背守り

佐藤たま

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「当たり前は当たり前じゃない」ってことを知るのはいつだって後なんだから仕方ない

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 『タ~ララ ラ~ラ ラ~ラララ』
 誰かのヒット曲よりも耳馴染みのあるメロディが、裏庭にある縦型洗濯機から流れてくる。
 まだ布団が片付けられていない畳部屋を通り抜け、サッシ窓を開け、便所サンダルをつっかけ、裏庭に出た。
 当たり前にある空気が窓を開けたことで、存在感をアピールしてくる。
 ひやっとした冷たい空気が、起きぬけでまだ温かかった頬を撫でる。春とはいえ東京の4月はまだまだ朝は寒い。
 三和土には便所サンダルがもう一足置かれている。
 このサンダルはタカヒロが気に入って使っていたものだ。

「なぁ、七海。これ買おうよ。俺のとおまえのとふたつ。」
 ホームセンターの棚に置かれている茶色のサンダルをタカヒロが指さして言う。
「えー? それ便所サンダルじゃん? 私もそれ使うの?」
「何言ってんだ? 今どきのサンダルってさ、底がうつわ状になってるから、雨が降ると靴底に雨水が溜まるんだよ。その点、この便所サンダルは雨水が溜まらない構造になっているから、裏庭に置くのには完璧なんだ」と力説している。
 結局、私の物も買うときかないので、渋々了承し私の分も買ったやつだ。

 履かれていない方の茶色の塩ビ素材のサンダルを見つめる。

「しかし便所サンダルって、自分で言っておいてなんだけど、ひどいネーミングだな」
 便所で使うサンダルだから便所サンダル…なんとひねりのないネーミングなんだろう。
 うちの場合だと、裏庭で履くお揃いのサンダルなのだから名づけるとしたら「裏庭お揃いサンダル」が正解なのかな?

 昔、便所コオロギと呼んでいた虫がいた。
 田舎の家の風呂場によく出る便所コオロギもそのルールに乗っとったネーミングだ。
 「便所に出るコオロギで便所コオロギ。なんてひどいネーミングだ」
 その当初、うちではお風呂場に出没したから、本来なら「お風呂コオロギ」でもいいのかもしれない。
 まんまるの胴体に折れ曲がった長い足が特徴のコオロギだ。

「あいつ嫌いだったなぁ。出没するのがお風呂場で、こっちが無防備な裸の状態での時に現れる。逃げるに逃げられない環境になんの前触れもなく出没する。それが子ども心になお恐ろしかったんだよな」
「はぁ~、これから虫の季節がやってくるというのに、どうしたらいいんだろう? お風呂コオロギじゃなくても虫全般、絶対に触れない。でも、入りこんできた虫を殺したり逃したりしないと言うことは、暮らしを共にすることだ。同居は勘弁してほしい」

 私にとってのお風呂コオロギの本名(??)はカマドウマという。
 カマドウマなんて呼んだことはないし、そもそも東京で、彼らをあまりお目にかかったことがない。

 ひとしきり、居場所+種類のネーミングについて思考したあとで、ため息をひとつ吐いた。
 これからやって来る虫の季節。自分ひとりで乗り切れるのか恐怖を感じつつ、洗い上がった洗濯物を取り出す。

 洗濯物を干しながら、キッチンで朝ご飯を食べている、ねねにひと声かける。

「パン食べてる?」
「うん…」
 返事は返ってくるものの、見た感じでは、だらだら食べを決めこみ、3個パックのヨーグルトのカップを片手にテレビを見ている。
 
 視線をねねから空に向け洗濯物を外に干しはじめたものの、このまま干して出かけてもいいのか悩むような雲ゆきだ。
 一見晴れてるのか曇っているのか、よくわからない色をしている空に話しかける。
「あなたの名前は晴れさんですか、曇りさんですか?」
 当然、空からの返事はなく、さらに言えば、

「この時期に雨が降るのを菜種梅雨と言って…」と、以前はあったタカヒロお得意のお天気ウンチクも聞こえてこない。

 だらだら食べのねねさん頼みしかない。

「ねね、テレビのチャンネルをニュースに変えて、今日のお天気見てくれる?」
 ねねがこっちを見てから、リモコンでチャンネルを変えてくれているのが見える。
「お天気マークの東京のところ傘のマークついてる?」
「あ、そうだ。東京って分かる?」
 慌ててそうつけ足すと、
 ねねはガタッと椅子を鳴らして、
「私、とうきょうって読めるよ」
「東京には傘マークついてない。お日様と雲」と、さっきまでのぼんやりした雰囲気から一転して自信満々で天気を伝えてくれた。
「そっか、ありがとう。じゃあお洗濯物は外に干していこう」

 私が知らない社会がねねにもあって、年を重ねるごとに、私の知らないねねがひとつずつ増えてくる。これからどんどんその割合が増えていくのだろうなと思った。
 
 「お洗濯干したら区役所にお出かけするから、朝ご飯食べちゃってね」
「はーい」
 ふたりきりの会話のあと部屋に戻り、鉄瓶に水道から水を汲んでお湯を沸かしはじめる。
 タカヒロのマグカップと自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯が沸くのを待つ。

 丸いシルエットの鉄瓶は、縦線の模様がいくつもは入ったちょっとオシャレなデザインのもので、私がねねを産んだ時にタカヒロがプレゼントしてくれたものだ。これは私のお気に入りのキッチン道具のひとつだ。

「なぁ、七海。これでお湯を沸かすと鉄分が摂れるからいいんだって」と、退院して家に戻ったときに、タカヒロから渡されたものだ。
「帝王切開の手術のとき、看護師さんが手術室から走って出てきて、奥さんが輸血を拒否されてます。何か理由がおありだったでしょうか?って言われたのには驚いたよ」

「看護師さんもまさか、目の前の妊婦の趣味が献血だとは思わなかっただろうな。やっぱ七海は変だ」と、タカヒロがこちらを呆れた顔で眺めていた。

 輸血を受けると、その後は献血ができなくなると聞いていたので、ぼんやりした頭のなかで、私はつい拒否してしまっただけだ。それが大騒ぎになってしまい、
「問答無用で輸血をしてやってくれ」と、タカヒロが看護師さんに伝え、私の命は助かったという顛末なのだが、次に目が覚めた時には、私はルーティンにしていた献血ができなくなってしまっていた。

 ぐつぐつとお湯が沸き、辺りにお湯が噴きこぼれている音がキッチンから聞こえてくる。
 慌てて火を止めに走り、鉄瓶のお湯をマグカップの茶色く着いている茶渋の線まで注ぐ。そこまで注ぐとピッタリ140ccなのだ。

 四段の木製引き出しの上に飾られている遺影の前に淹れたてのコーヒーを置き、手を合わせる。
 遺影といっても小さな写真立てで、まだ独身時代に旅行先で撮ったのであろう写真が飾られているだけのものだ。
 結婚してからの写真でタカヒロひとりで写っているものは一枚もなく、彼の独身時代からのアルバムから剥がして飾っているのだ。

 彼が突然亡くなってまだ一か月と少ししか経っていない。

 ねねの髪をふたつ結びにまとめてやり、テーブルの上の鏡の隅に映る自分の髪もついでに梳かす。
 なんだか、この一カ月で十歳は老け込んだんじゃないかな? 自分の顔が自分に見えない。前に入院した叔母さんお見舞いに行ったことがあるけれど、鏡に映る私は、あの時の叔母さんにそっくりだ
 。
 壁掛けの時計が8時半を指しているのを確認して、ねねに声掛けをする。
「オシッコ行っておこうか? ひとりでできる?」
「うん。ひとりでできるよ」

 私たちが乗る電車は通勤通学ラッシュ時を少し避け、午前9時前にと予定している。

 ママチャリの前カゴにねねを乗せ、駅まで向かう道、街の風景はいつも通りの様相を呈している。
 店の前を掃き掃除をとうに終えているのに、話し込んでいる整骨院のおばさんとコーヒーショップのお兄さん。
 古くからある民家の前のベンチで3人並んで座って日向ぼっこをしているお婆ちゃんたち。こちらを見つけ手を振っている。
「いってらっしゃい~」
 それに応じて、ねねも手を振りかえすが、幼稚園をお休みしていることもあってか、その手はいつもより小さく振られていた。 

 ねねは、三日前から幼稚園に行っていない。

 夫のタカヒロが亡くなったことによる今後の手続きの書類の記入がひと通り終わり、私は深く息を吐いた。
 一度は魔法瓶を見るも、ゆっくりお茶を飲む気にはなれず、とりあえずテレビのリモコンに手を伸ばしたとき、すぐ横の携帯から着信音が鳴った。

 保育園と表示された画面を見て、電話に応答する間にも頭の中では、電話の主からの呼び出し理由の想像が巡る。
 お帰りの少し前の時間に電話で呼び出されたってことは、病気やケガではないだろう。

 「お母さん、ねねさんのことでご相談がありまして、今から幼稚園に来ていただくことは可能でしょうか?」
 先生からの電話に案の定だと思い、急ぎ幼稚園に向かった。

 子どもたちは外で遊んでいるので、空いている教室のベンチをすすめられる。先生は少しスペースを空けて隣に腰かけた。

「お母さん、今日はお時間取っていただきありがとうございます」
「いえ、どういったご用件でしたでしょうか?」

「実は…ねねちゃん、お遊戯の練習中にお漏らしをしちゃったんです」

「えっ、お漏らし?」
「今まで家でもそんなことは一度もなかったんですけど?」

「はい、ねねちゃんは年中さんの中でも一番しっかりしていて、保育士の間では安心のねねちゃんと呼ばれていたんです」
 先生もうなずきながら続ける。
「お父さんのことがあったからでしょうか? 事態に直面して受け止めきれないことが身体に出てきているのかもしれません」
「でも、お漏らしは悪いことでも失敗でもないので、その話が出ても決して怒らないでやってください」

 ミカ先生、歳は私と同じか若いくらいで、子どもたちからはミカン先生と親しみを込めて呼ばれている。
 ねねも大好きな先生だ。私から見ても素敵な先生で、街なかでキレイな恰好をしていたら、振り向いて見てしまいそうだ。 
 でも、そのミカさんが、朝エプロンを被ると「ミカン先生」になる。呼び名って不思議だ。

 私は、ここから先、なんて名前がつけられるんだろう。
「シングルマザーのねねちゃんママとかかな?」
 その通りなんですけどね。なんて自虐的な気持ちになる。

 私だって同じアパートの美咲ちゃんママのこと、そう思ってた。
 彼女の仕事、生い立ち、趣味、好きなもの何も知らない。知っているのは、離婚して美咲ちゃんを1人で育てているという情報だけだ。

「シングルマザーの美咲ちゃんママ」
 
 走りまわる子どもたちの中にねねを探してみる。
 園庭の子どものなかに、ねねの姿が探せないでいると、ミカン先生がすまなそうな顔をして言う。
「ねねちゃんは、園長先生のお部屋で遊んでいます。みんなと遊びに出たくないと言ったものですから」

 ミカン先生はロッカーから落ち掛けているキャラクター柄のキルティングバッグを戻しながら、
「少し早いですが、一緒に帰られますか?」と、優しい口調でもなくつとめて通常モードで話しかけてきた。
それが返って助かると思った。
 同情心や哀れみは、相手の心を逆に抉りとるとミカン先生はわかっているのだろう。
「はい、お願いします」と、うなずきねねのバッグを受け取った。

 1か月半前、タカヒロが仕事先で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。診断は心不全だそうだ。

 聞いたことはあるけれど身近ではなかった単語「心不全」それは病名ではなく、心臓がなんらかの原因で止まったことを表しているだけだそうだ。
 なので、タカヒロがなぜそうなったのかは今の段階では不明らしい。
 昨年の健康診断でも何もおかしなところはなかった。
 なんの前触れもなく、いつもどおり朝、出掛けて行ったのに、帰ってきたときには、声をかけてもタカヒロは返事をしてくれなくなっていた。
 ただ心臓という臓器が停止してしまったのだという事実だけがあるだけだ。

 静かに目を閉じている彼を眺めていても実感は湧かず頭の中は同じことがぐるぐると回っていた。
 実感がないせいか、ドラマや映画の主人公のように悲しみは溢れてこない。
 そんな自分が冷たい人間のように感じられる。

 なぜ、こんなことになったんだろうか? 

 なぜ、死神に鎌を振るわれたのがタカヒロなのか?

 なぜ、deleteボタンは押されてしまったのか?





 
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