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東の国 マヌルド

154 仮借なしの恋

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 冷静になれたのは自宅に戻ってからである。

 名残を惜しみつつもするべきことのために一旦ミルンとは別れ、クイネスの邸に戻ってきたスニエリタは、浮かれた頭のまま母に相談した。
 ミルンを愛していること、彼と一緒になるためにヴァルハーレとの婚約を解消したいと考えていることを話したのだ。
 できれば母から父に話を通してもらえないかと思ってのことだった。

 娘の非現実的すぎる考えに対し、母は難色を示した。
 温厚な母がこれほど険しい表情をしているのを、ずいぶん久しぶりに見たようだとスニエリタは驚いた。

 もちろん冷静に考えれば母の態度も当然のものだ。彼女はスニエリタの母親である以前に、クイネス将軍の妻であり伯爵夫人なのだから。

「スニエリタ、あなたのお父さまは伯爵にしてマヌルド帝国将軍の地位にある方なのよ。どちらの肩書きにも重い責任がある。
 あなたは直接それを受け継ぐことはないけれど、代わりに後継者として相応しい方を婿として迎えなければならないの。それをきちんと理解しなさい」

「……では、お母さま。クラリオさんはどちらにも相応しい男性だとおっしゃるの?」
「少なくともお父さまはそうお認めになっているから、あなたと婚約させたの。わたくしは口出しをしていないし、今後もするつもりはないわ。
 でも、彼は術師としてはとても立派な実力者だそうだし、家柄も許容範囲にあるのは確かでしょう」
「わたしが言いたいのは人間性の話です。お母さまはご存知ないかもしれないけど、彼は……その、社交クラブのほうでは、大変に浮気な方として有名らしいんですよ」
「……スニエリタ。残念だけど、世の男性の大半は似たようなものですよ。
 お父さまのように潔癖な男性のほうが稀で、何よりお父さまは大変にお忙しくて女遊びなどしている暇がないの。だからヴァルハーレも当家の跡継ぎになれば変わるのではないかしら」

 こんこんと諭され、スニエリタの勢いはどんどん萎んでいった。

 強い態度で反論してくる相手のほうがまだやりやすいとさえ思った。
 それにしても、母ひとり説得できないで、どうして父の考えを変えることができるだろう。

 なんと言われても心は揺らがない。
 絶対にヴァルハーレとは結婚したくない。

 ミルン以外の男性との未来なんて、何を引き換えにするとしても欲しくはない。

 気持ちばかりが先行してしまって、求める未来を掴むための糸口が見つからなかった。

 むろん頭の中で必死に整理してはいるのだ。
 まずはヴァルハーレとの婚約解消をなんとしても敢行せねばならない、それはわかっているのだが、どうすればスニエリタの意思を押し通すことができるだろう。
 通じるまで嫌だと喚き続けるのではあまりに幼稚すぎる。

 泣きそうな顔で落ち込むスニエリタの肩を、母が優しく抱いた。
 髪を撫でてくれる手つきも昔のままだ。彼女の腕の中ではスニエリタは簡単に幼いころに戻ってしまう気がする。

 見上げると、もう母はいつもの穏やかな笑みに戻っていた。

「そんなにあのハーシ人の彼を気に入っているの?」
「……ミルンさんです。ミルン・スロヴィリークさん……ご実家はハーシの西にある水ハーシ族の里にあって、族長のご家系です。
 家業はお兄さんが継がれていて、彼自身は三男なのでとくにお仕事も決まっていないけど、部族のために何かしたいっておっしゃってました」
「そう。……あのね、スニエリタ。
 あなたの母として、クイネス将軍の妻としては応援はできないけれど、女としてはあなたの気持ちもとてもよくわかるわ。

 わたくしは運が良かった。嫁いだ方がとてもいい方だったから。
 でも、そうでない女が世に大勢いることは知っているし、とくにこの国では、女が自分で選べるものがとても少ない……今でこそ婚約者を自分で選ぶ子女も少なくないそうだけど、わたくしの時代には考えられなかった。

 そうやってこれからも少しずつ変わっていくのかもしれないし、もしかしたら、あなたが最初に何かを変える女になるのかもしれないわね。それこそハーシ人と婚姻するような」

 そうなりたいとスニエリタも思う。けれど、母はそこで首を振った。

「でも現実的にはありえないことだわ。マヌルドの平民やワクサレア人でも厳しいのに、ハーシ人……しかも内壁の上級貴族が正式にハーシ人を婿に取るだなんて、たとえわたくしやお父さまが認めても、皇帝陛下や他の貴族が許さないでしょう。
 せめて形だけはヴァルハーレと結婚して、個人的にはミルンと関係を続ける……それくらいが関の山でしょうね」
「お母さま、それって、つまり、その、あ、愛人ということですか?」
「そうよ。まあ、そうなると今度はヴァルハーレが黙ってはいないでしょうけれどね、式でのようすを見たかぎりでは」

 母との会話はそこで終わったが、スニエリタはそのあともずっとこのことを考え続けていた。

 もともと式の翌日ということで習いごとなどの予定は一切入れていない。
 父は日中出ているようだったので、紋唱術の訓練でもしながら作戦を練ろうと思っていたのだが、考えごとが多すぎてあまり身が入らなかった。

 両親を説き伏せることばかり考えていたが、ここへきて婚約解消を切り出したらヴァルハーレも当然面白くはないだろう。
 式で、ミルンの姿を見るなり激昂していた。喋っている内容からして記憶はないようだったが、さすがにスニエリタの態度から彼がどういう存在なのかはわかったのだろう。

 意外にヴァルハーレは嫉妬深い性格をしているらしい。
 自分のことは棚に上げて、とは記憶を失う前のロンショットも言っていた気がするが、スニエリタが他の男性に心を移していることが許せないらしいのだ。
 たぶん、その結果として婚約を破棄されることを恐れている。

 ヴァルハーレにとってはスニエリタとの結婚が、自らを子爵位から伯爵位に格上げすることのできるまたとない機会であり、同時に将軍職へ一気に近づくことができる。
 クイネスの後継者だからといって必ずしもその地位を得られるわけではないが、そうでない者よりずっと可能性が高まるのは事実だ。

 仮に、彼と結婚した上でミルンを愛人にするようなやりかたを選んでも、ヴァルハーレがそれを許さないかもしれない。

 もちろんスニエリタとしてもそんな道を歩みたくはない。
 結婚してしまったら嫌でもヴァルハーレの子どもを産まなくてはいけなくなるし、ミルンに対しても不誠実だ。誰も幸せになれない。

 かくなる上はなんとかしてヴァルハーレに諦めてもらうしかないが、それにはどうすればいいのだろう。
 スニエリタよりもっと条件のいい女性を見つけて紹介すればいいのだろうか。
 つまり伯爵以上の階級の家の令嬢で、将軍職相当の父親を持つ、なおかつまだ婚約者のいない女性……そんな人が存在するはずがない。

 スニエリタは深い溜息をついた。

 誰を説得するための材料も、それを得るための手がかりも思いつかない。
 絶望的な気分に呼応したように、発動させた術も久しぶりに見事な空振りを演じた。またしても紋唱術の制御ができない精神状態に陥っている。

 ──ララキさんに会いたい。

 そんなことをふと思った。
 いつも前向きで愛に一直線な彼女なら、今のスニエリタの状況を見てなんと言ってくれるだろう。
 きっとあれこれ大きな声で励ましてくれたり、愚痴を聞いてくれたり、みんなを説得するのに協力してくれたりするんじゃないかな、と思う。

 それより何より、ミルンと両想いになれたことを心から祝福してくれるだろう。

 たぶんスニエリタが今もっとも欲しているのはそれだった。
 誰でもいいから手放しに喜んでほしい。
 長い道のりと紆余曲折を経て、西の果てから来た人とスニエリタが出逢って恋に落ち、そして気持ちだけは結ばれようとしているこの奇跡を、誰かに祝ってもらいたかった。

 スニエリタがミルンを愛することを、誰かに認めてほしい。
 人種だの国籍だの、地位だの家柄だの爵位だの、そんなものはどうだっていいのに、みんながそれを前提にしてしか話をしてくれないのが苦しい。

 もちろんわかっている。それが正常で、スニエリタのほうがおかしいのだということは。

 それでもミルンが好きで、この気持ちに蓋をして耳を塞いで生きていくことが、どうしても耐えられそうにない。

『……どうだ、旅に出る気にはなったか? このままでは埒があかんだろう?』

 耳元で悪魔が囁く。
 いや、それは神だ。どこにも所属する場所のない孤独な神。

 誰からも受け入れられないという点では、ある意味では今のスニエリタやミルンとよく似ている。

 スニエリタはまた溜息を吐きながら、答えた。なおさら旅になんて出られそうにないと。

「ミルンさんを婚約者として認めてもらう以前に、クラリオさんとの婚約を解消する。
 そのためにクラリオさんに身を引いてもらう……最低限それだけは済ませないと、旅なんてとてもできません。出たところで一日も経たずに連れ戻されます」
『ふむ、では私がそいつを殺してやろうか。ちょうどそろそろが欲しくてなぁ』
「いけません。あまり善い人とはいえないけれど、だからといって死んでいいとまでは思いませんから」

 というか死んでいい人間なんていないだろう。誰だって死んだら悲しむ人がいる。
 ヴァルハーレも、スニエリタにとっては嫌な男に成り下がってしまったけれど、彼を慕う女性も大勢いるのだ。

 しかしタヌマン・クリャを利用するのはありかもしれない、とスニエリタは思った。

 この神はクシエリスルに囚われていない。そのぶん行動に制限がない。
 さすがに命を奪うような真似をしてもらっては困るが、どうにかして彼の力を説得に使えないだろうか。

 ヴァルハーレとの婚約解消も、ミルンとの婚約も、どちらもあまりに無理難題なのだ。
 もはや正攻法だけではどうにもならないのだから、神の力に頼るくらいはしてもいいのではないか。
 どのみち旅に出てララキを探すことに協力しようとは思っているのだから、その前に何か得るものがあってもいいはずだ。

 自分でもこのごろ胆が座ってきたように思う。やはりあの旅で少しは成長できたらしい。

 スニエリタは虚空を睨みながら、できるだけ落ち着いた声で尋ねる。

「タヌマン・クリャ、あなたに協力する代わりに、わたしのお願いを聞いてもらうことはできますか?」

 耳元で羽ばたきの音がして、背後から、大きな影がスニエリタを覆うように広がった。

『本体奪還以上に大切なこともないからねえ。そのために必要なことなら力は惜しまないよ』
「……必要かどうかはわかりませんが、では、お願いがあります」

 スニエリタは自分の考えを伝えた。
 ヴァルハーレに婚約を諦めさせる方法、そのために必要だと思うことを。

 成功するかはわからないし、あまりにも危険と困難が伴う手段ではあったが、そもそもそのための場を用意することがスニエリタひとりの力では難しい。
 この神にはそれを手伝ってもらいたいのだ。

 あとは自分と、ミルン次第。

 でもきっとどうにかなる。
 成功することを強く想像して、そのとおりになるように生きる。
 必要なことはもう教わった。

 ──そうですよね、ミルンさん、ララキさん。

 物語は、ハッピーエンドで終わらなくてはいけないのだ。

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