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幸福の国 アンハナケウ
178 ひねもす泰(やす)らけき密林の侯
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浅黒い肌と腰布のみの軽装に、あちこちに刺青を施した身体の、見るからに南部の神だった。
恐らく名前を聞けばわかるような神だろうが、人の姿をとられるとララキには判断がつかない。
アフラムシカは人の姿に変わり、ララキを抱えたままその場に屈んで、所在なさげに空を掻いていた少年の手を取った。
「それ、クリャだろ……? なんか……しばらく見ないうちに、ずいぶん、かわいくなったな」
「今はララキを器にしている。すまない、おまえたちをずっと欺いていた」
「いいよ、過ぎたことさ……それにきっと、それが必要だって、思ったんだよな、アフラムシカ。
……おいらたちは……いいんだ、ドドさえ止めてくれりゃ……それでいい……。
でも、ひとつ、聞いといてくれるかい? ドドに……なんでこんな、ひどいことしたんだってさ……。
こないだまで……あんなに、いい奴だったじゃないか……なのに、どうしてだよォ……おいらだって……ヴニェクだって……ドドが盟主で、案外よかったって、思ってたんだ……それなのに……ッ」
最後はしゃくりあげるようにして言った、少年の慟哭に答える者は今、ここにはいない。
ドドといえばヒヒの神だ。
南部育ちのララキももちろんその名前は知っているし、それどころか故郷(イキエス)に信徒の知り合いもいる。
アンハナケウで直接その姿と言動を見てもいる。
大きな声で場を取り仕切っていた、いかにも快活で鷹揚そうな大きなヒヒだった。
周りの神々も俯いている。
悔しそうに歯を噛みしめている、目隠しをした薄着の女神はヴニェク・スーだろう。
彼女の傍にひときわ美しい女神が横たわっていて、その人に関しては、ララキは誰に聞かずともその名を答えられそうだった。
純白の長い髪を地面に遊ばせて、眠るように気絶しているその人はきっとルーディーンだ。
ヒツジの姿だったときとほとんど印象が変わらない。
よくよく見ると、広場の中心は女神ばかりだった。
その周りに男神が倒れているわけだが、ひとりずつしゃがんでいる女神たちと異なり、彼らは無造作に積み上げられたような状態の者もいる。
その異様な場景からは明らかに誰かの意図が感じられた。
そういえば、と思い返す。
クリャに頭の中であれこれ説明を受けていたときに、こんなことを言っていたように思う。
──ドドは極度の女好きで、この期に自分以外のすべての神を虐殺したがっているようだが、女神はその限りではない。
それを頭に置いて対処するのがいいぞ。
……それにしては、あの血まみれの誰かを抱えている女神もかなり怪我をしているように見えるけれど。
彼女たちの手当てをするのかと思いきや、アフラムシカの指示は違った。
これからララキたちが行うのは大紋章の改訂作業らしい。
簡単に言えば、今のクシエリスルの『参加している神から吸い上げた力をすべてドドに送る』状態から、以前の『吸い上げられた力を均等に分散する』状態に戻そうというのである。
クリャなどクシエリスルの外の存在がいるといっても、ドドがクシエリスルの神々の力を総占めしているままでは勝ち目はない。
とはいえこちらを強化する方法がないので彼を弱体化するしかないのだ。
「ほんとうにすまない、ヤッティゴ。もうしばらく耐えてくれ」
アフラムシカは少年にそう告げて立ち上がる。
そのまま彼が見上げる姿勢をとったので、ララキもそれに倣って上を見た。
頭上には紺色をした空と、そこに星座のように描かれた巨大な紋章がある。
「……大紋章の書き換えには多くの手順を踏まなくてはならない。そもそも、作業そのものを始める以前に準備が必要だ」
「まあ、これだけ大きければねえ……」
「大陸全体に影響を及ぼすものだ。慎重に、ひとつずつ、確実に行わなければ」
そこから、ララキはクリャに代わった。
元が人間であったララキには手で描く以外の紋唱術がわからないからだ。
もちろんクリャの内側から話は聞き続けている。
クシエリスルの外にいて大紋章の仕組みについてはあまり詳しくないらしいクリャは、まずアフラムシカに細かな説明を受けながら、彼の指示に従って準備とやらを始めた。
説明に関してはあまりにも細かすぎて、もはやララキには何を言っているのかいまいちよくわからない。
とりあえず、今は大紋章自体が封印されているような状態らしく、書き換えにはその封印を解く必要があるみたいだ。
さらに書き換えにあたり、直接大紋章を触るのはよくないことらしい。
このあたりが非常に複雑怪奇でララキにはちんぷんかんぷんだったが、たぶんざっくり言ってこんな感じだ──予め部品を用意しておいて、封印解除とともに新しい部品をはめ込み、そのまま古い部品を押し出す。
なんかそんなようなことを言っている気がする。
まあララキには理解できなくてもクリャがわかっているようなので大丈夫だろう。
ともかくアフラムシカとクリャは、恐らく前述の説明でいうところの部品の用意を始めたらしかった。
むろんこの巨大な紋章の、書き換えるべき部分すべての部品だ。相当な数になるのは間違いない。
「要するにクシエリスルの定義からあのヒヒを抜けばよろしいのでしょう」
「ああ、そうだ」
……前言撤回。思ったよりは少ないらしいです。
しかしそれだけの書き換えでもふたりの準備にはずいぶんと時間がかかっていた。
大きな変更をひとつ行うために、小さな部品をたくさん作って少しずつ入れ換えていくつもりのようだ。
そのほうが大紋章、ひいては大陸全体にかかる影響というか、負担が少ないらしい。
ララキの眼には、アフラムシカの頭上に大きめの紋章が幾つか重なって浮かんでいるように見える。
向かい合っているクリャもそこに力を加えたりしているのだろうか。
紋章はくるくる回りながら、少しずつ形を変えている。
図形が縮み、空いたところに別の模様が現れ、あるいは線が消え、もしくは多角形の角の数が増えたり、辺がひとつ欠けたり、また別の場所で円が歪んだりと、ひっきりなしに変動していく。
不思議なことに、次にどこをどう変えるのか、見ているうちにだんだんララキにもわかるようになった。
たぶんクリャが知っているからだ。
クリャの考えていることは、だいたいララキにも伝わっている。
そのうちこうして手を使わずに紋章を描く感覚も掴めるようになるのかもしれない。
でも、この身体にも一応前脚に指があるのだから、手で描きたいと思うララキだった。
だって、描かなければいつか忘れてしまいそうで。ライレマに手ずから教わった大切なものなのに。
クリャはその場を動かないし、部品の生成に集中していて周りをまったく見ていないので、今のララキには周辺のようすがわかりにくい。
それでも神々がこちらを注視しているのがよくわかる。
以前のような気圧される感じはしないけれど、縋りつくような視線を感じる。
みんな固唾を呑んで見守っているのだ。
上手くいくのかどうか、ひいては自分たちが救われるのかどうかを。
中にはきっと、ほんとうにクシエリスルの外の神なんかが助けてくれるのか、という疑問や不安もあるだろう。
こんな状況で、みんな力が出せない状況らしいので何も言われはしないけれど、きっとみんな、恐ろしくてたまらないはずだ。
あの温厚なフォレンケですら、前にクリャを倒そうとしていたときは刺々しくて攻撃的だった。
他の神ならきっともっと激しかったことだろう。
クリャは自分たちを怨んでいるに違いない、それなのにどうして助けようとしてくれているのだろうか、これまでのことをなんと言って詫びればいいのか──そんな気配が満ちている。
でも、クリャと一体になっているララキにはわかる。
クリャ自身は、そんなことちっとも気にしていない。
他の神々から攻撃されたぶんだけ、クリャも他所の領地の人間や動物を喰ってきた。
だから平等だと思っている。
そんな平等ってあり?とひとまずの人間代表としてララキはちょっとどうかと思うけれども、神としてはそれでおあいこという感覚らしい。
傍迷惑な話である。
まあそうは言っても、この状況ではララキも黙るしかあるまい。
「……なんだ?」
あれこれ考えながらぼんやりしていたら、急にクリャが顔を上げた。
アフラムシカも視線を少しどこかにやっている。
何かと思えば、静寂のアンハナケウに風が吹き込んだ。
雪の欠片が混じった冷たい風だ。
クリャがその出元のほうを見たので、ララキにも、そこに現れた新たな神の姿が見えた。
よく知っている外見だった。
ゆるく編んで垂らした銀髪に長身の若いハーシ人男性、もはや人型のほうが見慣れているカーシャ・カーイだ。
彼は今までどこで何をしていたのか、クリャもそのあたりをあまり把握できていないようなのだが、とにかく彼も楽をして隠れていたわけではなさそうだ。
というのも、カーイの身体は見るからに傷だらけで、衣装も血が染みて真っ赤になっていた。
「カーシャ・カーイ……今までどこにいた?」
「……別に、てめえにいちいち報告する義理はねえだろ。それよりそっちこそ何してる?」
「見てのとおり大紋章の修正よ。
それより貴様はこの状況を見て何とも思わんのか。アフラムシカの指示を無視して勝手に外に出おって、残された者たちが見るも哀れだぞ」
なんだか腹を立てているような調子でクリャが言う。
なんかヴレンデールでガエムトに襲われていたときとぜんぜん性格が違うよな、と今さらながらララキは思ったが、あれは傀儡でこちらは本体だ。
こっちのほうが素なんだろうか。
まあ、あの当時はあえてクシエリスルの敵を演じていた部分もあったのかもしれない。
「確かにな、こりゃひでぇ。
……でもどうやらお姫さまは無事らしい。やれやれ、よかったよかった……。
おいルーディーン、どうしたんだよ。おまえはそこまで弱ってるはずねえだろ」
カーイはあたりを見回して演技っぽくそう言ってから、あの倒れている美女のところへ行った。
やはりその人がルーディーンだったか。
ルーディーンの上体を抱き起こしたカーイは、呼びかけながら軽く揺すって彼女を起こした。
ややあって、女神が小さく身じろぎをする。
ほんとうにただ眠っていただけのような目覚めかただった。
しかし意識がまだぼんやりしているらしいルーディーンは、眼を醒ましてもすぐは動けず、呆然としてカーイを見上げている。
心なしかその頬に赤みが差しているように思えるのと、カーイの抱えかたのせいでえらく場違いな雰囲気に見えた。
ありていに言えば恋人同士っぽかったのだ。もしかしてこのふたりはそういう関係なんだろうか。
正直言って今後の参考に観察したかったが、身体の支配権をとっているクリャに顔を逸らされた。
カーイのことなど無視して部品製造の続きに戻ろうというらしい。
仕方がないので続きは音声だけで聞くことにする。
「……カーイ……その怪我は、どうしたんです……?」
「ちょっとな。これが見た目以上に深いんで、こうしておまえに会いに戻ってきたってわけだ。
この状態でも多少なりと癒しの効果はあるだろうさ」
「ですが私は今はまだ……」
そんな会話が聞こえてきたところからすると、どうやらルーディーンには傷を癒す力があるらしい。
ルーディーン自身はやや自身なさげだが、はっきり無理だとは言わないから、やるだけやろうとしているのだろう。
さすがに初めてララキとまともな対話をしてくれた女神だけある。
思えば彼女こそ、ララキの旅に最初に与えられた光だった。
何をどうすればいいのかもわからず、悪戯にヴニェクを刺激してひどい目に遭っていたララキたちに、初めて彼女が友好的な感情と明確な指針を見せてくれたのだ。
あのときルーディーンが呼びかけに応えてくれなければ、ララキの旅はどこで頓挫していてもおかしくなかった。
だからルーディーンを前にして、ララキは胸に感謝の念を抱かずにはいられない。
そして、彼女のような善良な神を救うためにも、今は大紋章の改訂とドドの打倒に尽力しなければ。
ララキが今一度そう心に思い直した、そのときだった。
「ルー……ディーン……逃げて……」
どこかから、誰かの小さな声が聞こえた。
かすれた悲鳴のような、乾ききった喉から無理やりに搾り出した滓のようなその声の主を、クリャは即座に見つけてくれる。
──肉塊を抱いた傷だらけの女神だった。
なぜそんな言葉を、とララキが疑問に思う暇もなく、誰かがそこへ。
ルーディーンと、カーイのところへ。
一瞬、何が起きたのかよくわからなかった。
ララキの眼にはアフラムシカがいきなりカーイに襲いかかったようにしか見えなかった。
カーイはすんでのところで飛び上がって攻撃を避けたが、ルーディーンは取りこぼされた恰好でアフラムシカの足元に這いつくばっている。
カーイは少し離れた場所に着地し、怪訝そうにアフラムシカを睨む。
一方、アフラムシカも、見たことがないほど冷たい表情で彼を見据えていた。
どうして彼がカーイを襲うのかわからず狼狽しているのは、ララキのみならずルーディーンも同じなのだろう。
彼女はその場を動けず這ったまま、顔面蒼白になって両者を見上げている。
こちらの表情には恐れと悲哀が色濃かった。
「パレッタ・パレッタ・パレッタはどうした、カーシャ・カーイ」
アフラムシカは凍てつくような声音でそう尋ねた。
その質問にどのような意図があるのか、もちろんララキにはまったくわからなかった。
→
浅黒い肌と腰布のみの軽装に、あちこちに刺青を施した身体の、見るからに南部の神だった。
恐らく名前を聞けばわかるような神だろうが、人の姿をとられるとララキには判断がつかない。
アフラムシカは人の姿に変わり、ララキを抱えたままその場に屈んで、所在なさげに空を掻いていた少年の手を取った。
「それ、クリャだろ……? なんか……しばらく見ないうちに、ずいぶん、かわいくなったな」
「今はララキを器にしている。すまない、おまえたちをずっと欺いていた」
「いいよ、過ぎたことさ……それにきっと、それが必要だって、思ったんだよな、アフラムシカ。
……おいらたちは……いいんだ、ドドさえ止めてくれりゃ……それでいい……。
でも、ひとつ、聞いといてくれるかい? ドドに……なんでこんな、ひどいことしたんだってさ……。
こないだまで……あんなに、いい奴だったじゃないか……なのに、どうしてだよォ……おいらだって……ヴニェクだって……ドドが盟主で、案外よかったって、思ってたんだ……それなのに……ッ」
最後はしゃくりあげるようにして言った、少年の慟哭に答える者は今、ここにはいない。
ドドといえばヒヒの神だ。
南部育ちのララキももちろんその名前は知っているし、それどころか故郷(イキエス)に信徒の知り合いもいる。
アンハナケウで直接その姿と言動を見てもいる。
大きな声で場を取り仕切っていた、いかにも快活で鷹揚そうな大きなヒヒだった。
周りの神々も俯いている。
悔しそうに歯を噛みしめている、目隠しをした薄着の女神はヴニェク・スーだろう。
彼女の傍にひときわ美しい女神が横たわっていて、その人に関しては、ララキは誰に聞かずともその名を答えられそうだった。
純白の長い髪を地面に遊ばせて、眠るように気絶しているその人はきっとルーディーンだ。
ヒツジの姿だったときとほとんど印象が変わらない。
よくよく見ると、広場の中心は女神ばかりだった。
その周りに男神が倒れているわけだが、ひとりずつしゃがんでいる女神たちと異なり、彼らは無造作に積み上げられたような状態の者もいる。
その異様な場景からは明らかに誰かの意図が感じられた。
そういえば、と思い返す。
クリャに頭の中であれこれ説明を受けていたときに、こんなことを言っていたように思う。
──ドドは極度の女好きで、この期に自分以外のすべての神を虐殺したがっているようだが、女神はその限りではない。
それを頭に置いて対処するのがいいぞ。
……それにしては、あの血まみれの誰かを抱えている女神もかなり怪我をしているように見えるけれど。
彼女たちの手当てをするのかと思いきや、アフラムシカの指示は違った。
これからララキたちが行うのは大紋章の改訂作業らしい。
簡単に言えば、今のクシエリスルの『参加している神から吸い上げた力をすべてドドに送る』状態から、以前の『吸い上げられた力を均等に分散する』状態に戻そうというのである。
クリャなどクシエリスルの外の存在がいるといっても、ドドがクシエリスルの神々の力を総占めしているままでは勝ち目はない。
とはいえこちらを強化する方法がないので彼を弱体化するしかないのだ。
「ほんとうにすまない、ヤッティゴ。もうしばらく耐えてくれ」
アフラムシカは少年にそう告げて立ち上がる。
そのまま彼が見上げる姿勢をとったので、ララキもそれに倣って上を見た。
頭上には紺色をした空と、そこに星座のように描かれた巨大な紋章がある。
「……大紋章の書き換えには多くの手順を踏まなくてはならない。そもそも、作業そのものを始める以前に準備が必要だ」
「まあ、これだけ大きければねえ……」
「大陸全体に影響を及ぼすものだ。慎重に、ひとつずつ、確実に行わなければ」
そこから、ララキはクリャに代わった。
元が人間であったララキには手で描く以外の紋唱術がわからないからだ。
もちろんクリャの内側から話は聞き続けている。
クシエリスルの外にいて大紋章の仕組みについてはあまり詳しくないらしいクリャは、まずアフラムシカに細かな説明を受けながら、彼の指示に従って準備とやらを始めた。
説明に関してはあまりにも細かすぎて、もはやララキには何を言っているのかいまいちよくわからない。
とりあえず、今は大紋章自体が封印されているような状態らしく、書き換えにはその封印を解く必要があるみたいだ。
さらに書き換えにあたり、直接大紋章を触るのはよくないことらしい。
このあたりが非常に複雑怪奇でララキにはちんぷんかんぷんだったが、たぶんざっくり言ってこんな感じだ──予め部品を用意しておいて、封印解除とともに新しい部品をはめ込み、そのまま古い部品を押し出す。
なんかそんなようなことを言っている気がする。
まあララキには理解できなくてもクリャがわかっているようなので大丈夫だろう。
ともかくアフラムシカとクリャは、恐らく前述の説明でいうところの部品の用意を始めたらしかった。
むろんこの巨大な紋章の、書き換えるべき部分すべての部品だ。相当な数になるのは間違いない。
「要するにクシエリスルの定義からあのヒヒを抜けばよろしいのでしょう」
「ああ、そうだ」
……前言撤回。思ったよりは少ないらしいです。
しかしそれだけの書き換えでもふたりの準備にはずいぶんと時間がかかっていた。
大きな変更をひとつ行うために、小さな部品をたくさん作って少しずつ入れ換えていくつもりのようだ。
そのほうが大紋章、ひいては大陸全体にかかる影響というか、負担が少ないらしい。
ララキの眼には、アフラムシカの頭上に大きめの紋章が幾つか重なって浮かんでいるように見える。
向かい合っているクリャもそこに力を加えたりしているのだろうか。
紋章はくるくる回りながら、少しずつ形を変えている。
図形が縮み、空いたところに別の模様が現れ、あるいは線が消え、もしくは多角形の角の数が増えたり、辺がひとつ欠けたり、また別の場所で円が歪んだりと、ひっきりなしに変動していく。
不思議なことに、次にどこをどう変えるのか、見ているうちにだんだんララキにもわかるようになった。
たぶんクリャが知っているからだ。
クリャの考えていることは、だいたいララキにも伝わっている。
そのうちこうして手を使わずに紋章を描く感覚も掴めるようになるのかもしれない。
でも、この身体にも一応前脚に指があるのだから、手で描きたいと思うララキだった。
だって、描かなければいつか忘れてしまいそうで。ライレマに手ずから教わった大切なものなのに。
クリャはその場を動かないし、部品の生成に集中していて周りをまったく見ていないので、今のララキには周辺のようすがわかりにくい。
それでも神々がこちらを注視しているのがよくわかる。
以前のような気圧される感じはしないけれど、縋りつくような視線を感じる。
みんな固唾を呑んで見守っているのだ。
上手くいくのかどうか、ひいては自分たちが救われるのかどうかを。
中にはきっと、ほんとうにクシエリスルの外の神なんかが助けてくれるのか、という疑問や不安もあるだろう。
こんな状況で、みんな力が出せない状況らしいので何も言われはしないけれど、きっとみんな、恐ろしくてたまらないはずだ。
あの温厚なフォレンケですら、前にクリャを倒そうとしていたときは刺々しくて攻撃的だった。
他の神ならきっともっと激しかったことだろう。
クリャは自分たちを怨んでいるに違いない、それなのにどうして助けようとしてくれているのだろうか、これまでのことをなんと言って詫びればいいのか──そんな気配が満ちている。
でも、クリャと一体になっているララキにはわかる。
クリャ自身は、そんなことちっとも気にしていない。
他の神々から攻撃されたぶんだけ、クリャも他所の領地の人間や動物を喰ってきた。
だから平等だと思っている。
そんな平等ってあり?とひとまずの人間代表としてララキはちょっとどうかと思うけれども、神としてはそれでおあいこという感覚らしい。
傍迷惑な話である。
まあそうは言っても、この状況ではララキも黙るしかあるまい。
「……なんだ?」
あれこれ考えながらぼんやりしていたら、急にクリャが顔を上げた。
アフラムシカも視線を少しどこかにやっている。
何かと思えば、静寂のアンハナケウに風が吹き込んだ。
雪の欠片が混じった冷たい風だ。
クリャがその出元のほうを見たので、ララキにも、そこに現れた新たな神の姿が見えた。
よく知っている外見だった。
ゆるく編んで垂らした銀髪に長身の若いハーシ人男性、もはや人型のほうが見慣れているカーシャ・カーイだ。
彼は今までどこで何をしていたのか、クリャもそのあたりをあまり把握できていないようなのだが、とにかく彼も楽をして隠れていたわけではなさそうだ。
というのも、カーイの身体は見るからに傷だらけで、衣装も血が染みて真っ赤になっていた。
「カーシャ・カーイ……今までどこにいた?」
「……別に、てめえにいちいち報告する義理はねえだろ。それよりそっちこそ何してる?」
「見てのとおり大紋章の修正よ。
それより貴様はこの状況を見て何とも思わんのか。アフラムシカの指示を無視して勝手に外に出おって、残された者たちが見るも哀れだぞ」
なんだか腹を立てているような調子でクリャが言う。
なんかヴレンデールでガエムトに襲われていたときとぜんぜん性格が違うよな、と今さらながらララキは思ったが、あれは傀儡でこちらは本体だ。
こっちのほうが素なんだろうか。
まあ、あの当時はあえてクシエリスルの敵を演じていた部分もあったのかもしれない。
「確かにな、こりゃひでぇ。
……でもどうやらお姫さまは無事らしい。やれやれ、よかったよかった……。
おいルーディーン、どうしたんだよ。おまえはそこまで弱ってるはずねえだろ」
カーイはあたりを見回して演技っぽくそう言ってから、あの倒れている美女のところへ行った。
やはりその人がルーディーンだったか。
ルーディーンの上体を抱き起こしたカーイは、呼びかけながら軽く揺すって彼女を起こした。
ややあって、女神が小さく身じろぎをする。
ほんとうにただ眠っていただけのような目覚めかただった。
しかし意識がまだぼんやりしているらしいルーディーンは、眼を醒ましてもすぐは動けず、呆然としてカーイを見上げている。
心なしかその頬に赤みが差しているように思えるのと、カーイの抱えかたのせいでえらく場違いな雰囲気に見えた。
ありていに言えば恋人同士っぽかったのだ。もしかしてこのふたりはそういう関係なんだろうか。
正直言って今後の参考に観察したかったが、身体の支配権をとっているクリャに顔を逸らされた。
カーイのことなど無視して部品製造の続きに戻ろうというらしい。
仕方がないので続きは音声だけで聞くことにする。
「……カーイ……その怪我は、どうしたんです……?」
「ちょっとな。これが見た目以上に深いんで、こうしておまえに会いに戻ってきたってわけだ。
この状態でも多少なりと癒しの効果はあるだろうさ」
「ですが私は今はまだ……」
そんな会話が聞こえてきたところからすると、どうやらルーディーンには傷を癒す力があるらしい。
ルーディーン自身はやや自身なさげだが、はっきり無理だとは言わないから、やるだけやろうとしているのだろう。
さすがに初めてララキとまともな対話をしてくれた女神だけある。
思えば彼女こそ、ララキの旅に最初に与えられた光だった。
何をどうすればいいのかもわからず、悪戯にヴニェクを刺激してひどい目に遭っていたララキたちに、初めて彼女が友好的な感情と明確な指針を見せてくれたのだ。
あのときルーディーンが呼びかけに応えてくれなければ、ララキの旅はどこで頓挫していてもおかしくなかった。
だからルーディーンを前にして、ララキは胸に感謝の念を抱かずにはいられない。
そして、彼女のような善良な神を救うためにも、今は大紋章の改訂とドドの打倒に尽力しなければ。
ララキが今一度そう心に思い直した、そのときだった。
「ルー……ディーン……逃げて……」
どこかから、誰かの小さな声が聞こえた。
かすれた悲鳴のような、乾ききった喉から無理やりに搾り出した滓のようなその声の主を、クリャは即座に見つけてくれる。
──肉塊を抱いた傷だらけの女神だった。
なぜそんな言葉を、とララキが疑問に思う暇もなく、誰かがそこへ。
ルーディーンと、カーイのところへ。
一瞬、何が起きたのかよくわからなかった。
ララキの眼にはアフラムシカがいきなりカーイに襲いかかったようにしか見えなかった。
カーイはすんでのところで飛び上がって攻撃を避けたが、ルーディーンは取りこぼされた恰好でアフラムシカの足元に這いつくばっている。
カーイは少し離れた場所に着地し、怪訝そうにアフラムシカを睨む。
一方、アフラムシカも、見たことがないほど冷たい表情で彼を見据えていた。
どうして彼がカーイを襲うのかわからず狼狽しているのは、ララキのみならずルーディーンも同じなのだろう。
彼女はその場を動けず這ったまま、顔面蒼白になって両者を見上げている。
こちらの表情には恐れと悲哀が色濃かった。
「パレッタ・パレッタ・パレッタはどうした、カーシャ・カーイ」
アフラムシカは凍てつくような声音でそう尋ねた。
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