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東の国 マヌルド

151 待ち焦がれた来訪者

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 みんなが不思議がっている。
 こんなにきれいな装いをして、あんなに素晴らしい人を婿に迎えるのに、どうしてちっとも嬉しそうにしないのか、と。

 あっという間に式の日取りやら段取りやらが取り決められた。
 そして時間がないからと、本来ならオーダーするはずの婚礼衣装すら既製品の手直しで済まされて、まるで他人ごとのようにすべてがスニエリタをすり抜けていった。

 スニエリタも何を言われても「はい」「わかりました」「構いません」としか答えないので話はどんどん進んでいく。

 結婚なんてしたくない。ヴァルハーレのことなどとても好きにはなれそうにない、それどころかスニエリタの唯一無二の心はもうすでに別の人に捧げてしまっている。

 でも他にどうすることもできなくて、ただ流されるままにその日を迎えた。

 きれいだよ、とみんなが言う。

 母だけはスニエリタの浮かない表情を見とめて、そんなに心配しなくてもいいのよ、という言葉をかけてくれた。
 これまで大人しくて不出来な娘であったから、きっと今日も緊張して壊れそうになっているのだと思ったのだろう。

 そして始まってしまった式は、つまらないほど順調に進む。

 まず教会の奥の部屋で長々と神父の話を聞かされたあと、ヴァルハーレに手を引かれて表に出て、外で待っていた全員の前でふたりは永遠の愛とやらを誓うのだ。
 もちろん教会で行っているのだから、これは神の前で誓約したも同然である。
 よってマヌルドでは基本的に離婚は認められない。

 まずヴァルハーレが、芝居がかった口調で愛を語る。スニエリタはそれをやはり他人事のように眺めていた。

 参列者の中には彼の恋人もいるかもしれない。
 金と地位のためだけに愛してもいない女の婿になろうとする彼を見て、彼女たちは何を思うだろう。
 スニエリタを憎むだろうか。それとも自分を選んでくれない彼を怨むのだろうか。

「……僕の魂は、スニエリタ、永遠にきみのものであると、ここに誓おう」

 妙に幸せそうにそう締めくくるとヴァルハーレはスニエリタの肩を包むようにして掴んだ。

 スニエリタの側の宣言が終わったら、そのままここでくちづけを交わすからだ。
 キスをもって式は終わる。

 スニエリタは開きたくない口をなんとか抉じ開けて、言いたくもない言葉を喉の奥から引っ張り出そうとする。

 なかなか声が出てこない。ある意味それは当然だった。
 スニエリタの中に、ヴァルハーレに誓う愛など存在しないし、その宣誓を行うための言葉など持ち合わせているはずがないのだ。

 ありもしない声を出そうとしてもまったくの無駄だった。
 しかし、ここまで来てしまった以上、やっぱり嫌だなんて言えはしない。

 スニエリタが下くちびるを噛んだ、そのときだった。

 参列客が急にざわつき始めたのだ。どうも教会の門のあたりで衛兵が騒いでいるらしい。
 こんなときに一体何があったのか、気になったらしいヴァルハーレがスニエリタから手を離し、スニエリタもまた騒ぎのほうへと視線を向ける。

 そこに、いるはずのない人の姿が見えた。

 背の高い、銀髪の若い男性。
 見慣れた外套姿に、ぼさぼさの髪を申し訳程度に留めた紋視鏡つきのヘアバンド、両手に嵌めた皮の紋唱用手袋。

 間違いない。

 見間違えるはずがない。

 気づけばスニエリタは走り出していた。
 驚いた参列客の間をすり抜け、留めようとする手や声を自分でも驚くほどの力で振り払い、一目散に彼の元へと走った。
 こんな走りにくい靴など脱ぎ捨てて放り投げてしまいたい。

 彼の目の前まできて気が抜けたのか、最後の最後でドレスの裾に躓いてしまったが、そのまま彼の胸へと飛び込んだ。

 ──ああ、このぬくもり。この感触。

「ミルンさん……!」

 両眼から迸るように涙が零れ落ちる。
 きっと化粧がぐちゃぐちゃに崩れてしまっただろうが、構ってなどいられなかった。

 会いたくてたまらなかった人が目の前にいて、自分はようやくその人の胸に還ることができたのだ、それ以上に大切なことなどこの世に存在しないだろう。少なくとも今のスニエリタにとっては。

 やっぱりこの人が好きだ。この人以外に考えられない。

 感情のままに抱きついたスニエリタを見て、ミルンは苦笑いに近い表情を浮かべていた。
 もう何と思われてもいい。
 幸せすぎて頭がどうかなってしまったかもしれない。

 しかしもちろん、スニエリタの僥倖は長くは続かなかった。

 怒号とともにふたりを引き剥がす者が現れたからだ。
 それは衛兵であり、それを指示したのはヴァルハーレである。

 どういうことだ、と怒気の滲んだ声で叫ぶように言った彼は、そのままつかつかと歩いてきてミルンの胸倉を掴んだ。
 今にも殴りかからんばかりのようすだ。
 続いて出た言葉は「誰だ貴様は!?」だったが、記憶のないヴァルハーレには無理もなかった。

 参列していたロンショットも困惑の表情でこちらを見ている。
 それ以上に父が、ミルンとスニエリタの両方を憤怒の形相で睨んでいた。

「やめてください!」

 スニエリタは叫ぶ。
 この場を収めるのは自分の役目だ。ハーシ人であるというだけで立場の弱いミルンには、恐らく誰も耳を貸そうとしない。

「スニエリタ、……こいつは、きみの何だ? ずいぶん親しいようにも見えたが……いつどこで知り合ったのか……。
 いや、そんなことはどうでもいい、なんで今日この場にこんなやつが現れるんだ!?

 衛兵、さっさとそいつを摘み出すなり牢に入れるなりしろ!」
「待ってください! ミルンさんはわたしのお客さまです、乱暴な扱いは許しません!」
「この薄汚いドブネズミがか!?」

 ああ、やはりその言葉を使うのか、とスニエリタは肩を落とした。
 それがヴァルハーレという男の本性なのだろう。たしかにこの状況は彼の立場からすればいただけないものだろうが、それにしたってひどい言葉だ。

 そのあともスニエリタと周りの人間の問答は続いた。

 二ヶ月に渡って家出をしていた事実を誰も覚えていない以上、旅先で知り合ったことも認めてはもらえないし、ましてやハーシ人の彼を客人として迎えろという主張は通りにくい。
 だがスニエリタは粘った。

 当然ながら式は中断されたまま、スニエリタのあまりの強情さに呆れた参列客がまばらに帰り始め、最後まで残ったのは身内とロンショットくらいだった。

 さすがのロンショットも記憶がないままスニエリタの擁護はできないのだろう、何か口を挟むこともなく、スニエリタとヴァルハーレのやりとりを青ざめながら眺めている。
 母は呆然としているし、父は今にも爆発しそうなほど顔を真っ赤にして怒っている。

 それでもスニエリタは引かなかった。
 ミルンがいかに大切な友人であるのか、どれほど自分が彼に救われたのかを滔々と語り、女中に客室の準備まで言いつけた。

 もちろん女中も邸の主人である将軍の許可なしにミルンを泊める支度などできない。
 かといって女中風情が激怒している将軍に伺いを立てるなど到底不可能である。

 たぶん周りの全員が、スニエリタの頭がおかしくなってしまったのだと思いたかっただろう。
 現にそこにハーシ人の少年がいなければ物的証拠はまったくなかったわけだ。

 しかしミルンの存在も、あるいは結婚式を壊すためにスニエリタ自身が手配した人間なのではないか、などとヴァルハーレあたりは思ったのかもしれない。

 彼は怒りを通り越して白んできた顔で、他にも証拠を出せと迫ってきた。
 スニエリタがほんとうに二ヶ月も家出をしていたこと、そこでミルンに出逢ったことを証明する人やものを、今すぐここに出せというのだ。

 スニエリタは頷き、そして、婚礼衣装のまま紋唱を行った。

 紋唱術大国であるマヌルドの、それも紋唱を当たり前の教養としている貴族階級の婚礼衣装であれば、その手袋は紋唱術に対応したものだ。自室に戻って自分のそれをとってくるまでもない。

「果てなき荒野を駆ける者に問う。その名は繁栄を表わし、その実は白玉の精霊を示す。汝は星に応え、万命の理に従ずる花々の詩によって、ここに顕現するものなり。
 ──素兎"フランジェ"」

 それは半ば賭けだった。

 きちんとフランジェを呼び出すことができるのか、つまりは彼女と交わした契約が失われてしまってはいないのか、そして仮に契約が無事に残っていたとしても彼女のほうにスニエリタたちの記憶があるのかどうか。
 何もかもに確信は持てなかったが、もしフランジェを呼べたなら何より確実な証人になる。

 旅に出る前のスニエリタには遣獣がいなかった。
 そしてこのウサギはヴレンデールの西部出身で、原産地からしても性質からしても、恐らくほとんどアウレアシノンや周辺の都市には輸入されていない。

 旅に出る以外でスニエリタが彼女と出逢い、契約を結ぶことはありえないのだ。

 果たして紋章は淡い緑色に輝き、そして、そこから真っ白な獣が飛び出した。
 小さなウサギは見慣れぬ場所に呼び出されたせいか、戸惑っているような仕草であたりを見回している。
 砂漠でも荒野でもない石畳の街中で、しかも着飾ったマヌルド人に囲まれているのだ、記憶のあるなし関係なく彼女には異様な光景だったろう。

 スニエリタはそっと彼女に歩み寄り、屈んでそっと小さな前脚をとった。

「フランジェ、わたしのこと、わかる?」

 ウサギは鼻先をひくひくさせながら、赤紫色の果実のような瞳をぱちくりさせて答えた。

『えっと……今日はずいぶんきれいな恰好ですけど、スニエリタさんですよね? お久しぶりです』

 ついでにフランジェはミルンにも会釈をした。

 ウサギの何気ない行動に、しかし周りのマヌルド人たちはざわつき始める。
 スニエリタはドレスが汚れるのも構わずにフランジェを抱き上げると、彼女の頭を優しく撫でながら、よかった、と言った。
 フランジェの契約も記憶もそのままで、ほんとうによかった。

 そして、改めて両親や親戚たち、ヴァルハーレ、ロンショットらに説明する。

 フランジェとはヴレンデールのシレベニ郊外で出逢ったこと。
 彼女と契約するにあたり、ミルンには大いに助けてもらったこと。

 そしてそれらにフランジェの同意を求めれば、当然彼女はそのとおりですと頷く。

「ですから、彼は私の客人として丁重にもてなしてください。……よろしいですか? お父さま」
「……いいわけがなかろう、馬鹿者。ハーシ人を我が邸に上げることなど絶対に許さん。たとえ今おまえがまくしたてた戯言が事実であったとしてもだ。

 第一、その小僧は何をしに、どうやってここに現れたのだ。まともにとりあった門番がいたとは思えんが」

 クイネス将軍にぎろりと睨まれ、ミルンは少し顔をひきつらせる。
 そして両側から衛兵に押さえつけられた恰好のまま、壁を登って入りました、と彼は答えた。
 紋唱術を使ったのだろうが、それにしてもよくここまで誰にも見つからずに来られたものだ。

 もしかして、とスニエリタの脳裏にひとつの考えが浮かぶ。

 しかし不法侵入には違いない。それならばやはり牢に入れるべきだとヴァルハーレが声を上げ、ロンショットも頷いて衛兵に指示を出そうとする。
 その腕をスニエリタは必死に掴んで止める。

「やめてください……もしどうしてもミルンさんを投獄するというのなら、わたしも一緒に牢に入ります」
「お嬢さま、何をおっしゃってるんです!?」
「わたしは本気です。それにミルンさんがわざわざそんなことをしたのも、きっとその責任の一端はわたしにあります。
 そうですよね、ミルンさん? あなたのところにもタヌマン・クリャが現れたんでしょう?」
「あ、ああ、そうだ。おまえと一緒にララキを探せって言われて……」

 やはりそうか、とスニエリタは思った。

 スニエリタが動こうとしないので、しびれを切らしたクリャがわざわざミルンをハーシまで呼びに行ってしまったに違いない。
 そして人の好いミルンはそれを断われなかったのだろう。

 スニエリタがひとりででも旅を始めていれば、こんなことにならなくて済んだのだ。
 結局どうしてもスニエリタはミルンに迷惑をかけてしまう運命にあるらしい。

「何をごちゃごちゃ言ってるんだ。こいつの言い分は治安部の詰め所で聞けばいいだろう、とっとと連れて行け!」

 ヴァルハーレが猛る。こんなに時間をかけて、ちっともみんなを説得できそうにない。
 このままではミルンは投獄され、ハーシに送り返されることになるだろう。
 それどころかひどい刑罰を言い渡されるかもしれない。皇帝一族も住んでいる内壁への侵入は重罪だ。

 また涙が滲んできた。
 ミルンを罰するくらいなら自分にそうしてほしい。

 何をどう言えばわかってもらえるのだろう。ミルンを酌量してもらえるだろう。
 一生懸命考えるけれど、あるかどうかもわからない答えが見つかるより先に、ミルンが連行されていってしまう。

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