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幸福の国 アンハナケウ

198 対の河津神(かわつみ)

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「伏せろ!」

 その言葉はヴニェクに向けられていた。

 アフラムシカから激流さながらに紅蓮の炎が放たれてドドを襲う。
 それと同時に、アフラムシカ自らがその場に躍り出てヴニェクを突き飛ばす。

 アフラムシカはそのままドドの平手を頬に受けた。
 殴打が高らかに空に鳴り響き、そこに何かが砕けるような嫌な音が混じる。

 よろめくアフラムシカにララキはたまらず駆け寄った。

 転ばされていたヴニェクも少し遅れて駆けてくるが、それを狙ったらしいドドの第二撃が叩き込まれる。
 羽毛混じりの風の壁で護ろうとしたらしいヴニェクは、壁ごと叩き飛ばされて、後方で見守っていた神々のところに突っ込んだ。

 ララキとアフラムシカは無事だが、それは髪飾りの加護だろう。
 今のドドに対しては完全にこれ以外に防衛の手段がないらしい。

「……チロタの娘、そこを退きな。己はアフラムシカに用があるんだ」
「絶対いや!
 ていうか、シッカを殺して入れ替わるなんて計画はもう無理だよ。さすがにこれ以上は誰も騙されないだろうし、そろそろ諦めたらどう?」
「そりゃあ違うってェの。己は……いや、ンなことおめえに話しても意味はないな。とにかく退けよ」
「──ッあ!」

 ドドはララキの頭を掴んで、放り投げた。

 髪飾りの加護も万能ではないらしい。触れることくらいは許してしまうし、こうして放られもする。
 しいていえば地面を転がっても擦り傷ひとつ負わないで済んだけれど。

 ふたたびアフラムシカとドドは二柱きりで対峙することになってしまった。
 もちろんララキはすぐに起き上がって駆け寄ろうとしたが、しかし。

「さて。……なあアフラムシカ、教えてくれねえか。……どうして裏切るんだ」

 聞こえてきたドドの言葉に、思わず足が止まった。


  ‐ - - +


 駆け戻ってきた白銀のオオカミは、胸元を瞳と同じ深紅に染めている。
 その痛々しい姿にルーディーンは矢も盾もたまらず走り寄った。
 傷口はすでに乾いており、血の粉がざらりと女神の指先を汚したけれど、そんなことに構うつもりは毛頭ない。

 なぜかカーイはそんなルーディーンを見て、笑うのを堪えるような顔をした。
 いや、噴出しこそしなかったものの、眼は完全ににやついている。

 同時に周りにいた神々が一斉にこちらを見ていた。
 カーイに対するルーディーンの態度が今までとあまりに違うので驚いているのだ。
 ルーディーンはそれもこれもすべて無視し、言葉も発さないまま急いで彼の手当てを試みた。

 だが、すぐさま思わぬ感触に手を止める。

「ほとんど塞がって……」
「そりゃあ『大尊老』を喰ったからな。が尋常じゃないんで若干胸焼けしてるが……なんだよその顔、仕事がなくて残念だったか」
「違います。こんなときにからかわないで」

 心配していたことくらいわかっているだろうに。
 戦闘の最中にいたときはそんなに余裕そうには見えなかった。

「手当てが不要なら、何のためにここに来たんですか。理由があるんでしょう?」
「もちろんだ。残念ながらあんた宛ての用事じゃないけどな……ペル・ヴィーラ、例のモンを届けにきたぜ。受け取る準備はできてるか」
「随分遅かったではないか」
「そう言うなよな、俺だって忙しかったんだ。
 ──それにを運ぶのはけっこうな手間だぜ」

 ほらよ、とカーイが顎で地表を示す。

 次の瞬間そのあたりの土や草が割り砕かれて、そこに身の丈ほどの氷塊が出現した。
 氷は樹の根のようなものに包まれていたが、根はすぐに地中へと消えてゆき、水晶のごとき白い輝きだけがそこに残される。

 ヴィーラはそれを見て頷くとゆっくり手を持ち上げる仕草をした。
 指先は氷に届いていないけれど、掬い上げるようなその動きに合わせて表面に亀裂が入る。
 そこから透明な雫が涙のように零れ出たかと思うと、刹那のうちに氷塊は崩れて融け消え、その内側から人影がひとつ飛び出した。

 周りの神が一斉に息を呑む。

 そこに現れたのは地に引き摺るほどの長い黒髪、水を滴らせた青白い肌にマヌルド民族の古装束を纏った、ペル・ヴィーラとそっくり同じ容貌の人物だったからだ。

 同じ神が向かい合うという異常な光景なら先ほども見ている。
 アフラムシカと、彼に化けたドドの対立のさまを思い出し、今度はヴィーラの偽者が現れたかと思う者がいても無理はない。
 しかも今度もやはり身の内に宿した紋章が瓜二つだと、周囲の神々にはわかるのだ。

 ただ今回の場合、向かい合う両者には明らかに異なる点がひとつあった。

「よもやこのような形で雌雄を分かたれようとはな。無事で何よりだ、おなごの吾よ」
「おのこの吾は何ぞ小汚くなっておるの……」
「片鰭で為すのは容易くはないでな。分かたれた折に力も割られたらしい」

 雌雄一対となったペル・ヴィーラは揃って肩を竦めた。
 その仕草もタイミングもぴったり重なっている。

 とりあえず敵の出現ではないらしいことはその雰囲気から察せられつつも、状況がいまいち呑み込めないでいるそこらの神──たとえばヤッティゴが、恐々といったようすで尋ねた。

「えっと……ど、どっちがヴィーラ? どっちも?」

 それにヴィーラは答えず、ただ数滴の水飛沫を以てフォレンケに回答を指示しただけだった。

 相変わらずやりたくないと思ったことは一切やらない主義だが、ただの一言も発したくないとはこれいかに。
 さすがにフォレンケも苦笑いになりながら、つまりこれはね、と言いかけた。

 そのときだった。

 アフラムシカが何か叫んだのが聞こえ、その直後にヴニェクがこちらの集団へと突っ込んできたのだ。

 何らかの攻撃を受けて身を庇うこともできなかったらしい。
 女神の身体は、しかし誰に激突することもなく、神々とヴニェクとの間には一瞬のうちに水の膜で寸断されていた。

 寝台のように柔らかく女神を受け止めたそれが、すぐに綻んでそこに小さな池を作る。
 ヴニェクは水溜まりの真ん中に転げ落ち、しかしすぐに起き上がろうとした。

「っおのれドド……ッ!」
「だから無茶するなってばぁ、っていうかヴニェク、眼! 目隠ししてないじゃんか!」
「……眼力はドドに盗られた。今はおまえすら殺せない」
「盗るって……そんなこともできるのか……」

 神々は不安の滲む眼差しを彼方へと向ける。

 そこにあるのは絶望的な光景だった。

 倒れ伏すアフラムシカと、彼に駆け寄る蒼白のララキ。
 そして彼らを見下ろしながらアフラムシカに近づいていくドドの姿。
 その長い腕が獅子の頸へと伸びている。

「……どうしようもないな」

 カジンが呻くように言った。

「誰も彼を止められない……」

 サイナが呟いた。

「こうしてはおれぬ、もはや自ら滅する覚悟で突っ込むしかあるまいッ」
「わたしももう一度行こう。柄ではないが補佐してやる」
「かたじけない!」

 オーファトは自棄になって走り出し、ヴニェクがそれに追随する。

「カーイ」

 そしてアニェムイが進み出た。
 傍らには眼を真っ赤に腫らせたままのパレッタ・パレッタ・パレッタがいて、オオカミのことをじっと見つめている。

 その瞳に篭もっているのが呪詛でないことをルーディーンは祈ったが、残念ながら期待ができるような穏やかなものではないのは確かだった。

「生きてたんなら、もっと早く教えてほしかったよ。水くさいじゃないか。同郷の友だろ」
「俺にも都合ってもんがあるんだよ。……パレッタのことは頼む」
「ああ、それなんだけどさ、カーイもまたドドに挑むんだろ?
 おれも行く。だから、パレッタはこっちで誰かに預かってもらうことにするよ……頼めるかい、ヴィーラ」

 ヴィーラたちは頷かなかったが、かろうじて女性体のほうがパレッタに手招きをした。

 少女はそちらに歩いていったが、女神の手をとるのを一瞬ためらい、そして振り返る。

「……カーシャ・カーイさま、必ず勝ってくださいませ。
 それが……それがオヤシシコロさまへの、せめてもの報いでございまする」

 オオカミは頷く。
 それを見届けてから、パレッタはヴィーラの元に留まった。

 しかしそれですぐに戦地へと舞い戻るカーイではなかった。
 それどころか腰すら上げてはいない。
 オオカミはそこに留まっている、つまり戦うことにあまり向かない神々の顔をぐるりと眺めてから、いつものような軽い調子で口を開いた。

「さて、それじゃあ改めて作戦会議といくか」

 その拍子抜けするような言葉に一堂は唖然とする。
 何言ってんだこの状況で、という声がほうぼうから上がり、アフラムシカやオーファトらが死んでしまうのではという悲観的な意見も聞こえるが、無理もない。

 カーイはそれをくつくつと笑ってから、そのために運んだんだろ、とぼやくように答えた。

 ──おまえら、状況が好転してるのに気づいてないのか?

 その煽るような言葉に男性体のヴィーラが深い溜息を返した。
 隣の女性体のほうは真顔である。

「こっちは雌雄のヴィーラが揃って、不可触の女神もいる。これだけいて時間稼ぎができねえほうがどうかしてるぜ」
「……どういうことだ、吾よ」
「吾を結界から運び出す条件よ。しかし分離しておるゆえ意思の疎通が不便だの、吾や」
「で、こっちも多少は準備が整えてあるんだろ、アルヴェムハルト?」

 オオカミが話を振った相手は、よりにもよって負傷が深く未だに意識が戻っていないキツネの神であった。

 いや、そのはずだった、と言い換えたほうがいいだろうか。
 カーイの言葉を受け、アルヴェムハルトの眼がゆっくり開いたのだ。

 それに誰より驚いたのはまだ彼を抱きかかえたままのラグランネで、次いで唖然としているティルゼンカークがどういうことかと叫んだ。
 カーイに、あるいはアルヴェムハルトに向けて。

「……大きい声はやめてくれ、ティルゼン。傷口に響く」
「あ、悪い。……でもなんでだよ、起きてたんならオレやラグに言ってくれりゃいいものを」
「しばらく気絶したふりをしてろっていう命令だったから。
 ……以降の説明は僕からでいいすか、カーイ?」
「ああ。俺は先にドドをにいくから、状況が呑めたやつは後から来い」

 カーイは再び駆け出した。
 雪雲をそのまま身に纏ったような白銀の獣に、もう一匹純白の獣が追随していくのを、残った神々全員が見ていた。

 オオカミとヒツジは、色合いこそ似ているが性質は全く異なっている。
 かたや血肉を貪る獣、かたや牙の前に血を流す哀れな獲物であり、両者は永遠に相容れることがない。

 そのはずだった。
 だが、今は違う。

 状況は好転しているとカーイは言ったが、その言葉にはいくつもの意味がある。

 きっとこれもそのひとつ。

「いつからそちの主君はカーシャ・カーイになったのだ」
「……すいません。叱責はあとで聞きます」
「致し方なかろうよ、吾や。それより吾が右腕の話を聞いてやろうではないかえ。

 のうアルヴェムハルト、むろんそちの立案は、あの忌々しいドドめを罰するに足るものであろうな?
 なままかなことではこのペル・ヴィーラは納得すまいぞ」

 威圧的な笑みを浮かべた女性ヴィーラに、アルヴェムハルトは頷いた。

「存分に反撃してください」

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