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西の国 ヴレンデール

088 ふるさとは近くて遠い

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 ともかくフォレンケが突破を認めてくれたので、三人はそのままムナの町に返されることになった。

 案の定また結界の外では多めに時間が経っていたが、今回はとくに長かったらしく、一週間をすぎて十日あまりに及んでいた。
 いつものごとく荷物を置きっぱなしにしていた宿の人に謝り倒し、今回はお詫びとして建物をあちこち修繕するなどの労働も奉仕してから、三人はムナを出る。

 ちなみに今回は予め町についた時点で紋唱車を返却していた。よって延滞料金は発生していない。
 もう二度とあんな悲しい思い(主に預金通帳の残高表示を見たときの気持ち)を繰り返してはならない、というミルンの強い意志の表れである。
 ていうか毎度自分だけ損するのも癪だし。

 そんなわけで、もう周辺の地形が砂漠のような事実上野宿不可能な環境でもなくなってきたため、ここからは安価な馬車でのんびりと旅をすることにした。

 行き先は、議論のすえ北になった。
 イキエスに戻るには距離がありすぎるが、ハーシなら数日で国境まで行ける。

 問題があるとすれば、前にミルンも話していたとおり西ハーシはほぼカーシャ・カーイの独壇場であるため、他の中堅の神による試験を受けられそうにないことである。
 そして彼はフォレンケと違って温厚とはいえない神だ。ララキとも面識がなく、もしかせずともこれまで以上に苛烈な試練が待ち構えている可能性がある。

 念のためララキがフォレンケと別れる前に「カーシャ・カーイって神さまによろしく伝えといてね」とは言っていたが、果たしてあのヤマネコがどれくらい役に立つかというと……うん。
 ちなみにそれに対するフォレンケの反応はというと、あからさまに苦笑した。
 でもって「まあ、あれだ、がんばれ」というまったく励みにならない励ましの言葉を頂戴した。

 そりゃそうだ、相手はフォレンケより確実に格上のカーシャ・カーイだし、その神は他の盟主と比べても圧倒的に荒れた神話でお馴染みなのだ。

 ミルンもハーシ人として小さいころはよく神話をやさしい表現に直した絵本を読んで育ったものだが、子ども向けにしてなお『カーシャ・カーイは、ほかのかみのやしろを、なだれでこわしてしまいました』ってな具合だった。
 そのほかにも他信徒を集落単位で呑み込んだだの、他の神を氷漬けにしてからばりばり音を立てて噛み砕いただの、まあ乱暴なエピソードには事欠かない。

 そんな神に会いに行くのにスニエリタを連れて行くのは気が引けるが、最悪、彼女だけ試験から外して結界の外に待機してもらうしかない。
 きっと本人はすごく嫌がるだろうが、危険に晒すのはこちらも本意ではない。

 まあオーファトとカジンの試験でのようすを見るかぎり、だいぶ紋唱の腕はよくなってきている。
 一度も失敗していないのはもちろん、威力も改善されている。一瞬だけとはいえ人間ふたりを風で持ち上げられたことなど大したものだ。

 このぶんなら別れのときも近いだろうか、なんて考えてしまって、ミルンは外に眼をやった。

 さすがに馬車の歩みは遅い。荒涼とした平原がどこまでも続いていて、その向こうからいかにも冷たそうな音を鳴らして風が吹いている。
 この道をずっとまっすぐ進めば故郷にすら続いているのだ。

 長兄と妹は元気にしているだろうか。
 ロディルはちゃんと手紙を書いただろうか。

「ねーねーミルン」

 物思いに耽っていたらララキが話しかけてきた。手には地図を持っている。

「こっからこう行ってここで国境越えるんだよね」
「そうだよ。二日か三日かかるかな」
「いや越えてからの話なんだけどさあ、一回くらいミルンの故郷見てみたいんだよね。どのへん?」

 そんなことを言い出すような気は多少していたので驚かないが、その隣でスニエリタも頷いているのにはどきりとした。

 ともかく一応は受け取った地図上にその位置を示しつつ、ミルンはやや溜息混じりに、ミルンとしても大変に残念な現実を告げる。

 故郷ティレツヴァナは超を十個はつけていい田舎であること、ほんとうに冗談抜きに何もないこと、そしてそこへ向かうための交通機関がないどころか、道さえ未だに半分ほどしか整備されていないこと。
 族長を兄が継いで早一年、いやもう二年近くにもなるが、水ハーシ族は未だに劣悪な待遇を強いられていた。

 だからこそミルンもこうして旅に出ているようなものだ。
 ロディルのことはきっかけで、根本的な問題は部族全体に及んでいる。

「だから、まず地方都市から近い町まで行って、そこから基本的には徒歩だぞ。しかもこれから秋に入って、山のほうじゃ雪がちらつく日もある。この時期の野宿はきついぞ。とくにおまえは服装的に自殺行為だ」
「うわぁ……でも紋唱で火焚いてれば凍死はしないしさあ、上着着ればなんとか……」
「そりゃ死にはしねえけど、……そうまでして行きたいか?」
「行きたいっていうか、妹ちゃんの顔が見たい。かんざしの感想も聞きたいし。
 ね、スニエリタもそうだよね」
「はい、あの、かんざしの件はわたしは覚えていませんけど……ミルンさんにはほんとうにお世話になっているので、ぜひご家族の皆さんにもお礼を……」

 スニエリタはめちゃくちゃ真面目な顔でそう言ってから、あっと口に手を当てた。

「でも、カイさんに、帰るつもりはないとも仰ってましたね……ごめんなさい」

 そういえばそんな会話もしたな、と言われてから思い出したくらいだった。それに少し意味合いが違う。

 確かに帰らない、ハーシに行っても里には寄らない、というようなことを話した覚えはあるが、ミルンにだって久しぶりに家族の顔を見たい気持ちがないわけではない。

 だがもしミルンが戻ってきたのを見たら、妹は帰ってきたと思うだろう。
 また出かけると言えば引き止められるに決まっている。それが面倒だから寄らないほうがいいと思っているのだ。

 少なくともスニエリタに申し訳なく思われる必要はない。

「べつに行くのはいいんだよ。ただ、顔だけ見てすぐ出ようってわけにはいかないからな。道のこともあるし、もともと里の外から人が来ること自体滅多にないから、みんな大喜びして長居させようとするぞ。はっきり言って超しつこいから、この時期に行けば下手すると雪解けまで解放されない恐れも……」
「ああ、それがわかってるからめんどくさいって話ね」
「そういうことだ。おまえらがちゃんと断れるならいいけど」

 しかし、行くまでが大変だ。辿り着けたところで誰だって一息つきたくなるし、そんなときに温かい布団でもてなされたらなかなか動けなくなる。
 寒いでしょ、温かくなるまでいなよ、なんて言われたところで、温かくなるまでに何ヶ月かかるというのか。
 そうなる前に出ようとしても、ちょっと時期を逃せば道という道が雪に閉ざされて通行不可能に陥るのだ。

 それがまずいから、最低限必要な道路だけは雪に埋もれないように紋章を引いて整備させてくれ、というのが何年も前から国に対して訴えていることだ。
 そのための資金がないから国に出してもらうしかないのに、国費はいつも他の部族の大して緊急度が高くもない工事や事業に回されてしまう。

 かといって水ハーシに今のところまとまった金を作るだけの力はない。
 大半は自給自足に毛が生えた程度の農業と林業で自分たちを賄うのが精一杯だし、周りにたくさんある湖も凍らない時期にしか漁ができない。
 あとは女性たちがせっせと作っている工芸品を町で売るのがせいぜいだが、そもそも売りに行くのにまともな道がないので最初の問題に戻ってしまう。

 農作物や工芸品を運ぶのが楽になれば、今までより稼げるようになる。余裕ができたら他の事業を始めてもいい。
 道ができれば可能性が広がる、道さえ一年中使えるようになれば、里の観光地化だって進められるのだ。

 湖水地帯の景色のよさは水ハーシ族の誇りと言ってもいい。
 他の部族内でも、旅好きな術師の間では知られざる名所と呼ばれているらしいと聞く。

 だが、今の状態では腕の立つ旅慣れた紋唱術師でもなければ行きにくいので、里の人間以外にあの美しさを知る人間はごくわずかしかいない。

 だからこそ、今でも水ハーシ族は沼にいるなどと揶揄されてしまうのだ。
 あんなにきれいな湖があることを知らないからそんな言葉が出てくる。

 目の前のララキとスニエリタはすでに行く前提でおしゃべりを始めていた。
 これはもう連れて行く以外の選択肢は残されていなさそうだ、とミルンは軽く溜息をつく。

 せいぜい行って驚けばいい。自分たちが想像した以上の田舎だということや、想像以上に貧乏だということ、……想像以上に風光明媚であることにも。

 ふたりがどんな反応をするだろうかと思ったら、つい、笑みが浮かんでしまった。

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