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幸福の国 アンハナケウ

194 夜明け

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 背中にヴニェクの声が飛んでくる。
 ちょっと待てとかなんとか叫んでいるようだが無視をした。

 あとはルーディーンたちが彼女を引き止めておいてくれるだろうから、ララキはともかくアフラムシカのところへ向かうことだけを考える。

 広場のほうは大紋章が光っていることもあってけっこう明るいのだが、森の中は薄暗い。

 ヴニェクは相当慌てていたらしい。あちこちに彼女の通った痕らしいものが残っていたので、それを辿れば簡単にアフラムシカを探すことができそうだった。

 それがなかった場合、今のララキは探索紋唱が使えないので、自分の脚だけで不慣れな森を彷徨わなければならなくなるところだ。

 砕けた石や折れた枝をひとつひとつ確かめ、念のため帰りも分かるように自分でも道に筋をつけたりしながら歩く。
 しばらくすると倒れた樹の根が目の前に現れた。

 その先に、見知った神の姿がある。

 樹の幹に腰掛け、腕組みをして何やら考えごとをしているらしいアフラムシカは、ララキが近づいてきたのに気づいて顔を上げた。

 穏やかな蒼金の瞳は記憶にあるとおりだ。
 髪や肌の感じも、何もかも。

 ララキは軽く手を振りながら近づいて、ひょいと彼の隣に腰掛ける。
 わざわざ許可を求めたりはしない。
 彼とはそんな関係ではなかったから。

「どうした、ララキ」
「ヴニェクが忙しいみたいだから代わりにきたの。
 さっきの音ね、大紋章の改訂作業を進めてるだけだから大丈夫だよ」
「……そんな音のする工程があったか?」
「それね、ドドがちょっと弄ったから、その関係みたい」
「そうか……問題がないのならいいんだが」

 そう言いながらもまだどこか不安というか、疑っている気配のあるアフラムシカの手を、ララキはきゅっと握った。
 温かくて力強いそれも覚えているとおりで、泣きたくなってくる。

 アフラムシカがララキを見下ろし、不思議そうな顔をする。

 ララキもじっと彼を見つめる。
 その瞳の中にどうにかして真実を見つけられはしないか、なんてことを思ったりもしたけれど、たぶんそれはララキひとりの力では無理だ。

 ただ、ひとつだけわかったことがある。

 彼の瞳の奥底にはどんよりとした闇が広がっている。

 見つめ合っているはずなのに、眼が合わない。
 彼はララキを見ていない。

 どろどろの闇の色にはララキにも覚えがある。
 それはいつだったか、辛かった夢でララキ自身が嫌というほど味わった、絶望的な嫉妬の汚泥だ。

 アフラムシカが他の女の人を選んでいるかもしれないことが悲しかったし、そうしてララキ自身が誰かを憎んでしまうことが何より苦しかった──。

 だからララキは、我慢できずに口にしてしまう。

「ねえ、シッカ」

 顔をぐいと近づけて、息がかかるほどの距離で、まっすぐにその眼を覗き込んだ。

 彼の眼にも、他の誰かが映らないように。

「あたし……シッカのことが、好き。命の恩人としても、家族としても、そして恋人としても好き」
「……ララキ」
「シッカはあたしのこと、どう思ってる?」

 アフラムシカは少し微笑んだ。
 困っているようでもあり、またララキを慈しむかのようにも見える笑顔だった。

 そしてララキの頭を軽く撫でながら、静かな声で彼は答えた。

「ララキ、私は神だ。おまえは人間だ。この世において神と人が結ばれることは、絶対にありえない」
「そんなことが聞きたいんじゃないよ、シッカ。あなたの気持ちが知りたいの」
「すまない。だが同じことなんだ。

 私は神、イキエスというひとつの国を守護する者として、特定の人間を個人的に愛することは決してない。
 つまり、おまえの気持ちには応えられない……。

 だが、その心はとても嬉しい。ありがとう、ララキ」
「……そっか」

 ララキは頷いて、──そのまま彼を睨んだ。

「やっぱり、あなたはシッカじゃない」

 途端に空気が変わる。
 ざらざらとした嫌な気配がララキの身体を包み、やすりのように少しずつこちらの肌を削っていくような気がする。

 そうしてふいにアフラムシカが無言で立ち上がった。

 彼の顔に表情はない。
 人形のような冷たい眼差しでララキを見下ろした彼の、太い腕がぬっと伸びてララキの頸を掴む。

 そのまま片手だけで身体を持ち上げられ、苦痛と呼吸困難にララキは喘いだ。

 すごい力だ。
 万力のように締め上げられて、これでは窒息するよりも、喉を握り潰されて死ぬほうが早いだろう。

 目の前がちかちかして、次第に頭が回らなくなる。

「うッ……ぐ……っ!」
「困ったな、ここでおまえを始末する予定ではないんだが……まァ、タヌマン・クリャと同化しているのだから、ふつうの人間よりは死ににくいだろう。やりようはいくらでもある」
「ぅ……は、な……し……」
「後学のために聞くが、どこで気づいた? あと他に感づいた者はいるのか?」

 そこで少しだけ握る力が弱められ、ララキは咽ぶように毒吐いた。

「言うわけ、ない……でしょ……んぐッ!」

 アフラムシカの偽者は、ララキの頸を握っている手の親指の爪を喉笛へと食い込ませてきた。

 相変わらずまともに息ができなくて、意識は薄らいでいるのに、ゆっくりと皮膚が切れていく感触はしっかりと感じ取れる。
 そのまま喉を貫通させる気だろうか。
 いや、それにしては力がそれほど強くない。

 つまりこれは、拷問なのだ。

 血が滲み出し、鎖骨の下へと滴っていく。
 見えはしないけれど、喉の痛みと感触でわかる。
 口の中でもじわじわと鉄の味を感じるようになってきている。

 すでにまともに眼を開けてはいられなくなっていたが、ある意味それは幸いだった。
 眼を開ければ見たくもない光景が飛び込んでくることになる。

 愛する人の姿をした者に頸を締められているだなんて、とてもじゃないが長く見ていられるものではない。

 締め上げている手を震える手で何度もひっかきながら、ララキは苦痛に呻いた。

「もう一度訊くぞ。他に、私がアフラムシカではないと気づいた者はいるか?」
「……い、わ……ない……」
「ふむ。手足の二、三本むしられても同じことが言えるか試してやろうか。
 それとも犯されるほうが響くならそちらでもいい。

 しかしなァ……神と合一したといっても、元の肉体が人間では怪しいところだな。
 だいぶ昔に何度か試したことはあるが、獣や人間はすぐ潰れて駄目になる。一晩も耐えられないのでは私が面白くない」
「さ、いっていッ……! あ、ッが!」

 ララキは地面に叩きつけられ、すぐに腹の上に凄まじい圧がかけられた。

 うっすら眼を開けると、アフラムシカに見下ろされていて、腰布の間から逞しい脚が覗いているのが見える。
 踏みつけられているらしい。

「人間ごときが私を愚弄するとは、嘆かわしいことだ。やはりおまえには呪われた民の名が相応しいな。
 なあ、最後のチロタの娘よ。
 安心しろ、必要な情報を吐いたら、すぐにおまえの同族の元に送ってやろう。きっと彼らもおまえが来るのを待っているだろうよ」
「……ぜ、った……い……言わな……っ……」
「やれやれ。……ほんとうなら女を嬲るのは趣味じゃないんだがね。
 しかも中身に男神が混ざっていると思うと萎える。男色はどうも肌に合わないんだ。

 さて──"虹の眼"は我がために麗翼を揮うべし。汝を封ずるは"凍海の門番"なり」

 風の刃がララキに降り注ぐ。
 肌はもちろん、衣服も刻まれてばらばらに千切れた。
 外見は見せかけだけとはいえ、恐らくそこには基盤となったトレアニ・ラスラハヤのドレスがあったのだろうし、それを外的な力で切り刻んで破壊することも充分可能なのだろう。

 布地を放り捨てられ、肌が露わになる。

 いつの間にかまわりは透明な壁のようなもので囲われていた。
 こちらから外のようすは見えるが、恐らくは誰かがここに来ても、ララキたちに気づかないようにしているのだろう。
 誰にも邪魔されずに拷問を続けるために。

 ──ああ、きっとあたし、今からひどいことをされるんだ。

 ある意味このアフラムシカの偽者は、女の子の気持ちをよく理解しているのかもしれない。

 少なくともララキはこう思うからだ。
 殴られたり蹴られたり首を絞められたりするほうが、辱められるよりはずっとましだと。

 彼にはそれが察せられて、だからその逆が今から行われるのだ。
 ララキが苦痛に耐えかねて何もかも喋ってしまうように。

 ほとんど反射的に眼に涙が浮かんで、目の前がぐちゃぐちゃに滲む。

 ──ねえクリャ、どうしよう?

 心の中で呟いたけれど、神は答えない。
 彼のたったひとりの信徒が嬲られようとしているのに無視している。
 いや、彼もまとめてめちゃくちゃにされようとしているような状況だから、閉口してしまっているのだろう。

 この状況を抜け出す手があるならとっくに使っているはず。
 クリャはもう、この拷問を無言で耐えることにして腹を括ったのだろう。

 ──そっか、ごめん、あたしが巻き込んだようなもんだよね、これ……。

 ぽろりと涙が零れ落ちて、少しだけ鮮明になった視界の内には、醜い笑みを湛えたアフラムシカの顔があった。

 やめてほしい。
 その顔でそんな表情を作るのは。

 偽者だとわかっていても、彼がそうしているみたいな気がちょっとでもしてしまうから、それがララキの心をひどく殴りつける。

 それとも、それもわかっていてわざとやっているのかもしれない。

 ──心を閉じろ。それしか苦難を逃れる術はない。

 小さな声でクリャが呟く。
 神がその民に与えたのは、なんの希望にもならない言葉だった。

 けれどララキはそれにほっとしたのだ。

 なぜならそれは、ララキが永い結界暮らしでやったことだったから。

 かつて、自力では逃れられない果てしない苦痛を前にして、ララキは何も感じない人形のようになった。
 アフラムシカがやってきて壁を壊してくれるまでは、思考を止め、感情を潰し、虚無に浸っていた。

 それを誰よりよく知っているのも、ララキの内で同じ時をすごしたこの神だったのだ。

 同じことをまたやればいいのなら、できる。
 方法は身体が覚えている。

 ララキは深く納得し、眼を閉じた。

 刹那。

「──!」

 ララキの耳に届いたのは硝子を叩き割るようなけたたましい音と、耳をつんざく断末魔めいたおぞましい悲鳴だった。

 生暖かいものが顔や身体に降りかかる。
 同時にそれまで身体を苛んでいた圧力がなくなり、誰かの温かい腕がララキの身体をゆっくりと抱き起こした。

 優しく頬を撫でられる感触があって、その指先が、少し震えているような気がしたのはなぜだろうか。

 瞼をゆっくり開くと、その人がそこにいる。
 いちばん会いたかった人が、優しい顔をしてこちらを見ている。

「シッカ……」

 ララキはその蒼金の瞳を、すがるようにして覗き込んだ。

 そこに闇は見えなかった。
 ただ柔らかな朝焼けの空が広がっている。

 それを見て間違いなくほんもののアフラムシカだと確信した瞬間、思わずララキの両眼に涙が浮かぶ。

「危ないところだったが、なんとか間に合った……すまない、ララキ、もう大丈夫だ」
「ほんと? ……あいつはどこに行ったの?」

 まだ身体が痺れて動きづらいが、なんとか視線だけであたりを見回しても、そこにもうひとりのアフラムシカの姿はなかった。
 透明な結界の破片が地面に散らばり、その周りに夥しい血痕が散っているのみだ。

「どうやら奴は切り株の広場へ逃げたようだ。また何か企んでいるのだろう。私もすぐに追わなければ」
「あ、あたしも行く……」
「……そう言うのではないかと思った。敢えて止めはしないが、代わりにを受け取ってくれ」

 アフラムシカは、ララキにあるものと、そしていくつかの指示を与えた。

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