探る。
紅茶は失敗するかもしれないからココア。
……いやだめだ、あんなことがあった後なのに。
じゃあ、コーヒー?
……それもだめだ、飲む人がいない。
ヒナトはもちろんワタリもほとんどコーヒーを飲まない。
唯一コーヒーを愛飲しているソーヤは、オフィスにいない。
また手が止まった。
だめだ。ここでも仕事ができない。
(とにかく、ワタリさんのだけでも淹れないと……下手だけど紅茶でいいよね)
棚の上段からリーフティーの缶を適当に引っ張り出す。
ポットに眼分量で茶葉を入れて、既に湯気を上げ始めているやかんをとった。
お湯を注いでいれるだけ、手順はそれほど複雑ではないのにどうしていつも失敗しているのだろう──。
「うあ、っつ!」
考えごとをしていたせいか、手許が狂った。
熱湯はポットの中ではなく、側面に勢いよくぶちまけられ、跳ねた水滴がヒナトのところまで飛んできたのだ。
驚いて咄嗟にやかんをテーブルに置いた。
キュロットの下にむき出しだったヒナトの脚に、こぼした湯がぼたぼたと垂れてくる。
火傷したかもしれない。
でも、それよりまた失態をしたことのほうが切ない。
とにかく火を消し元栓を閉めて、やかんを流しに移し、台拭きを手にとって、びしょ濡れになったテーブルをぬぐおうとした。
そこでまた手が震えた。
どうしよう。
もしかしたらヒナトは、ソーヤがいないと仕事ができないのかもしれない。
もともとぜんぜんできないけど、もっとダメな秘書になってしまうのかもしれない。
むしろ今現在進行形でなっている気がする。
なにせソーヤがいなければコーヒーを淹れる練習もできないし、分別する仕事だって意味がなくなってしまうし、かといって他の仕事をしようにも能力が足りなすぎる。
「うう」
泣きたい。
泣きたいけど、ここで泣いてはいけない。
これ以上足手まといになるわけにはいかないから、だから、泣いたらだめだ。
思えば思うほど、苦しさが喉許にこみ上げてくる。
どうしよう、どうしよう。
どうしようもない。
台拭きを握りしめて立ち尽くしていると、背後で給湯室の引き戸を開ける音がした。
「あれま。随分おそいなーと思ったら」
「ワ、タリさん」
そこに立っていたのは、呆れたような顔をしているワタリだった。
ヒナトが出て行ったきりもう三十分近く戻ってこないので見にきたらしい。
「どうもヒナトちゃんは仕事が手につかないみたいだね?」
「ごめんなさい、あの、あたし」
「言い訳はけっこう。……なにもサボってたとは思ってないよ。
ただ、この調子でこのあともいる気なら、いっそソーヤの看病しておいで」
突き離すような声音だった。
叱られているんだ、とヒナトは思った。
これはつまり、浮ついて仕事にならないのなら邪魔だ、と言われているのだ。
ヒナトが言葉に詰まっていると、仕事は僕がどーにかしとくよ、と言って、ワタリはすたすたと給湯室から出ていった。
ほんとうに言い訳どころか話さえ聞く気がないらしい。
呆れられたんだ。
ヒナトは愕然とした。
最悪の状況でひとりきりになってしまった。
ここでオフィスに戻っても、きっと同じことの繰り返しだろう。
ならばたしかに、ワタリの言うとおりにソーヤのところへ行って、そこで少しでも心を落ち着かせたほうがいいかもしれない。
後片付けを済ませてから、階段を上った。
途中、一班のオフィスから漏れる明かりが見えた。コンピュータの動く音もする。
そこでワタリが三人分の仕事をしているのを思うと、息が詰まった。
(ごめんなさい)
心の中でもう一度謝って、また階段に足をかけた。
・・・・・+
医務部につくと、なぜかそこにはタニラがいた。
ハンカチで顔を押さえて俯いているので、最初はどこか具合でも悪いのかと思った(そして何か伝染病でも流行っているのかとも思った)が、ヒナトの足音に顔を上げた彼女は泣いていた。
そして例のごとくヒナトを見とめた瞬間から般若へと変わった。
「あなた」
しかも声をかけられた。
いつも無視されているから、彼女と会話するのは数週間ぶりくらいになる。
「あなたはいったい、何をやってるのよ!」
そうしてタニラは強い口調でヒナトを叱責し始めた。
曰く、班長の体調管理も秘書の仕事だ、どうしてソーヤが倒れるまで何もしなかったのだ、突然倒れるわけがないのだからきっと前兆か何かあったはずだ、どうしてそれを見逃した、そのうえソーヤが倒れたというのに呑気に仕事に戻った、しかも中途半端に切り上げて今ごろやってきたのはどういうつもりだ、などなど。
ヒナトは何も答えられなかった。
タニラの言うとおりだと思った。
でも、それでもどうしても腹が立ったので、ひとつだけ言い返すことにした。
「たしかにソーヤさんの秘書はあたしです。今回はあたしのミスだと思います」
「そうでしょう!」
「じゃあタニラさんは? タニラさんは二班の秘書で、ソーヤさんの秘書じゃない。
なのにどうしてここにいるんですか? お仕事しなくていいんですか」
「そ、れは……あなたには関係ないでしょ。ちゃんと許可ももらってるんだから」
「関係あります、ソーヤさんの秘書はあたしなんですから!」
ヒナトの切り返しにタニラもうっと言葉を詰まらせる。
当然だ。
他の班の秘書であるタニラがここにいる理由など、何もないはずなのだから。
何の許可をもらってきたというのだ。
威嚇するように睨みつける。
しかしタニラも負けてはおらず、きっと睨み返してくる。
こういうときも美人のほうに分があるように思えて、ついでにヒナトの眉間にしわが増えた気がした。
「まあまあふたりとも、落ち着いて」
見かねた医務部員が仲裁に入る。先ほどヒナトに説明してくれていた若い人だ。
精密検査が終わったようで、ソーヤの横たわったベッドが運ばれてきた。
医務部員たちはそのまま個室に入っていくので、ヒナトとタニラも互いに腕をぶつけ合いながら、彼らの後をついていく。
四方を白い壁に囲まれた、寂しい感じのする部屋だ。
「あの、リクウさん、ソーヤくんは大丈夫なんですか? いつ眼を醒ますんですか……」
タニラは若い医務部員の腕を掴み、切実そうにそう尋ねる。
リクウと呼ばれた医務部員は少し困ったようすで、大丈夫だよ、と言った。
あまり説得力のない言いかただった。
ただ検査前に比べてソーヤの顔色は多少なりとましになっていた。
どんな検査をしたのかはしらないが、少しは治療のようなこともしたのだろうか。
「疲労かストレスじゃないかな。とにかく、そのうち眼を醒ますと思うから、それまで傍にいてあげてくれな。
あ、仲良くするんだぞ」
「無理です」
「あたしもです」
「……じつは仲いいんだろ、おまえたち」
仲直りしなさい、とリクウはふたりの頭をもしゃもしゃ撫でたが、ヒナトもタニラもお互いつんとそっぽを向いたままだった。
とてもじゃないが無理だ。
そもそもこれは喧嘩ではなくて、お互いのプライドとか意地とかのぶつかり合いなのだから。
いや、ほんとはヒナトとしては、同じ秘書仲間としてこういう対立は避けたい。
先にぶつかってきたのはタニラのほうだ。
一方的に敵視して、あらゆる手段でヒナトを排斥しようとしてきたのは彼女。
何が理由でそんなことをするのかヒナトにはわからないが、彼女のほうから和解を示してくれないことには、ヒナトにはどうしようもないと思う。
自分を嫌っている相手と仲良くなんて、できっこない。
ちらりとタニラを見た。
もうすっかりヒナトのことはどうでもよくなったのか、濡らしたタオルでソーヤの顔を拭っている。
しかもいつの間にか茶器とやかんまで用意してあるのだから、用意周到と言うべきか、手際がいいと言うべきか。
……というかそれは、ヒナトの仕事だろう!
「タニラさん、そーゆーことは秘書であるあたしがやりますから!」
「あなたみたいな秘書は失格よ失格! わたしがやるからオフィスに戻ってなさいな!」
「ぐっ……いやいや、タニラさんこそそろそろ戻ったほうがいいんじゃありませんか、ソーヤさんの秘書はあたしであってあなたじゃないんだし!」
「くうっ……あなたなんかがソーくんの秘書なんてずるい!
っていうかいいの、うちの班長も副官もそれなりに優秀なんだから、もう戻ったってほとんど仕事なんか残ってやしないわよ!」
「ずるくないです! ちゃんと正攻法でこの立場についてるんです!」
「知らないわよ!
あと今あなたのとこ副官ひとりだけなんでしょ、あなたみたいなのでも手伝ってあげたほうがいいんじゃないの?」
「大丈夫ですワタリさんってあれで意外に優秀なんです! たぶん!」
「あーだからふたりとも、ここいちおう他に病人が来たりするから、静かにしろよ……」
ぎゃあぎゃあと言い合っていると再びリクウの仲裁が入る。
が、ふたりの耳には届かない。
ストレスの原因ておまえらなんじゃないの、と後ろで呆れかえったリクウがぼやいているのも、もちろん聞こえてはいない。
とにかくだ。
ヒナトは、タニラがひたすらヒナトの仕事を奪おうとしていることだけは理解した。
そしてそれはヒナトとしては許し難いことだった。
燃え上がる感情は怒りに似ている。
たとえ容姿の美しさや手際で負けていようとも、秘書としてのプライドにかけて、仕事への情熱では負けない。
負けてはならない。
よくわからないけれど彼女にだけは絶対に負けたくない……!
しかしヒナトの眼光に炎が点ったそのときである。
すぐ近くで、誰かの声がしたのは。
「……うるっせ……」
すっかり炎上していたヒナトだったが、その声だけは聞き洩らさなかった。
タニラもそうだったようで、ふたりは同時に同じ方向を向いた。
白地にブルーのラインが入った清潔なベッドの上で、顔をしかめているソーヤ。
思わずがばっと音を立てる勢いで飛びつこうとする女子ふたりだが、リクウによって力いっぱい阻止された。
正しい判断だと思う。
ソーヤはうるさそうにふたりを眺める。
「ソーヤくん!」「ソーヤさん!」
「何ぎゃーぎゃー騒いでんだおまえら……こっちは頭痛えんだよ、コラ」
「あっ、ごめんねこの子がよくわかんないこと言うから……大丈夫? お茶飲む?」
「あたしのせいじゃないですよう……それよりソーヤさん、汗拭きましょうか?」
ともに鬼気迫る表情で、茶器一式を手に迫るタニラとタオルを押し付けようとするヒナト。
それなりに恐ろしい光景であったのではなかろうか。
しかし、これは戦いである。
ソーヤは少し悩んでから、
「……しいていうなら茶くれ」
と答えた。
さっそくヒナトは負けた。
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※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
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