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北の国 ハーシ

137 黄昏が近づいている

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 そろそろが近いことを、その神は肌で感じていた。

 永いことこれを待っていた。ようやく状況を変えることができる。
 つまらない立場に甘んじていた苦難の時は終わりを告げ、新しい時代が始まるのだ。

 初めはきっと、嵐になるだろう。

 抗う者もいるだろう。
 新時代の神にはそれくらいの障害がつきものだ。
 人間だって、見慣れぬ新しい宗教に関しては、まず否定と迫害を行うのが常なのだから。

 そうした面倒な手間を省くにもクシエリスルは都合がいい。
 ほんとうに彼はいいものを創ってくれた。

 彼──ヌダ・アフラムシカは。


 その日、世界のあちこちで、神々は思い思いに時をすごしていた。



 たとえば東の国では魚の神ペル・ヴィーラが、身を浸している河のせせらぎに混じる不可解な音を聞いた気がして、ゆっくりと水面から顔を出した。

 あたりは見渡すかぎり麗しいマヌルドの平原が続いていて、何もおかしなところなどない。
 果たして今のは単に小動物でも駆けていく足音だったのだろうか、あるいは平原を抜ける木枯らしだったか。

 だが、どちらにしても、どうしてそんなものを聞き間違えることがあるだろう。

 もう一度耳を澄ましてみる。
 だが、風の歌の他にヴィーラの耳に届くものはない。

 ヴィーラは首を傾げたが、それ以上考えるのも面倒だったので、彼はふたたび水底の泥に沈んだ。


 河の下流のほうではティルゼンカークというカワウソの神が、今日もヴィーラに頼まれた瑣末な作業に精を出していた。

 彼の目の前で、小魚が跳ねた。
 それくらいは見慣れた光景だ。だが、その日は少しだけいつもと違った。

 魚の数が多いのだ。さっきからぴちゃぴちゃと、耳障りなほど水滴の音が鳴り止まない。
 なんだろうと水中を覗いてみるけれど、単に魚が泳いでいるのが見えるだけで、数が急に増えた理由まではわからなかった。

 産卵の時期でもないのにこんなにたくさん、魚たちはどこへ逃げようとしているのだろう。


 反対に上流のほうでは、キツネの神アルヴェムハルトが同じく頼まれ仕事を行っていた。

 彼の隣ではそれを手伝うでもないタヌキの女神ラグランネが寝そべっていて、涼しい秋の風が吹くたびに、彼女の柔らかい被毛をさらさらと撫でていった。
 なんだかんだで試験が終わってからも、ラグランネはアルヴェムハルトを頼る生活を続けそうな気配がある。

 ふいに彼らは顔を上げた。それから同時に空の彼方を見て、不思議そうに顔を見合わせた。

 その小さな違和感は、自分ひとりだったら気のせいだと流していただろう。
 そうでないことを互いの眼が証明している。

 でも、もう一度見上げた空にはやはり何もなくて、ふたりは揃って首を傾げた。


 たとえば中央の国では、ヒツジの女神ルーディーンが草原を歩いていた。彼女の足元では秋の野花が可憐に揺れている。

 秋晴れの爽やかな、とても気持ちのよい日だった。
 この国ではまだ冬は遠く、人里では深まる秋を楽しむ人々の賑やかな声がさざめいていて、今はルーディーンにとっても心の休まるよい季節だった。

 彼女はもともと農耕と牧畜を司る女神なので、一年を通してもっとも祈りと供物が増える時期でもある。
 豊かな実りに感謝する祭りの笛の音が、ルーディーンの鼓膜をくすぐる。

 ふいに足元で、枯葉がぱきりと音を立てて割れた。
 彼女はすぐそれに気がついた。硬い蹄に砕かれて、葉は粉々になっていた。


 草原を渡った先の西側では、シカの神ゲルメストラが瞑想していた。
 彼の角には、風に乗せられた人や精霊の声を拾い集める機能が備わっていて、心を静かに保てばそれらが絶えず流れ込んでくるのを感じるのだ。

 どこかで誰かが囁いている。

 ──終わりだ。呪われた民の旅は、今日で終いだ。
 ──いいや、これからが始まりだ。新しい旅の始まりだ。

 誰がそんな無責任なことを言っているのかはわからない。ただ、その声はワクサレアの外から届いたようだった。


 たとえば西の国では、異形の忌神主ガエムトがそわそわと砂漠を這い回っていた。
 落ち着きのない頭首の一挙手一投足に、しかし他の忌神はさして気にしたふうもなく、暇にあかせて砂粒の数などを数えていた。

 ハイエナの姿を持つ忌女神サイナは星を待っていた。彼女は砂より星を好むからだ。
 ワニの形をした忌神カジンは砂に身を埋めていた。すべての生きものは死んでも星になどなれず、砂になることを知っているからだ。

 彼らの傍らでは今日も獣の亡骸が朽ちてゆく。
 腐った果物のような匂いを吐き散らして、その身を獣と虫と、虫よりも小さな生き物に分け与えながら。

 最後に残った魂は、そこにいる忌神に捧げるのだ。


 そのころヤマネコの神フォレンケは、なんともいえない焦燥に駆られて山を駆け上っていた。
 あまり意味はないかもしれないが、高いところに昇ってあたりを見回せば、この居心地悪さの理由がわかるような気がしたのだ。

 果たして空は近づいたが、答えは見えなかった。周りは見慣れた砂漠と荒地ばかりで、普段と違うようなものは何ひとつないし、これからやってくるとも思えない。
 しばらく耳と尻尾をぴくぴくやって辺りを伺ってはみたものの、やっぱり何が起きているのかはわからなかった。

 思い違いだろうか。
 それとも、最後の試験が終わったという知らせを聞いたせいなのだろうか。


 一方西の果てではサソリの神オーファトが、今日も今日とて両手の鋏を振るっている。

 彼は武芸と刑罰を司る神だ。毎年この時期のヴレンデールでは、各地で武術に関する大会が開かれているので、彼にとってはいちばん忙しい季節でもある。
 開会の儀で必ず行われるオーファトへの祈念を漏らさず聞き、武芸に励む人間たちに激励を送らねばならない。

 けれども今年は少し例年と違った。
 強者となることを求めて切磋琢磨する人間たちの想いに混じり、異質なものがオーファトのところへ流れ込んでいた。

 あまりにかすかなので聞き取れなかったのだが、もしかするとそれは、誰かへの呪詛だったのかもしれない。


 たとえば北の国の西のはずれでは、オオカミの神カーシャ・カーイが落胆する呪われた民の少女を眺めていた。
 同時にその手の内にはアルヴェムハルトから預かった結界が握られており、その中にはふたつの人影が、静かに緑に包まれている。

 彼はこれからのことを考えている。

 幸いにして、季節はもうじき冬になろうとしていた。カーイにとっては冬こそもっとも動きやすくなる最適な時節なのだ。
 できれば雪が降り始めてからを始めたかったが、思ったより早く嵐が来るようだ。

 しかし、腹は充分すぎるほど空いている。今ならいくらでも食べられる。
 ……そう、それこそ、大陸じゅうのすべての神でも。


 北の果てに至っては、アニェムイはのんびりと釣りを楽しんでいた。
 シロクマの姿で魚を追うのも悪くはないが、あえて人の姿に身をやつし、釣り糸の震えを日がな一日待ちぼうけてすごすのも、贅沢な生きかただと思っている。
 それに釣りができるのは今のうちだ。アニェムイの領域でもっとも南にある湾でさえ、あと数日で海が凍って何もできなくなる。

 それは同時に、海の神々との繋がりを強制的に絶たれるということでもある。

 海岸に暮らす大陸の神ならば、よほどのことがなければ彼らと挨拶くらいは交わすし、利害が合うなら親しくすることもできる。
 大洋の抱える豊かな恵みを享受できることを思えば、大陸にとっては利のほうが断然多い。 

 それを失うのは少々痛手だ。
 次の夏が来るまでの間、しばらく寂しくなるなあと、アニェムイは小さく笑った。


 そこから山脈を越えて東の地では、天を突くほどに巨大な老木は、従者のスズメとともに穏やかな時間をすごしていた。

 根を通じて世界中の事象が手に取るようにわかる。
 今から世界に起きようとしている変事について、オヤシシコロカムラギが感知していないはずはない。

 しかし彼はそれをパレッタ・パレッタ・パレッタに伝えることはしなかった。
 敵を欺くにはまず味方からとはよく言う。しかし、自分のために、ただ身内を騙すのはどうだろう。

 何も知らずにオヤシシコロの枝で羽根を休めるパレッタは、すべてが露見したとき、これからオヤシシコロがすることを許すだろうか。

 わからない。ただひとつ言えるのは、自分は永く生きすぎたということだけだ。
 あまりにも永く、生きすぎた。


 そのころ南の国では、ヒヒの神ドドが果物を齧っていた。
 この季節は何を食っても美味い。しかも今だけでなく、これからもっと美味くなるものもたくさんある。
 南の海は凍らずに、北から丸々太って脂ののった魚が流れてくるし、一部の果物は今の内に採取してしばらく放置したほうがより甘くなるのだ。

 これで隣に美女がいたらほんとうに言うことなしなのだが、その点において現実は少し味気ない。

 しかし、やはりいい季節だ。これから誰もが人肌恋しくなるのだから。
 それはきっと、あの生真面目なルーディーンや堅物のヴニェク・スーでさえそうで、彼女らを口説くなら夏より冬が狙い目である。

 もちろんだからといって成功するとは神でさえも断言はできない。
 なんにしろ、行動するのが大切である。


 夕陽の滲む浜辺では、トカゲの神がまったりと昼寝をしている。
 もちろんもう夕方なのだが、ヤッティゴはたいへんに大らかな性格なので、そのあたりは頓着していない。
 おやつのコオロギを齧ったらそのまま夜の就寝になだれ込むことさえ珍しくないのである。

 ちなみに彼は農耕に関する神であったりする。実りの豊かさそのものよりも、作物を荒らす害虫を食べてくれるトカゲの姿をしていることで、生産の助けになるという意味合いだ。
 そんなわけでヤッティゴに感謝を捧げる祭りも開かれたりしていたが、それも数日前の話であり、今の彼はとても暇だった。

 でも、暇なのは良いことだ、とヤッティゴ自身は思っている。
 なぜならそれこそが平和の証であるからだ。


 のんびりしている他の神々と違い、南西部の山岳地帯にいるハヤブサの女神は今日もぴりぴりとすごしていた。
 別に何か気に入らないことがあったわけではないが、ヴニェク・スーは生来の気性として、だらだらと暮らすことを好しとしないのだ。常に背筋を伸ばしているほうが彼女にとっては楽なのである。

 それに風を輩とする彼女にも、やはり迫る不穏の匂いは届いていた。

 どこかで血が流れるような気がする。
 しかし猛禽の嗅覚を以てしても、それがいつどこで起こる惨事なのかまではわからなかった。
 むしろ、世界中からその気配は漂っている。

 ヴニェクは顔を覆う布帯の上から、自分の眼球に触れた。そこにじりじりと熱を持っていた。



 そして、ヌダ・アフラムシカは、ただその時を待っていた。

 ずっと待つしかできなかったが、それもようやく今日で終わるのだ。
 神にとっては一瞬にも等しい、ほんの数年間のことだったが、アフラムシカにとっては永遠のように永く感ぜられた。

 これでやっと、やっとララキを、ほんとうの意味で救うことができる。

 感慨深く、静かに息を吐く。

 どうにか今日まで持ちこたえられてよかった。
 さすがにクシエリスルの連中がそう易々と自分を見捨てることはないだろうとは思っていたが、いろいろ予定外の事件が起きすぎたせいで、思った以上に自分自身が消耗してしまったので、よもやほんとうに消えはしまいかと思ったときもある。

 そんな自分を支えてくれた、癪だが相棒と呼べる存在は、今も隣で嫌な笑みを浮かべている。
 鳥──いや、鳥に似た旧い獣の姿をしたその神は、意味もないのに尾羽の手入れなんてしながら、明日の話をしている。

 未来の話をすれば鬼神が笑うとはいうが、この世界の鬼とは一体誰のことだろう。

 ……ああ、俺こそがそうだと、アフラムシカは自嘲した。
 大きな目的のためとはいえ、あまりにも多くの者を欺いてしまった。

 とくにララキには可哀想なことをした。そして、これからまだ少し彼女を苦しめかねない。

「ふふ、大盟主どの。そう暗い顔をなされるな。あれのことなら私が守りますよ」
「……だめだ。おまえが関心を持つのは器だけだろう」
「器も中身も同じことでしょうて。しかしまァ、単なる人間の娘によくもそれほど執心できたものですな」
「誰のせいだと?」

 タヌマン・クリャはくつくつ笑って、そのたびに羽根がぱさぱさと音を立てる。

 ここは狭い。本来なら神を二柱も詰め込んでおけるような場所ではないのに、無理やり居座っているからだ。

 外神の本体は、それだけは絶対に失われることがあってはいけないからと、こんな場所に秘匿されている。

 考えるのもおぞましい、悪魔のような発想による隠し場所に。

「でも、そうした私の努力があってこそ、こうしてあなたはにいる。私とだけは口が利ける」
「……それは、まあ、感謝はしているが」
「わかりますよ。じっと隠れ潜んでいるだけで、外のあなたはろくに動けない。さぞ歯がゆく口惜しいことでしょうな……かといってものを頼めるのは同じく不自由な私だけ、他の神に助けを求めることもできないとあっては」

 今ほど自分の立場が腹立たしいこともないぞと言ってやりたかったが、堪えた。

 この状況を作り出したのも自分自身、こうなることをわかっていてあの日、あえて枷を受けたのだ。
 今さら文句は言うまい。

 それにこの生活ももう終わるのだ。
 そうしたら、すべてが変わる。

 裏切り者の存在とその企みを知っていて、今までほとんど手を打つことができないでいた。

 頼みの綱であるタヌマン・クリャは、そいつを利用して自己の補填を行いはしても、正面切ってその陰謀に立ち向かうことはしない。
 そこまではさすがに頼めない。
 クシエリスルからわざと外れて孤独の道を進ませたのは、内部からの崩壊に対処するための施策ではあったが、相手のほうが一枚上手だった。

 ならば自分が戦うしかないのだ。

 ララキを護る。
 同時に世界も護る。
 他のすべての神と精霊と、人と、獣を護る。

 何一つ取り零すことは許されないという重圧を己に課し、やり遂げる覚悟はずっと昔に決めた。
 それがクシエリスルの盟主として必要なものだと、アフラムシカは思っている。

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