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東の国 マヌルド
153 彼はウサギを抱きしめた
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スニエリタが目覚めると、目の前にタヌマン・クリャの色鮮やかな身体があった。
ここしばらくはだんまりだったので、もういなくなったのかと思っていたが、ただ隠れていただけらしい。
鳥に似た姿の神は、さあ支度をしろ、と開口一番に言い放った。
『旅に出るのだ。ハーシの小僧もどうにかして脱走させる』
「あ、朝から急にそんなことを言わないで……これ以上ミルンさんの立場を悪くさせるようなこと、わたしは絶対にしたくありません。お断りします」
『ほんとうに強情な娘だな。扱い易いと思って印をつけたのに、これでは見込み違いだ』
「何とでも言ってください」
自分でも確かにそうは思うが、今は誰に何を言われても甘んじて受けようと思う。
スニエリタが罵られるぐらい平気だ。そんなことよりミルンがひどいことを言われたりされたりするほうが、よほどスニエリタにとっては耐え難い。
その後もあれこれ言うクリャを無視して朝食を済ませ、とにかくミルンの状況を確かめたかったスニエリタだが、ロンショットがどこにいるかわからない。
仮にミルンが投獄されていたとして、彼の口添えがなければ面会にも行けないだろう。
まずはロンショットと連絡をとらなければ。
それに昨日はヴァルハーレに迫られていたところを助けてもらったようなものだった。お礼も言いたい。
スニエリタは昨夜さんざん言い合った気まずさを飲み込んで、ロンショットの今日の予定や所在について父に尋ねた。
クイネス将軍はまだ機嫌がよろしくないようすだったが、スニエリタを突っぱねることはなく、そのうち来るとぶっきらぼうに答えた。どうやら朝一番で呼びつけてあるらしい。
敢えて父の隣で彼の来邸を待つことにする。
しばらくしてロンショットは顔を出し、将軍とスニエリタが並んでいるのを見て少し驚いたような顔をした。
「件のハーシ人の身辺を調査しろ。そして私に報告するまでは拘束を続けておけ、処罰も保留だ」
「畏まりました。他にご用件はございますか」
「いや、それだけだ。もう行け」
一礼して去っていくロンショットをスニエリタが追いかけても、将軍は何も言わなかった。
父は何を考えているのだろう、と不思議に思わないでもないスニエリタだったが、今はそれよりこちらが先だ。
ロンショットを廊下で呼び止め、ミルンのことを聞く。
今、彼はどこにいて、どのような処遇を受けているのか。
「……彼なら、私の自宅にいますよ」
「ほんとうですか!? じゃ、じゃあその、……ディンラルさんは、今から一旦おうちに帰りますよね……ついていってもいいですか……?」
「私は構いませんが、将軍が……」
「お父さまのことなら平気です。いちいちお伺いを立てていたら、きっとわたしは何もできません」
きっぱりと言い切ったスニエリタに、ロンショットは苦笑いしている。
ともかくスニエリタはロンショットの遣獣に同乗して彼の住んでいる家へ向かった。
もちろん内壁の外、下級貴族から一般市民と貧民までが暮らしている側だ。
さすがに貧民街の近くではないが、貴族でもないロンショットの家は小ぢんまりしている。
そもそも彼の家を訪ねること自体これが初めてだった。
やっと落ち着いてミルンと話ができるかもしれないと思うと、スニエリタの胸は高鳴って仕方がない。
だが浮かれた気持ちを砕くように、扉を開ける前にロンショットが真面目な顔をして、こう言った。
「お嬢さま。私はこれから治安部の詰め所に参りますが、くれぐれも彼をこの家から連れ出したりなさらないでください。
本来なら投獄しなければならなかった人間をここに留めていることを含め、私だけでなく、将軍の責任が問われる事態になりますので。何より彼自身の立場が悪化します。
それから馬車を呼んでおきますので、お帰りはご自由になさってくださいね」
スニエリタは頷き、ロンショットの家に入った。
ロンショット自身は玄関に足を踏み入れることなく出かけていったが、ほんとうは一旦戻るつもりなどなく、直接詰め所に出向く予定だったのかもしれない。
スニエリタが来たいと言うので送ってくれただけなのだろう。
彼にも極力迷惑はかけたくないものだと思いながら、スニエリタは室内を歩く。
狭い廊下に、三つしかない扉。クイネス邸とはまったく違うし、ミルンの実家よりも狭い。
しかし廊下には塵ひとつ落ちてはおらず、男ひとりの住まいにしては手入れが行き届いている。
居間と書かれた扉の前に立ち、スニエリタは深呼吸をしてから、軽くコンコンと叩いた。
中から返事がする。はい、と、ミルンの声で。
それだけで泣きそうになりながら、もう一度深く息を吐いて扉に手をかける。
「スニエリタ……」
てっきりロンショットが戻ってきたかと思っていたのだろう、ミルンはスニエリタを見て少し驚いたふうだった。
スニエリタはまた駆け寄りたい衝動をどうにかこらえ、できるだけゆっくりと歩いて彼の前まで行く。
会いたい一心でここまで来たけれど、いざ会うと何を話していいかわからなかった。
それに、落ち着いて向き合うと、なんとも気恥ずかしい。
よくよく考えたらスニエリタは彼と結界で別れる前、一方的に告白をしてキスまでしてしまっていた。
それ自体は勢いというか、彼にキノコを食べさせるために必死で考えて実行したことなのだけれど、そのときはもう二度と会わない覚悟だったのだ。
まさかまた会えるなんて思わなかった。
あれで最後にするはずだったのに、世界はもう一度繋がってしまった。
「よ、よかったです。牢屋になんて入れられていなくて」
とにかく何か喋ろうと、そんな当たり障りのない言葉を引っ張り出す。
「ああ、ロンショットさんが手を回してくれたらしい。正直助かった。あの人は俺のことを覚えてないらしいけど、相変わらずいい人だな」
「そうですね。わたしも昨日は助けてもらって……あっ、お礼を言ってない……」
「あー、そうだ、あれ大丈夫だったか? 手首掴まれてたろ。痕とか残ってないか」
「だ、だだ、大丈夫ですっ……そ、それより、その、あの、ララキさんのことなんですが!」
ミルンの優しさも相変わらずで、くすぐったい。
話題を変えようとスニエリタは咄嗟にララキの名前を出した。
こんなことをしている間も、彼女はどこにいるのかわからない。どこで何をしているのか、無事でいるのか、そうでないのか。
念のためミルンがクリャに言われたことを確認したが、スニエリタが聞いたのとそう大差はないようだった。
ただミルンのところにはシッカも来たらしい。ここんとこにキスされたよ、人間の男の姿だったから正直ちょっと微妙な気分だった、なんて苦笑いで額を指差してミルンは言った。
しかし、彼の口から出たキスという単語にスニエリタの心臓はやたらに反応してしまう。
ミルンにとってはどうだったかわからないが、少なくともスニエリタにとっては生まれて初めてのキスだった。いや人工呼吸を含めれば二度目なのか。
ともかく、経験が少なかったのが災いしてなのか、今でもあのときの感触をしっかりと覚えている。
そして言葉を聞いただけなのに、思い出して顔が真っ赤になってしまうのだ。
キノコを食べさせるためとはいえ、わたしは何てことをしてしまったの──今さらそんな後悔と羞恥心に叩きのめされるスニエリタだが、ミルンはこちらの心情など知らない。
ようすがおかしいのに気づいて心配そうな顔をしているだけだ。
いや、違う、ミルンの顔は心配ではなく、困っているようにも見える。
「……キス、といえばさ」
スニエリタの心臓がばくんと飛び跳ねた。
それはもう、勢い余って喉から飛び出すんじゃないかと思うくらいに。
「あのとき結界で……別れる前に……おまえが言った、あの……」
「ご、ごめんなさいっ!」
「えっ?」
スニエリタは思わず彼に背を向けた。
とてもじゃないが顔を見て喋れる状態ではない。
ばくばく暴れる胸を必死で押さえつけながら、息をするのも辛いのを必死で深呼吸をして、そして震える声で続ける。
「あ、あんな、騙すみたいなことして……っわ、わた、し、ミルンさんの、気持ちをっ、無視して、しまって」
全身が心臓になってしまったみたいだった。
頭のてっぺんから爪先までがどきんどきんと激しく波打ち、スニエリタの声は震えて吐息混じりになり、きっと聞き取りにくいだろう。
それにもう今にも涙が出そうになっている。
キスなんて、しなければよかった。
きっとミルンはララキのことが好きなのに。
一方的に自分の気持ちを押し付けて、勝手にキスなんてして、きっと彼は戸惑っただろう。
あるいはその優しさのせいで、スニエリタに応えなければいけないなどと思ってしまってはいないか。
「だから、その、わ、忘れてください……ほんとうに、ごめんなさっ──!?」
急に。
スニエリタを背後から、誰かの力強い腕が抱き締めた。
信じられないが振り向くこともできない。
背中に温かい胸の感触があって、スニエリタの頬を伝った涙が一粒、黒革の手袋の上にぽたりと落ちた。ミルンの手だ。
こんなに近いと心臓の音が聞こえてしまう、とスニエリタは慌てたが、さらに次の瞬間、スニエリタのと同じくらい大きな鼓動がずしんと響いてきた。
「俺は忘れたくない」
耳元でミルンの声がして、ちょっと息もかかった気がして、スニエリタの肩はびくりと跳ねる。
「それと、俺が聞きたいのは"ごめんなさい"じゃない。それは言うなって言っただろ」
「で、でも……あの……」
「正直ああいう手でキノコを食わされたのは腹が立ったよ。
でもそれは、おまえにじゃない。見事にその手にハマッちまった俺自身が許せなかったんだ。正直言ってあの瞬間、めちゃくちゃ浮かれてたからな」
「え、あ、あの……ミルンさん……」
「あー回りくどいよな! つまりだ、はっきり言うぞ、俺……俺は……」
ミルンの腕が一旦離れ、そして彼自身が正面に回りこんできた。
顔が真っ赤だった。スニエリタの両肩をしっかりと掴んだ彼は、じっと眼を合わせながら、思い切り息を吸い込んで、そして言った。
「好きだ。……初めて逢ったときからずっと、俺は、おまえが好きだった。
だから聞かせてくれ、あのときのおまえの言葉は……本心だったのか? それとも、俺にキノコを食わせるための芝居だったのか……?」
声が、手が、震えている。
触れている箇所が熱い。
スニエリタは信じられない気持ちで彼の言葉を聞いていた。
お互いの眼が濡れていて、今のミルンはいつもの頼れる兄のような彼ではなく、母犬を探して彷徨っている子犬のように見えた。
こんなに苦しそうな彼の姿を見るのは初めてで、どうしようもなくスニエリタの胸を締め付ける。
愛おしくて、切なくて、どこか少し、……かわいい。
こんなに彼を困らせているのは嘘かほんとうか紛らわしい告白をしたスニエリタなのに、なんだかそんなふうに思ってしまった。
スニエリタの眼からぽろりと透明な雫が落ちる。
──ああ、やっぱり、この人が。
「お芝居なんかじゃ、ないです……わたしも、ミルンさんが好き……っ」
次の瞬間、スニエリタは抱き締められていた。
そして抱き締め返した。もう二度と離れたくないと思った。
このままふたりの境界が融けてなくなってしまえばいいのに。
絶対に誰も引き裂けないように、くっついてひとつのものになってしまいたい。
この人がいない人生なんて考えられない。
好き、じゃやっぱり足りない。大好き。
……いいえ、愛してる。
そのほうがしっくりくる気がすると、スニエリタは思う。
抱き合ったまま顔を上げると、やっぱり少し泣きそうな顔をしたミルンと眼が合った。
そしてどちらからともなくくちびるを重ねていた。
三度目のキスは、相変わらずの塩味だった。
「……あいつと結婚するの、やめてくれよ」
「もちろんです。……ミルンさんがわたしの夫になってください」
「なんかいっつもおまえからだな、言うの……たまには俺から先に言わせてくれ」
「じゃあ、お父さまにはミルンさんから言いますか?」
「えっ……俺、殺されないか、それ」
恐ろしげに言うミルンに、スニエリタはくすくす笑った。
あの父ならありえるかもしれないが、もちろん絶対にそんなことはさせない。
ともかく次に父に告げることはこれで決まりだ。
ミルンを新たな婚約者とすること。それさえ認められれば、彼とともにララキを探しに出ることも不可能ではないだろう──あまりに幸せだったので、スニエリタは少し楽観的になっていた。
→
スニエリタが目覚めると、目の前にタヌマン・クリャの色鮮やかな身体があった。
ここしばらくはだんまりだったので、もういなくなったのかと思っていたが、ただ隠れていただけらしい。
鳥に似た姿の神は、さあ支度をしろ、と開口一番に言い放った。
『旅に出るのだ。ハーシの小僧もどうにかして脱走させる』
「あ、朝から急にそんなことを言わないで……これ以上ミルンさんの立場を悪くさせるようなこと、わたしは絶対にしたくありません。お断りします」
『ほんとうに強情な娘だな。扱い易いと思って印をつけたのに、これでは見込み違いだ』
「何とでも言ってください」
自分でも確かにそうは思うが、今は誰に何を言われても甘んじて受けようと思う。
スニエリタが罵られるぐらい平気だ。そんなことよりミルンがひどいことを言われたりされたりするほうが、よほどスニエリタにとっては耐え難い。
その後もあれこれ言うクリャを無視して朝食を済ませ、とにかくミルンの状況を確かめたかったスニエリタだが、ロンショットがどこにいるかわからない。
仮にミルンが投獄されていたとして、彼の口添えがなければ面会にも行けないだろう。
まずはロンショットと連絡をとらなければ。
それに昨日はヴァルハーレに迫られていたところを助けてもらったようなものだった。お礼も言いたい。
スニエリタは昨夜さんざん言い合った気まずさを飲み込んで、ロンショットの今日の予定や所在について父に尋ねた。
クイネス将軍はまだ機嫌がよろしくないようすだったが、スニエリタを突っぱねることはなく、そのうち来るとぶっきらぼうに答えた。どうやら朝一番で呼びつけてあるらしい。
敢えて父の隣で彼の来邸を待つことにする。
しばらくしてロンショットは顔を出し、将軍とスニエリタが並んでいるのを見て少し驚いたような顔をした。
「件のハーシ人の身辺を調査しろ。そして私に報告するまでは拘束を続けておけ、処罰も保留だ」
「畏まりました。他にご用件はございますか」
「いや、それだけだ。もう行け」
一礼して去っていくロンショットをスニエリタが追いかけても、将軍は何も言わなかった。
父は何を考えているのだろう、と不思議に思わないでもないスニエリタだったが、今はそれよりこちらが先だ。
ロンショットを廊下で呼び止め、ミルンのことを聞く。
今、彼はどこにいて、どのような処遇を受けているのか。
「……彼なら、私の自宅にいますよ」
「ほんとうですか!? じゃ、じゃあその、……ディンラルさんは、今から一旦おうちに帰りますよね……ついていってもいいですか……?」
「私は構いませんが、将軍が……」
「お父さまのことなら平気です。いちいちお伺いを立てていたら、きっとわたしは何もできません」
きっぱりと言い切ったスニエリタに、ロンショットは苦笑いしている。
ともかくスニエリタはロンショットの遣獣に同乗して彼の住んでいる家へ向かった。
もちろん内壁の外、下級貴族から一般市民と貧民までが暮らしている側だ。
さすがに貧民街の近くではないが、貴族でもないロンショットの家は小ぢんまりしている。
そもそも彼の家を訪ねること自体これが初めてだった。
やっと落ち着いてミルンと話ができるかもしれないと思うと、スニエリタの胸は高鳴って仕方がない。
だが浮かれた気持ちを砕くように、扉を開ける前にロンショットが真面目な顔をして、こう言った。
「お嬢さま。私はこれから治安部の詰め所に参りますが、くれぐれも彼をこの家から連れ出したりなさらないでください。
本来なら投獄しなければならなかった人間をここに留めていることを含め、私だけでなく、将軍の責任が問われる事態になりますので。何より彼自身の立場が悪化します。
それから馬車を呼んでおきますので、お帰りはご自由になさってくださいね」
スニエリタは頷き、ロンショットの家に入った。
ロンショット自身は玄関に足を踏み入れることなく出かけていったが、ほんとうは一旦戻るつもりなどなく、直接詰め所に出向く予定だったのかもしれない。
スニエリタが来たいと言うので送ってくれただけなのだろう。
彼にも極力迷惑はかけたくないものだと思いながら、スニエリタは室内を歩く。
狭い廊下に、三つしかない扉。クイネス邸とはまったく違うし、ミルンの実家よりも狭い。
しかし廊下には塵ひとつ落ちてはおらず、男ひとりの住まいにしては手入れが行き届いている。
居間と書かれた扉の前に立ち、スニエリタは深呼吸をしてから、軽くコンコンと叩いた。
中から返事がする。はい、と、ミルンの声で。
それだけで泣きそうになりながら、もう一度深く息を吐いて扉に手をかける。
「スニエリタ……」
てっきりロンショットが戻ってきたかと思っていたのだろう、ミルンはスニエリタを見て少し驚いたふうだった。
スニエリタはまた駆け寄りたい衝動をどうにかこらえ、できるだけゆっくりと歩いて彼の前まで行く。
会いたい一心でここまで来たけれど、いざ会うと何を話していいかわからなかった。
それに、落ち着いて向き合うと、なんとも気恥ずかしい。
よくよく考えたらスニエリタは彼と結界で別れる前、一方的に告白をしてキスまでしてしまっていた。
それ自体は勢いというか、彼にキノコを食べさせるために必死で考えて実行したことなのだけれど、そのときはもう二度と会わない覚悟だったのだ。
まさかまた会えるなんて思わなかった。
あれで最後にするはずだったのに、世界はもう一度繋がってしまった。
「よ、よかったです。牢屋になんて入れられていなくて」
とにかく何か喋ろうと、そんな当たり障りのない言葉を引っ張り出す。
「ああ、ロンショットさんが手を回してくれたらしい。正直助かった。あの人は俺のことを覚えてないらしいけど、相変わらずいい人だな」
「そうですね。わたしも昨日は助けてもらって……あっ、お礼を言ってない……」
「あー、そうだ、あれ大丈夫だったか? 手首掴まれてたろ。痕とか残ってないか」
「だ、だだ、大丈夫ですっ……そ、それより、その、あの、ララキさんのことなんですが!」
ミルンの優しさも相変わらずで、くすぐったい。
話題を変えようとスニエリタは咄嗟にララキの名前を出した。
こんなことをしている間も、彼女はどこにいるのかわからない。どこで何をしているのか、無事でいるのか、そうでないのか。
念のためミルンがクリャに言われたことを確認したが、スニエリタが聞いたのとそう大差はないようだった。
ただミルンのところにはシッカも来たらしい。ここんとこにキスされたよ、人間の男の姿だったから正直ちょっと微妙な気分だった、なんて苦笑いで額を指差してミルンは言った。
しかし、彼の口から出たキスという単語にスニエリタの心臓はやたらに反応してしまう。
ミルンにとってはどうだったかわからないが、少なくともスニエリタにとっては生まれて初めてのキスだった。いや人工呼吸を含めれば二度目なのか。
ともかく、経験が少なかったのが災いしてなのか、今でもあのときの感触をしっかりと覚えている。
そして言葉を聞いただけなのに、思い出して顔が真っ赤になってしまうのだ。
キノコを食べさせるためとはいえ、わたしは何てことをしてしまったの──今さらそんな後悔と羞恥心に叩きのめされるスニエリタだが、ミルンはこちらの心情など知らない。
ようすがおかしいのに気づいて心配そうな顔をしているだけだ。
いや、違う、ミルンの顔は心配ではなく、困っているようにも見える。
「……キス、といえばさ」
スニエリタの心臓がばくんと飛び跳ねた。
それはもう、勢い余って喉から飛び出すんじゃないかと思うくらいに。
「あのとき結界で……別れる前に……おまえが言った、あの……」
「ご、ごめんなさいっ!」
「えっ?」
スニエリタは思わず彼に背を向けた。
とてもじゃないが顔を見て喋れる状態ではない。
ばくばく暴れる胸を必死で押さえつけながら、息をするのも辛いのを必死で深呼吸をして、そして震える声で続ける。
「あ、あんな、騙すみたいなことして……っわ、わた、し、ミルンさんの、気持ちをっ、無視して、しまって」
全身が心臓になってしまったみたいだった。
頭のてっぺんから爪先までがどきんどきんと激しく波打ち、スニエリタの声は震えて吐息混じりになり、きっと聞き取りにくいだろう。
それにもう今にも涙が出そうになっている。
キスなんて、しなければよかった。
きっとミルンはララキのことが好きなのに。
一方的に自分の気持ちを押し付けて、勝手にキスなんてして、きっと彼は戸惑っただろう。
あるいはその優しさのせいで、スニエリタに応えなければいけないなどと思ってしまってはいないか。
「だから、その、わ、忘れてください……ほんとうに、ごめんなさっ──!?」
急に。
スニエリタを背後から、誰かの力強い腕が抱き締めた。
信じられないが振り向くこともできない。
背中に温かい胸の感触があって、スニエリタの頬を伝った涙が一粒、黒革の手袋の上にぽたりと落ちた。ミルンの手だ。
こんなに近いと心臓の音が聞こえてしまう、とスニエリタは慌てたが、さらに次の瞬間、スニエリタのと同じくらい大きな鼓動がずしんと響いてきた。
「俺は忘れたくない」
耳元でミルンの声がして、ちょっと息もかかった気がして、スニエリタの肩はびくりと跳ねる。
「それと、俺が聞きたいのは"ごめんなさい"じゃない。それは言うなって言っただろ」
「で、でも……あの……」
「正直ああいう手でキノコを食わされたのは腹が立ったよ。
でもそれは、おまえにじゃない。見事にその手にハマッちまった俺自身が許せなかったんだ。正直言ってあの瞬間、めちゃくちゃ浮かれてたからな」
「え、あ、あの……ミルンさん……」
「あー回りくどいよな! つまりだ、はっきり言うぞ、俺……俺は……」
ミルンの腕が一旦離れ、そして彼自身が正面に回りこんできた。
顔が真っ赤だった。スニエリタの両肩をしっかりと掴んだ彼は、じっと眼を合わせながら、思い切り息を吸い込んで、そして言った。
「好きだ。……初めて逢ったときからずっと、俺は、おまえが好きだった。
だから聞かせてくれ、あのときのおまえの言葉は……本心だったのか? それとも、俺にキノコを食わせるための芝居だったのか……?」
声が、手が、震えている。
触れている箇所が熱い。
スニエリタは信じられない気持ちで彼の言葉を聞いていた。
お互いの眼が濡れていて、今のミルンはいつもの頼れる兄のような彼ではなく、母犬を探して彷徨っている子犬のように見えた。
こんなに苦しそうな彼の姿を見るのは初めてで、どうしようもなくスニエリタの胸を締め付ける。
愛おしくて、切なくて、どこか少し、……かわいい。
こんなに彼を困らせているのは嘘かほんとうか紛らわしい告白をしたスニエリタなのに、なんだかそんなふうに思ってしまった。
スニエリタの眼からぽろりと透明な雫が落ちる。
──ああ、やっぱり、この人が。
「お芝居なんかじゃ、ないです……わたしも、ミルンさんが好き……っ」
次の瞬間、スニエリタは抱き締められていた。
そして抱き締め返した。もう二度と離れたくないと思った。
このままふたりの境界が融けてなくなってしまえばいいのに。
絶対に誰も引き裂けないように、くっついてひとつのものになってしまいたい。
この人がいない人生なんて考えられない。
好き、じゃやっぱり足りない。大好き。
……いいえ、愛してる。
そのほうがしっくりくる気がすると、スニエリタは思う。
抱き合ったまま顔を上げると、やっぱり少し泣きそうな顔をしたミルンと眼が合った。
そしてどちらからともなくくちびるを重ねていた。
三度目のキスは、相変わらずの塩味だった。
「……あいつと結婚するの、やめてくれよ」
「もちろんです。……ミルンさんがわたしの夫になってください」
「なんかいっつもおまえからだな、言うの……たまには俺から先に言わせてくれ」
「じゃあ、お父さまにはミルンさんから言いますか?」
「えっ……俺、殺されないか、それ」
恐ろしげに言うミルンに、スニエリタはくすくす笑った。
あの父ならありえるかもしれないが、もちろん絶対にそんなことはさせない。
ともかく次に父に告げることはこれで決まりだ。
ミルンを新たな婚約者とすること。それさえ認められれば、彼とともにララキを探しに出ることも不可能ではないだろう──あまりに幸せだったので、スニエリタは少し楽観的になっていた。
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