上 下
190 / 215
幸福の国 アンハナケウ

190 届かぬ言の葉

しおりを挟む
:::

「ッわ、……わかった……、では、あとでな」
「ああ。待っている」

 彼の穏やかな瞳を見ていられず、ヴニェクはすばやくアフラムシカに背を向けた。
 まだ視線を感じるような気がしてむずがゆい。

 歩き出しながら、まだ混乱している。
 なんだか今日のアフラムシカはいままでとは違うような気がするが、気のせいだろうか。

 ここしばらく彼はアンハナケウから排斥されていて、その間は口を聞けなかったわけだが、その数年でどうも以前より丸みが増したような、あるいは親しみが深まっているような。

 そう、距離が少し近い気がする。
 別に以前はよそよそしかったというわけではないが、誰とでも一定の間隔を空けて接しているきらいはあったのだ。

 困ったことに、正直言って、さきほどの言葉はとても嬉しかった。

 おまえにしか頼めない、なんて初めて言われたのだ。
 少しだけ特別扱いされてしまったような気がしてそわそわしてしまう。

 いや、これだけで浮かれるのはさすがに気が早いぞ、と内心で己に言い聞かせてはみるものの、どうしても表情を引き締めることができない。

 ──わたしにしか頼めないこと、というのは何だろう……?

 いろんな想像が脳裏を駆け巡る。
 ヴニェクにしては珍しいほど、己にとって都合のいい想像ばかりが。

「どったのかな、えらく機嫌よさそうだけど」
「ヴニェクの顔が紅いとか、天変地異の前触れか。……もう充分に天変は起きてるが」

 よほど腑抜けた顔をしていたのだろう。
 ヤッティゴとカジンの前を通りがかったところでそんな声がした。

 いつものヴニェクなら軽くカジンを張り倒しているところだが、生憎今日はそういう気分ではない。

 フンを鼻を鳴らして戯言を聞き流し、ちょうどいいと二柱の首根っこを掴まえた。
 どう見てもどちらも手が空いている。

「くだらんことを言っている暇があったら怪我人の治療を手伝え。言っておくがこれはアフラムシカの指示だからな」
「……なんで自分まで……ヤッティゴだけで足りるだろ」
「手が多いに越したことはない。どうせ暇なんだろう、行ってこい」
「いや自分、忌神なんだが……死んでからが担当範囲……、はぁ……わかったからフード放せ、脱げる」
「あはは、どのみち神の死は範囲外だろ。
 ……神の死か……」

 ヤッティゴは自分でその言葉を口にして、カーシャ・カーイやオヤシシコロカムラギのこと、あるいはドドのことでも思い出したのか、急に表情を曇らせた。

 案外後者かもしれないなとヴニェクは思う。
 たぶん彼は、クシエリスルの神の中で、今でもドドの死に胸を痛められる数少ない神だ。

 とにかく二柱を切り株方面へ強制的に送り出し、ヴニェクも溜息をついた。

 ドドのことだ。
 結局何がしたくてクシエリスルを乗っ取ったのかはよくわからないままだったが、彼がいちばん気にしていたアフラムシカの手で最期を迎えるとは皮肉な結末だった。
 やはりヴニェクは彼のことを、どこか憐れに思っている。

 不器用な神だった。
 地頭がいいことはヴニェクも知っていたけれど、それを活かせない直情的な性格と女に対するだらしなさで、彼はアフラムシカのように誰からも慕われる盟主にはなれなかった。

 それでもヤッティゴのように彼を認めていた神だっていたのだ。

 世界を牛耳るだなんてバカな真似をする必要などなかった。
 それよりもっと時間をかけて、きちんとした振る舞いを身につけるべきだったろう。

 けれどもうドドは消えてしまった。
 だから今さら何を思っても、彼にヴニェクの言葉は届かない。



   : * : * :



 触れ合っていると、不思議な安堵を味わえる。
 今まで数々の癒しをみんなに与えてきたルーディーンだったが、自分の心が一切の揺らぎもなく穏やかになるという経験は、思えばこれまでなかったような気がした。

 この世界は悲しい経験を多くしている。
 生きてきた永さだけそれを見つめてきたルーディーンの胸には、いつも悲しみや不安の種が残っていた。
 隙あらばルーディーンに根を張り、外へ向かって芽吹こうとするそれを、無意識に恐れていたのかもしれない。

 今も、ほんとうならこれからの神界について憂慮せねばならないときのはずだ。

 だがカーシャ・カーイの腕の中では苦難に思いを馳せることがない。

 これからどうするべきなのか、彼は一緒に考えてくれると思うし、きっとよい答えをルーディーンに与えてくれる。
 そんな気がする。
 それは彼から漲る力を感じられるからなのか、それともルーディーンなりに彼を信頼できるようになったのかは、まだわからないけれど。

 ルーディーンの髪を指先で遊びながら、カーイが呟くように言った。

「……あんたはそろそろ向こうに戻ったほうがいいな。変に遅くなると勘繰られるかもしれねえ」

 その言いかたは、自分は一緒には戻らないと告げているようなものだ。

 ルーディーンはまっすぐに彼を見上げながらそれを尋ねた。
 ──あなたは、これからどうするつもりなの?

「いくつかやることが残ってる。それまでは封印から出たことを奴に気づかれるわけにはいかねえからな」
「私に手伝えることはありますか?」
「そうだな……何人か根回ししておいてくれると助かる」
「今、信頼できそうな神というと……ペル・ヴィーラや、ヴニェク・スーあたりでしょうか」
「いや、ヴニェクは少し待ってくれ。あいつは奴と近すぎるし、あんた以上に嘘がつけない性格してるからな。戦闘力で言ったら引き入れたいのはやまやまなんだが……」

 とりあえず話し合って、カーイの生存を密かに伝えるべき相手は何人か決まった。

 まずペル・ヴィーラ。
 彼にはとくに伝言があるとのことだったが、その内容はルーディーンには聞いただけではよくわからなかったし、説明されたところで信じがたいものだった。
 しかしヴィーラにはただ言うだけで通じるらしい。

 それからフォレンケ。
 なんだかんだいって彼は信頼できるとルーディーンは思うし、それはカーイにとっても同じだったらしい。

 最後にアルヴェムハルト。
 ただし彼はまだ意識が戻っていないので、それを待ってから。
 彼のところにはラグランネとティルゼンカークがつきっきりでいることを伝えると、それならついでに彼らにも、とのことだった。

 あとは状況を見ながら、ヴィーラやフォレンケと相談して決めていく。

「タヌマン・クリャはどうします?」
「……結局あいつを信頼していいもんか? あんたはどう思う?」
「そうですね……今回のことで、彼が誰よりも貢献していることは認めます。私も助けられた場面がありました」
「それは事実だな。だが、奴はあくまで生存を第一目標にしてるんじゃねえかと思えてならねえんだよ。
 つまり、最終的には優位なほうにつく……そういう可能性はないか?」
「ない、とは断言できないでしょう。でも、クリャはともかく、ララキは信用できると思います」

 ルーディーンは敢えて、器に使われた少女の名前を挙げた。

 彼女の魂はこの世を去ったわけではない。
 まだクリャとともに肉体に留まってアンハナケウにいる。

「あの子はアフラムシカのために旅をした。長い旅ではなかったけれど、常人にはない苦労があったはずです」
「……あんたの言いたいことはわかる。でもあいつらは肉体を共有してる状態で、ララキにだけ話を通すってことは不可能なんじゃねえのか」
「ええ。でも、ララキがクリャを見張ってくれます。
 彼女はただの人間ですが……この世でただひとりの、クリャの信徒です。クリャは彼女の言葉を無視できない。
 強い抑止力にはならないとしても、アフラムシカのこととなれば、ララキは力を尽くしてクリャを止めるはず」

 だから彼女を信じたい。

 彼女の旅をルーディーンはずっと見守ってきた。
 ゲルメストラに試され、西の神々に翻弄され、ときにガエムトに襲われながらも歩みを止めなかった彼女のことを。

 仲間に冷たい言葉をかけた人間に対し、彼女は憤り、抗った。

 アルヴェムハルトの試験で仲間と引き離されても、苦しみながらも旅の続行を決めた。

 彼女はいつも前を向いている。
 その心の強さは、幼くして神の結界に千年もの間閉じ込められるという経験が為したものなのか、あるいは生まれつきの才能なのかはわからないが、それでも確かにある。

 だから彼女を信じられると思う。
 ルーディーンがそう言うと、カーイも静かに頷いた。

「わかったよ。
 ただ、ひとつ条件をつけさせてくれ。ヴィーラとフォレンケからも了解を得ることだ」

 ルーディーンは頷いた。
 それくらいの譲歩は当然だろう。

「他には……ああ、アニェムイとパレッタ・パレッタ・パレッタはどうですか? とくにアニェムイはずいぶん悲しんでいるようでしたから」
「……いや、どっちもすぐ顔に出るからやめろ」
「カーイ?」

 ふいにカーイの表情が暗くなったので、ルーディーンは心配になって彼の顔を覗きこむ。

 カーイは眼を逸らしてしまったけれど、そのままルーディーンを抱き締め直して、こちらの肩口に顔を埋めながら呟いた。

 ──オヤシシコロカムラギのことはもう聞いたか。

 ルーディーンが頷くと、カーイは深く息を吐く。

 ──俺が殺した。喰えって言われて、そのとおりにしたよ。
 お陰でクソみたいな岩の封印から出るのは楽だったけどな。

 その声があまりに重くて、ルーディーンはそっと彼の背中を撫でる。
 泣いているわけではないと知っていたけれど、同じことだと思ったからだ。

 彼の心が血を流している。

 眼から涙を零していなくても、ルーディーンはそれを感じる。

「……辛かったのね」

 カーイは答えなかった。

 ただ、ルーディーンを抱く手に少しだけ力が込められた。
 震えているのを誤魔化すように。

 言うべきかどうか悩んだけれど、結局ルーディーンは口にしなかった。
 パレッタはきっとあなたを責めない、という一言を。
 それはルーディーンが本心から思うことで、きっとカーイも求めている言葉に違いないけれど、言うのはやめた。

 その慰めが彼の心血を止めることはない。
 パレッタ自身の口からでなければ、きっと意味がない。

 だからルーディーンも黙ったまま、しばらくそのままでいた。

 どれくらい経ったのか、急にカーイが顔を上げる。

 ルーディーンのことも離し、予定外に引き止めてしまったことを短く詫びる彼は、まだどこか苦しそうに見えた。
 できるならその痛みが少しでも安らぐまで傍にいてやりたいとルーディーンは思ったけれど、それをカーイ自身が望んではいない。

 ルーディーンは後ろ髪を引かれる思いをぐっと堪え、立ち上がる。

「では、私はあちらに戻ります。カーイ、……その、気をつけて」
「そっちもな。
 ……あ、いけね、忘れるところだった」
「え? ……あっ……」

 立ち去ろうとしたところで腕を引かれ、カーイの手がさっと首筋を撫でた。
 突然のことでくすぐったかったが、すぐにそこが、アフラムシカに噛まれた場所だと思い出して恥ずかしくなる。

「あ、あの……」
「痕は消してやったから、あとは襟元を直しておけよ」

 ひらりと手を振って、そのまま背を向けたカーイは森の中へと消えていった。

 ルーディーンは彼の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。
 動けなかった、と言ったほうが正確かもしれない。

 軽く指先を滑らされただけなのに、どうしてそこがじんわりと熱く感じるのだろう。

 ふうと息を吐いて、言われたとおりに服の袷を整えると、ルーディーンも広場に戻ることにした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

公爵家次男はちょっと変わりモノ? ~ここは乙女ゲームの世界だから、デブなら婚約破棄されると思っていました~

松原 透
ファンタジー
異世界に転生した俺は、婚約破棄をされるため誰も成し得なかったデブに進化する。 なぜそんな事になったのか……目が覚めると、ローバン公爵家次男のアレスという少年の姿に変わっていた。 生まれ変わったことで、異世界を満喫していた俺は冒険者に憧れる。訓練中に、魔獣に襲われていたミーアを助けることになったが……。 しかし俺は、失敗をしてしまう。責任を取らされる形で、ミーアを婚約者として迎え入れることになった。その婚約者に奇妙な違和感を感じていた。 二人である場所へと行ったことで、この異世界が乙女ゲームだったことを理解した。 婚約破棄されるためのデブとなり、陰ながらミーアを守るため奮闘する日々が始まる……はずだった。 カクヨム様 小説家になろう様でも掲載してます。

【完結】虐げられオメガ聖女なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました(異世界恋愛オメガバース)

美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!

新約・精霊眼の少女

みつまめ つぼみ
ファンタジー
 孤児院で育った14歳の少女ヒルデガルトは、豊穣の神の思惑で『精霊眼』を授けられてしまう。  力を与えられた彼女の人生は、それを転機に運命の歯車が回り始める。  孤児から貴族へ転身し、貴族として強く生きる彼女を『神の試練』が待ち受ける。  可憐で凛々しい少女ヒルデガルトが、自分の運命を乗り越え『可愛いお嫁さん』という夢を叶える為に奮闘する。  頼もしい仲間たちと共に、彼女は国家を救うために動き出す。  これは、運命に導かれながらも自分の道を切り開いていく少女の物語。 ----  本作は「精霊眼の少女」を再構成しリライトした作品です。

悪役令嬢がヒロインからのハラスメントにビンタをぶちかますまで。

倉桐ぱきぽ
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢に転生した私は、ざまぁ回避のため、まじめに生きていた。 でも、ヒロイン(転生者)がひどい!   彼女の嘘を信じた推しから嫌われるし。無実の罪を着せられるし。そのうえ「ちゃんと悪役やりなさい」⁉ シナリオ通りに進めたいヒロインからのハラスメントは、もう、うんざり! 私は私の望むままに生きます!! 本編+番外編3作で、40000文字くらいです。 ⚠途中、視点が変わります。サブタイトルをご覧下さい。 ⚠『終』の次のページからは、番外&後日談となります。興味がなければブラバしてください。

【完結】前世の不幸は神様のミスでした?異世界転生、条件通りなうえチート能力で幸せです

yun.
ファンタジー
~タイトル変更しました~ 旧タイトルに、もどしました。 日本に生まれ、直後に捨てられた。養護施設に暮らし、中学卒業後働く。 まともな職もなく、日雇いでしのぐ毎日。 劣悪な環境。上司にののしられ、仲のいい友人はいない。 日々の衣食住にも困る。 幸せ?生まれてこのかた一度もない。 ついに、死んだ。現場で鉄パイプの下敷きに・・・ 目覚めると、真っ白な世界。 目の前には神々しい人。 地球の神がサボった?だから幸せが1度もなかったと・・・ 短編→長編に変更しました。 R4.6.20 完結しました。 長らくお読みいただき、ありがとうございました。

転生して異世界の第7王子に生まれ変わったが、魔力が0で無能者と言われ、僻地に追放されたので自由に生きる。

黒ハット
ファンタジー
ヤクザだった大宅宗一35歳は死んで記憶を持ったまま異世界の第7王子に転生する。魔力が0で魔法を使えないので、無能者と言われて王族の籍を抜かれ僻地の領主に追放される。魔法を使える事が分かって2回目の人生は前世の知識と魔法を使って領地を発展させながら自由に生きるつもりだったが、波乱万丈の人生を送る事になる

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

聖女召喚に巻き添え異世界転移~だれもかれもが納得すると思うなよっ!

山田みかん
ファンタジー
「貴方には剣と魔法の異世界へ行ってもらいますぅ~」 ────何言ってんのコイツ? あれ? 私に言ってるんじゃないの? ていうか、ここはどこ? ちょっと待てッ!私はこんなところにいる場合じゃないんだよっ! 推しに会いに行かねばならんのだよ!!

処理中です...