210 / 215
幸福の国 アンハナケウ
210 潮見ヶ丘の昼下がり
しおりを挟む
:::
少しも悪びれるようすのないカツオドリは、そのまま丘の上に降り立った。
眼下に海と港が一望できる場所だった。
足元は晩秋の野草が小さな花をまばらに揺らし、空はパリセラの仲間であろう他のカツオドリや、カモメなどの海鳥が優雅に舞っている。
少しふらつく足で地面に降りたウリヴィヤは、それらを見てほうっと息を吐いた。
ロンショットはそんな彼女の手をとって支えつつ、パリセラに今一度注意する。
「……どういうつもりなんだ。勝手に道を逸れたうえに、人を乗せながらあんな危険な飛行をして」
『申し訳ございません。その、少しは気が紛れるのではないかと思いましたもので……それに、旦那さまがお客さまを落っことしたりするはずがないと、私は信じておりましたよ』
「だからって」
ほんとうに危なかったのだ、と語気を強めようとしたロンショットの袖を、隣のウリヴィヤが小さく引いた。
「そんなに責めなくていいわ。……気が紛れたのはほんとうだもの。むしろ、その、少しだけ……楽しかったから……。
ありがとう、パリセラ。気を遣ってくれたのよね」
カツオドリは微笑むように眼を細めた。
ウリヴィヤにそう言われてはロンショットもこれ以上彼女を叱れず、言葉の代わりに溜息だけを吐く。
確かにまっすぐ家に帰るより、こうした見晴らしのいい場所で休むのもいいかもしれない。
日の入りまではまだ少し時間もある。
そういうことか、と声には出さずに遣獣を見やると、彼女は意味ありげに喉を鳴らした。
パリセラは少し家族の顔を見てくると言うので、白い姿が海原のほうへ消えるのを見送ってから、残ったふたりは丘の上の草地にそろそろと腰を下ろす。
そうすると視界に入るのは水平線だけになった。
遠くから潮騒が聞こえる。
ロンショットは胸に提げた階級章が錆びつくかもしれないと気付き、軽く保護の紋唱を行った。
手袋の指先に銀色の光が散るのをウリヴィヤが興味深げに眺めている。
彼女は紋唱術師ではない。父親の意向で習わなかったのだと聞いている。
アウレアシノン、いや、マヌルド全体でそういう女性は少なくない。
「……ねえ、あなたはリュシーナのことを知ってた?」
ふいにウリヴィヤはそんな質問を投げかけてきた。
ロンショットは静かに首を振り、自分はそういうことには疎いので、と答える。
リュシーナ・バルカレッテという女性がいた。
下級貴族の令嬢で、ウリヴィヤと同じく父親が軍将校であったが、ロンショットは部署などが離れていたため彼とはほとんど面識がない。
親のことすらよく知らないので、その娘など聞いたこともなかった。
彼女には親の決めた婚約者がいたけれど、愛したのはヴァルハーレただひとりだった。
恐らくアウレアシノンに同じような女は数多くいただろう。
目の前にいるウリヴィヤがそうであるように。
ヴァルハーレほど多くの女を弄んだ男は他にいないし、この先も現れないでほしいとロンショットは思う。
女たちは彼を愛し、さまざまなものを捧げたけれど、ヴァルハーレは受け取るだけで与えることはなかった。
形ばかりの愛の言葉を囁いても、そこに彼の心はなかった。
女たちはそれを知っていて、それでも彼に縋りついた──彼に抱かれながらスニエリタを呪った。
それくらいは部外者のロンショットにもわかる。
遠目からスニエリタを睨みつけている女の姿を何度も目の当たりにしたからだ。
間違いなくリュシーナもそのひとりだったろう。
そして彼女の暗い情念は、ついにヴァルハーレ本人に向けられた。
訪ねてきた彼を受け入れて、褥の中に秘めていた刃で、彼の胸を貫いたのだ。
──心臓をえぐり出そうとしたようだったと、彼を視た医者が言っていた。
そして彼女はもういない。
愛した男の血の海に溺れて、自らその喉を掻き切ったからだ。
果たしてその傷口から噴き出たものは憎悪だったのか、それとも血まみれの愛だったのか、唯一それを知る彼女自身はもうこの世を去ってしまった。
「……ウリヴィヤさんは」
「何度か、バルカレッテ家の食事会に招かれて、父についていったの。少し話したこともあるわ。
きれいな女だった。頭が良くて……爵位もあって、いいお家に暮らしてるのに、それでも幸せにはなれないのね」
この国の女の幸せは、男が決めている。
昔からずっとそうで、そう簡単には変わらない。
「私、……あの人の気持ちがわかるわ。私も同じことをしたと思うから」
「同じこと、とは……」
「クラリオを殺そうってずっと思ってた。彼がクイネス家のお嬢さまと婚約した日から……どうやって殺してやろうか、どうすればこの気持ちがクラリオに伝わるだろうって……考えずにはいられなかった。
私は早いうちに捨てられたから、殺せなかった。
私と彼女の違いはそれだけよ」
ウリヴィヤはそう言って、馬鹿みたいでしょう、と自嘲気味に笑った。
そしてロンショットは自らの思い違いを知ったのだった。
ウリヴィヤが暗い顔をしていたのは愛するヴァルハーレが死にかけているからではなく、彼を殺そうとしたのが自分ではないからなのだ。
愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいるが、しかし彼女やリュシーナをそこまで思い詰めさせたのは、あの男の不誠実さに他ならない。
馬鹿なものか。
華奢な膝の上で震えている小さな手──あまりにも白くかよわいそれに、ロンショットは上からそっと黒手袋を重ねて答える。
「よかったです」
「……え?」
ウリヴィヤが顔を上げる。
彼女は泣いてはいない。まるで、自分にはその権利がないとでもいうかのように。
「あなたが人殺しにならずにすんで、よかったと自分は思います。……バルカレッテ嬢のことはとても残念ですが」
「どうして……」
「人を殺めるのは軍人(われわれ)の仕事ですから……どんな理由があろうと、あなたにあんなものを経験してほしくないんです。
だから、よかった。あなたの手はきれいだ」
しょせんはロンショット個人のエゴでしかない、自分でもそれはよくわかっていたが、そう言わずにはいられなかった。
ウリヴィヤの手が汚れていないことを心底よかったと思えた。
彼女は不実な男に振り回された被害者であって、加害者ではない。
まして罪人などではないのだ。
たとえ彼を殺したいほど憎んでいたとしても、その源は初めはたしかに愛であったのだから。
しばらくウリヴィヤは何も言わなかった。
重ねられた手を退けようともせず、黙ったまま俯いていたが、そのうちぽつりと水音がした。
また雨が降り出したかとロンショットは空を見上げたが、天上は茜色に染まっているだけで、薄黒い雲の姿はもうどこにもない。
濡れたのは手袋の上だった。
小さな水滴がひとつ、手の甲に丸い染みを作っている。
「……どうしてそんなに優しいの……」
呻くようにウリヴィヤがそう言った。
また水滴が手袋の革地を濡らす。
そのまま彼女は堪えていた涙を少しずつ零し始めた。
声を押し殺して泣きじゃくるウリヴィヤの、細い肩を抱いたものかロンショットは躊躇い、ひと呼吸おいてから意を決して手を伸ばす。
彼女は拒むことなくロンショットの胸に顔を埋めた。
小さな身体を震わせて泣くウリヴィヤを見つめながら、同じ境遇の女があと何人いるのだろうかとロンショットは憂えた。
誰かが傍にいてやればいいが、そうでない女もいるだろう。
ロンショットはその全員を救うことなどできない。
腕は二本しかないし、口もひとつしかない。
そもそも男女の情や女心には疎く、今もウリヴィヤひとりにさえ、上手く慰めの言葉をかけてやれた自信がないのだ。
それでも彼女はロンショットのことを優しいという。
甘いと言い換えてもいいだろう。
将軍にもよく指摘されている。
だからおまえは軍人に向いていない、と何度言われたかもう覚えていないほどだ。
確かに軍の、それも治安維持部に勤める者としては甘さは短所になる。
けれども今はそれでいいと思っている。
ウリヴィヤを見て、男に捨てられた愚かな女だと嗤うことは簡単だが、ロンショットはその涙を受け止めてやりたいのだ。
これがたとえエゴでも、自己満足や偽善であろうとも。
スニエリタを救えなかった。
彼女を立ち上がらせたのは外国から来た少年たちで、彼らはロンショットより遥かに弱い立場や苦境にあったらしいのに、それを感じさせないほど強かった。
腕ではなく心が強かだった。
彼らがいてくれたからこそ、ロンショットもヴァルハーレに立ち向かえた。
そしてスニエリタは見違えるほど明るくなった。
そのことはほんとうに心から感謝している。
そしてどこかで憧れてもいるのだ。
だからロンショットは今、ウリヴィヤの支えになりたいと願っている。
他に適任者がいるかどうかはどうだっていい。
するべきだと思うことを、正しいと信じることをして、己の心に悖らない男になりたいのだ。
願う。
祈る。
望み、希う。
──我がクシエリスルの神なる大河の主よ、私は強くなりたい。
この人の涙を止められるほどに。
しばらくして、ふたりは戻ってきたカツオドリの背に再び騎乗した。
陽が完全に沈んでしまう前にアウレアシノンまで帰りつかなければならない。
さほど距離はないとはいえ急がなければならなかった。
今度はロンショットが何を言うまでもなく、ウリヴィヤはその身体を彼に預けた。
西の彼方には太陽が明々と燃えている。
伝説によれば、その先に幸福の国があるという。
そういえば少年たちの旅がどのような結末を迎えたのかを知らないままだ、とロンショットは思い至り、明日は朝いちばんに将軍邸へ顔を出そうと決める。
そろそろスニエリタも帰ってきたかもしれない。
だとしたらきっと将軍は心配で怒り狂っているだろうから、それを宥めるのはロンショットの役目だ。
ミルンやララキも一緒だろうか。
ララキのほうはしばらく会っていないが元気だろうか。
そしてミルンのほうは、どうやらスニエリタとはよい仲になりつつあるようだが、果たしてあの将軍がそれを許すかどうか。
もちろん烈火のごとく反対するに違いないわけだが、彼ならきっと立ち向かうだろう。
それどころかスニエリタのほうがかなり強固に主張していると夫人が言っていた。
彼女は大人しいようでいて、やはり根幹のところで間違いなくクイネス将軍の娘なのだ。
今度もやはりロンショットは、彼女の味方になりたいと思う。
そして落ち着いたら、世にも稀なる少年少女の冒険についてじっくりと話を聞かせてもらうのが、今のロンショットの密かな楽しみのひとつになりそうだった。
「……なんだか楽しそうね。何を考えているの?」
「いえ」
ふとウリヴィヤがそう言った。
顔に出ていたかと苦笑しながら、なんでもないと言おうとして、ロンショットは少し考える。
そして、どこの父親も娘を心配する気持ちに変わりはないだろうと思い至った。
「その……あなたをこんな時間まで連れまわしたことについて、ナジエ中佐にお叱りをいただくかもしれませんね」
「平気よ、知りもしないと思うわ。今日は夜番だと言っていたもの」
「ですがお母さまはご自宅にいらっしゃるでしょう?」
どのみち伝わってしまうのではないか、とロンショットは思ったが、ウリヴィヤは困ったように笑って呟いた。
「……むしろ歓迎されるかもね、あなたなら」
「え?」
「なんでもないわ」
翼に裂かれた風音に紛れていたうえ、かなり小さな声だったので、ロンショットにはウリヴィヤの声がよく聞こえなかった。
しかしウリヴィヤはそれ以上は何も言わず、そしてロンショットも敢えて追及はしなかった。
なぜなら彼女が微かに笑っているのが見えたから、悪いことではないらしいとわかったからだ。
→
少しも悪びれるようすのないカツオドリは、そのまま丘の上に降り立った。
眼下に海と港が一望できる場所だった。
足元は晩秋の野草が小さな花をまばらに揺らし、空はパリセラの仲間であろう他のカツオドリや、カモメなどの海鳥が優雅に舞っている。
少しふらつく足で地面に降りたウリヴィヤは、それらを見てほうっと息を吐いた。
ロンショットはそんな彼女の手をとって支えつつ、パリセラに今一度注意する。
「……どういうつもりなんだ。勝手に道を逸れたうえに、人を乗せながらあんな危険な飛行をして」
『申し訳ございません。その、少しは気が紛れるのではないかと思いましたもので……それに、旦那さまがお客さまを落っことしたりするはずがないと、私は信じておりましたよ』
「だからって」
ほんとうに危なかったのだ、と語気を強めようとしたロンショットの袖を、隣のウリヴィヤが小さく引いた。
「そんなに責めなくていいわ。……気が紛れたのはほんとうだもの。むしろ、その、少しだけ……楽しかったから……。
ありがとう、パリセラ。気を遣ってくれたのよね」
カツオドリは微笑むように眼を細めた。
ウリヴィヤにそう言われてはロンショットもこれ以上彼女を叱れず、言葉の代わりに溜息だけを吐く。
確かにまっすぐ家に帰るより、こうした見晴らしのいい場所で休むのもいいかもしれない。
日の入りまではまだ少し時間もある。
そういうことか、と声には出さずに遣獣を見やると、彼女は意味ありげに喉を鳴らした。
パリセラは少し家族の顔を見てくると言うので、白い姿が海原のほうへ消えるのを見送ってから、残ったふたりは丘の上の草地にそろそろと腰を下ろす。
そうすると視界に入るのは水平線だけになった。
遠くから潮騒が聞こえる。
ロンショットは胸に提げた階級章が錆びつくかもしれないと気付き、軽く保護の紋唱を行った。
手袋の指先に銀色の光が散るのをウリヴィヤが興味深げに眺めている。
彼女は紋唱術師ではない。父親の意向で習わなかったのだと聞いている。
アウレアシノン、いや、マヌルド全体でそういう女性は少なくない。
「……ねえ、あなたはリュシーナのことを知ってた?」
ふいにウリヴィヤはそんな質問を投げかけてきた。
ロンショットは静かに首を振り、自分はそういうことには疎いので、と答える。
リュシーナ・バルカレッテという女性がいた。
下級貴族の令嬢で、ウリヴィヤと同じく父親が軍将校であったが、ロンショットは部署などが離れていたため彼とはほとんど面識がない。
親のことすらよく知らないので、その娘など聞いたこともなかった。
彼女には親の決めた婚約者がいたけれど、愛したのはヴァルハーレただひとりだった。
恐らくアウレアシノンに同じような女は数多くいただろう。
目の前にいるウリヴィヤがそうであるように。
ヴァルハーレほど多くの女を弄んだ男は他にいないし、この先も現れないでほしいとロンショットは思う。
女たちは彼を愛し、さまざまなものを捧げたけれど、ヴァルハーレは受け取るだけで与えることはなかった。
形ばかりの愛の言葉を囁いても、そこに彼の心はなかった。
女たちはそれを知っていて、それでも彼に縋りついた──彼に抱かれながらスニエリタを呪った。
それくらいは部外者のロンショットにもわかる。
遠目からスニエリタを睨みつけている女の姿を何度も目の当たりにしたからだ。
間違いなくリュシーナもそのひとりだったろう。
そして彼女の暗い情念は、ついにヴァルハーレ本人に向けられた。
訪ねてきた彼を受け入れて、褥の中に秘めていた刃で、彼の胸を貫いたのだ。
──心臓をえぐり出そうとしたようだったと、彼を視た医者が言っていた。
そして彼女はもういない。
愛した男の血の海に溺れて、自らその喉を掻き切ったからだ。
果たしてその傷口から噴き出たものは憎悪だったのか、それとも血まみれの愛だったのか、唯一それを知る彼女自身はもうこの世を去ってしまった。
「……ウリヴィヤさんは」
「何度か、バルカレッテ家の食事会に招かれて、父についていったの。少し話したこともあるわ。
きれいな女だった。頭が良くて……爵位もあって、いいお家に暮らしてるのに、それでも幸せにはなれないのね」
この国の女の幸せは、男が決めている。
昔からずっとそうで、そう簡単には変わらない。
「私、……あの人の気持ちがわかるわ。私も同じことをしたと思うから」
「同じこと、とは……」
「クラリオを殺そうってずっと思ってた。彼がクイネス家のお嬢さまと婚約した日から……どうやって殺してやろうか、どうすればこの気持ちがクラリオに伝わるだろうって……考えずにはいられなかった。
私は早いうちに捨てられたから、殺せなかった。
私と彼女の違いはそれだけよ」
ウリヴィヤはそう言って、馬鹿みたいでしょう、と自嘲気味に笑った。
そしてロンショットは自らの思い違いを知ったのだった。
ウリヴィヤが暗い顔をしていたのは愛するヴァルハーレが死にかけているからではなく、彼を殺そうとしたのが自分ではないからなのだ。
愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいるが、しかし彼女やリュシーナをそこまで思い詰めさせたのは、あの男の不誠実さに他ならない。
馬鹿なものか。
華奢な膝の上で震えている小さな手──あまりにも白くかよわいそれに、ロンショットは上からそっと黒手袋を重ねて答える。
「よかったです」
「……え?」
ウリヴィヤが顔を上げる。
彼女は泣いてはいない。まるで、自分にはその権利がないとでもいうかのように。
「あなたが人殺しにならずにすんで、よかったと自分は思います。……バルカレッテ嬢のことはとても残念ですが」
「どうして……」
「人を殺めるのは軍人(われわれ)の仕事ですから……どんな理由があろうと、あなたにあんなものを経験してほしくないんです。
だから、よかった。あなたの手はきれいだ」
しょせんはロンショット個人のエゴでしかない、自分でもそれはよくわかっていたが、そう言わずにはいられなかった。
ウリヴィヤの手が汚れていないことを心底よかったと思えた。
彼女は不実な男に振り回された被害者であって、加害者ではない。
まして罪人などではないのだ。
たとえ彼を殺したいほど憎んでいたとしても、その源は初めはたしかに愛であったのだから。
しばらくウリヴィヤは何も言わなかった。
重ねられた手を退けようともせず、黙ったまま俯いていたが、そのうちぽつりと水音がした。
また雨が降り出したかとロンショットは空を見上げたが、天上は茜色に染まっているだけで、薄黒い雲の姿はもうどこにもない。
濡れたのは手袋の上だった。
小さな水滴がひとつ、手の甲に丸い染みを作っている。
「……どうしてそんなに優しいの……」
呻くようにウリヴィヤがそう言った。
また水滴が手袋の革地を濡らす。
そのまま彼女は堪えていた涙を少しずつ零し始めた。
声を押し殺して泣きじゃくるウリヴィヤの、細い肩を抱いたものかロンショットは躊躇い、ひと呼吸おいてから意を決して手を伸ばす。
彼女は拒むことなくロンショットの胸に顔を埋めた。
小さな身体を震わせて泣くウリヴィヤを見つめながら、同じ境遇の女があと何人いるのだろうかとロンショットは憂えた。
誰かが傍にいてやればいいが、そうでない女もいるだろう。
ロンショットはその全員を救うことなどできない。
腕は二本しかないし、口もひとつしかない。
そもそも男女の情や女心には疎く、今もウリヴィヤひとりにさえ、上手く慰めの言葉をかけてやれた自信がないのだ。
それでも彼女はロンショットのことを優しいという。
甘いと言い換えてもいいだろう。
将軍にもよく指摘されている。
だからおまえは軍人に向いていない、と何度言われたかもう覚えていないほどだ。
確かに軍の、それも治安維持部に勤める者としては甘さは短所になる。
けれども今はそれでいいと思っている。
ウリヴィヤを見て、男に捨てられた愚かな女だと嗤うことは簡単だが、ロンショットはその涙を受け止めてやりたいのだ。
これがたとえエゴでも、自己満足や偽善であろうとも。
スニエリタを救えなかった。
彼女を立ち上がらせたのは外国から来た少年たちで、彼らはロンショットより遥かに弱い立場や苦境にあったらしいのに、それを感じさせないほど強かった。
腕ではなく心が強かだった。
彼らがいてくれたからこそ、ロンショットもヴァルハーレに立ち向かえた。
そしてスニエリタは見違えるほど明るくなった。
そのことはほんとうに心から感謝している。
そしてどこかで憧れてもいるのだ。
だからロンショットは今、ウリヴィヤの支えになりたいと願っている。
他に適任者がいるかどうかはどうだっていい。
するべきだと思うことを、正しいと信じることをして、己の心に悖らない男になりたいのだ。
願う。
祈る。
望み、希う。
──我がクシエリスルの神なる大河の主よ、私は強くなりたい。
この人の涙を止められるほどに。
しばらくして、ふたりは戻ってきたカツオドリの背に再び騎乗した。
陽が完全に沈んでしまう前にアウレアシノンまで帰りつかなければならない。
さほど距離はないとはいえ急がなければならなかった。
今度はロンショットが何を言うまでもなく、ウリヴィヤはその身体を彼に預けた。
西の彼方には太陽が明々と燃えている。
伝説によれば、その先に幸福の国があるという。
そういえば少年たちの旅がどのような結末を迎えたのかを知らないままだ、とロンショットは思い至り、明日は朝いちばんに将軍邸へ顔を出そうと決める。
そろそろスニエリタも帰ってきたかもしれない。
だとしたらきっと将軍は心配で怒り狂っているだろうから、それを宥めるのはロンショットの役目だ。
ミルンやララキも一緒だろうか。
ララキのほうはしばらく会っていないが元気だろうか。
そしてミルンのほうは、どうやらスニエリタとはよい仲になりつつあるようだが、果たしてあの将軍がそれを許すかどうか。
もちろん烈火のごとく反対するに違いないわけだが、彼ならきっと立ち向かうだろう。
それどころかスニエリタのほうがかなり強固に主張していると夫人が言っていた。
彼女は大人しいようでいて、やはり根幹のところで間違いなくクイネス将軍の娘なのだ。
今度もやはりロンショットは、彼女の味方になりたいと思う。
そして落ち着いたら、世にも稀なる少年少女の冒険についてじっくりと話を聞かせてもらうのが、今のロンショットの密かな楽しみのひとつになりそうだった。
「……なんだか楽しそうね。何を考えているの?」
「いえ」
ふとウリヴィヤがそう言った。
顔に出ていたかと苦笑しながら、なんでもないと言おうとして、ロンショットは少し考える。
そして、どこの父親も娘を心配する気持ちに変わりはないだろうと思い至った。
「その……あなたをこんな時間まで連れまわしたことについて、ナジエ中佐にお叱りをいただくかもしれませんね」
「平気よ、知りもしないと思うわ。今日は夜番だと言っていたもの」
「ですがお母さまはご自宅にいらっしゃるでしょう?」
どのみち伝わってしまうのではないか、とロンショットは思ったが、ウリヴィヤは困ったように笑って呟いた。
「……むしろ歓迎されるかもね、あなたなら」
「え?」
「なんでもないわ」
翼に裂かれた風音に紛れていたうえ、かなり小さな声だったので、ロンショットにはウリヴィヤの声がよく聞こえなかった。
しかしウリヴィヤはそれ以上は何も言わず、そしてロンショットも敢えて追及はしなかった。
なぜなら彼女が微かに笑っているのが見えたから、悪いことではないらしいとわかったからだ。
→
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる