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東の国 マヌルド
150 神樹の憂い
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大樹は以前と変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
他の神と同じように神格や力を絡め取られているようにはとても見えないが、しいて言うなら、太い幹に結ばれていたはずの注連縄がなくなっている。
力ずくで引きずり込まれたカーシャ・カーイは、樹の手前でようやく解放されて地を転がった。
未だかつてないほど乱暴で雑な運びかたをされたと思いながら、そして口でもしっかり悪態をつきつつ立ち上がり、オオカミの神だった者は大樹を睨む。
正確には、その樹の根元に佇む老人を。
ハーシの民族衣装にもいろいろあるが、中でも古い形式のものを着込んだ長髪の老人である。
オヤシシコロカムラギが人の姿をとっているのは、付き合いの長いカーイですら初めて見た。
やはり彼にも新生クシエリスルの枷が届いているのだ。
どういうわけかドドは強制的にすべての神に人の姿を押し付けた。
自分の姿すら自由に選べないのは数多の神々にとっては屈辱や苦痛をもたらし、それがいずれは諦めに繋がるとでも思うのだろうか。
ちなみにカーイはオオカミに戻ろうと思えばできる。
しかし元々ちょくちょく人型で活動していたせいか、あまり違和感がないのでそのままにしていた。
オヤシシコロは泥だらけのカーイを見て、元気そうじゃな、と弱弱しい声で言った。
「しかし元気はよくとも、ルーディーンに対しては未だ悪手じゃ」
「うるせえよ。そっちこそ根を動かす気力があんなら、もっと全面的にアンハナケウに介入しろ」
「……それができたらしておるわな」
よく見ると、オヤシシコロは背を幹に預けている。
顔には脂汗を浮かべていて、どうやら相当な無理をしているらしい。
あるいはカーイを引っ張るのにかなりの力を消耗したのだろうか。
彼の腕には小さな少女が抱かれていて、彼女は静かに眠っている。
「クソジジイ、何のために俺を呼んだんだ。無駄に力をすり減らしてる余裕はねえんだろ」
カーイが問うた瞬間、オヤシシコロはずるずるとその場に崩れ落ちた。
それでもなお少女の身体を取りこぼすことはなかったが、太い根の間にへたり込むようにして、老人は青ざめた顔をカーイに向ける。
カーイはそれを黙って眺めていた。
長い白髪が地面を流れ、まるでそこだけ雪が積もったようだった。
「カーシャ・カーイ、わしと取引をせんかね……」
「あぁ?」
「最後の娘……ララキと、アフラムシカを、ここに連れてこい。代わりに、ドドを潰すに足るだけの力をくれてやろう」
「俺がそんな都合のいい話を信じると思うのかよ」
カーイは笑って老人の襟首を掴んだ。
オヤシシコロの提案はあまりに魅力的すぎて、それゆえに胡散臭い。
しかし老人もまた不敵に笑い返し、震える声で返した。
「おまえさんこそ、わしの手助けなしに世を救えるなどと自惚れるな、……狗っころ」
しばらくふたりは無言で睨みあった。
ほんの数秒か、数分もないほどの短い沈黙のあと、カーイが耐え切れなくなったようすで噴き出した。
相変わらずの雪崩のような大笑いのあとで、カーイは老人の肩を叩く。
「狗っころなんて渾名、久々に聞いたな。そう言うあんたも昔っから少しも変わってねえ性格の捻じ曲がったクソジジイじゃねえか。
……まあ案外、俺も嫌いじゃねえんだけどよ。
取引とやらにも乗ってやる。あいつらを連れてくるまでパレッタともどもドドに喰われないようにねばってな」
カーイはそう言って、オヤシシコロに抱かれたパレッタ・パレッタ・パレッタを頭巾越しに軽くくしゃりと撫でてから、ひらりとその場を離れた。
オオカミの姿に戻り、大地を駆けていったのだ。
白銀の獣の姿が森の彼方に消えるのを、オヤシシコロは顔を上げていられる限り見送った。
懐のパレッタは目覚めない。
身じろぎすらせず、眠っているというよりは死んでしまったかのように見える。
彼女は神としては弱すぎたので、新生クシエリスルのくびきの中では意識を保っていることすらできないのだ。
オヤシシコロの憂慮は、そんなパレッタのこの先の運命にあった。
幼くとも女神であるから、ドドは彼女に暴力を振るったり潰して喰べてしまうことはないだろうが、代わりに女になることを強要しかねない。
小さな身体では彼を受け入れられないからと、成長を促すために無理やり他の神を喰べさせるようなこともするかもしれない。
想像するだけでおぞましいが突飛な想像ではないはずだ。
クシエリスルの前のドドをもちろん知っている。
乱暴で粗野な精霊として南部で幅を利かせていたやつだった。
カーイが誰でも襲って喰うことで恐れられていたように、ドドも精霊たちの間で注意がなされていたのだ。
曰く、男神はドドに会ったらまず逃げろ、やつは雄を殺す。
女神もドドに会ったらすぐ逃げろ、やつは雌ならどんな醜女(しこめ)でも犯す。
ちなみにドドを擁護するわけではないが、そのような性質の神や精霊は他にも大勢いた。
クシエリスル制定前の荒れた時期に潰し合いをして大半が消えただけで、だいたいどの地方にも凶暴で危険な者がひと柱は必ずいたのだ。
中央にもずいぶん暴れまわっていた者がいたが、そいつはカーイに喰われて消えたし、東部にも残酷趣味で有名な者がいたが、そいつはヴィーラの不興を買って潰された。
西にもいたかもしれないが、だいたいカーイかガエムトに喰われたし、しいていえば西にガエムトより危険な神はいない。
クシエリスルの制定にあたってアフラムシカがドドを南部の盟主に指名したとき、オヤシシコロは驚いた。
とても彼に務まるはずがないと思ったが、案外ドドは真面目にやったし、タヌマン・クリャの討伐にもずいぶん熱心に参加して、たちまちみんなの信頼を得るようになった。
元が不良だったからこそ態度の変化が鮮やかに映ったのかもしれない。
それがすべて欺瞞だったというなら残念だと思う。
ほんとうに、心の底から。
彼がクシエリスルの基盤に仕掛けた細工を見つけたときは、それはもうがっかりしたのだ。
カーイが同じ細工をしたのを知っていたので発見自体は容易かった。
彼らはともに精霊上がりの神だったので、もともと己に直接紐付けされた神格を持っていなかった。
掲げている神格は元は他神から奪ったものなので、その借りものの神格だけを基盤に組み込ませることで、精霊としての自分はクシエリスルから自由になる。
理屈としては単純なものだ。
しかしそんなことができるのは、そもそも基盤創りの時点ですでに離反の心を持っていた者だけ。
カーイはもちろん、ドドも初めからまともにクシエリスルに与する気など毛頭なかったということになる。
そうして周りのすべてに嘘をついて、生まれ変わったように真面目で明るい熱血漢を演じながら、彼は腹の底でクシエリスルを乗っ取る機会を伺い続けていたのだ。
アフラムシカの枷も、いざというときに彼が力ずくで対処できないように弱らせるためだったのだろう。
思えばドドは当初からアフラムシカへの罰則を強めるように働きかけていた気がする。
そうしてすべての計画を実行したドドは、もはや善良な仮面をつけている必要がなくなった。
今は改変直後で不安定な世界を落ち着かせようとするのに意識が集中しているだろうが、そのうちアンハナケウに眼を向けて、そこに囚われている神々を容赦なく食い潰していく。
そうなる前にカーシャ・カーイを彼に差し向けなければ。
そしてそれにはアフラムシカたちの協力が必要だ。
オヤシシコロは項垂れたまま、眠るパレッタの頬を撫でる。
神である彼には人間や獣のように血縁を結ぶ経験はないが、それでも彼ら風に表現するなら、パレッタは彼にとって娘や孫のような存在だった。
何の見返りもないままに慈しんで護ることが、静かな彼の喜びなのだ。
パレッタにドドの魔手が伸びることがないように、手を尽くすのも当たり前のこと。
彼自身がそうしたいと願ってするのだ。
たとえ、それゆえに身を滅ぼすことになるとしても、厭わない覚悟で。
→
大樹は以前と変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
他の神と同じように神格や力を絡め取られているようにはとても見えないが、しいて言うなら、太い幹に結ばれていたはずの注連縄がなくなっている。
力ずくで引きずり込まれたカーシャ・カーイは、樹の手前でようやく解放されて地を転がった。
未だかつてないほど乱暴で雑な運びかたをされたと思いながら、そして口でもしっかり悪態をつきつつ立ち上がり、オオカミの神だった者は大樹を睨む。
正確には、その樹の根元に佇む老人を。
ハーシの民族衣装にもいろいろあるが、中でも古い形式のものを着込んだ長髪の老人である。
オヤシシコロカムラギが人の姿をとっているのは、付き合いの長いカーイですら初めて見た。
やはり彼にも新生クシエリスルの枷が届いているのだ。
どういうわけかドドは強制的にすべての神に人の姿を押し付けた。
自分の姿すら自由に選べないのは数多の神々にとっては屈辱や苦痛をもたらし、それがいずれは諦めに繋がるとでも思うのだろうか。
ちなみにカーイはオオカミに戻ろうと思えばできる。
しかし元々ちょくちょく人型で活動していたせいか、あまり違和感がないのでそのままにしていた。
オヤシシコロは泥だらけのカーイを見て、元気そうじゃな、と弱弱しい声で言った。
「しかし元気はよくとも、ルーディーンに対しては未だ悪手じゃ」
「うるせえよ。そっちこそ根を動かす気力があんなら、もっと全面的にアンハナケウに介入しろ」
「……それができたらしておるわな」
よく見ると、オヤシシコロは背を幹に預けている。
顔には脂汗を浮かべていて、どうやら相当な無理をしているらしい。
あるいはカーイを引っ張るのにかなりの力を消耗したのだろうか。
彼の腕には小さな少女が抱かれていて、彼女は静かに眠っている。
「クソジジイ、何のために俺を呼んだんだ。無駄に力をすり減らしてる余裕はねえんだろ」
カーイが問うた瞬間、オヤシシコロはずるずるとその場に崩れ落ちた。
それでもなお少女の身体を取りこぼすことはなかったが、太い根の間にへたり込むようにして、老人は青ざめた顔をカーイに向ける。
カーイはそれを黙って眺めていた。
長い白髪が地面を流れ、まるでそこだけ雪が積もったようだった。
「カーシャ・カーイ、わしと取引をせんかね……」
「あぁ?」
「最後の娘……ララキと、アフラムシカを、ここに連れてこい。代わりに、ドドを潰すに足るだけの力をくれてやろう」
「俺がそんな都合のいい話を信じると思うのかよ」
カーイは笑って老人の襟首を掴んだ。
オヤシシコロの提案はあまりに魅力的すぎて、それゆえに胡散臭い。
しかし老人もまた不敵に笑い返し、震える声で返した。
「おまえさんこそ、わしの手助けなしに世を救えるなどと自惚れるな、……狗っころ」
しばらくふたりは無言で睨みあった。
ほんの数秒か、数分もないほどの短い沈黙のあと、カーイが耐え切れなくなったようすで噴き出した。
相変わらずの雪崩のような大笑いのあとで、カーイは老人の肩を叩く。
「狗っころなんて渾名、久々に聞いたな。そう言うあんたも昔っから少しも変わってねえ性格の捻じ曲がったクソジジイじゃねえか。
……まあ案外、俺も嫌いじゃねえんだけどよ。
取引とやらにも乗ってやる。あいつらを連れてくるまでパレッタともどもドドに喰われないようにねばってな」
カーイはそう言って、オヤシシコロに抱かれたパレッタ・パレッタ・パレッタを頭巾越しに軽くくしゃりと撫でてから、ひらりとその場を離れた。
オオカミの姿に戻り、大地を駆けていったのだ。
白銀の獣の姿が森の彼方に消えるのを、オヤシシコロは顔を上げていられる限り見送った。
懐のパレッタは目覚めない。
身じろぎすらせず、眠っているというよりは死んでしまったかのように見える。
彼女は神としては弱すぎたので、新生クシエリスルのくびきの中では意識を保っていることすらできないのだ。
オヤシシコロの憂慮は、そんなパレッタのこの先の運命にあった。
幼くとも女神であるから、ドドは彼女に暴力を振るったり潰して喰べてしまうことはないだろうが、代わりに女になることを強要しかねない。
小さな身体では彼を受け入れられないからと、成長を促すために無理やり他の神を喰べさせるようなこともするかもしれない。
想像するだけでおぞましいが突飛な想像ではないはずだ。
クシエリスルの前のドドをもちろん知っている。
乱暴で粗野な精霊として南部で幅を利かせていたやつだった。
カーイが誰でも襲って喰うことで恐れられていたように、ドドも精霊たちの間で注意がなされていたのだ。
曰く、男神はドドに会ったらまず逃げろ、やつは雄を殺す。
女神もドドに会ったらすぐ逃げろ、やつは雌ならどんな醜女(しこめ)でも犯す。
ちなみにドドを擁護するわけではないが、そのような性質の神や精霊は他にも大勢いた。
クシエリスル制定前の荒れた時期に潰し合いをして大半が消えただけで、だいたいどの地方にも凶暴で危険な者がひと柱は必ずいたのだ。
中央にもずいぶん暴れまわっていた者がいたが、そいつはカーイに喰われて消えたし、東部にも残酷趣味で有名な者がいたが、そいつはヴィーラの不興を買って潰された。
西にもいたかもしれないが、だいたいカーイかガエムトに喰われたし、しいていえば西にガエムトより危険な神はいない。
クシエリスルの制定にあたってアフラムシカがドドを南部の盟主に指名したとき、オヤシシコロは驚いた。
とても彼に務まるはずがないと思ったが、案外ドドは真面目にやったし、タヌマン・クリャの討伐にもずいぶん熱心に参加して、たちまちみんなの信頼を得るようになった。
元が不良だったからこそ態度の変化が鮮やかに映ったのかもしれない。
それがすべて欺瞞だったというなら残念だと思う。
ほんとうに、心の底から。
彼がクシエリスルの基盤に仕掛けた細工を見つけたときは、それはもうがっかりしたのだ。
カーイが同じ細工をしたのを知っていたので発見自体は容易かった。
彼らはともに精霊上がりの神だったので、もともと己に直接紐付けされた神格を持っていなかった。
掲げている神格は元は他神から奪ったものなので、その借りものの神格だけを基盤に組み込ませることで、精霊としての自分はクシエリスルから自由になる。
理屈としては単純なものだ。
しかしそんなことができるのは、そもそも基盤創りの時点ですでに離反の心を持っていた者だけ。
カーイはもちろん、ドドも初めからまともにクシエリスルに与する気など毛頭なかったということになる。
そうして周りのすべてに嘘をついて、生まれ変わったように真面目で明るい熱血漢を演じながら、彼は腹の底でクシエリスルを乗っ取る機会を伺い続けていたのだ。
アフラムシカの枷も、いざというときに彼が力ずくで対処できないように弱らせるためだったのだろう。
思えばドドは当初からアフラムシカへの罰則を強めるように働きかけていた気がする。
そうしてすべての計画を実行したドドは、もはや善良な仮面をつけている必要がなくなった。
今は改変直後で不安定な世界を落ち着かせようとするのに意識が集中しているだろうが、そのうちアンハナケウに眼を向けて、そこに囚われている神々を容赦なく食い潰していく。
そうなる前にカーシャ・カーイを彼に差し向けなければ。
そしてそれにはアフラムシカたちの協力が必要だ。
オヤシシコロは項垂れたまま、眠るパレッタの頬を撫でる。
神である彼には人間や獣のように血縁を結ぶ経験はないが、それでも彼ら風に表現するなら、パレッタは彼にとって娘や孫のような存在だった。
何の見返りもないままに慈しんで護ることが、静かな彼の喜びなのだ。
パレッタにドドの魔手が伸びることがないように、手を尽くすのも当たり前のこと。
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