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呪われた民の国 チロタ

165 始まりの一頁

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 ガエムトは地上に這い上がってくると、手にしていた少年をしっかりと抱え込んだ。
 興奮しているらしく、獣の頭骨でできた仮面の下から、ひっきりなしに猛々しい鼻息が漏れている。

 口許をもぞもぞして何か呟いてもいるようだったが、ロディルたちにはほとんど聞き取れなかった。

 頭上で羽ばたきの音がする。
 タヌマン・クリャが上空から降りてきたらしい。

 ナスタレイハの手が、くいとロディルの袖を引いた。彼女は少し不安げな顔をしている。
 果たして外神に頼まれたことはこれで無事に完結したのか、少年──恐らく彼はフォレンケだろう──がなぜ目覚めないのか、彼をガエムトが確保していることは問題ないのか、などの心配に思ってしかるべき点がたくさんあるからだ。

 ロディルは彼女を抱き寄せて、クリャに尋ねた。

「僕らの仕事はこれで終わりかい?」
『ふむ、まあいいだろう、……私からはな。貴様はどうだ、フォレンケよ』

 クリャが翼を揺らめかせ、そこから流れた風がガエムトの腕に垂れていた少年の髪を揺らす。
 そして、ややあってから、少年が身じろぎをした。
 神同士の交流はそういう形をとるのかもしれないと、ロディルは思った。

 ゆっくりと両眼を開いた少年は、無言のままにガエムトを見上げ、そしてロディルたちを見やり、最後にクリャを見た。
 途端に少年の眉間には深いしわが刻まれる。

「……どうして……おまえが……」

 消え入りそうな声を絞り出すようにして、少年はそう言った。クリャに向けて。

『ヌダ・アフラムシカからの伝言だ。
 ──"より"を得次第ドドを討つ。ガエムトとともに待て』
「……ああ、そう……そういう……こと、か……彼は、それなら、初めから……」
『おまえは頭に血が上ってさえなければ理解が早いな。ところでアンハナケウのようすはどうだ?』
「……最悪だよ」

 少年の青銀色をした瞳が潤む。
 そこでよほどひどいものを見たのだろう、両眼はすでに真っ赤に充血していて、よく見れば目尻の脇には落涙の痕があった。

 ロディルはドドという神について詳しくはない。
 もちろん旅の中でイキエスにも滞在したので、盟主だった彼に関わる聖堂や遺跡の類は見て回ったが、それだけだ。
 信仰形態や地域の雰囲気はわかっても、その神自身の人となりまではわからない。

 だが、アンハナケウと呼ばれる場所の状況は、なんとなく察することができる。

 フォレンケの身体にはあちこち赤黒いものが散っているのだ。
 初めは土汚れかと思ったが、すぐにそれが血であるとわかった。

 つまり神々の憩いの場、そしてすべての生きものにとっても究極の理想郷であったはずの『幸福の国』は今、流血の惨事に見舞われている。

 その血はフォレンケのものではないようだが、だからといってフォレンケが無傷というわけでもなかった。
 金髪の間から覗いた額には軽い打撲や擦り傷がある。

「今ごろ、……アルヴェムハルトは……死んだかも、しれない……もう、次の犠牲者が、出てるかも……」
『おや。意外な一番手だな、あの風見鶏が真っ先にやられたか』
「先に……ラグランネが、手を出されたからね……彼女は、女神だから、殺されはしないだろうけど」
『断言はできんだろうよ。確かにドドは女には甘いが、必ずしも優しいというわけではないからな。誰にでも手違いはあるものだ、ましてやあのヒヒは……』

 クリャは妙に実感のこもった口調でそう言った。
 実際にそのような光景を見たことがあるのかもしれない。

『向こうに残した連中のことは忘れろ。貴様が今すべきなのはアフラムシカが戻るまで生き残ることだ。
 ドドは貴様が外に呼ばれたことに気づいて追ってくるが、時が満ちるまで、ガエムトともども姿を隠せ』
「……そんなこと……言ったって……相手は世界を丸ごと……掌握してるんだ……」
『その世界神の行動が手に取るようにわかる者が協力すれば、逃げ隠れするのは存外容易いぞ』

 諦めたように目を伏せたフォレンケが、クリャの言葉を耳にした途端にはっと眼を開いた。
 驚愕の色を露わにしたその丸い瞳には、派手な翼を空いっぱいに広げた高慢な獣の姿が映って、まるで砂漠で突然オアシスを見つけた旅人のようだった。

 フォレンケの表情に喜色は薄いが、それでも嫌がっている気配はない。
 ただ、信じられないようだった。

 なぜならクリャの言葉はつまり、クリャ自身がフォレンケの逃亡を助けるという意味だからだ。

 ロディルは直接彼らの対立を見てはいないが、かつてミルンから聞いている。
 フォレンケがスニエリタの遣獣に擬態したクリャを炙り出そうとした際、そのままガエムトにクリャを滅ぼさせようとしたことや、そのときのフォレンケは普段とはまったく違ってひどく攻撃的だったこと。
 結局クリャを滅ぼすには至らなかったわけだが、クシエリスルの神として外神の排除に尽力していたのは間違いない。

 そのフォレンケに対し、クリャが手を差し伸べている。
 何の恨みもないと言わんばかりの平然とした顔で。

『……そういうわけだから、今すぐ移動しろ。じきにドドに追いつかれる』

 フォレンケは小さく息を吐いて、それからロディルのほうを見た。

「きみには前にも会ってるね。……ミルンの兄弟、だっけ。ボクも……きみに、何か頼んでも、いいかな……」
「……僕にできる範囲のことはしますよ」
「ありがとう……時間がないから、あとでクリャを通じて伝えるね」

 薄く笑むと、フォレンケはガエムトに向かって何ごとかを囁いた。
 あまりに小さな声だったせいか、ロディルたちには何と言ったのかわからなかったが、それまで大人しくしていたガエムトはぶるると鼻を鳴らして呻った。
 なんとなく不服そうに見えたのは気のせいだろうか。

 そして忌神はその太い腕でフォレンケを抱えると、もう片方の腕でクリャの首根っこをわし掴み、一瞬のうちに地中へと姿を消した。

 その瞬間激しい土埃が舞ったが、すぐに収まる。
 もちろん地面には何の異常も残ってはいない。

 霊山の麓にふたり残されたロディルとナスタレイハは、思わずその場に座り込んだ。

 神が三柱も同席して目の前であれこれ話し合っていたのだ、ただ見ているだけでも圧倒される状況だった。

 とにかくふたりは山門を出る。

 これ以上ここに留まっても仕方がないが、次に向かうべき場所があるかどうかもわからない状況なので、ひとまずハールザの町で宿をとった。
 ここでフォレンケから連絡が来るのを待つしかない。

 荷物を下ろして一息ついたところで、ナスタレイハが口を開いた。

「今度はどこに行くのかな。何か用意したほうがいいものとかあるのかしら」

 なんだか楽しそうにすら聞こえる口調だった。
 ロディルが勝手に引き受けてしまったことを、またしても彼女は全面的に受け入れて同行する気でいるのだ。

 もう今さら先に帰れだなんて言う気にもなれなくて、ロディルはただ、彼女を抱き寄せた。

 長い旅になるかもしれないね、と囁くと、彼女はそうねと頷いて、それ以上何も言わなかった。
 神々の状況について、はっきりとしたことは何もわからないけれど、ことの異常さだけは彼女も今日だけで充分すぎるほど感じただろう。

 見知らぬ神がいくつも存在して、そして傷だらけの血塗れになりながら涙を流しているのを、その眼で見た。

 ロディル自身、すんなり手助けを了承するつもりは本来なかったのだ。
 クリャに対しては指示を全うしたし、ほとんど脅迫の形でロディルを従わせたクリャと違って、フォレンケはロディルの周囲に危害を加える恐れはない。
 ましてや自民族が信仰する神でもないのだから、断わろうと思えばできた。

 そうしなかったのは、フォレンケがぼろぼろだったから。
 彼があんなに痛ましい姿でさえなければ、きっと拒否して今ごろ帰路についていた。

 ナスタレイハにもロディルのそうした心情は伝わっている。
 そもそもマヌルドにいたころから、彼女に何度も「ジーニャはほんとうに優しいね」と言われ続けてきた己だ。

 そう言えば聞こえはいいが、単にこれは優柔不断でお人好しなだけでもあると、ロディル自身は内省している。
 でもそんなロディルを、ナスタレイハはそれでいいと言ってくれるのだ。

 彼女の銀髪がひと房さらりとロディルの指を流れる。
 それを掬ってくちづけると、彼女は恥ずかしそうにこちらを見た。

「……ねえ、思ったんだけど、これって私たちの新婚旅行ってことにならない?」
「あ……そうなるね、世間的には」
「でしょう? それなら楽しまなくちゃ。だから……まずはそうね、今晩の夕食について一緒に考えるの」
「なるほど」

 一人旅に慣れているロディルにとっては、それは新鮮で前向きな提案だった。
 自分ひとりなら費用を抑えることを重視しがちで、土地の味覚や季節を味わおうとか、食事の時間を楽しむという感覚も希薄になる。
 だけどふたりで過ごすなら話は別だ。

 しかもそれが新婚旅行だというなら、互いに協力して、双方にとって快適な時間を作っていくことになる。

 何をするにしても自分ひとりでは完結しない。
 その手間や不便でさえも、愛おしく得がたい経験になる。
 それをこれから旅が終わるまでの間、続けていくのだ。

 だったら誰かに言われるまま、義務や作業として消化してくのはやめて、主体的に考えるべきだというのだろう。

 ふたりは、ふたりの意思で旅をする。
 自由気ままとはいかないし、行き先も自分たちでは選べないけれど、代わりにとてつもなく意義の深い旅を。

 ロディルは頷いて、そして、ナスタレイハの手を引いた。

「じゃあ、外に行こう。こういうときは町の人に聞いて情報を集めるんだ」
「うん! あ、お夕飯のときに神さまたちのお話、じっくり聞かせてね」
「もちろん」

 ふたりは立ち上がり、手を繋いで歩き始めた。

 まさかそのまま数年に渡って故郷に戻らないことになるとは、当人たちもこのときばかりは知らなかったが、たとえ知ったとしても後悔や悲嘆はなかっただろう。

 するべきことがあり、自分たちでそれを望んで成していく旅だ。
 そして失うものより得るもののほうが断然多い。
 それは経験であったり力であったり、物や人、獣たちとの出逢い、そして新たな命であったりもするのだが、もちろんそれを語るべき時は今ではない。

 現時点ではまだ、未来は何も記されてはいない真っ白な頁にすぎないのだ。

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