上 下
153 / 215
東の国 マヌルド

153 彼はウサギを抱きしめた

しおりを挟む
:::

 スニエリタが目覚めると、目の前にタヌマン・クリャの色鮮やかな身体があった。
 ここしばらくはだんまりだったので、もういなくなったのかと思っていたが、ただ隠れていただけらしい。

 鳥に似た姿の神は、さあ支度をしろ、と開口一番に言い放った。

『旅に出るのだ。ハーシの小僧もどうにかして脱走させる』
「あ、朝から急にそんなことを言わないで……これ以上ミルンさんの立場を悪くさせるようなこと、わたしは絶対にしたくありません。お断りします」
『ほんとうに強情な娘だな。扱い易いと思って印をつけたのに、これでは見込み違いだ』
「何とでも言ってください」

 自分でも確かにそうは思うが、今は誰に何を言われても甘んじて受けようと思う。
 スニエリタが罵られるぐらい平気だ。そんなことよりミルンがひどいことを言われたりされたりするほうが、よほどスニエリタにとっては耐え難い。

 その後もあれこれ言うクリャを無視して朝食を済ませ、とにかくミルンの状況を確かめたかったスニエリタだが、ロンショットがどこにいるかわからない。

 仮にミルンが投獄されていたとして、彼の口添えがなければ面会にも行けないだろう。
 まずはロンショットと連絡をとらなければ。

 それに昨日はヴァルハーレに迫られていたところを助けてもらったようなものだった。お礼も言いたい。

 スニエリタは昨夜さんざん言い合った気まずさを飲み込んで、ロンショットの今日の予定や所在について父に尋ねた。
 クイネス将軍はまだ機嫌がよろしくないようすだったが、スニエリタを突っぱねることはなく、そのうち来るとぶっきらぼうに答えた。どうやら朝一番で呼びつけてあるらしい。

 敢えて父の隣で彼の来邸を待つことにする。
 しばらくしてロンショットは顔を出し、将軍とスニエリタが並んでいるのを見て少し驚いたような顔をした。

「件のハーシ人の身辺を調査しろ。そして私に報告するまでは拘束を続けておけ、処罰も保留だ」
「畏まりました。他にご用件はございますか」
「いや、それだけだ。もう行け」

 一礼して去っていくロンショットをスニエリタが追いかけても、将軍は何も言わなかった。

 父は何を考えているのだろう、と不思議に思わないでもないスニエリタだったが、今はそれよりこちらが先だ。

 ロンショットを廊下で呼び止め、ミルンのことを聞く。
 今、彼はどこにいて、どのような処遇を受けているのか。

「……彼なら、私の自宅にいますよ」
「ほんとうですか!? じゃ、じゃあその、……ディンラルさんは、今から一旦おうちに帰りますよね……ついていってもいいですか……?」
「私は構いませんが、将軍が……」
「お父さまのことなら平気です。いちいちお伺いを立てていたら、きっとわたしは何もできません」

 きっぱりと言い切ったスニエリタに、ロンショットは苦笑いしている。

 ともかくスニエリタはロンショットの遣獣に同乗して彼の住んでいる家へ向かった。
 もちろん内壁の外、下級貴族から一般市民と貧民までが暮らしている側だ。
 さすがに貧民街の近くではないが、貴族でもないロンショットの家は小ぢんまりしている。

 そもそも彼の家を訪ねること自体これが初めてだった。
 やっと落ち着いてミルンと話ができるかもしれないと思うと、スニエリタの胸は高鳴って仕方がない。

 だが浮かれた気持ちを砕くように、扉を開ける前にロンショットが真面目な顔をして、こう言った。

「お嬢さま。私はこれから治安部の詰め所に参りますが、くれぐれも彼をこの家から連れ出したりなさらないでください。
 本来なら投獄しなければならなかった人間をここに留めていることを含め、私だけでなく、将軍の責任が問われる事態になりますので。何より彼自身の立場が悪化します。
 それから馬車を呼んでおきますので、お帰りはご自由になさってくださいね」

 スニエリタは頷き、ロンショットの家に入った。

 ロンショット自身は玄関に足を踏み入れることなく出かけていったが、ほんとうは一旦戻るつもりなどなく、直接詰め所に出向く予定だったのかもしれない。
 スニエリタが来たいと言うので送ってくれただけなのだろう。

 彼にも極力迷惑はかけたくないものだと思いながら、スニエリタは室内を歩く。

 狭い廊下に、三つしかない扉。クイネス邸とはまったく違うし、ミルンの実家よりも狭い。
 しかし廊下には塵ひとつ落ちてはおらず、男ひとりの住まいにしては手入れが行き届いている。

 居間と書かれた扉の前に立ち、スニエリタは深呼吸をしてから、軽くコンコンと叩いた。

 中から返事がする。はい、と、ミルンの声で。
 それだけで泣きそうになりながら、もう一度深く息を吐いて扉に手をかける。

「スニエリタ……」

 てっきりロンショットが戻ってきたかと思っていたのだろう、ミルンはスニエリタを見て少し驚いたふうだった。
 スニエリタはまた駆け寄りたい衝動をどうにかこらえ、できるだけゆっくりと歩いて彼の前まで行く。

 会いたい一心でここまで来たけれど、いざ会うと何を話していいかわからなかった。

 それに、落ち着いて向き合うと、なんとも気恥ずかしい。

 よくよく考えたらスニエリタは彼と結界で別れる前、一方的に告白をしてキスまでしてしまっていた。
 それ自体は勢いというか、彼にキノコを食べさせるために必死で考えて実行したことなのだけれど、そのときはもう二度と会わない覚悟だったのだ。

 まさかまた会えるなんて思わなかった。
 あれで最後にするはずだったのに、世界はもう一度繋がってしまった。

「よ、よかったです。牢屋になんて入れられていなくて」

 とにかく何か喋ろうと、そんな当たり障りのない言葉を引っ張り出す。

「ああ、ロンショットさんが手を回してくれたらしい。正直助かった。あの人は俺のことを覚えてないらしいけど、相変わらずいい人だな」
「そうですね。わたしも昨日は助けてもらって……あっ、お礼を言ってない……」
「あー、そうだ、あれ大丈夫だったか? 手首掴まれてたろ。痕とか残ってないか」
「だ、だだ、大丈夫ですっ……そ、それより、その、あの、ララキさんのことなんですが!」

 ミルンの優しさも相変わらずで、くすぐったい。

 話題を変えようとスニエリタは咄嗟にララキの名前を出した。
 こんなことをしている間も、彼女はどこにいるのかわからない。どこで何をしているのか、無事でいるのか、そうでないのか。

 念のためミルンがクリャに言われたことを確認したが、スニエリタが聞いたのとそう大差はないようだった。
 ただミルンのところにはシッカも来たらしい。ここんとこにキスされたよ、人間の男の姿だったから正直ちょっと微妙な気分だった、なんて苦笑いで額を指差してミルンは言った。

 しかし、彼の口から出たキスという単語にスニエリタの心臓はやたらに反応してしまう。

 ミルンにとってはどうだったかわからないが、少なくともスニエリタにとっては生まれて初めてのキスだった。いや人工呼吸を含めれば二度目なのか。
 ともかく、経験が少なかったのが災いしてなのか、今でもあのときの感触をしっかりと覚えている。

 そして言葉を聞いただけなのに、思い出して顔が真っ赤になってしまうのだ。

 キノコを食べさせるためとはいえ、わたしは何てことをしてしまったの──今さらそんな後悔と羞恥心に叩きのめされるスニエリタだが、ミルンはこちらの心情など知らない。
 ようすがおかしいのに気づいて心配そうな顔をしているだけだ。

 いや、違う、ミルンの顔は心配ではなく、困っているようにも見える。

「……キス、といえばさ」

 スニエリタの心臓がばくんと飛び跳ねた。
 それはもう、勢い余って喉から飛び出すんじゃないかと思うくらいに。

「あのとき結界で……別れる前に……おまえが言った、あの……」
「ご、ごめんなさいっ!」
「えっ?」

 スニエリタは思わず彼に背を向けた。

 とてもじゃないが顔を見て喋れる状態ではない。
 ばくばく暴れる胸を必死で押さえつけながら、息をするのも辛いのを必死で深呼吸をして、そして震える声で続ける。

「あ、あんな、騙すみたいなことして……っわ、わた、し、ミルンさんの、気持ちをっ、無視して、しまって」

 全身が心臓になってしまったみたいだった。
 頭のてっぺんから爪先までがどきんどきんと激しく波打ち、スニエリタの声は震えて吐息混じりになり、きっと聞き取りにくいだろう。
 それにもう今にも涙が出そうになっている。

 キスなんて、しなければよかった。

 きっとミルンはララキのことが好きなのに。
 一方的に自分の気持ちを押し付けて、勝手にキスなんてして、きっと彼は戸惑っただろう。

 あるいはその優しさのせいで、スニエリタに応えなければいけないなどと思ってしまってはいないか。

「だから、その、わ、忘れてください……ほんとうに、ごめんなさっ──!?」

 急に。

 スニエリタを背後から、誰かの力強い腕が抱き締めた。

 信じられないが振り向くこともできない。
 背中に温かい胸の感触があって、スニエリタの頬を伝った涙が一粒、黒革の手袋の上にぽたりと落ちた。ミルンの手だ。

 こんなに近いと心臓の音が聞こえてしまう、とスニエリタは慌てたが、さらに次の瞬間、スニエリタのと同じくらい大きな鼓動がずしんと響いてきた。

「俺は忘れたくない」

 耳元でミルンの声がして、ちょっと息もかかった気がして、スニエリタの肩はびくりと跳ねる。

「それと、俺が聞きたいのは"ごめんなさい"じゃない。それは言うなって言っただろ」
「で、でも……あの……」
「正直ああいう手でキノコを食わされたのは腹が立ったよ。
 でもそれは、おまえにじゃない。見事にその手にハマッちまった俺自身が許せなかったんだ。正直言ってあの瞬間、めちゃくちゃ浮かれてたからな」
「え、あ、あの……ミルンさん……」
「あー回りくどいよな! つまりだ、はっきり言うぞ、俺……俺は……」

 ミルンの腕が一旦離れ、そして彼自身が正面に回りこんできた。

 顔が真っ赤だった。スニエリタの両肩をしっかりと掴んだ彼は、じっと眼を合わせながら、思い切り息を吸い込んで、そして言った。

「好きだ。……初めて逢ったときからずっと、俺は、おまえが好きだった。
 だから聞かせてくれ、あのときのおまえの言葉は……本心だったのか? それとも、俺にキノコを食わせるための芝居だったのか……?」

 声が、手が、震えている。
 触れている箇所が熱い。

 スニエリタは信じられない気持ちで彼の言葉を聞いていた。
 お互いの眼が濡れていて、今のミルンはいつもの頼れる兄のような彼ではなく、母犬を探して彷徨っている子犬のように見えた。

 こんなに苦しそうな彼の姿を見るのは初めてで、どうしようもなくスニエリタの胸を締め付ける。

 愛おしくて、切なくて、どこか少し、……かわいい。

 こんなに彼を困らせているのは嘘かほんとうか紛らわしい告白をしたスニエリタなのに、なんだかそんなふうに思ってしまった。
 スニエリタの眼からぽろりと透明な雫が落ちる。

 ──ああ、やっぱり、この人が。

「お芝居なんかじゃ、ないです……わたしも、ミルンさんが好き……っ」

 次の瞬間、スニエリタは抱き締められていた。
 そして抱き締め返した。もう二度と離れたくないと思った。

 このままふたりの境界が融けてなくなってしまえばいいのに。
 絶対に誰も引き裂けないように、くっついてひとつのものになってしまいたい。
 この人がいない人生なんて考えられない。

 好き、じゃやっぱり足りない。大好き。

 ……いいえ、愛してる。
 そのほうがしっくりくる気がすると、スニエリタは思う。

 抱き合ったまま顔を上げると、やっぱり少し泣きそうな顔をしたミルンと眼が合った。
 そしてどちらからともなくくちびるを重ねていた。

 三度目のキスは、相変わらずの塩味だった。

「……あいつと結婚するの、やめてくれよ」
「もちろんです。……ミルンさんがわたしの夫になってください」
「なんかいっつもおまえからだな、言うの……たまには俺から先に言わせてくれ」
「じゃあ、お父さまにはミルンさんから言いますか?」
「えっ……俺、殺されないか、それ」

 恐ろしげに言うミルンに、スニエリタはくすくす笑った。
 あの父ならありえるかもしれないが、もちろん絶対にそんなことはさせない。

 ともかく次に父に告げることはこれで決まりだ。
 ミルンを新たな婚約者とすること。それさえ認められれば、彼とともにララキを探しに出ることも不可能ではないだろう──あまりに幸せだったので、スニエリタは少し楽観的になっていた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

精霊王女になった僕はチートクラスに強い仲間と世界を旅します

カオリグサ
ファンタジー
病で幼いころから病室から出たことがなかった少年 生きるため懸命にあがいてきたものの、進行が恐ろしく速い癌によって体が蝕まれ 手術の甲斐もむなしく死んでしまった そんな生を全うできなかった少年に女神が手を差し伸べた 女神は少年に幸せになってほしいと願う そして目覚めると、少年は少女になっていた 今生は精霊王女として生きることとなった少女の チートクラスに強い仲間と共に歩む旅物語

外れスキルは、レベル1!~異世界転生したのに、外れスキルでした!

武蔵野純平
ファンタジー
異世界転生したユウトは、十三歳になり成人の儀式を受け神様からスキルを授かった。 しかし、授かったスキルは『レベル1』という聞いたこともないスキルだった。 『ハズレスキルだ!』 同世代の仲間からバカにされるが、ユウトが冒険者として活動を始めると『レベル1』はとんでもないチートスキルだった。ユウトは仲間と一緒にダンジョンを探索し成り上がっていく。 そんなユウトたちに一人の少女た頼み事をする。『お父さんを助けて!』

はっきり言ってカケラも興味はございません

みおな
恋愛
 私の婚約者様は、王女殿下の騎士をしている。  病弱でお美しい王女殿下に常に付き従い、婚約者としての交流も、マトモにしたことがない。  まぁ、好きになさればよろしいわ。 私には関係ないことですから。

始まりは最悪でも幸せとは出会えるものです

夢々(むむ)
ファンタジー
今世の家庭環境が最低最悪な前世の記憶持ちの少女ラフィリア。5歳になりこのままでは両親に売られ奴隷人生まっしぐらになってしまうっっ...との思いから必死で逃げた先で魔法使いのおじいさんに出会い、ほのぼのスローライフを手に入れる............予定☆(初投稿・ノープロット・気まぐれ更新です(*´ω`*))※思いつくままに書いているので途中書き直すこともあるかもしれません(;^ω^)

白紙にする約束だった婚約を破棄されました

あお
恋愛
幼い頃に王族の婚約者となり、人生を捧げされていたアマーリエは、白紙にすると約束されていた婚約が、婚姻予定の半年前になっても白紙にならないことに焦りを覚えていた。 その矢先、学園の卒業パーティで婚約者である第一王子から婚約破棄を宣言される。 破棄だの解消だの白紙だのは後の話し合いでどうにでもなる。まずは婚約がなくなることが先だと婚約破棄を了承したら、王子の浮気相手を虐めた罪で捕まりそうになるところを華麗に躱すアマーリエ。 恩を仇で返した第一王子には、自分の立場をよおく分かって貰わないといけないわね。

【本編完結】異世界再建に召喚されたはずなのにいつのまにか溺愛ルートに入りそうです⁉︎

sutera
恋愛
仕事に疲れたボロボロアラサーOLの悠里。 遠くへ行きたい…ふと、現実逃避を口にしてみたら 自分の世界を建て直す人間を探していたという女神に スカウトされて異世界召喚に応じる。 その結果、なぜか10歳の少女姿にされた上に 第二王子や護衛騎士、魔導士団長など周囲の人達に かまい倒されながら癒し子任務をする話。 時々ほんのり色っぽい要素が入るのを目指してます。 初投稿、ゆるふわファンタジー設定で気のむくまま更新。 2023年8月、本編完結しました!以降はゆるゆると番外編を更新していきますのでよろしくお願いします。

辺境の最強魔導師   ~魔術大学を13歳で首席卒業した私が辺境に6年引きこもっていたら最強になってた~

日の丸
ファンタジー
ウィーラ大陸にある大国アクセリア帝国は大陸の約4割の国土を持つ大国である。 アクセリア帝国の帝都アクセリアにある魔術大学セルストーレ・・・・そこは魔術師を目指す誰もが憧れそして目指す大学・・・・その大学に13歳で首席をとるほどの天才がいた。 その天才がセレストーレを卒業する時から物語が始まる。

【完結】虐げられオメガ聖女なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました(異世界恋愛オメガバース)

美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!

処理中です...