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西の国 ヴレンデール

081 ウサギは微笑み、彼は背を向ける

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 遣獣業者はたいてい大きな組合に入っていて、一旦各地で捕獲された獣たちを一箇所に集め、そこで特性や性質ごとに分けてから、それぞれが最も需要があると思われる店舗に分配している。

 当然アウレアシノンの店なら軍人向けの個体が集められる。
 好戦的で気性が荒いもの、攻撃系の能力に優れたもの、あるいは厳しい規律を好むもの。そのほか特定の能力に特化していて、軍の特定の部隊で重宝されるようなもの。

 それらがスニエリタに合っているとは考えにくい。

 しかも厳しい父親が同伴だったのなら、とくに扱いの難しい個体に会わされていた可能性もある。
 将軍の娘なのだから、手強くとも能力の高いものを遣いこなせるだろう、そういうものを勧めるほうが将軍の覚えもよいだろう、と店の人間が考えるからだ。

 ただでさえ気弱なスニエリタが、人間を品定めするのに慣れた檻の中の猛獣と対峙したって、そりゃあ成功はしないだろう。
 獣は彼女の萎縮を見抜く。本心から望んでいないことも、彼女自身が契約できないと思っていることも伝わって、この娘には自分を扱うのは無理だろうと判断する……その場にいなくても容易に想像がつく。

 だいたいにして、店にいる獣とは戦う必要がない。予め捕獲されて檻に入れられているのだから。
 だから彼らにはわかるわけがないのだ、スニエリタがどんなにきれいな紋章を描けるのかも、それを行う彼女がどんなに美しいのかも。

 スニエリタは、今、必死でウサギと戦っている。
 幾つも紋章を描いて、何度も招言詩を唱えて、それがほんの少しでもウサギを足止めする力にならないかと、試行錯誤を重ねている。

 その後姿を見ながら、ミルンは思っていた。もしかしたらこの姿に惹かれたのかもしれない。
 フィナナのクラブでひどい負けかたをしたあの日に、紋唱を行うスニエリタの凛とした姿に、もしかして見とれてしまったのかもしれない。

 今のスニエリタにあのときのような迫力はないけれど、根源は同じはずだ。
 タヌマン・クリャが彼女を人形に選んだのには理由があるはずだ。

 誰でもいいのなら、ララキのいたイキエスとは違う国の、しかも行方不明になったら絶対に捜索されるような立場の娘を選ぶ必要はない。
 貧民街の隅で燻っている身寄りのない孤児とか、もっと後腐れのない人材がいくらでもいる。
 自殺未遂をしたことで乗っ取りやすくなったのかもしれないが、毎日世界中で何人も死んでいる。

 紋唱術の素養があって、なおかつララキに頼られ信頼を得られる程度の実力があること、それが条件だったのではないか。
 そもそもあのとき使っていた術と同じものをスニエリタは今でも使える。両手描きの技法も身につけている。
 彼女が持ち得なかった技能など、一度も披露してはいなかった。

 だから今のスニエリタにもできる。同じことが、できるようになる。

 ミルンはそれを信じているから、今は敢えてこれ以上の手助けはしない。
 それに獣を捕らえるのは自分でやったほうがいい。

「くっ……」
「スニエリタ、ずっと同じ術に相手が慣れてきたら、一度術を変えてみろ。そこで対応が遅れるのを狙え」
「はい、──嵐華の紋!」

 横風から、上に吹き上げる縦の風。かつてミルンを苦しめた組み合わせだ。

 まだまだ人間を持ち上げるほどの威力はないが、相手は小さくて軽いウサギだ、問題はない。
 今までと違う風の向きに驚いてウサギが体勢を崩した、その瞬間。

「かっ──割葉の紋っ!」

 逆に上から下へ、急激に風が吹き下ろされてウサギを押さえつける。
 紋章が薄らぎ、暴れ蔦がふっと消えたのを見て、スニエリタはそ飛び込んだ。 

 彼女はしっかりとウサギを抱き締めると、続けて契約の紋唱を行う。

「せ……星光を湛えます大河の君、ペル・ヴィーラの名において命じます。あなたの紋章を映しなさい……そして、如何なるときもわたしの言葉を聞き、わたしの意思に応えるように……遣獣としての契約を結び、ここにあなたの名を明かしなさい……!」

 ウサギはしばらくスニエリタの腕の中でもぞもぞしていた。小さな脚でシャツの胸元を引っ掻いて、まだ逃げる気を失ってはいない。
 スニエリタはじっとそれに耐えながらウサギの答えを待つ。

 しかしウサギが強力な後ろ足で腹部を蹴ると、あっと呻いて手を離してしまった。
 急所にでも入ってしまったのかと思ったが、それよりずっと低いところを抑えながら、声にならない悲鳴を上げて蹲る。なぜか異常に痛そうにしている。

 ミルンはすぐさま駆け寄ろうとして、なぜかウサギがその場から離れようとしないことに気づいた。

 ウサギは彼女から飛び降りたところで立ち止まり、しかもそのままスニエリタのほうを振り返って、じっとようすを伺っているように見える。状況を探ろうとしているのか、鼻先がひくひく動いている。
 たぶんこのウサギは、スニエリタのことを心配しているのだ。

 ミルンはウサギの頭上に紋章のきらめきを見た。ウサギは前脚をちょっと伸ばして、スニエリタに尋ねた。
 ──大丈夫ですか?

「え……?」
『ごめんなさい、強く蹴ってしまって……血の匂いがしますけど、怪我してるんですか? 治しますか?』
「あ、いいえ、これは違うの、……ところで、あの、どうしてあなたは人の言葉で話せるの?」
『言葉が通じないと困るので契約しました。あ、私の名はフランジェです』
「えっ、……え? いいんですか?
 わたし、強くもないし、上手でもないし、あなたのこと離してしまったのに、どうして契約を受けてくれたの?」

 スニエリタは困惑しながらウサギに尋ねる。すると、ウサギは言った。

『あなたがとっても一生懸命だったから……それに、私が蹴ったせいで怪我をしたのだったら困るので、それを確認したかったんですけど……』
「そ……それだけ?」
『はい。それにあなたの術は優しいものばかりでした。荒っぽい人は苦手ですけど、あなたはそうじゃなさそうだと思ったので。
 ……ところでほんとうに大丈夫なんですか? すごく痛そうでしたよ、お腹』
「大丈夫です、ありがとう……あ、あり、がと……っ」
『え、え、なんで泣き出すんですか!? やっぱり痛むんですね!? ──きゃっ』

 今度はウサギのほうが困惑したが、スニエリタはそれ以上何も言わずに彼女を抱き締めた。

 フランジェと名乗ったウサギはしばらく腕の中であわあわしていたが、途中で意見を求めるようにミルンのほうを見てきたので、とりあえず頷いておいた。嬉し涙だから心配いらない、という意味を込めて。
 通じたかどうかはわからないが。
 そしてとりあえず不要になった壁を消しながら、スニエリタが泣きやむのを待った。

 スニエリタとフランジェは招言詩を決めて一旦別れる。
 ぴょこぴょこと走り去っていくウサギの後姿を、スニエリタは名残惜しそうに最後まで見送ってから、ようやくミルンのところに戻ってきた。泣き腫らした眼だが、表情は明るい。

 よかったな、と言うと、こくりと頷く。ミルンも頷き返して、スニエリタの頭にぽんと手を置いた。

 置いて、気づいた。無意識に頭を撫でようとしていることに。
 弁解させてもらうなら完全に妹に対する感じでやってしまっているのだが、他意はないのだが、気づいてしまうとそれ以上何もできなくなってしまった。
 無駄に数秒固まってから、どうしようもなくなって手を下ろす。

 スニエリタはきょとんとしているが、それは撫でようとしたことではなく、手を下ろしたことに対してらしかった。

 ララキの言葉が脳裏によぎる。
 ──どうでもいい男に頭を撫でられてあんな顔はしません!

 あんな顔ってどんな顔だよ、とそのときは思ったが、今となってはその表情を確かめる勇気はミルンにはない。
 よくわからないが、……確かにスニエリタに嫌がられたと思ったことはなかった。たぶん。
 撫でる行為自体をまったく意識せずにやっていたので、いちいち確かめていたわけではないが、さすがに拒絶されたら気づくと思……いたい。

 それに今気づいたが、ララキにはやった覚えが一度たりともない。
 無意識だったわりにしっかりミルンの中で線引きがされている。そりゃあララキに気づかれるはずである。

「あの、……ミルンさん?」
「ああ、いや、その、がんばったな」
「すべてミルンさんのおかげです。ありがとうございますっ」

 こちらの気など知らないスニエリタの笑顔が眩しい。それを見てまた胸の奥がぎりぎりと痛むが、今度はミルンはその意味を間違えることはなかった。

 込み上げてきた感情でいっぱいになって、それが胸を内側から押し上げているから、それで苦しいのだ。
 肺が潰れそうになっているから、もう息をすることさえしんどい。
 手が震える。目の前のそれに触れたくてわななく指を、ぐっと握りこんで抑える。

「……戻るか。けっこう待たせちまってる」

 そう言って顔を逸らした。自分が今どんな顔をしているのか、何かが滲んでしまっていないかと不安になったからだ。

 ララキはああ言うが、簡単なことではない。限りなく不可能に近い。
 できもしないことを声に出して宣言できるほどミルンは向こう見ずではないし、それに自分の一方的な感情でスニエリタを振り回すわけにはいかない。

 だからこの気持ちは伝えないし、知られないようにする。

 改めてそう思った。これからは迂闊に触れないようにもっと気をつけよう。

 紋唱車のところまで戻ると、ずっと待たされていたララキがスニエリタの顔を見て、ぱっと笑った。聞かなくても成功したとわかるくらい笑顔だからだ。
 その後、ふたりは座席で延々とウサギの話をしていた。

 ミルンはその声だけ聞いて、ああこの距離がちょうどいいな、と思っていた。

 姿が見えなくても、楽しそうな声がする。スニエリタが笑顔でいることが伝わってくる。

 それだけで満たされる気がすると、自分に言い聞かせているだけかもしれないが、今のミルンにはそれが精一杯だった。

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