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幸福の国 アンハナケウ
202 部族長の弟と将軍の娘
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ミルンとスニエリタは、クイネス邸の広間でヴァルハーレの身に起きたことを知った。
マヌルドの神々に紋章を奉納する間も国内に出入りはしていたが、クイネス邸には立ち寄っていなかった。
ひとまずスニエリタを送り、自分は一般地区で宿でもとろうと思っていたミルンだったが、スニエリタがぜひと言うので邸宅にお邪魔したのだ。
それなら家主に一言挨拶をするのが義務だろうと思って下男に尋ねたところ、衝撃の返答があったのである。
──旦那さまはお出かけ中です。
どこへって、ヴァルハーレ大佐のお見舞いですよ。
ふたりは最初、あの決闘で彼が思ったよりひどい怪我をしていたのかと思った。
あのあとから今まで入院していたものと勘違いしたのだ。
しかし下男は首を振り、今日のことですよ、と答えた。
さすがに将軍邸の下男は事情に明るく、将軍に伝えられている内容のおおよそは彼から聞きだすことができた。
どうも一報があった際にちょうど主の傍に控えていたらしい。
それによればヴァルハーレは休暇中で、自ら訪ねた友人によって襲撃されたそうだ。
「なんでも犯人は女性だそうです。まったく、お嬢さまが婚約解消されたあとでよかったですよ」
「はあ……あ、容態は聞きましたか?」
「詳しくはわかりませんが、少なくとも搬送されたときは意識がなかったそうです」
「そりゃそうか、術師なのに自分で手当てできなかったってことだもんな……どうするスニエリタ、一応見舞いに行くか?」
「どうしましょう。気にはなりますけど、婚約者ではなくなったわけですし……」
ふたりは顔を見合わせた。
ヴァルハーレといえば何度か自分たちの前に立ち塞がった障壁で、いろいろと苦労をさせられた相手なわけだが、だからといって怨みがあるわけではない。
婚約解消を達成した今はもはや壁ですらないわけだ。
単に父親の部下でしかなくなった男を見舞う必要は、社会的に見るとあまりない。
それにスニエリタもあまり行きたそうな顔には見えなかった。
「たぶん行っても会えないと思いますよ。ほんとうについさっき搬送されたばかりらしいので、今は軍の関係者が詰め掛けているでしょうから」
「そうでしょうね。ありがとう、教えてくれて」
「いえいえ」
「……あの、お父さまがいらっしゃらないなら、今のうちにミルンさんがお泊りするお部屋の準備をしてくれませんか? お母さまひとりならわたし、なんとか説得できると思うから……」
「お嬢さま、それは勘弁してくださいませ。私の首が飛びます」
下男は苦笑いしてから一礼し、他にも仕事があると言って下がっていった。
残されたスニエリタとミルンはとりあえず出されている紅茶を飲む。
本来ならスニエリタは広いテーブルの反対側に座るはずだったのだろうが、今はミルンのすぐ隣に腰掛けていた。
壁には大きな絵が飾られている。昔の戦争のようすを描いたものらしい。
客をもてなす場に飾るものにしては血なまぐさいが、将軍の邸宅ならこんなものだろうか。
もっとも、将軍を訪ねてきたとしたらこれより何倍も激しい人物を相手にしなければならないので、絵など気に留める余裕はあるまい。
しばらくとりとめもない雑談をしていると、急に周囲の女中たちの雰囲気が変わった。
扉が開かれ、そこから女性がひとり現れる。
見覚えがあるな、と思いながらミルンは立ち上がり、背筋を伸ばした。
どことなくスニエリタに似た面差しの中年の女性は、見るからに高い生地を使った重そうな衣装に身を包んでいるが、ドレスに負けない淑やかな気品を纏っている。
「お母さま!」
「スニエリタが帰ってきたと聞いたけど、やはりあなたも一緒だったわね」
ミルンはできるかぎり礼儀正しく一礼し、握手を求める。
手袋越しだが柔らかい手だった。
自分の母のそれとも違う、普段から労働をしていない人間の手は、ミルンを拒むことなく優しく握り返す。
「こうしてきちんと会うのは初めてね。スニエリタの母のヴァネロッタよ」
「ミルン・スロヴィリークです」
「……で、あなたは今日、何をしにここへきたのかしら? スニエリタと正式に婚約したいとか?」
手を握ったまま、ヴァネロッタはにっこりと笑ったが、ミルンはそれを見てなぜか背筋がぞっとした。
「あっ……いえその、今日はお嬢さまを送らせていただいただけで……」
「……そう、つまらないわねえ」
「えっ!?」
「お母さま、ミルンさんを困らせないでくださいっ」
割って入ったスニエリタが少しむくれながら言う。
その顔がかわいらしくてミルンは少しほっとしたが、そのあと将軍夫人が高らかに笑い声を上げたので、びっくりして離された手をそのまま宙に浮かせっぱなしにしていた。
さすがに伯爵の妻ともあれば笑う声すら上品だったが、何をそんなに面白がることがあっただろう。
唖然とするミルンにスニエリタがぴたりとくっついてくる。
甘えるというよりは母親からミルンを守ろうとしているみたいだった。
「ふたりがいなくなっている間に、あなたのことを調べさせてもらったわ。
水ハーシ族が弱小部族で、西ハーシの端に小さな土地を持っているだけだということも、これといって特産品も技術力もなく経済的に困窮していることも。
あなたは部族長の三男で、上に兄ふたり、下には妹がひとり。このうち次男は帝国学院に留学の経験があって、なんと首席で卒業したそうね」
「そのとおりです」
「残念よ。あなたが次男だったらまだしも、あなた自身は名のある学校を出ていない。
そのうえあまりにも遠くの出身で、家も決してこの伯爵家と釣り合うものではないわね」
「その、……とおりです」
項垂れるミルンの手を、スニエリタがぎゅっと握る。
「そんなもの、関係ありません。わたしはミルンさんでなければ嫌です」
「……そういうわけにはいかねえだろ」
「彼の言うとおりよ、スニエリタ。
もちろんこの家にはあなたのほかに後継者がいないのだから、あなたが家を出てハーシの田舎に嫁ぐという選択肢は絶対にありえない。
もっとも嫁いだところで持て余されるでしょうね。家事など何ひとつ知らないのだもの」
「それは、がんばって覚えます……」
「いいよ。そんな必要はない。スニエリタは今までどおり、伯爵令嬢のままでいい」
ミルンはそこで顔を上げた。
どこか挑むような眼差しを向ける伯爵夫人を半ば睨むようにして、深く息を吸い込む。
家が釣り合わない。そんなことは出逢った瞬間から理解している。
本来なら出逢うはずもなかった、果てしなく遠い存在だった相手。
手を触れるどころか声をかけることすらままならないはずだった。
だけど出逢ってしまった。
恋をしてしまったし、スニエリタもミルンを求めてくれた。
手を繋ぎ、くちびるを重ね、旅路を共にした。
今さら離れるなんて嫌だという気持ちはミルンにだってある。
ともすればスニエリタのそれより強いかもしれない。
もしここでスニエリタと別れたとして、この先の人生で彼女より大切な女性には出逢えないだろうという確信もある。
というか、逃す手がない。伯爵令嬢でマヌルド帝国軍将軍の娘だ。
ヴァルハーレが彼女に眼をつけたのもわかるし、そういう意味ではミルンも同じ穴の狢だ。
そもそもミルンは世界を、部族の立場を変えるために旅をしてきて、その手がかりになるなら神の紋唱でも他のものでも、何でもいいから手に入れないことには故郷に帰れないという覚悟だったのだ。
ただ、ひとつだけ言わせてもらうなら、恋をしたときは知らなかった。
スニエリタが何者なのか、どんな立場なのかを知らないまま、ただ彼女の強さと美しさに惹かれたのだ。
「俺を将軍の後継者にしてください。そのために必要なことは何でもします。
スニエリタの婚約者として相応しい人間に、これからなります」
ミルンはそう言った。
なんとか夫人の眼を見ながら最後まで言い切った。
声が多少震えていたかもしれないが、武者震いということにしてほしい。
ヴァネロッタはそれを聞いて、うっすらとくちびるに笑みを滲ませながら、ゆっくりと頷く。
「……覚悟は認めるわ。でも、決めるのはわたくしではないの。
今言ったのと同じことを、将軍にもう一度言いなさい。もしも彼が頷いたら必要な手続きをしましょう」
「お母さま!」
「幸いにして我が国は実力主義よ。家柄はどうにもならなくとも、強ければ文句を言う人間を捻じ伏せることもできなくはないでしょう。
あとはあなたの努力次第。
でも、わたくしはあなたを気に入ったわ。スニエリタがこんなに変わったのもあなたの影響でしょうしね」
彼女は再び微笑んだが、先ほどのような妙な恐ろしさはなかった。
たぶん、今の彼女は将軍の妻としてではなく、スニエリタの母として語りかけてくれているのだ。
ともかくミルンは感謝と光栄の気持ちを込めて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、伯爵夫人」
ようやく一歩、進んだ。
そのあと夫人は自室へと帰ってしまい、ミルンとスニエリタはふたたび広間にふたりで残された。
周りに女中らがいるのでふたりきりというわけにはいかないが、スニエリタは彼女たちのことをあまり気にしているようすはなく、嬉しそうにミルンにくっついている。
嬉しいような恥ずかしいような。
とりあえず将軍が戻ってくるのをここでしばらく待つことにした。
ヴァルハーレの容態にもよるだろうが、夕方まで待っても戻らないようなら日を改めればいい。
ミルンは息を吐いた。
将軍を待つ間、一旦肩の力を抜いてもいいだろう。
しかしこれからどうなるのだろうか。
すべては将軍の返答次第だが、あまり肯定的な返事がもらえる気がしない。
夫人に多少気に入ってもらえたらしいことがどれくらいプラスに働くかだが、もともとミルンの持っているものはスニエリタの伴侶となるにはマイナス要素が多すぎる。
民族、学歴、その他もろもろ。
むしろなぜ夫人から印象が良さそうな態度をとられたのかが謎ではあるが、
「……ヴァルハーレに勝ったの、それなりに評価してもらえたっぽいな」
「そうですね。わたしたちが勝利するなんて、誰も思っていなかったでしょうから……。
それにきっと、お母さまの場合、ミルンさんが大勢の前で求婚してくださったのがよかったんだと思います」
「えっ」
改めて言われると羞恥が込み上げてくる。
あのときは戦闘直後だったし格上の相手に勝てたしで興奮していたから、勢いで言ってしまったわけであるが、落ち着いて思い返すと恥ずかしい。
いや、我ながらよくやったとも思うが。
というか、まだ出逢ってから数えても半年にも満たないのに婚約希望とか早すぎるか?
スニエリタの気持ちも確かめずにミルンひとりで先走ってしまっていないか?
顔が熱いのを自覚しつつもそっと隣の彼女を見下ろすと、スニエリタも頬を紅く染めながら、にこりと微笑む。
「わたしも、とっても嬉しかったです」
そう言って、ティーカップをソーサーに戻しながら、スニエリタは楽しそうに続けた。
「お母さまも求婚されたとき、周りにたくさん人がいたそうですよ」
「……えっ?」
「たしか皇帝陛下のお祝いの席で、お城の大広間の真ん中だったとか。衆目が集まって断われるような状況ではなかったと聞いたことがあるんです。
あのお父様が、って想像すると不思議な感じがしますけど……ちょっと素敵だと思ってました」
ミルンにはどうも、想像するだに恐ろしい光景だとしか思えないのだが。
しかし将軍らしいと言えばらしいし、夫人もかなり強かな女性であるらしいのは、今日のやりとりでよくわかった。
それくらいでなければ帝国将軍夫妻は務まらないというわけか。
そして愛らしく笑んでいるスニエリタを見て、あまりにも今さらながら、やはりあの将軍の娘で伯爵令嬢なのだな、と思ったのだった。
→
ミルンとスニエリタは、クイネス邸の広間でヴァルハーレの身に起きたことを知った。
マヌルドの神々に紋章を奉納する間も国内に出入りはしていたが、クイネス邸には立ち寄っていなかった。
ひとまずスニエリタを送り、自分は一般地区で宿でもとろうと思っていたミルンだったが、スニエリタがぜひと言うので邸宅にお邪魔したのだ。
それなら家主に一言挨拶をするのが義務だろうと思って下男に尋ねたところ、衝撃の返答があったのである。
──旦那さまはお出かけ中です。
どこへって、ヴァルハーレ大佐のお見舞いですよ。
ふたりは最初、あの決闘で彼が思ったよりひどい怪我をしていたのかと思った。
あのあとから今まで入院していたものと勘違いしたのだ。
しかし下男は首を振り、今日のことですよ、と答えた。
さすがに将軍邸の下男は事情に明るく、将軍に伝えられている内容のおおよそは彼から聞きだすことができた。
どうも一報があった際にちょうど主の傍に控えていたらしい。
それによればヴァルハーレは休暇中で、自ら訪ねた友人によって襲撃されたそうだ。
「なんでも犯人は女性だそうです。まったく、お嬢さまが婚約解消されたあとでよかったですよ」
「はあ……あ、容態は聞きましたか?」
「詳しくはわかりませんが、少なくとも搬送されたときは意識がなかったそうです」
「そりゃそうか、術師なのに自分で手当てできなかったってことだもんな……どうするスニエリタ、一応見舞いに行くか?」
「どうしましょう。気にはなりますけど、婚約者ではなくなったわけですし……」
ふたりは顔を見合わせた。
ヴァルハーレといえば何度か自分たちの前に立ち塞がった障壁で、いろいろと苦労をさせられた相手なわけだが、だからといって怨みがあるわけではない。
婚約解消を達成した今はもはや壁ですらないわけだ。
単に父親の部下でしかなくなった男を見舞う必要は、社会的に見るとあまりない。
それにスニエリタもあまり行きたそうな顔には見えなかった。
「たぶん行っても会えないと思いますよ。ほんとうについさっき搬送されたばかりらしいので、今は軍の関係者が詰め掛けているでしょうから」
「そうでしょうね。ありがとう、教えてくれて」
「いえいえ」
「……あの、お父さまがいらっしゃらないなら、今のうちにミルンさんがお泊りするお部屋の準備をしてくれませんか? お母さまひとりならわたし、なんとか説得できると思うから……」
「お嬢さま、それは勘弁してくださいませ。私の首が飛びます」
下男は苦笑いしてから一礼し、他にも仕事があると言って下がっていった。
残されたスニエリタとミルンはとりあえず出されている紅茶を飲む。
本来ならスニエリタは広いテーブルの反対側に座るはずだったのだろうが、今はミルンのすぐ隣に腰掛けていた。
壁には大きな絵が飾られている。昔の戦争のようすを描いたものらしい。
客をもてなす場に飾るものにしては血なまぐさいが、将軍の邸宅ならこんなものだろうか。
もっとも、将軍を訪ねてきたとしたらこれより何倍も激しい人物を相手にしなければならないので、絵など気に留める余裕はあるまい。
しばらくとりとめもない雑談をしていると、急に周囲の女中たちの雰囲気が変わった。
扉が開かれ、そこから女性がひとり現れる。
見覚えがあるな、と思いながらミルンは立ち上がり、背筋を伸ばした。
どことなくスニエリタに似た面差しの中年の女性は、見るからに高い生地を使った重そうな衣装に身を包んでいるが、ドレスに負けない淑やかな気品を纏っている。
「お母さま!」
「スニエリタが帰ってきたと聞いたけど、やはりあなたも一緒だったわね」
ミルンはできるかぎり礼儀正しく一礼し、握手を求める。
手袋越しだが柔らかい手だった。
自分の母のそれとも違う、普段から労働をしていない人間の手は、ミルンを拒むことなく優しく握り返す。
「こうしてきちんと会うのは初めてね。スニエリタの母のヴァネロッタよ」
「ミルン・スロヴィリークです」
「……で、あなたは今日、何をしにここへきたのかしら? スニエリタと正式に婚約したいとか?」
手を握ったまま、ヴァネロッタはにっこりと笑ったが、ミルンはそれを見てなぜか背筋がぞっとした。
「あっ……いえその、今日はお嬢さまを送らせていただいただけで……」
「……そう、つまらないわねえ」
「えっ!?」
「お母さま、ミルンさんを困らせないでくださいっ」
割って入ったスニエリタが少しむくれながら言う。
その顔がかわいらしくてミルンは少しほっとしたが、そのあと将軍夫人が高らかに笑い声を上げたので、びっくりして離された手をそのまま宙に浮かせっぱなしにしていた。
さすがに伯爵の妻ともあれば笑う声すら上品だったが、何をそんなに面白がることがあっただろう。
唖然とするミルンにスニエリタがぴたりとくっついてくる。
甘えるというよりは母親からミルンを守ろうとしているみたいだった。
「ふたりがいなくなっている間に、あなたのことを調べさせてもらったわ。
水ハーシ族が弱小部族で、西ハーシの端に小さな土地を持っているだけだということも、これといって特産品も技術力もなく経済的に困窮していることも。
あなたは部族長の三男で、上に兄ふたり、下には妹がひとり。このうち次男は帝国学院に留学の経験があって、なんと首席で卒業したそうね」
「そのとおりです」
「残念よ。あなたが次男だったらまだしも、あなた自身は名のある学校を出ていない。
そのうえあまりにも遠くの出身で、家も決してこの伯爵家と釣り合うものではないわね」
「その、……とおりです」
項垂れるミルンの手を、スニエリタがぎゅっと握る。
「そんなもの、関係ありません。わたしはミルンさんでなければ嫌です」
「……そういうわけにはいかねえだろ」
「彼の言うとおりよ、スニエリタ。
もちろんこの家にはあなたのほかに後継者がいないのだから、あなたが家を出てハーシの田舎に嫁ぐという選択肢は絶対にありえない。
もっとも嫁いだところで持て余されるでしょうね。家事など何ひとつ知らないのだもの」
「それは、がんばって覚えます……」
「いいよ。そんな必要はない。スニエリタは今までどおり、伯爵令嬢のままでいい」
ミルンはそこで顔を上げた。
どこか挑むような眼差しを向ける伯爵夫人を半ば睨むようにして、深く息を吸い込む。
家が釣り合わない。そんなことは出逢った瞬間から理解している。
本来なら出逢うはずもなかった、果てしなく遠い存在だった相手。
手を触れるどころか声をかけることすらままならないはずだった。
だけど出逢ってしまった。
恋をしてしまったし、スニエリタもミルンを求めてくれた。
手を繋ぎ、くちびるを重ね、旅路を共にした。
今さら離れるなんて嫌だという気持ちはミルンにだってある。
ともすればスニエリタのそれより強いかもしれない。
もしここでスニエリタと別れたとして、この先の人生で彼女より大切な女性には出逢えないだろうという確信もある。
というか、逃す手がない。伯爵令嬢でマヌルド帝国軍将軍の娘だ。
ヴァルハーレが彼女に眼をつけたのもわかるし、そういう意味ではミルンも同じ穴の狢だ。
そもそもミルンは世界を、部族の立場を変えるために旅をしてきて、その手がかりになるなら神の紋唱でも他のものでも、何でもいいから手に入れないことには故郷に帰れないという覚悟だったのだ。
ただ、ひとつだけ言わせてもらうなら、恋をしたときは知らなかった。
スニエリタが何者なのか、どんな立場なのかを知らないまま、ただ彼女の強さと美しさに惹かれたのだ。
「俺を将軍の後継者にしてください。そのために必要なことは何でもします。
スニエリタの婚約者として相応しい人間に、これからなります」
ミルンはそう言った。
なんとか夫人の眼を見ながら最後まで言い切った。
声が多少震えていたかもしれないが、武者震いということにしてほしい。
ヴァネロッタはそれを聞いて、うっすらとくちびるに笑みを滲ませながら、ゆっくりと頷く。
「……覚悟は認めるわ。でも、決めるのはわたくしではないの。
今言ったのと同じことを、将軍にもう一度言いなさい。もしも彼が頷いたら必要な手続きをしましょう」
「お母さま!」
「幸いにして我が国は実力主義よ。家柄はどうにもならなくとも、強ければ文句を言う人間を捻じ伏せることもできなくはないでしょう。
あとはあなたの努力次第。
でも、わたくしはあなたを気に入ったわ。スニエリタがこんなに変わったのもあなたの影響でしょうしね」
彼女は再び微笑んだが、先ほどのような妙な恐ろしさはなかった。
たぶん、今の彼女は将軍の妻としてではなく、スニエリタの母として語りかけてくれているのだ。
ともかくミルンは感謝と光栄の気持ちを込めて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、伯爵夫人」
ようやく一歩、進んだ。
そのあと夫人は自室へと帰ってしまい、ミルンとスニエリタはふたたび広間にふたりで残された。
周りに女中らがいるのでふたりきりというわけにはいかないが、スニエリタは彼女たちのことをあまり気にしているようすはなく、嬉しそうにミルンにくっついている。
嬉しいような恥ずかしいような。
とりあえず将軍が戻ってくるのをここでしばらく待つことにした。
ヴァルハーレの容態にもよるだろうが、夕方まで待っても戻らないようなら日を改めればいい。
ミルンは息を吐いた。
将軍を待つ間、一旦肩の力を抜いてもいいだろう。
しかしこれからどうなるのだろうか。
すべては将軍の返答次第だが、あまり肯定的な返事がもらえる気がしない。
夫人に多少気に入ってもらえたらしいことがどれくらいプラスに働くかだが、もともとミルンの持っているものはスニエリタの伴侶となるにはマイナス要素が多すぎる。
民族、学歴、その他もろもろ。
むしろなぜ夫人から印象が良さそうな態度をとられたのかが謎ではあるが、
「……ヴァルハーレに勝ったの、それなりに評価してもらえたっぽいな」
「そうですね。わたしたちが勝利するなんて、誰も思っていなかったでしょうから……。
それにきっと、お母さまの場合、ミルンさんが大勢の前で求婚してくださったのがよかったんだと思います」
「えっ」
改めて言われると羞恥が込み上げてくる。
あのときは戦闘直後だったし格上の相手に勝てたしで興奮していたから、勢いで言ってしまったわけであるが、落ち着いて思い返すと恥ずかしい。
いや、我ながらよくやったとも思うが。
というか、まだ出逢ってから数えても半年にも満たないのに婚約希望とか早すぎるか?
スニエリタの気持ちも確かめずにミルンひとりで先走ってしまっていないか?
顔が熱いのを自覚しつつもそっと隣の彼女を見下ろすと、スニエリタも頬を紅く染めながら、にこりと微笑む。
「わたしも、とっても嬉しかったです」
そう言って、ティーカップをソーサーに戻しながら、スニエリタは楽しそうに続けた。
「お母さまも求婚されたとき、周りにたくさん人がいたそうですよ」
「……えっ?」
「たしか皇帝陛下のお祝いの席で、お城の大広間の真ん中だったとか。衆目が集まって断われるような状況ではなかったと聞いたことがあるんです。
あのお父様が、って想像すると不思議な感じがしますけど……ちょっと素敵だと思ってました」
ミルンにはどうも、想像するだに恐ろしい光景だとしか思えないのだが。
しかし将軍らしいと言えばらしいし、夫人もかなり強かな女性であるらしいのは、今日のやりとりでよくわかった。
それくらいでなければ帝国将軍夫妻は務まらないというわけか。
そして愛らしく笑んでいるスニエリタを見て、あまりにも今さらながら、やはりあの将軍の娘で伯爵令嬢なのだな、と思ったのだった。
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