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北の国 ハーシ

116 古びた悪夢

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 すっかり飛ぶのにも慣れてしまった。
 飛んでいく光を見失わないようにできるだけ速度を上げていく。

 光は山を越え、雑木林の上も跳び越して、そしてララキにも見覚えのある場所でぴたりと止まった。

 山頂に巨大な岩が積み上げられているという奇妙な光景。
 どう見てもカムシャール巨石遺跡──ララキがこの旅を始めていちばん最初に訪れた場所である。

 ……ということは、地理的に考えるとさっきの街は首都ハブルサだったことになる。

 ともかくララキも遺跡の目前で急停止した。

 遺跡の上空にはヴニェク・スーの姿もあった。
 彼女の目前で止まった光は、やがてゆるりと崩れてライオンの姿になった。

 ララキは叫びそうになりながら駆け寄る。

「シッカ!」

 できるなら、抱きつきたかった。
 ふかふかの鬣に顔を埋めて、頬を摺り寄せて、会いたかったと伝えたい。

 だが、ララキの手はシッカをすり抜けた。それにシッカもヴニェクも何の反応も示さなかった。
 人々と同じように、ララキの存在は彼らにも見えないし触れられないのだろう。

 がっかりするララキのことなど露知らず、シッカが口を開く。

『……進捗を確認しに来た。今はどうなっている』
『わたしの管轄地域においては下準備がすべて終わっているぞ、ヌダ・アフラムシカ。あとは何をすればいい?』
『相変わらず仕事が早いな。助かる。手が空いているならヤッティゴを見てやってくれ』
『任せろ。ところで他の地域はどうなってる? まだ説得も済んでいないようなところもあるんだろう』
『それは各所の盟主に一任している。西と中央はしばらくかかりそうだな』

 ああ、久しぶりに聞くシッカの声だ。

 泣きそうになりながら音のひとつひとつを噛み締める。
 今までは夢の中ですらほとんど喋ってくれなかったのに、こんな夢なら毎日見たい。

 それにしてもヴニェクの対応が友好的というか、なんだか笑っているようにすら聞こえる。

 彼女でもこんなに明るく受け答えをすることがあるのか。
 少し意外だったが、神同士ならこんなものなのかもしれない。このころはまだシッカも他のクシエリスルの神々の不興を買ってはいないわけだし。

 それにララキは呪われた民で、ヴニェクにとっては敵のようなものだ。
 冷たく対応されても仕方がない。

『……ヴニェク』
『なんだ?』
『いや……少し意外だった。おまえではなくドドを盟主にすると言ったら、きっと怒るだろうと思っていたんだ』
『何かと思えばそんなことか』

 ヴニェクは片翼を広げて、驚くほど穏やかな声音で答える。

『わたしは別に盟主なんぞというものになりたいとは思わない。それに、ドドの阿呆こそ、そういう責任のある立場にでも押し込めてやらないとな。これで少しは大人しくなるといいんだが』
『そうか。……おまえを補佐に選んで正解だった』

 そう言うと、シッカは少し微笑んだ。
 ヴニェクも、こちらは相変わらず顔を布で覆っているけれども、なんとなく纏っている空気が和らいだような気がした。

 そんなふたりを見て、なぜかララキの胸はちくりと痛んだ。

 よくよく考えたらシッカが女の人と話しているところなんてママさん以外で初めて見た。
 彼も長いことこの大陸で神として生きているのだから、そりゃあ女神の知り合いだってたくさんいるだろう。

 シッカくらい素敵なら彼に想いを寄せる女神がいてもぜんぜんおかしくない。
 だが、今までそんなこと、考えてもみなかった。だからこれは恥ずかしながら初めての嫉妬だ。

 まさかヴニェク相手にこんな気持ちになる日が来ようとは思ってもみなかったが、でも、ヴニェクの態度はあまりにもララキの知っている姿と違いすぎる。
 もしかしなくてもヴニェクってシッカのことが好きなんじゃないか、と思っても無理はないほどに。

 いや、だがしかし、これは単なるララキの夢だ。そのはずだ。
 しかしそれにしても……夢ってこんなに嫌な気持ちになるものだったっけ……?

 困惑するララキをよそに、ふたたびシッカはどこかへ行く。
 慌ててそのあとを追いかける。

 行き先はずっと南のほうだ。
 他の神に会いに行くのだろうか。また山を越え、密林を越え、乾いた平原を渡り、また果てしなく広がる密林へと辿り着く。
 ここはどこだろうとララキがきょろきょろしていると、シッカは密林の中へと下りていく。

 着いていくと、そこに神殿らしい古びた建造物があった。やはり石を積んで造られている簡素なものだ。
 しかしその形状などに見覚えはなく、街などと違って時とともに変化するようなものでもないだろうから、今度はほんとうに知らない遺跡だと思いながらシッカに続いてその前に下りる。

 神殿の前面には石造りの階段があり、頂上にまで続いている。
 あまり人が出入りしていないのか、あちこち苔むして雑草が生え伸び、なかなか荒れているようすだ。

 なんだか雰囲気がララキを閉じ込めた結界に似ているような気がして、ララキはできるだけシッカの傍に行った。
 今の彼にはララキが見えないし、声も聞こえないだろうけれど、ともかく近くにいたい。それだけで安心できるから。

 シッカは遺跡を見据えながら、そこにいるのであろう神の名を呼ぶ。

『……タヌマン・クリャ』

 思いも寄らぬ名前が出てきたのでララキも自分の耳を疑った。
 絶対に聞き間違いだろうと思った。

 しかし、遺跡の中から現れたのは間違いようもなくあの煌びやかな鳥の神で、彼はシッカを見るなり翼を広げ、まるで貴婦人がスカートの裾を摘んで恭しくお辞儀をするような仕草を見せた。

『これはこれは、大盟主殿。御用ならこちらからまかりこしたものを』
『その呼びかたはよせ。クシエリスルの内では神に上下も貴賎もないのだから。……それより、おまえにひとつ、頼みたいことがある』
『はい、何なりとお伺いいたしましょう』

 これまた意外なことに、クリャのシッカに対する態度も随分と温和なものだった。というか随分下手に出ているようにも思える。
 媚びている、というと悪いように聞こえるが、案外ちゃんとシッカを立てているようなのだ。

 しかし、おかしい。

 シッカの口からはクシエリスルという単語が出た。
 さきほどのヴニェクとの会話もそうだし、ここはもうクシエリスル合意が成されたあとの世界のようなのだ。
 つまりタヌマン・クリャはとっくにすべての神の敵となっているはず。

 それなのにどうしてシッカとこんなに穏やかに会話をしているのだろう。ほんとうならヴニェクたちを引き連れてクリャを襲撃していてもおかしくはない状況ではないのか。

 しかしそんなララキの疑問を、さらにめちゃくちゃに混乱させるような言葉が、シッカの口から出てきた。

『クシエリスルを抜けてくれ』

 ララキは唖然としたが、クリャは笑った。
 羽を震わせてけらけらけらけら笑ってから、シッカが真面目な顔で自分を見つめているのに気づき、さっと姿勢を正す。

『……どういうことですかな?』
『完全に無欠なものなど存在しえない、ということだ』
『いや、理由はお察ししますとも。なぜそれが私なのかと問うているのですよ。まだワクサレアやヴレンデールにいくらでも反乱分子が残っているでしょうに』
『それでは遠すぎる。ルーディーンもフォレンケも優秀だが、そこまで負わせるわけにはいかない』
『はあ……ふふ、ふふふふ。そうですか。それでヴニェクでもヤッティゴでもなく私を選ぶのはまた、なぜに?』
『おまえの強さを認めるからだ』

 その言葉にまたしてもクリャは噴出した。そして、笑いを噛み殺しながらこう答えた。

『正直に仰りたまえ。ヴニェクには汚れ役をさせたくない、とな』
『……まあ、それも否定はしないが』
『ふふふ。戯言はさておき──承知した。むろん、必要な手筈は貴方が整えて下さるのだろうな』

 シッカは頷き、そして、世界がぐにゃりと歪む。

 地に足をつけていたはずのララキはまた空中に投げ出されたようになり、でも周りはすべて真っ黒などろどろの空で、いつか結界の中から見上げたそれによく似ていた。
 どす黒い雨雲に呑まれながら、ララキの心は同じくらいひどい色に塗り尽くされていた。

 変な夢だと思ったけれど、やっぱりこれは夢じゃない。直感的にそう思う。

 でも、どうして?

 きっとこれはクシエリスル合意がなされたすぐ後のイキエスで実際に交わされた会話だ。
 シッカはヴニェクを信頼していたし、クシエリスルという新しい仕組みを作るためにあちこち飛び回って忙しくしていたのだろう。
 それはいい。
 タヌマン・クリャとの会話の意味がさっぱりわからない。

 ほんとうは、最初はクリャもクシエリスルに加わっていたのだろうか?
 それをシッカが何かの理由をつけて追い出したということなのだろうか?
 その理由もクリャはわかっていたようだし了承していたようだったが、どうしてそんなことをしなくちゃいけなかったんだろう?

 ヴニェクに汚れ役をさせたくない、って、つまりそれだけ彼女が大切だったってことだろうか?
 もしかしてシッカとヴニェクはそういう仲だったの?

 そんな話、聞いたことない。

 ララキの内側で何かが砕けるような音がした。
 だってここまで旅をしてきたのは、たまに死にそうな目に遭ったり周りの人たちを傷つけてしまってまで歩き続けたのは、すべてシッカのためだったのに。

 ──じゃあ、あたしってシッカの何だったの?

 独り善がりだったわけじゃない、ララキの愛の表明に、シッカも応えてくれていた。
 そのはずだった。
 そう思っていた。

 なのにこれでは、まるでララキがひとりで勝手に舞い上がっていただけみたいではないか。

 クリャのことで頭の中はとっくにぐちゃぐちゃに混乱しているのに、そこにひどい嫉妬の感情が混ざって、もう自分でも見たくないくらいおぞましい色になっていく。

 先ほど聞いたクリャの笑い声が耳の奥にまだこびりついている。今はそれがララキのことを嗤っているように思えてならなかった。
 ああ、クリャこそララキの人生をめちゃくちゃにした張本人だろうに、そのうえララキを嘲るのか。

 腹立たしくて、悲しくて、寂しくて、気持ちが悪くて、頭が痛い。

 どうして。

 誰が。

 何のために。

「……あたしに……こんな夢を見せるの……?」

 そこで、眼が醒めた。


 どこにいるのかはわからなかった。
 周りを観察しようにも眼が涙でぐちゃぐちゃで、まともに前も見えやしない。
 手の甲でぐいとそれを拭ってから、ララキはゆっくりと身を起こした。なぜか身体がめちゃくちゃ痛かった。

 まだ寝起きのぼんやりした頭のまま、辺りをを見回す。
 とりあえず知っている場所ではないのは確かだ。

 ララキの寝かされていた布団も、壁掛けも、クッションも、吊るされているシャツの襟や袖や裾周りも、きれいな刺繍で覆われている。
 図柄の感じは南方のものではない。とりあえず手近な布団を観察したが、精緻な職人技の光るかなり手の込んだものだった。
 それが布団の全面に及んでいるのだからなかなかの大作だ。製作期間は年単位だろう。

 部屋は薄暗かったが、カーテンは空いている。外はあまりよい天気ではないらしい。
 空には銀色の雲が広がっている。
 起き上がって窓の外を眺めてみるが、物寂しい冬の森が広がっているだけで、とくにこの場所のヒントになりそうなものはない。

 だいぶ眼も醒めてきたところで、自分の置かれている状況を思い出してきた。

 ヴレンデールのサーリという町にいたはずだ。
 ララキを含めて四人の怪我人──正確にはロンショットさんも怪我人だったはずだが、程度がひどくなかったらしくてほとんど世話をする側に回っていたけど──がいて、寺院の広い部屋を借りて休んでいた。

 そこでいろいろあってララキがガエムトを呼んでしまい、殺されかけた。
 そこへフォレンケが助けに来てくれた。

 でも、そのときフォレンケが一緒に連れてきたのが、カーシャ・カーイというオオカミの神。

 そしてその神の顕現を見たあとからの記憶がない。
 たぶんカーシャ・カーイが何かしたのだろうが、果たしてここはヴレンデールではなさそうだし、ララキはどこに運ばれてしまったのだろう。

 それにミルンやスニエリタも一緒だろうか。まずはそれを確かめなくては。

「とにかくこの部屋を出よう」

 ララキが唯一の出口である扉に向かって手を伸ばしたときだった。
 扉のほうが先に開いたかと思うと、そこにかわいらしい女の子がひとり、立っていた。

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