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呪われた民の国 チロタ
169 トレアニ
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呆然と立ち尽くす外国人ふたりがよほど奇異に映ったのだろう。
ミルンとスニエリタのもとへ島民が歩み寄り、どうかしたのか、と声をかけてきた。
ここまで悪目立ちしないように気を遣っていたのが無駄になってしまったが、ちょうど尋ねたいこともある。
ミルンはできるだけ何でもないふうを装って聞き返した。
──この立派なお邸には誰が住んでいるんですか?
島民はそんなことも知らないのかという顔で、島主さまに決まってるよ、と答える。
「この向かいは本家だな。こっちの建物が主のナーシュマさまと奥方のエレイリさまのお邸で、隣は大長老さまがお住まいになられとる」
「あの、そのおうちに若い女性はいらっしゃいますか? さっきあのあたりの窓のそばにいらしたようなんですが」
「ご一族ならナーシュマさまの一人娘のトレアニさまだよ。
でも滅多にお姿なんか見せないから、窓から見えたってんならその下女じゃないかね。トレアニお嬢さまはご病気だから」
「失礼ですけど、その病気ってのはいつから?」
「生まれつきさ。お可哀想に、ほとんど外には出られないんで、わしらもお顔を見たことはないくらいだね」
ふたりは島民に礼を言い、その場を一旦離れる。
そして人目につきにくそうな路地へと入り、手帳を取り出すと、昨日の夕食時にとったメモの部分を開く。
そこにも確かにナーシュマ・エレイリ夫妻とその娘トレアニの名前があった。
この親子と大長老夫妻を合わせた五人が本家ラスラハヤ家を構成しているらしい。
つまり他にあの家に住んでいる人間はいない。
もちろん島民が言うように下女なら何人もいるだろう。ふつうに考えたら、そのほうが可能性は高いのかもしれない。
けれどもミルンとスニエリタは顔を合わせて、間違いない、と確かめ合うように囁いた。
なぜなら風に靡いたオレンジ色の頭髪に混じって、鮮やかな緑色をした羽毛がカーテンの陰から覗いたのが見えたのだ。
そういう髪飾りだったかもしれないが、外にも出られないほど病弱な令嬢が、閉じこもった室内でそんなものを着けるだろうか。
それに下女が長い髪を束ねもせずにいるとは考えにくい。
あの窓辺に立っていたのはラスラハヤ家の令嬢で、なおかつララキだった。
そうとしか思えないのだ。
だがそうなると疑問が幾つも湧いてくる。
なぜララキはトレアニという名で呼ばれているのか。
ほんもののトレアニはどこへ行ったのか。
あるいはそういう名の令嬢など存在せず、島民全体の記憶を改竄して捻じ込ませただけなのか。
何にせよ、面倒なことになった、とミルンは思った。
そこらの民家で世話になっているくらいならまだしも、島主の邸宅に囲われているとなると簡単に接触ができない。
ただでさえ余所者のミルンたちがどんな理由をつければ会うことができるのかわからないし、それが病弱という設定ならなおさら難しいだろう。
それにこれからミルンたちがやろうとしていることは、ありていに言えば誘拐なのだ。
島主の本家の人間が消えたとなれば、一般人が失踪するより騒ぎが大きくなってしまうし、紋唱術師だというならきっとすぐに追ってくる。
「……どうしましょう?」
「とにかく一回どうにかしてララキと話をしたいよな。あいつに記憶があるかどうか確かめねえと。なさそうだけども」
「でもふつうにお願いしてもきっと通してはもらえませんよね……」
「せめて大陸ならクイネス将軍の名前が使えそうなもんだが、こんな辺鄙なとこじゃ難しいだろうな。そうなるとどっかから侵入するしか……」
路地から顔だけ出してようすを伺ってみる。
島主の敷地を囲っている柵などはそれほど高くはなく、上部が棘状になっていることで越えられないようにしてあるだけだ。
紋唱術を使えば簡単に越えられそうだった。
それに紋唱術が島主の専売特許という話なので、恐らく警備に当たっている人間は紋唱に対する装備はそれほどしっかりはしていないだろう。
しかし侵入したことがバレた時点で、紋唱術を使う人間=外部から来た旅人、と即座に特定されてしまう。
今日のうちにそのままララキを連れ出せるならそれでもいいかもしれないが、まだ接触を試みる段階で先が見えていないのにそこまでの危険を犯したくはない。
忍び込むなら絶対に気づかれないように、間違っても警備員と戦闘になるような事態は避けなければ。
しばし考え、そしてミルンは顔を上げた。
「……話をするだけなら俺らじゃなくてもいいよな?」
「えっ、どういうことです?」
「ララキと面識があって、なおかつ目立たずに忍び込めるなら……」
「あ……ああ、なるほど! わかりました!」
合点がいったスニエリタは手早く紋唱を行う。
ミルンはその間、その姿を誰にも見られないよう、周囲に注意を払っていた。
彼女はすばやく通りを横断し、柵の前にやってくる。
飛び越える必要はない。そのままするりと通り抜け、簡単にその中に入り込むことができた。
地面は柔らかな芝生に覆われているが、この島にも秋が来ているらしい、葉の先がちょっぴり黄色に色づいている。
指示されたとおり草むらの中を通ってひとつの建物を目指す。
あとはこの中に入る方法を探るわけだが、彼女には玄関の大きな扉を開けることができないので、じっと機会を伺った。
やがて使用人らしい服装の人影が扉の硝子に映るのを見て、彼女はすばやく腰を上げる。
そして扉が開いたその瞬間、風のごとき速さで滑り込むのだ。
都合のいいことに、使用人は両手に大きな荷物を抱えていた。
お陰で扉の開閉がゆっくりだったし、彼からは彼女の姿が見えなかったようだ。
ほっとしつつも気を抜かず、侵入してすぐ近くの家具の裏に身を潜める。
確か、指示によればこの建物の二階に確認すべき人物がいるらしい。
彼女は注意深く周囲を見回し、誰もいないのを確かめてから階段へと飛び出した。
勢いをつけて一気に踊り場まで駆け上がる。
そこで一旦、そこにあった大きな花瓶の陰に入り、呼吸を整えつつ再び辺りの気配を探った。
くれぐれも誰にも見つからないようにと言い含められている。
大丈夫そうだ、と花瓶から離れて階段を駆け上がった彼女の耳に、不意に思わぬ音が飛び込んでくる。
足音だ。
二階の廊下を、この階段へ向けて歩いてくる。
彼女は花瓶のところまで戻るかわずかに逡巡し、しかし、意を決してそのまま上ることにした。
ただし階段をではない。
手すりの上へと飛び上がり、そこからさらに跳躍したのだ。
……。
女中らしい人物が掃除道具を手に階段の前へと現れ、一段ずつ丁寧に掃き始めた。
彼女はそれを見下ろしながら、花瓶に戻らなくて正解だった、と胸を撫で下ろす。
彼女は今、天井から下がった灯りの軸に蔦を絡ませて、そこからぶら下がった状態だ。
そこでじっと女中が階下へ降りていくのを待ち、その姿が見えなくなったところでぱっと飛び降りた。
床には厚手の絨毯が敷かれているためこちらの足音はほとんど聞こえないだろう。
壁際に寄って廊下を伺う。人気はない。
扉の前まで行き、再び蔦を伸ばす。室内扉なら玄関ほど重くはないので彼女にも開けられるはずだ。
注意深くドアノブを引き、僅かに開いたところで滑り込み、そのまま蔦を内側のノブへと回して扉を閉める。
その一連の作業を、寝台に腰掛けた少女がぽかんとして眺めていた。
彼女はその少女を見上げる。
幸か不幸か、この部屋には他には誰もいないらしい。
オレンジ色の長い髪は、以前見た髪型ではなかったけれど、下ろせばこれくらいの長さはあっただろう。
その他の特徴も合致している。
やはり間違いないようだ、とこちらが納得したところで、少女がぱあっと明るい表情で駆け寄ってきた。
「……ウサギさん! ああっ、初めて見るわ、かぁわいいぃ~ッ」
『しっ、静かにしてください』
「嘘いま喋っ──むぐ」
騒がれそうだったので蔦で少女の口を塞ぐ。
しかしこの声も記憶にあるとおりだ。
目の前のこの少女は、服装などこそ違っているが、間違いなくララキだとフランジェは確信した。
『その反応ですと、どうやら私のことは覚えていないみたいですね』
「むぐぐ? ふむむふふ?」
『……大きな声を出さないとお約束していただけるなら、蔦は退けますよ。いいですか? ……はい』
「ぷはぁッ、びっくりした。
……ねえわたくし、おしゃべりするウサギさんには生まれて初めて会ったと思うのだけど……そもそも今まで一度もこの家から出たことがないし」
ララキの顔をした少女はそんなことを言う。
そのあともじっくり話を聞いてみたけれど、彼女は自分をトレアニ・ラスラハヤという人間だと思っているし、ミルンやスニエリタという名前を聞いてもぴんとこないようだった。
それ以外にもフランジェの知りえるあらゆる関係者の名前を挙げてみたけれど、誰ひとり頷いてはもらえない。
それどころか彼女は紋唱術の知識すらも欠けている状態だった。
なんでも病弱なトレアニは島主一族でありながら紋唱術を習っておらず、そのうえ邸どころかこの部屋からすら滅多に出ないとのことで、他の島主が紋唱術を使っているところも見たことがないらしい。
しかしフランジェには、トレアニが病気であるようには見えなかった。
溌剌とした態度も明るい声も、生気に満ちた頬の色も、どれをとっても健康そのものだったララキのままだ。
とてもではないが部屋から出られないような人間とは思えない。
それがどうにも引っかかったので、どこが悪いのかとはっきり訊いてみた。
するとトレアニは首をかしげて、
「どこでしょうね?
お父さまとお母さまが仰るには、このお邸には特別な術が施してあるから、ここにいる間は元気でいられるんですって。でもお外に出てしまうと倒れてしまうのだって……だから絶対にお邸から出てはいけないって、毎日のように言われているの」
どこか他人事のように、そう答えた。
『……わかりました。では、私はそろそろお暇します』
「えっ、もう!? もう少しお話していかない?」
『外におふたりを待たせているので。あまり遅いと心配をかけてしまいますし』
「そう……。ねえ、きっとまた来てちょうだいね。今度はぜひあなたのご主人も連れてきてほしいわ。
その……わたくし、お部屋からもそんなに出られないから……外の人とお話するなんて、ほとんどできなくて……」
フランジェの小さな前脚をきゅっと握って、トレアニは真剣な表情で言う。
確かに今の彼女の環境では、話し相手など女中くらいしかいないだろうし、彼らだって仕事をしながらトレアニの相手をすることになる。
両親も島主として忙しく働いているようなのであまりトレアニに構ってはいられないだろう。
寂しさがひしひしと伝わってきて、フランジェは答えの代わりに花を一輪、紋章から出して渡した。
それからトレアニの部屋を出て、入ってきたときと同じように注意しながら邸を脱出する。
今度は幸い掃除していたのか、一回の廊下に空いている窓を見つけたので、そこから楽に出て行くことができた。
代わりに少し邸の周りを遠回りすることになったが、ウサギの脚にはそれは大した苦ではない。
よく手入れされた美しい中庭をぴょこぴょこと駆け抜けていくと、花壇の脇に奇妙なものを見つけた。
石碑だろうか。
こんなところに何だろうと、通りすぎながら横目でその表面の文字を辿る。
言葉と同じくこの島の文字は、少しばかり形が歪んでいるが概ね大陸と同系のものを使用しているため、フランジェにも読めないことはない。
そしてその文面を理解した瞬間、思わずフランジェは立ち止まってしまった。
そこへ庭師らしい人物が歩いてきたので、慌てて近くの草むらに飛び込んでやり過ごし、そのあとはすぐさま走り去る。
来たときと同じように柵の合間をすり抜けて、通りを越えて路地に待つスニエリタのもとへ。
友の腕に戻っても、小さな心臓がばくばく鳴っていた。
走ったせいではない。見てはいけないものを見てしまった気がしたからだ。
「フランジェ、結果はどう?」
『なんとか会えましたが、確かにララキさんでしたよ。でも当人に記憶はないようです』
「そうか。……一旦源命院に戻ろう、そっちでじっくり聞かせてくれ」
→
呆然と立ち尽くす外国人ふたりがよほど奇異に映ったのだろう。
ミルンとスニエリタのもとへ島民が歩み寄り、どうかしたのか、と声をかけてきた。
ここまで悪目立ちしないように気を遣っていたのが無駄になってしまったが、ちょうど尋ねたいこともある。
ミルンはできるだけ何でもないふうを装って聞き返した。
──この立派なお邸には誰が住んでいるんですか?
島民はそんなことも知らないのかという顔で、島主さまに決まってるよ、と答える。
「この向かいは本家だな。こっちの建物が主のナーシュマさまと奥方のエレイリさまのお邸で、隣は大長老さまがお住まいになられとる」
「あの、そのおうちに若い女性はいらっしゃいますか? さっきあのあたりの窓のそばにいらしたようなんですが」
「ご一族ならナーシュマさまの一人娘のトレアニさまだよ。
でも滅多にお姿なんか見せないから、窓から見えたってんならその下女じゃないかね。トレアニお嬢さまはご病気だから」
「失礼ですけど、その病気ってのはいつから?」
「生まれつきさ。お可哀想に、ほとんど外には出られないんで、わしらもお顔を見たことはないくらいだね」
ふたりは島民に礼を言い、その場を一旦離れる。
そして人目につきにくそうな路地へと入り、手帳を取り出すと、昨日の夕食時にとったメモの部分を開く。
そこにも確かにナーシュマ・エレイリ夫妻とその娘トレアニの名前があった。
この親子と大長老夫妻を合わせた五人が本家ラスラハヤ家を構成しているらしい。
つまり他にあの家に住んでいる人間はいない。
もちろん島民が言うように下女なら何人もいるだろう。ふつうに考えたら、そのほうが可能性は高いのかもしれない。
けれどもミルンとスニエリタは顔を合わせて、間違いない、と確かめ合うように囁いた。
なぜなら風に靡いたオレンジ色の頭髪に混じって、鮮やかな緑色をした羽毛がカーテンの陰から覗いたのが見えたのだ。
そういう髪飾りだったかもしれないが、外にも出られないほど病弱な令嬢が、閉じこもった室内でそんなものを着けるだろうか。
それに下女が長い髪を束ねもせずにいるとは考えにくい。
あの窓辺に立っていたのはラスラハヤ家の令嬢で、なおかつララキだった。
そうとしか思えないのだ。
だがそうなると疑問が幾つも湧いてくる。
なぜララキはトレアニという名で呼ばれているのか。
ほんもののトレアニはどこへ行ったのか。
あるいはそういう名の令嬢など存在せず、島民全体の記憶を改竄して捻じ込ませただけなのか。
何にせよ、面倒なことになった、とミルンは思った。
そこらの民家で世話になっているくらいならまだしも、島主の邸宅に囲われているとなると簡単に接触ができない。
ただでさえ余所者のミルンたちがどんな理由をつければ会うことができるのかわからないし、それが病弱という設定ならなおさら難しいだろう。
それにこれからミルンたちがやろうとしていることは、ありていに言えば誘拐なのだ。
島主の本家の人間が消えたとなれば、一般人が失踪するより騒ぎが大きくなってしまうし、紋唱術師だというならきっとすぐに追ってくる。
「……どうしましょう?」
「とにかく一回どうにかしてララキと話をしたいよな。あいつに記憶があるかどうか確かめねえと。なさそうだけども」
「でもふつうにお願いしてもきっと通してはもらえませんよね……」
「せめて大陸ならクイネス将軍の名前が使えそうなもんだが、こんな辺鄙なとこじゃ難しいだろうな。そうなるとどっかから侵入するしか……」
路地から顔だけ出してようすを伺ってみる。
島主の敷地を囲っている柵などはそれほど高くはなく、上部が棘状になっていることで越えられないようにしてあるだけだ。
紋唱術を使えば簡単に越えられそうだった。
それに紋唱術が島主の専売特許という話なので、恐らく警備に当たっている人間は紋唱に対する装備はそれほどしっかりはしていないだろう。
しかし侵入したことがバレた時点で、紋唱術を使う人間=外部から来た旅人、と即座に特定されてしまう。
今日のうちにそのままララキを連れ出せるならそれでもいいかもしれないが、まだ接触を試みる段階で先が見えていないのにそこまでの危険を犯したくはない。
忍び込むなら絶対に気づかれないように、間違っても警備員と戦闘になるような事態は避けなければ。
しばし考え、そしてミルンは顔を上げた。
「……話をするだけなら俺らじゃなくてもいいよな?」
「えっ、どういうことです?」
「ララキと面識があって、なおかつ目立たずに忍び込めるなら……」
「あ……ああ、なるほど! わかりました!」
合点がいったスニエリタは手早く紋唱を行う。
ミルンはその間、その姿を誰にも見られないよう、周囲に注意を払っていた。
彼女はすばやく通りを横断し、柵の前にやってくる。
飛び越える必要はない。そのままするりと通り抜け、簡単にその中に入り込むことができた。
地面は柔らかな芝生に覆われているが、この島にも秋が来ているらしい、葉の先がちょっぴり黄色に色づいている。
指示されたとおり草むらの中を通ってひとつの建物を目指す。
あとはこの中に入る方法を探るわけだが、彼女には玄関の大きな扉を開けることができないので、じっと機会を伺った。
やがて使用人らしい服装の人影が扉の硝子に映るのを見て、彼女はすばやく腰を上げる。
そして扉が開いたその瞬間、風のごとき速さで滑り込むのだ。
都合のいいことに、使用人は両手に大きな荷物を抱えていた。
お陰で扉の開閉がゆっくりだったし、彼からは彼女の姿が見えなかったようだ。
ほっとしつつも気を抜かず、侵入してすぐ近くの家具の裏に身を潜める。
確か、指示によればこの建物の二階に確認すべき人物がいるらしい。
彼女は注意深く周囲を見回し、誰もいないのを確かめてから階段へと飛び出した。
勢いをつけて一気に踊り場まで駆け上がる。
そこで一旦、そこにあった大きな花瓶の陰に入り、呼吸を整えつつ再び辺りの気配を探った。
くれぐれも誰にも見つからないようにと言い含められている。
大丈夫そうだ、と花瓶から離れて階段を駆け上がった彼女の耳に、不意に思わぬ音が飛び込んでくる。
足音だ。
二階の廊下を、この階段へ向けて歩いてくる。
彼女は花瓶のところまで戻るかわずかに逡巡し、しかし、意を決してそのまま上ることにした。
ただし階段をではない。
手すりの上へと飛び上がり、そこからさらに跳躍したのだ。
……。
女中らしい人物が掃除道具を手に階段の前へと現れ、一段ずつ丁寧に掃き始めた。
彼女はそれを見下ろしながら、花瓶に戻らなくて正解だった、と胸を撫で下ろす。
彼女は今、天井から下がった灯りの軸に蔦を絡ませて、そこからぶら下がった状態だ。
そこでじっと女中が階下へ降りていくのを待ち、その姿が見えなくなったところでぱっと飛び降りた。
床には厚手の絨毯が敷かれているためこちらの足音はほとんど聞こえないだろう。
壁際に寄って廊下を伺う。人気はない。
扉の前まで行き、再び蔦を伸ばす。室内扉なら玄関ほど重くはないので彼女にも開けられるはずだ。
注意深くドアノブを引き、僅かに開いたところで滑り込み、そのまま蔦を内側のノブへと回して扉を閉める。
その一連の作業を、寝台に腰掛けた少女がぽかんとして眺めていた。
彼女はその少女を見上げる。
幸か不幸か、この部屋には他には誰もいないらしい。
オレンジ色の長い髪は、以前見た髪型ではなかったけれど、下ろせばこれくらいの長さはあっただろう。
その他の特徴も合致している。
やはり間違いないようだ、とこちらが納得したところで、少女がぱあっと明るい表情で駆け寄ってきた。
「……ウサギさん! ああっ、初めて見るわ、かぁわいいぃ~ッ」
『しっ、静かにしてください』
「嘘いま喋っ──むぐ」
騒がれそうだったので蔦で少女の口を塞ぐ。
しかしこの声も記憶にあるとおりだ。
目の前のこの少女は、服装などこそ違っているが、間違いなくララキだとフランジェは確信した。
『その反応ですと、どうやら私のことは覚えていないみたいですね』
「むぐぐ? ふむむふふ?」
『……大きな声を出さないとお約束していただけるなら、蔦は退けますよ。いいですか? ……はい』
「ぷはぁッ、びっくりした。
……ねえわたくし、おしゃべりするウサギさんには生まれて初めて会ったと思うのだけど……そもそも今まで一度もこの家から出たことがないし」
ララキの顔をした少女はそんなことを言う。
そのあともじっくり話を聞いてみたけれど、彼女は自分をトレアニ・ラスラハヤという人間だと思っているし、ミルンやスニエリタという名前を聞いてもぴんとこないようだった。
それ以外にもフランジェの知りえるあらゆる関係者の名前を挙げてみたけれど、誰ひとり頷いてはもらえない。
それどころか彼女は紋唱術の知識すらも欠けている状態だった。
なんでも病弱なトレアニは島主一族でありながら紋唱術を習っておらず、そのうえ邸どころかこの部屋からすら滅多に出ないとのことで、他の島主が紋唱術を使っているところも見たことがないらしい。
しかしフランジェには、トレアニが病気であるようには見えなかった。
溌剌とした態度も明るい声も、生気に満ちた頬の色も、どれをとっても健康そのものだったララキのままだ。
とてもではないが部屋から出られないような人間とは思えない。
それがどうにも引っかかったので、どこが悪いのかとはっきり訊いてみた。
するとトレアニは首をかしげて、
「どこでしょうね?
お父さまとお母さまが仰るには、このお邸には特別な術が施してあるから、ここにいる間は元気でいられるんですって。でもお外に出てしまうと倒れてしまうのだって……だから絶対にお邸から出てはいけないって、毎日のように言われているの」
どこか他人事のように、そう答えた。
『……わかりました。では、私はそろそろお暇します』
「えっ、もう!? もう少しお話していかない?」
『外におふたりを待たせているので。あまり遅いと心配をかけてしまいますし』
「そう……。ねえ、きっとまた来てちょうだいね。今度はぜひあなたのご主人も連れてきてほしいわ。
その……わたくし、お部屋からもそんなに出られないから……外の人とお話するなんて、ほとんどできなくて……」
フランジェの小さな前脚をきゅっと握って、トレアニは真剣な表情で言う。
確かに今の彼女の環境では、話し相手など女中くらいしかいないだろうし、彼らだって仕事をしながらトレアニの相手をすることになる。
両親も島主として忙しく働いているようなのであまりトレアニに構ってはいられないだろう。
寂しさがひしひしと伝わってきて、フランジェは答えの代わりに花を一輪、紋章から出して渡した。
それからトレアニの部屋を出て、入ってきたときと同じように注意しながら邸を脱出する。
今度は幸い掃除していたのか、一回の廊下に空いている窓を見つけたので、そこから楽に出て行くことができた。
代わりに少し邸の周りを遠回りすることになったが、ウサギの脚にはそれは大した苦ではない。
よく手入れされた美しい中庭をぴょこぴょこと駆け抜けていくと、花壇の脇に奇妙なものを見つけた。
石碑だろうか。
こんなところに何だろうと、通りすぎながら横目でその表面の文字を辿る。
言葉と同じくこの島の文字は、少しばかり形が歪んでいるが概ね大陸と同系のものを使用しているため、フランジェにも読めないことはない。
そしてその文面を理解した瞬間、思わずフランジェは立ち止まってしまった。
そこへ庭師らしい人物が歩いてきたので、慌てて近くの草むらに飛び込んでやり過ごし、そのあとはすぐさま走り去る。
来たときと同じように柵の合間をすり抜けて、通りを越えて路地に待つスニエリタのもとへ。
友の腕に戻っても、小さな心臓がばくばく鳴っていた。
走ったせいではない。見てはいけないものを見てしまった気がしたからだ。
「フランジェ、結果はどう?」
『なんとか会えましたが、確かにララキさんでしたよ。でも当人に記憶はないようです』
「そうか。……一旦源命院に戻ろう、そっちでじっくり聞かせてくれ」
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