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幸福の国 アンハナケウ

195 まやかしの太陽

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 火炎の塊が、森を焼きながら広場へと転がってきた。

 そこで休んでいた神々は悲鳴を上げて逃げ惑い、火だるまになってその場で悶絶する者もいる。

 阿鼻叫喚の地獄が再来していた。
 火炎は猛烈な勢いで辺り一帯を蹂躙し、樹々を焼き焦がし、広場の平穏を破壊し尽くすまでその暴力を止めなかった。

 ペル・ヴィーラやルーディーンが叫ぶようにして避難を指示し、正気を保っていられる程度の力のある神々は、それに従って弱い者から逃がそうと試みる。
 彼らの瞳には恐怖が滲み、それを零れ落す者も少なくない。

 恐ろしいだろう。

 誰にも止めることができないのだ、なぜならその破壊者は彼らの王の形をしているのだから。

 地上に太陽が降臨したかのような姿の暴君は、しかもその場にふたりいる。
 これを異常と呼ばずして何と言えばいいのか──誰もがそんなふうに思っているに違いない。

 そう思うヌダ・アフラムシカは、もうひとりの己と睨みあいながら、今ようやく立ち止まったところだった。
 身の端々からは未だはらはらと黄金の火花が舞い散っている。

 果たしてどちらが真の王で、どちらが偽者か。

 それを判ずる手段は誰も持っていない。
 あらゆる神の才を掌握した時の支配者は、完全にその身と紋章を擬態させることに成功した。
 どんな神の視力や嗅覚を持ってしてもそれを見破ることなどできないのだ。

 だからもう、戦うしか道が残っていない。
 互いを滅ぼす覚悟で争って、最後に生き残った者が、これからアフラムシカを名乗るだろう。

 負けるわけにはいかなかった。
 神の王としての誇りを取り戻し、世を本来あるべき平穏と安寧に導くために、必ずここで彼を討ち取らなければならない。

 アフラムシカはぐっと拳に力を入れ、対峙する相手を見据えた。

 どこからどこまで同じ姿をしたそれは、まるでそこに大きな鏡でも置いてあるかのようだ。

「あ、アフラムシカがふたり……」

 怯えるような声で呟いたのはヤッティゴだろうか。
 彼に答えるようにして、ドドが生きていたんだ、と誰かが言った。

 ──ドドの奴、またしても我々を欺いたのだな。

 ──じゃあ、もしかして、さっきまでここにいたのもドドだったのか?

 ──ちくしょう、コケにしやがって! できればアフラムシカに加勢したいが……。

 そんな声がほうぼうから聞こえてくる。

 彼らがドドの名を口にするとき、そこには押さえがたい憤怒や落胆の気配が漂っていた。
 もうこの場にドドの存在を許す神はひと柱も存在していないのだと、肌で感じる。

 それでいい。それでいいのだ。

 ドドのしたことはあまりにも道理を無視しすぎていた。
 許されようはずもないし、むしろすべての神と精霊から憎まれてしかるべきだと言える。
 彼はもう神として生きていくには邪悪になりすぎたのだ。

 だからここで、終わらせなくてはならない。
 アフラムシカは目の前の男を見据え、手を天高く翳す。

 掌から、蒼炎が柱のように長く生え伸びてひと振りのつるぎを成し、それをもうひとりのアフラムシカ目がけて振るった。
 すると橙色の炎が彼の眼差しから噴出して盾の役割を為す。

 二色の炎がぶつかり合い、虹色の光があたりに散った。

 もう片方の手にも炎の剣を宿す。
 対する男も盾と槍を生み出して身構える。

 次の瞬間、両者は突進した。
 ふたつの太陽が衝突して、轟音とともに辺りに凄まじい熱波を迸らせる。

「全員伏せよ!」

 ヴィーラがそう叫んだのが聞こえた。
 あの怠惰な魚にしては珍しく、率先して周囲の神々の保護に動いたらしい。

 彼が張った水の膜のおかげでほぼすべての神と精霊は熱波を受けずに済んだ。

 その外では草や樹が跡形もなく黒焦げになっていて、それを膜の内から見た精霊たちが竦みあがっている。

「……そう何度も防げるものではなさそうだの……骨が折れるわ」
「ありがとうございます、ヴィーラ」
「ルーディーン……そちも大儀よな。さりとて今しばらくは気を抜くなよ、吾らが根負けすれば全滅もありえようぞ」
「ええ……」

 どうやら防御には不可触の女神も助力していたらしい。
 熱波は両者の協力あってようやく防げたほどの威力であったのだ。

 彼らにこれ以上苦労はかけられないが、かといって攻撃の手を止めれば負けてしまう。

 それだけは絶対に避けたいアフラムシカは、敢えて何も言わずにふたたび剣を振るった。
 盾に弾かれようが退かず、剣同士が鍔競つばぜりあっては空に無数の火花が踊る、激しい攻防をその場の全員が固唾を飲んで見守っている。

 ──絶対に勝つ。

 視界の端にひと柱の女神を捉え、アフラムシカはその思いを強くする。

 呪布で眼を塞いだヴニェク・スーはどんな心地でいることだろう。
 さきほど自分を口説いたアフラムシカが偽者だったと知って何と思っているだろう。

 願わくばドドを憎み、彼を呪い、そして偽者を打ち砕くアフラムシカの姿を見届けてほしい。

 だからアフラムシカはさらにもう一歩、渾身の一撃を振り下ろす。
 歪な震動とともに、対峙する者の盾が砕け散った。

 体勢を崩して仰け反ったもうひとりのアフラムシカへ、その隙を逃すことなくもう片方の剣を叩き込む。
 狙いは額。
 そこに翳した黄金の装飾を破壊するのだ。それがアフラムシカの紋章と繋がっているから。

「──待って!」

 しかし。

 場違いな甲高い声がしたかと思うと、アフラムシカの一撃は何かに力強く弾かれた。

 固いものを砕く感触があり、ばらばらと白い破片が地に落ちたかと思うと数瞬のうちに蒸発して、透明な霧へと変わるのを見た。
 氷だとすぐに理解して顔を上げる。

 森から飛び出してきたのは白銀のオオカミと、その背に跨った異教の民だった。

「ごめんなさい、邪魔して。でもちょっと待ってほしいの」

 ララキはカーシャ・カーイの背からひらりと飛び降りてこちらに駆けてきた。
 それを見ていた神々は危ないと叫んだけれど、アフラムシカたちはどちらも彼女には手を上げない。

 ふたりの太陽を交互に眺めながら、少女は溜息をついた。

「……改めて見ても、ほんとそっくり」
「言っただろ。紋章まで化けてやがるから、神にも見分けがつかねえのさ」
「ねえ。あたしの中でタヌマン・クリャも困ってるよ。
 ……でも、あたしにはわかる。でもってみんなも一目でわかっちゃう、とっておきの方法があるんだ!」

 そこでララキはくるりと周囲を見回し、それからアフラムシカたちに向き直って、にっこり笑った。

「シッカ、あたしを攻撃してみて。
 ほんもののシッカならあたしを殺せる。でも、偽者はあたしを傷つけられない」

 それを聞いてあたりがざわざわと騒がしくなった。
 すっかりこの少女に心を許しつつあった一部の神々は、完全に少女の身を案じてその無謀な提案を咎めるような声を上げた。
 無茶だ、危険すぎる、そんなことを言うんじゃない、と。

 あるいはまだ彼女やクリャを信用していない者たちは、何を言っているのかと困惑し呆れている。
 ただの自殺行為にしか聞こえなかったからだ。

 しかしララキはそんな声をちっとも気にせず、堂々とふたりのアフラムシカの間に立った。

 アフラムシカは彼女を見つめ、息を吐く。

 人の身でありながら神の世界に深く関わりすぎてしまった少女には、そもそもこの大事に収拾がついたとしても、その先の未来など望むべくもない。
 彼女の帰るべき土地が浄化されてふたたび生物が暮らせるようになるまでに何年もかかり、その間に人間としての寿命が尽きるだろう。

 それがわかっているアフラムシカは、もう一度その手に炎の剣を生成した。

「ララキ……おまえの心を無駄にはするまい」

 もうひとりのアフラムシカは無言で、何もしようとしていない。
 黙ってこちらの動きを眺めている。恐らくはララキの言わんとしていることがわからないのだ。

 彼女はアンハナケウと世界の秩序のために、敢えてその身を差し出そうとしてくれている。

 その健気な精神にアフラムシカは感服した。
 それがわからない者に勝利をくれてやるわけにはいかない。
 だから彼よりも先に、ここで慈悲と慈愛を以てララキを殺すのだ。

 刃が、少女へと振り下ろされる。


 火花が散る。

 赤と黄色、橙色。
 白と、薄い緑色。青。紫。

 虹色の光が散って美しい。
 それはきっと哀れな生贄を弔うためのものだろう。

 いや、そのはずだった。
 
「……なぜだ」

 アフラムシカは呻いた。
 掌から剣が消え、ぼろぼろと地面に少しの灰が零れる。

 その先に二本の脚が見える。

 革製のブーツから伸びたむき出しの腿と、その肌を彩るクリャの印。
 短すぎる脚衣とまたしてもむき出しで刺青の走る腹部。イキエスの民族衣装である伝統織のベスト。

 橙色のポニーテールを風に揺らしながら、彼女は少しも変わりなくそこに佇んでいた。

「あたしのお母さん──生んでくれたママじゃなくて、育ててくれたママさんのほうだけど、イキエス東部のギュルキナって街の出身なの。
 そこの神殿で働いてて、調査に来たせんせーと知り合ったんだって。

 あなたはその意味、もちろんわかるよね。……ギュルキナはドド信仰の中心地」

 彼女の手袋をした手が、その頭部を指差す。

「この髪飾りはママさんが作ってくれたの。彼女の祈りが詰まってる。
 ──あたしが旅の間、怪我や病気にならないで健康でいられるようにって、いっぱいお祈りしてくれたんだ……」
「己の信者の祈りを神は無視できない。たとえ姿を欺き紋章を偽っても、その本質までは変えられない……そういうこったな」
「つまりその飾りを身につけた者を害することはできない。それはおまえが"ドド"だからだ」

 少女の両側に、オオカミとライオンが立つ。

 対するアフラムシカは──いや、その姿を借りていた偽者は、その肩を震わせた。

 怒りか絶望か、あるいは他の感情か、もはや自分でもわからない。
 計画がうまく進んだかと思えば必ずこの少女に邪魔されている。そう思うとあまりにやりきれない。

 もう少しだったのに。
 さきほど邪魔が入らなければ、アフラムシカを今度こそ完全に抹殺できたのに。

 ──あるべきものを取り戻せたのに。

「……どーも上手くいかねえなァ……」

 こうなってはこの姿ももはや無用と、ドドは正体を現した。

 朱白の体毛と長く力強い両腕。
 吉兆を表わす赤い顔、その頬には化粧めいた青い筋が幾本もあり、頭頂部にも黄金の毛がたなびく。
 掌は黒く、岩のように固い。

 その身に帯びるのは轟々と音高い雷鳴であり、岩山のように大きく屈強な肉体と合わせて、ついた異名は『雷山公』。

 皮肉なことに、ドドは異名ですら王と呼ばれたことがない。
 精霊上がりの新参者だ。
 盟主の中でもカーイの次に若く歴史が浅い。

 物心ついたころには世の中の道理は概ね固まっていた。
 強い者が正しく、弱い者は虐げられる。
 強い者がすべてを手にし、弱い者はすべてを失う。

 ドドはすぐにそれを理解し、強くなることを望んだ。

 そこにアフラムシカがいた。

 彼を越えようとしてあらゆる努力を重ねたが、それらはすべて嘲笑われるような結果に終わった。
 並び立つことすら不可能だった。

 あまりにも眩しく立派で、何ひとつ欠落したところのない、完璧な存在だった。

 そんな者がいるはずがない。
 ドドは永い時間を彼のあら捜しに費やしたが、それすらも無意味だった。

 しいていえば、世界の未来のためにひとつの民族とひとりの少女を犠牲にする決断をしたことだけは糾弾されてしかるべきだが、それだけだ。

 それにドドもチロタの民を憐れんだわけではない。
 彼らは不運だったが、それは祀る神を誤ったからだ。自分の民にならそんなことをさせなかった。

「それで……おめぇらは、己をどうするのよ?」

 ドドは静かに問うた。
 アフラムシカに訊いたつもりだったが、先に答えたのはカーイだった。

「決まってんだろ。骨まで噛み砕いて飲み込むのさ……もう二度とこんなバカな真似ができねえようにな」
「あるいはおまえが心底から悔やみ、償う気があるのなら、それに即した罰を与えるべきだろう」
「あ? てめぇは甘すぎるぜアフラムシカ!」

 噛みつくように反発するカーイに対し、アフラムシカは冷静に答える。

 ──それでもドドは盟主だ。そう簡単に殺すわけにもいくまい。

 どんな悪事を働こうと、ドドはイキエスに数千人の信者を抱える神なのだ。
 存在するだけで多くの民の心を支えている。
 そして、その信心と祈りが巡り巡ってドドという神を生かし、神たらしめている。

 アフラムシカの言わんとしていることは正しい。
 ドドが滅べば人間たちの世界にも影響が出る。

 ただ同時に、カーイの言い分も正しい。
 ドドがしたことは到底許されることではない。

 神々は沈黙した。
 そこでカーイに従いドドを滅ぼすべきだという声が強く上がらなかったのは、当のドドが大人しくそこに佇んでいたせいかもしれない。

 反抗的な態度を見せず、黙ったまま項垂れて判決を待っているようなその背中に、何柱かの神は同情じみた感傷を覚えてしまったのだ。

 見るからにドドは反省している。
 やり直す機会を与えてやってもいいんじゃないのか。
 何も滅ぼすまではしなくてもいいだろう、誰が死んだわけでもないのだから……。

 そんな気配が周囲から漂ってきているのがわかる。

 昔ならそうはいかなかった。
 やはりクシエリスルができてから、この大陸の神は甘くなった。

 相手を信じることを覚え、疑うことを忘れてしまった。

 ──だから容易い。

 ドドは俯いたままにたりと微笑み、それからゆっくりと顔を上げる。

「……忘れてんじゃァないかね。今の"百獣の王"はこの己だぜ」

 アンハナケウに、暴風が吹き荒れた。

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