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千年狩り ドラゴンの子 上巻
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その時、
不意に気配がした。
それ、が何かはわからない。
おまけに、それ、を何と説明していいかもわからない。
強いて言えば
嫌なもの、よくないもの、怖いもの、
〝死〟
そういったものを数限りなく集めて、一箇所に濃縮したような。
そんな何かが、確かに背に、べたりと張り付いてきたような気がした。
――なんなの?
女は振り返ろうとした。
そこに――ココン――と乾いた音が、フローリング床の八畳間の部屋に、小さく響いた。
女の全身が固まった。
背中をぞわぞわ怖気が這い登る。
――どうしよう?
そのまま見ないほうが、逆に怖い。
とても耐えられるものではない。
彼女はゆっくりと、ゆっくりと、振り返った。
……何もなかった。
ここは女の住む部屋。
市の中心から離れた郊外にある、若い独身女性専門のワンルームマンションである。
深夜、外出から帰ってきた彼女は、部屋の入り口近くにある小ぶりなクローゼットにコートを入れようとしていた。
そこからは部屋全体が隅々まで見わたせる。物の少ないこの部屋に死角はない。猫の子一匹が隠れる場所さえなかった。
でも何も見当たらないのだ。
ただ小さなガラステーブルの上にあったはずのコーヒーカップが、何故かフローリング床の上に転がっていた。
――あら、なんでカップが落ちてるのかしら?
彼女は不思議に思いながらも手にずしりと重いコートを、とりあえずクローゼットに押し込めることを優先した。
そしてしまい終えると、何気に振り返った。
部屋の隅に男が一人立っていた。
見も知らぬ白人男性だった。
そして獲物を狙う肉食獣を思わせる眼で、彼女の全身をなめるように見ていたのだ。
――うそっ!
彼女は声に出して叫ぼうとした。
しかしその前に男が動いた。
それは信じられないほどに速かった。
一瞬で彼女の目の前まで来ると、そのまま彼女の体に覆いかぶさった。
その場に立つ二階堂進は、不機嫌を大々的に宣伝しているかのような顔をみんなの前にさらしていた。
二階堂が不機嫌な理由はただ一つ。
こんな夜中に呼び出しをくらったからである。
殺人課の刑事と言う職業柄、夜中にお出かけしなければならないことは、別に珍しいこととは言えない。
それでも二階堂は、新人の頃から真夜中に出かけることは、理由がどうであれ大嫌いだったのだ。
「おい、もう夜中の二時前だぜ」
隣にいた笹本刑事に愚痴る。
「はあ? なんですか」
笹本のその気の抜けた返事に、二階堂は笹本にそう言ったことが、全くの無駄であることをあらためて悟った。
ついこの間刑事になったばかりのこの若い男は、容姿もその性格も、一昔前の青春ドラマからまんま抜け出してきたような男だった。
バカがつくほど生真面目で、刑事という仕事に熱い熱い情熱を燃やしているようなタイプである。
好きな言葉は、「青春」と「汗」と「友情」であるにちがいない。
そんなわけで夜中の二時に現場に出向いて行くことなど、休みの日にちょっと近所をぶらつくのと同じ労力、とくらいにしか考えてない。
その上大好きな仕事ができるなんて至福の喜びだと思っているという、救いようの無い天然ぶり。
そ
んな男に愚痴をこぼしてもとても共感など得られるはずもなく、現に笹本は二階堂の言ったことの意味を、ものの見事に理解していなかった。
「なんでもない。それより現場を見るか」
「はい!」
実に明るくさわやかで、ついでに言えば元気よく気持ちのいい返事だった。
それがさらに二階堂の気分を害することになった。
部屋に入ると、すでに鑑識があちらこちらを調べていた。
被害者の死体はもう運び出されていて、玄関の床に白いテープが荒く人型に貼られている。
聞きもしないのに、別に聞きたくもないのに笹本が言った。
「隣の住人、二十一歳の大学生ですが、居酒屋のアルバイトから帰ってきた時に、時間は十二時半を少し回ったぐらいだそうですが、自分の部屋に入ろうとしたら、西野さやか、ガイシャの名前ですが、ガイシャの部屋から、ドスン、と大きな物音がしたので声をかけてみたけれど、返事がなかったそうです。それでガイシャの部屋のドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなくて、中を覗きこむと、ガイシャが玄関のところに倒れていたそうです。その時彼女はすでに死んでいたようですね」
「そうか、わかった」
二階堂は部屋を一瞥した。
それだけで十分だ。
――これ以上ここにいても、なにもでないな。あとはまかして本署にもどるか。
彼がそう考えた根拠は、二階堂のカンにあった。
二階堂は、お世辞にも仕事熱心な刑事とは言えなかった。
むしろ逆であると言ったほうが正しいほどだ。
それでも署長からの信頼は厚かった。
それは彼が今までに、いくつもの難事件を解決したからにほかならない。
基本的にあまりやる気のない二階堂にそんな芸当ができたのは、彼の持つ独自で人並みはずれた第六感、その能力よるところが大きかった。
その二階堂のカンが――おい、ここにはなにもないぞ――と彼に告げていた。
「笹本、行くぞ」
「えっ、今来たばっかりなのに、もう行くんですか」
二階堂が笹本を眼で射た。
「つべこべ言わずに、ついて来い!」
笹本は、明確な不満の表情をその顔に浮かべていたが、言われたとおりに、つべこべ言わずについて来た。
――なんて、わかりやすい奴なんだ。
二階堂は思った。
本署に着くと二階堂は、笹本を無理からその場に残し、一人真っ先に検死官のところに向かった。
死因が単純な場合は、もう検死の結果は出ているはずだ。
そして二階堂は、すでに結果が出ていると考えていた。
その根拠はもちろん彼のカンにあった。
それ以外には、あるはずもない。
二階堂は、検死室がひたすらお気にめさなかった。
独特の照明による無機質な光沢、そして何よりあの臭いが、何度嗅いでも好きになれない。
人間の死せる匂いと、人工的な薬品の匂いが、水と油のごとく混じりあっているのだ。
おまけに明るいくせに、陰々滅々としていることおびただしい。
そんな不自然極まりない場所は彼の好むところではなかったが、もちろん今は、そんなことを気にしている場合ではない。
顔なじみの検死官のところに行くと、検死台の上に西野さやかの死体がのせられていた。
二階堂があいさつもなしに、すかさず聞く。
「死因は?」
白衣を着た小太りの検死官が、黒ぶちメガネの奥から、いつものように舐めるようなまなざしで二階堂を上から下まで見た。
そして同じくあいさつ抜きで答える。
「出血死です」
「出血死?」
その返答はさすがの二階堂も、全く予想できていなかった。
何故なら西野さやかの倒れていたあたり、そして部屋の中の何処にも、血は一滴も見当たらなかったからである。
「ええ、出血死です。と言うよりガイシャの体の中に血は、ものの見事に一滴も残っていませんでした。おまけにこれです」
検死官はさやかの首を指さした。
そこにははっきりと、獣の噛みあとと思われる歯形が残されていた。
「これは、いったい」
検死官が冷めた口調で答える。
「犬ですな。……多分」
「犬?」
「詳しく調べてみないとわかりませんが、どう見ても犬、それも大型犬の噛みあとのように見えますね。ただ犬にしては、たとえ大型犬だとしてもやたらとばかでかいのが、気になると言えば気になりますが」
「それじゃあガイシャは……犬に噛まれて死んだと」
「それは正確とは言えませんね。確かに犬に噛まれたことは事実ですが、首の傷はそんなに深いものではありません。この傷だけで死に至るようなものではないですね。さっきも言ったように、死因は出血死です」
「しかしガイシャの部屋には、全く、血の跡はなかったが」
「だとすると、他の場所でやられたのではないですか?」
「……いや、それはありえないな。ガイシャは確かにあそこで殺されているんだ。それは絶対に間違いないさ」
検死官は二階堂の顔を興味深く見つめた後に言った。
「どうしてわかります、二階堂さん」
二階堂はそれに答えずに、部屋の出口のほうへと歩き出した。
そして出口のすぐ手前のところで、検死官の方に振り返った。
「カンだよ、カン」
「カン……そうですか」
検死官の口元だけが、にたりと笑った。
「そうだ!」
二階堂がそのまま部屋を出る。検死官がそれを見送った。
そこにはねずみ色のよれよれのコートを着た、前後左右何処から見てもかたぎにはみえない四十過ぎ男の後ろ姿があった。
二階堂が出て行った後も、検死官はやけに嬉しそうにその出口を眺めていた。
が、やがて鼻歌まじりに振り返り、血をぬかれて文字通り透き通った白い肌となった西田さやかの裸体に、視線を落とした。
部屋の中に二人の男がいる。
部屋は暗くて、床は土がむきだしになっている。
壁もいくつも細長い板を打ち付けてあるが、その板のすきまから真っ黒い土が顔をのぞかしている。
天井からは裸電球が三つほどぶらさがっていた。
ホラー映画に出てくる連続殺人鬼の隠れ家――そんな様相の部屋だった。
どうやらどこかの地下室のようである。
男は二人とも白人の男性だった。
一人は二メートルを超える長身で、もう一人は白人男性としては、かなり低い身長の男だ。
背の低いほうの男は上半身裸で、下半身も下着一枚だけである。
両手を後ろ手に縛られ、土の床の上に裸の両膝をついて座っていた。
背の高いほうの男は、その手に黒皮のムチを持っていた。
そして男のむきだしの背中に、容赦なくそのムチを振り下ろした。
ピシッ
乾いた音がして、男の白い肌の上に、赤くみみずばれが描かれた。
皮膚が裂けて赤い血が滲み出している。
ピシッ
もう一度ムチを振り下ろした。
「うっ!」
ムチを振り下ろされた男の顔が苦痛にゆがみ、小さなうめき声をあげた。
ピシッ
さらに振り下ろした。
ムチを持った男が口を開いた。
「死体を残してくるなんて、なんという失態だ!」
それは日本で生まれ育った人間の使う日本語であった。
ピシッ
再びムチが振り下ろされた。
「うっ……」
「伯爵様はお怒りだ」
ピシッ
「ううっ……」
また振り下ろされた。
その時、磯山一美は、限りなく黒に近い灰色に染まった道を、一人家路へと急いでいた。
二日後に迫ったクリスマスイブのために、彼氏に送るプレゼントを選んでいたのだが、迷ったあげくにすっかり遅くなってしまっていたのだ。
そのため近道をしようと、細い裏路地を足早に歩いていた。
ともに高いブロック塀で囲まれた工場と倉庫の間にあるその道は、一見暗くて不用心に見えるが、普段は夜に人が通ることは、皆目と言っていいほどなかった。
したがって物取りなどがうろつくこともなく、かえって安全であることを近所に住んでいる彼女は知っていた。
だから時々ではあるが、今夜のように早く帰りたいときには、そこを利用させてもらっていた。
今まで何か危ない目にあったことはなく、それ以前に夜にこの道で誰かに出くわしたことも一度もない。
しかし今夜はいつもの夜とは少しばかり違っていた。
もうすぐ主要幹線道路に出るというところの曲がり角を曲がると、そこに男が一人立っていたのだ。
その男の姿は、後方の道の街灯や車のヘッドライトの明かりによって完全なシルエットとなっていて、顔は全く見えなかった。
身長は二メートル近くありそうだ。
そしてがっちりとした筋肉質の体つきをしているのが、シルエットながらはっきりと見てとれた。
男はその大きな体で、幅が一メートル余りしかない狭い裏道をふさぐようにして、磯山一美のほうを向いて立っていた。
両手を軽く左右に広げ、右と左の掌を左右のブロック塀を押すようにそえてある。
彼女は考えた。
そのまま何事もなかったかのように男の横の狭い空間を通りすぎるか、それとももと来た道を引き返すか。
ただ一美には、その男の態度が――彼女がこの道を通るのをあらかじめ知っていて待ち伏せていた――かのように見えた。
だとすれば、ふりかえって男に無防備な背中を見せるのは、どう考えても危険だ。
かといってそのまま男の横を通るにしても、すんなりと通してくれそうな雰囲気は、男の姿からは微塵も感じられない。
――いったいなんなのよ? あの人。
彼女は立ち止まり、必死で考えようとした。
しかし恐怖のためか頭が酔ったように働かずに、いったいどうすればいいのか、何も浮かんでこない。
彼女は動くことも声を出すこともできずに、その場で固まっていた。
その間その男は、なん動きも起こさずただ彼女をじっと見ているようだったが、やがて両手をだらりと下におろすと、まるで何かを思い出したかのようにゆっくりと、彼女に向かって歩き始めた。
その時である。
「おい、待ちな!」
男のすぐ後ろから鋭い声が響いた。
その声は一美には、中学生くらいの男子の声に聞こえた。
一息おいて、前の男がゆるりと振り返る。
その時、それまで大きな男の影に隠れていたその声の主の姿が、彼女にも見えた。
その少年と思われる人物も、前にいる男と同様に姿がシルエットになっていて、顔を見ることはできなかった。
その身長は百七十センチを少し超えるくらいだろうか。
前に立つ男の筋肉質な体とは正反対に細身で、見ようによっては貧弱とも思える体をしている。
彼女には最初の男と比べると、その体重は半分もないように思えた。
少年らしき男が再び言った。
その声は男性にしては少し高めではあるが、張りのある力強い声だった。
「お嬢さん、こいつは俺に任せて、早く逃げな」
一美はその声を聞くとはじかれたように振り返り、そして走り出した。
イストヴァンは戸惑っていた。
若い女がこの道を通るのをかぎつけ、ここで待ち伏せしていた。
そこに予想どおりに女が来たので襲おうとした。
ところが、待ってましたとばかりに邪魔がはいったのだ。
状況によっては邪魔がはいることも、ある程度は予想していた。
この裏路地はほとんど人が通らないようだが、その先の幹線道路の交通量は比較的多い。
歩道を歩く人も時折見うけられる。
女を襲えば、特に女が悲鳴でも上げれば、通りがかりの人間でイストヴァンの邪魔をしようとする者が現れても、なんら不自然ではない。
しかしイストヴァンはまだ女に手をかけていなかったし、女も悲鳴はおろか、一声も発してはいなかった。
それなのにこのありさまなのだ。
しかもこの男、その姿は逆光でよくは見えないが、その体はイストヴァンよりもひとまわりは小さく、声もずいぶんと若いようだ。
――まだ少年――といった雰囲気である。
おまけにこの男、その態度と言い先ほど女に話した内容と言い、彼がここで女を襲うことを最初からわかっていた、としか思えない様相である。
――こいつ、いったい何者だ?
イストヴァンは、自分が目の前にいる少年とおぼしき人間にやられてしまうとは露ほども思ってはいなかったが、それでも何故か、一応は警戒したほうがいいような気がした。
イストヴァンがそんなことを考えながら少年のシルエットを見ていると、ずっと黙っていた少年が右手を上げ、口を開いた。
「その先の角を曲がれば、後ろの道からは俺たちの姿が見えなくなる。あんたもそのほうが、何かと都合がいいだろう」
少年の右手の人差し指は、イストヴァンの後ろを指差していた。
イストヴァンは少なからず驚いた。
――こいつ、この俺とやりあおうと言うのか。ただの人間が、この俺に勝てるとでも思っているのか。
そう考えた瞬間、イストヴァンの中に、粘っこくて残虐なものが、ぞわりこみあげてきた。
「いいだろう」
イストヴァンは流暢な日本語でそう言うと、先に路地の奥に向かった。
そして歩きながら少年が後からついて来るのを、背中でしっかりと感じとっていた。
イストヴァンが適当なところで立ち止まって振り返ると、少し離れたところに少年が立っていた。
イストヴァンは夜目がきいた。
さっきは後ろの光に邪魔されてこの男の姿がよく見えなかったが、今でははっきりと見ることができる。
イストヴァンはその男を、穴が開くほどにじっくりと観察した。
そいつは、やはり若かった。
東洋人の年齢は少しわかりにくいが、平均して白人よりは若く見えることを考慮すれば、その男の年齢は十六歳前後に見えた。
身長はイストヴァンより低く、しかもかなり細身の体をしている。
手足は普通の東洋人と比べると、ずいぶんと長い。
そしてこの寒空だと言うのに、体にぴったりとした薄地で長袖の黒いワイシャツと、これまた足にぴったりの細い黒い皮のズボンをはいているだけである。
男にしては髪が長く、後ろは見えないが、前も横も顔が十分に隠れるくらいの長さがあった。
前髪は真ん中より少し左のところで分けられており、そのまま左右に流している。
右目は前髪で隠れてほとんど見えず、唯一見える左目は東洋人にしてはかなり大きく、少しだけつりあがってはいるが、どちらかといえば西洋人の目に近い形をしていた。
そしてその眼の中の大きな黒い瞳からは、とても十六歳前後とは思えないほどの落ち着きと力強さ、そしてある種の経験からくる自信と聡明さのようなものが感じられた。
鼻は高くて鼻筋が通っており、口は少し大きめで唇も厚めである。
顔の輪郭は丸みを帯びて細長く、全体の印象を一言で言えば、鋭い眼光をのぞけばやや女性的な顔であり、美しいと表現してもさしつかえのない顔立ちである。
イストヴァンは考えていた。
人間、それもまだ子供といっていい年頃の少年に自分がやられるわけはないのだが、その態度があまりにも悠然としている。
特にその眼力の強さは、明らかに尋常ではない。
見たところ武器らしいものは、なにも持ってはいないようだ。
――こいつ、どうしてくれよう。
イストヴァンがそう考えていると、少年が先に動いた。
ゆっくりとイストヴァンに近づいて来る。
その両手はだらりとさげられており、なんの構えもしてはいない。
――バカめが。この俺に無防備に近づいてくるとは。こんなガキ一匹、あっさりと一発で決めてしまうか。
少年がさらに近づいて来た時、イストヴァンはいきなり少年の顔面に向かって右の拳を突き出した。
次の瞬間、イストヴァンの右手首あたりに痛みが走ったかと思うと、彼の体は見えない手に引っぱられでもしたかのようにように、左に流された。
そしてイストヴァンのその拳は、そのまま左にあるブロック塀を突き破った。
イストヴァンは思わず少年を見た。
少年は指を開いた左手を、軽く肘を曲げた状態で自分の顔の前に突き出していた。
イストヴァンは今何が起こったのかを理解した。
イストヴァンの右ストレートを、少年がその左手ではじいたのだ。
イストヴァンは心底驚いた。
彼の右ストレートは、たとえわかっていたとしても、たとえ相手がボクシングの世界チャンピォンだったとしても、避けることは限りなく不可能に近い。
そして避けることができなければ、人間であれば確実に死が訪れる。
ところがその右ストレートを、いきなり放ったにもかかわらず、それを避けるどころか、ついさっきまで肩からだるそうにぶら下がっていたはずの左手一本で、はじき飛ばしたのだ。
拳をブロック塀から抜き、イストヴァンが少し少年から離れた。
――なるほど。こいつ、やはりただ者ではないな。
イストヴァンを見る少年の顔は、少しにやけているように思えた。
イストヴァンは少年に向かって叫んだ。
「きさま、聖騎士団か!」
少年は小首をかしげて、軽く微笑みながらイストヴァンを見ている。
その態度は――幼い子供がなにかちょっと楽しいことがあって喜んでいる――そんな風に見えた。
少年はすぐには返事をせずに、そのまま黙ってイストヴァンを見ていたが、やがて答えた。
「聖騎士団だって? いったい何者なんだい、そりゃ。あんたんところの国では、そんなおもしろそうな奴がいるのかい? それは知らなかったぜ。そういう連中には大いに興味があるな。ぜひ一度お目にかかりたいもんだぜ。――と言ったわけで残念ながら、この俺は違うぜ。ここは日本だ。聖騎士団なんかじゃないぜ」
「聖騎士団でなければ、おまえ何者だ?」
「何者だと聞かれても、あんたに自己紹介するつもりはないね。そんなのただめんどくせえだけだし。どうせあんたはもうすぐ死ぬんだし。とにかく誰か来ると、いろいろとややこしいことになるんでね。さっさと決めさせてもらうぜ」
少年はイストヴァンに近づいて来た。
と同時に手を後ろにまわして、ズボンの後ろポケットから何かを取り出した。
それは短く、切り口が楕円形の棒であった。
木の棒に何種類かの鮮やかな色の糸を複雑に巻きつけた、長さが三十センチほどしかないしろものである。
とても武器としてはなんの役にもたちそうにないものに見えた。
イストヴァンは両ひざを軽く曲げて全身の力を適度に抜き、少年が近づいてくるのを待った。
そして少年が目の前まで来たとき、いきなり上に向かって飛んだ。
イストヴァンには自信があった。
自分の跳躍のスピードは人間の目ではついていけないと。
少年の目には、いきなりイストヴァンが目の前から消えたように見えるだろう。
そして慌てて周りを見わたして、イストヴァンを探すはずだ。
この時、とっさに前後左右を見わたしたとしても、上を見上げる人間は、まずいない。
そこを上から攻撃すればいいのだ。
イストヴァンはこの方法で、今まで何人もの聖騎士団の命を奪ってきた。
しかし十分にジャンプをした後、イストヴァンの身体が重力に捕まり落下し始めた時、それまでなにひとつ行動を起こさなかった少年が、なんの迷いもなく顔を上にあげてイストヴァンを見た。
その眼はしっかりとイストヴァンの姿を見据えていた。
――くそっ!
イストヴァンはかまわず、少年に攻撃を仕掛けた。
落ちながら少年のこちらを見ている顔面にむけて、右足を踏みつけるように蹴ったのだ。
しかしイストヴァンの足は、少年の顔面には当たらなかった。
少年が少しばかり体を後ろに避けたからである。
イストヴァンはそのまま地面に着地した。
気がつけばイストヴァンは、少年と向かい合わせの状態で立っていた。
その直後イストヴァンは自分の目の下に、強い紫色の光を見た。
それと同時に腹部に激しい痛みを感じた。
おもわず腹を見ると、自分のみぞおちあたりに、鈍く銀色に光る金属の刃物が深々と突きささっている。
それは少年が先ほど持っていた短い棒から飛び出した刃物で、それを少年が右手で持ち、イストヴァンの腹に突き刺していたのだ。
そしてその刃先は、イストヴァンの背中を突き破っていた。
――なんだって? さっきまであんな刃物は、なかったはずだ。
しかしイストヴァンは、すぐさま冷静さを取り戻した。
――確かに腹は痛いが、致命傷と言うにはほど遠いな。だいたいこの俺は、腹を貫かれたぐらいでは死にはしない。こいつはもう勝った、もう勝負はついた、と思っているだろう。その油断をつけばいいのだ。逆に今がチャンスだ。
イストヴァンはわざと全身の力をしばらく抜いた後、いきなり自分のあごの下にある少年の頭を、両手でわしづかみにした。
「バカめ。このまま頭をひねりつぶしてくれるわ」
その時イストヴァンは、少年の頭をつかんだその両手から、力が急速に抜けていくのを感じた。
――何?
手だけではなかった。
イストヴァンの全身の力が、どんどん抜けてゆくのだ。
イストヴァンは気がついた。
――俺の力が……俺の力の源が……吸いとられている。
イストヴァンは思わず自分の腹に突き刺さった刃物を見た。その刃物は真っ赤に染まっていた。
それはイストヴァンから流れた出した血が表面に付着したからではなかった。
内側から赤く染まっているのだ。
そのただの金属にしか見えないその刃物は、イストヴァンの血を次々と吸いとっているのである。
――バカな。こんな金属の塊が、この俺の血を吸いとるなんて。……そんなことは……ありえない。
イストヴァンの力の源、それは彼自身の血にほかならない。
イストヴァンは最後の力を振り絞って、少年の両肩に自分の両手をかけた。
少年の体を押して刃物を腹から引き抜こうとしたのだ。
しかし時すでに遅かった。彼の両の手は少年の肩に手をかけた後、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「助けて…く…れ……」
蚊のなくような声で言った後、イストヴァンの動きが完全に止まった。
少年はしばらくイストヴァンを見ていたが、やがて一気に刃物を引き抜いた。
少年の右手には刃の部分が全て真っ赤に染まった日本刀が握られていた。
刃の長さが普通の日本刀より長い、大太刀である。
やがてイストヴァンは、その場に崩れるように倒れた。
「やったな」
突然に声がした。
少年の声ではない。
それはかなりの年齢を経たと思われる男の声である。
低くて多少しわがれてはいるが、よく響く力強い声だ。
「ああ」
少年が返事をした。
しかし少年のまわりには、誰一人その姿を見かけない。
ややあって少年が再び口を開いた。
「なにかわかりそうか?」
老人の声がそれに答える。
「まあ待て。わかるには少し時間がかかる。知っとるだろう、おぬしも」
「それじゃあ質問を変えよう。こいつはわかりやすいほうか?」
「そうじゃなあ。今のところ感じるには、わかりにくいほうじゃな」
少年が、あからさまに不快な顔をした。そしてぶっきらぼうに言った。
「そうか、残念だぜ。でもなにかわかったら、すぐに教えてくれ」
「ああ、わかったわい。いつもそうしとるじゃろうが。おぬし若いわりには、ちょっと話がくどいのう」
会話は続いているが、やはり少年の姿しか見当たらない。
「じじい、とりあえずもう帰るか」
「それがいいじゃろう」
少年は歩き始めた。
そして日本刀の柄をズボンの後ろのポケットに無造作につっこんだ。
その柄の先には、ついさっきまであったはずの真っ赤な日本刀が、完全になくなっていた。
少年はそのまま幹線道路に出ると、夜の闇に紛れてその姿を消した。
仄暗く、そしてかなり広い部屋である。
天井もそうとうな高さがある。
そしてその部屋は、まさしく中世ヨーロッパの宮殿を思わせるものだった。
もし部屋の明かりが充分だったならば、さぞかし豪華な内装をはっきりと見ることができただろう。
その部屋の奥の中央に大きな黒い革張りのソファーがあり、そこに男が独り座っていた。
その部屋には男がかけているソファー以外は、奥の両隅にある二本の高いろうそくの燭台があるだけで、ほかには何の家具も見当たらない。
そこにろうそくが一本ずつとりつけてある。
だだ広い部屋の明かりは、その二本のろうそくだけである。
男は白人の男性だ。
眠っているのか目をとじたままで、その背にもたれかかるようにしてソファーに座っていた。
その時、部屋の入り口である高さも幅も充分にある観音開きの扉が開いて、男が二人入って来た。
その二人も白人の男性だった。
右の男が言った。
「伯爵様、大変です!」
左の男が言った。
「イストヴァンが、殺されました!」
それは完璧な日本語であった。
ソファーの男がゆっくりと目を開ける。
そしてしばらく宙を見つめた後で、視線をその男たちに移した。
「なんだと? まさか聖騎士団か」
やはり日本語である。
今度は左の男が先に答えた。
「わかりません。ただいまリリアーナが調べております」
続いて右の男が答える。
「いずれわかると思われます」
「そうか。何かわかったら、すぐに我に知らせるのだ」
二人の男がほぼ同時に答えた。
「はい、わかりました伯爵様」
「おおせのとおりに伯爵様」
二人の男は深々と一礼をすると、静かに部屋を出て行った。
ソファーの男は再び宙を見つめたが、やがてすうっと、その目を閉じた。
磯山一美の通報を受け、近所の派出所の巡査が現場に駆けつけたころには、そこにはもう誰もいなかった。
ただ裏路地をすこし入った所に、何故だかはわからないが、真っ白い灰の塊が残されていた。
巡査は、女性が襲われそうになったことは署に報告をしたが、灰の塊のことまでは伝えなかった。
そこは古い日本家屋。
ゆうに二十畳はあろうかと思われる日本間の奥に、少女が一人正座をしていた。
その少女の身につけているもの、それは神社の巫女が着る服と基本的には同じであるが、上着の袖のところに二本の赤いラインがあり、さらに全体に小さな赤い牡丹の刺繍がいくつもほどこされ、普段見慣れた巫女の衣装よりも少し派手な印象を受けるものである。
黒髪はきれいなおかっぱ頭をしていた。
そしてその顔立ちはまだ子供ながら、かなりの美形である。
大きくて吸い込まれそうな眼に大きな黒い瞳、つんととがった形の良い小さな鼻、そして十分すぎるほど柔らかさと暖かさを感じさせるつやのある唇が、神秘的ともいえるバランスで配置されている。
年齢は十歳くらいであろうか。
背筋をりんと伸ばし、両手を重ねて足の上に置き、軽く薄目を開けて静かに前を見ていた。
その時、正面の障子が乱暴に開かれた。
そこには先ほどイストヴァンと闘った少年が立っていた。少年が言った。
「ゆづき、何かわかったか」
ゆづきと呼ばれた少女が答える。
「いえ、まだ詳しくはわかっておりませぬ。もう少し探ってみませんと。ただ相手はかなりの力を持っているようです。そして、強大な力を持ちながらも、同時に己の存在を隠す術を心得ている。そんな相手と思われます」
少女の声は、仮に十歳だとしたら、そのわりには少し幼い声だ。
しかしその語り口調は、まるで長い人生経験を積んできた女性のようであった。
その声の響きには人としての深みとか、品格いったものが感じられる。
少年が言った。
「あのくそじじいも、わかりにくいとかほざいていたな。どうやら今回は、ちょっとやっかいな相手みたいだぜ。とにかくどんな小さなことでもいいから、今判っている範囲でいいから、今すぐに教えてくれ」
少女は眼を閉じた。
そしてしばらく黙っていたが、やがてその眼を、そして口を開いた。
「今度の相手は、六、七人いるように思われます。そのうち一人は女性です。みな、遠い国からやって来たようです。先ほど龍夜様が倒された相手が、その中では一番力なき者でしょう。残っている五人か六人は、あの者よりは強いようです。とても強い力を持っております。ただどんな相手なのか、どんな力を持っているのかは、今のところよくわかりかねます。再びさらに念を集中して、より深く探っていきたいと思います」
「そうか。相手の人数が判ったのは、大きな収穫だ。いつものように何かわかったら、すぐに教えてくれ」
「はい、わかりました、龍夜様」
龍夜と呼ばれた少年は出て行った。
残された少女はなにごとかを小さく呟きながら、両手で印を結んだ。
そして再び目を閉じた。
薄暗く、そして広くて中世の宮殿を思わせる豪勢な部屋。
そこにある黒い大きなソファーに男が独り座っている。
そこに女が一人、しずしずと入ってきた。
まだ若い白人の女性である。
年齢は二十歳くらいであろうか。胸のところが大きく開き、体のラインが一目でわかる黒いドレスを着ていた。
胸のⅤ字に開いた部分から、零れ落ちそうな二つのふくよかな乳房が作りだす深い胸の谷間が見える。
挑発的とも言える肉感的な肉体の持ち主である。
顔もかなりの美人であり、そしてその肉体以上にエロスを感じさせる顔立ちをしていた。
女が座っている男に言った。
「伯爵様、少しわかりました」
女もやはり日本語である。
「言ってみろ」
「相手は若い男性です。まだ推測ですが、十五、六歳のようです。日本人です。そしてここが一番重要なのですが、そいつは並の人間ではありません」
伯爵と呼ばれた男が、軽く右手を上げた。
「言わずとも、それは判っていた。並の人間では、とてもイストヴァンは殺せない。いったいどんな奴だ」
「まずその男自身、不思議な力を持っています。とても強い力です。そしてさらに重要なことですが、その男の周りから別の強い力を感じます」
「別の力だと? そいつには仲間がいるのか」
「仲間と言ってさしつかえないでしょう。二つの力を感じます。一つは人間です。そしてもう一つは、人間ではありません」
「人間ではないだと?」
男が少し身を乗り出す。
「はい、力の一つは人間ではありません。まず先に人間の方の一人ですが、少女のようです。年は十歳になるかならないかぐらいだと思われます。まだ子供といったほうがいい年齢です。そして闘う力はあまりないようです。しかし、彼女は別の力を持っています。同じ力です。つまり……この私と」
「おまえと同じだと。〝視る〟力か」
「はい、私と同じ視る力です」
「そうか、それで判った。奴が何故いきなりイストヴァンの前に現れたのかわからなかったが、ようやく謎が解けた」
「はい、この少女がイストヴァンの存在を感じとり、それで少年が現れたのです」
「それで、その少女はいったいどのくらい〝視る〟力を持っているのだ」
「詳しくは判りません。この者達はとても強い力を持ちながら、同時にその力を隠す技を持っているようです。しかし私の見立てによりますと、この少女は私とほぼ同等の力を持っていると思われますが」
「おまえと同等の力か。それはなかなかのものだな。あなどりがたい存在だ。それで、もう一つの人間でないものとは、いったい何だ」
「そいつ、と言うよりも、これ、と言ったほうがいいでしょう。これは人間ではありませんが、イストヴァンを殺した少年と同じくらいの力を持っています。そして常にそいつといっしょに行動しているようです。その正体は、これまたはっきりとはわかりませんが、この国の言葉で言えば、妖怪、あるいはもののけと呼ばれるたぐいの存在のようです」
「妖怪、もののけ、か」
「はい、これもなかなか油断のならない相手のようです」
「わかった。他にはなにかないのか」
「残念ながら今のところ、これくらいです、伯爵様」
「そうか、わかった。それではさらに視てくれ。早急に頼むぞ」
女は返事をしなかった。
男の顔を見ながら、何かを考えているようである。
男も何も言わずに、そのまま女の顔を見つめていた。
長めの沈黙の後、女がようやく口を開いた。
「伯爵様。先ほども言いましたが、この者達は、自らの存在を隠す技を持っています。このまま水晶玉を見つめていても、これ以上の成果はあまり期待できないと思われます。そこである提案をしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「どんな提案だ?」
「はい、少々危険ではありますが」
「危険だと! どんな危険があると言うのだ」
「はい、この方法を使えば、やつらのことがかなりわかると思います。しかし私達の方において、少しばかり犠牲を伴うかもしれません」
男の口元が、微かに笑った。
「犠牲か。犠牲なら、すでにイストヴァンがやられておる。多少なら仕方がないわ。仲間はいつでも増やせるしな」
「わかりました」
女は男の傍にそっと寄った。
そしてこの広い部屋に二人っきりだというのに、まるで内緒話でもするかのように男の耳に手をあてて、その耳元で何事かをつぶやいた。
聞いた男の目が一瞬けわしくなる。
「なるほど……わかった。おまえの言うとおりに、やってみることにしよう」
「はい、ありがとうございます、伯爵様」
「ではリリアーナ、もうさがってもよいぞ」
「わかりました、伯爵様」
リリアーナと呼ばれた女は男から離れると軽く一礼をし、部屋を出て行った。
男は女が出て行った先を見ていたが、やがて視線を移し、そのまま宙を、もの思いにふけるように見つめた。
黒いドレスを着た若く美しい白人の女性が、暗く陰気な廊下を歩いている。
やがて一つのドアを開けて、その中に入った。
そこは窓がなく、壁も床も天井も真っ黒な小さな部屋であった。
その部屋の真ん中に、粗末な木製の小さな丸いテーブルがひとつと、テーブルに比べるとかなり豪華なアンティークの椅子があった。
部屋の奥には、申しわけ程度の小さなクローゼットが備え付けてある。
そしてテーブルの上に太い一本のろうそくと、直径三十センチほどの水晶玉が置かれていた。
女は椅子に座ると、ふわり水晶玉に両手をかざした。
そして静かに目を閉じた。
広い日本間に少女が座っている。
少年にゆづきと呼ばれた少女である。
目を閉じて、その小さな口で何事かをつぶやいている。
不意に目の前の障子がさっと開けられた。
そこに少女に龍夜と呼ばれた少年がいた。
龍夜はゆづきの前に胡坐をかいて座ると、すかさず言った。
「ゆづき、何かわかったか」
「はい、わかりました。あやつらが動きます」
「いつ、どこで」
「今夜です。今夜あやつらが行動します。場所は港です。港のはずれの大きな倉庫です。一番南にある倉庫です。間違いなく動きます」
「港のはずれにある一番南の倉庫だと? そんなところに襲うような女がいるのか」
「それはわかりませぬ。女がいるのかどうかまでは、残念ながら視ることができませんでした。しかしそこに行けば、確実にあやつらに会うことができるでしょう。ただ一つ心配な点がございます」
「心配な点。何だそれは」
「前にも言いましたが、あやつらは自分達の力を隠す術を持っております。ところが今回はあえて隠さずに、この私に見られるがままになっているようでございます。それはわざと見てくれといわんばかりの態度に見えます。まるで龍夜様を自ら呼んでいるかのように、私には思われますが」
龍夜の眼がけわしくなる。
「罠……いうわけか」
「はい、おそらくは罠でございましょう。しかしそのおかげで、あやつらの人数がわかりました。あやつらはあと六人おります。そして今宵はその倉庫に、そのうちの二人がやってくるように思われます。一人づつならおそらく、龍夜様が勝つことができるでしょう。しかしたとえ一人づつだとしても、そうあっさりと勝たしてくれる相手ではございません。そのような者が二人も待ち受けているとなれば、かなりの危険を伴います。そのうえにもう一つ、気になる点がございます」
「気になる点だと」
「はい、気になる点でございます。それは奴らの仲間の中に一人、同じ力を持っている者がおります。つまり、この私と」
「ゆづきと同じ力だと! 〝視る〟力か」
「はい、〝視る〟力でございます。それゆえに私たちのことは、ある程度はあやつらに知られていると考えたほうが、よろしいかと思われます。そこにもってきてこのようにわざと、自分達の力を見せつけてきました。当然何か思惑があってのことだと、考えられますが」
「まあ、どっちにしても罠には違いないな。それで言いにくいことを聞くが、俺は奴らが待っているところに行ったほうがいいのか、それとも行かないほうがいいのか、いったいどっちなんだ。はっきり答えてくれないか」
「……それは、わかりませぬ」
ゆづきが恥じるかのように、うつむく。
龍夜はそんなゆづきを慰めるように、やんわりと声をかけた。
「わからないのか。……お前ほどの者がわからないと言うのは、珍しいな。それほどまでに今度の敵は、やっかいだと言うことだな。心配するなゆづき。お前のせいではない。たまたま相手が悪かっただけだ。しかし今のお前の一言で決まった。俺は行く」
ゆづきはおもわず顔を上げた。
そしてその大きな黒い瞳で、龍夜を見つめながら言った。
「お行きに、なるのですか?」
「ああ、もちろん行くさ。もしゆづきがはっきりと〝行くな〟と言えば、俺は行かなかっただろう。ゆづきの言うことだからな。もちろん〝行け〟と言われても、行くだろう。そして今回は〝わからない〟ときた。俺が行かないのは、ゆづきが〝行くな〟と言った時だけだ。だから俺は行くぜ」
「……わかりました。龍夜様、充分にお気をつけくださいませ」
「わかった。お前の言うとおりに、充分に気をつけよう。なあに大丈夫だよ。そんなに心配するなって」
龍夜はそう言うと立ち上がり、部屋を出て行った。ゆづきはまだ開いている障子を見つめて、一人つぶやいた。
「龍夜様。なにとぞ、ご無事で」
二階堂は何かを感じていた。
それもとてつもなく強く。
しかし何を感じているのかは、二階堂自身がまるでわかっていなかった。
――これはいったい、なんなんだ? こんなことは今まで一度もなかったが……。
二階堂が第六感で何かを感じる時は、それを強く感じれば感じるほど、その内容や感じたものが詳細にわかることができた。
それとは逆に、感じる強さが弱い時は、その内容もわかりにくかった。
それは、彼自身が子供の頃、自分の力を意識しはじめたその日から、始終一貫してきたことである。
ところが今回は違っていた。
何かを強く感じていた。
それも半端ではないほどの強さで。
それなのにその内容が、その感じたものが、全くわからなかったのだ。
わかったのは〝場所〟と〝時間〟、それだけである。
このふたつだけは、何故かはっきりとわかった。
だというのにその時間にその場所で、はたしていったい何が起こるのかは、皆目見当がつかないでいた。
これは彼の人生において初めての経験である。
――これ以上やっても、何もわかりそうにないな。
二階堂は目を閉じて、もう一度だけ意識を集中することにした。
それは二社選択である。
その時間その場所に〝行く〟のか〝行かない〟のか。
それだけを探るために、そのまま意識を集中し続けた。
数瞬後、二階堂は目を開けた。
おもむろに椅子から立ち上がり、自分のアパートの部屋を出ると階段を降りて、すたすたと駐車場へと向かった。
そして一台の車に乗り込んだ。
車は静かに動きはじめた。
一台のバイクが走っている。
大型のヨーロピアンタイプのバイクである。
バイクには真っ黒いワイシャツに黒の皮のズボン、黒い靴に黒い手袋、そして真っ黒のフルフェイスのヘルメットをかぶった、全身黒づくめの男が乗っていた。
バイクは幹線道路をそれて、海沿いの道を走っていた。
そしてしばらく走った後に急にハンドルを右に切って道から外れ、少し進んだ後でその場に止まった。
バイクから男が降りてきてヘルメットをぬいだ。
男は龍夜であった。今彼の見つめている先には、古くて大きな倉庫が二つ並んで建っている。
龍夜は迷わず奥の倉庫に向かって歩き始めた。
龍夜は倉庫の入り口に着いた。
入り口を見ると、鍵はすでに開いていた。
と言うよりもその鍵は、何か強い力で叩き壊されている。
龍夜は何のためらいもなく入り口に手をかけると、ドアを一気にひき開けた。
そして中に入った。
外は乾燥した真冬だというのに、中は少しばかり湿気ていた。
そのうえやけにほこりっぽい。
古いコンクリートの粉をあたり一面にぶちまけたような匂いがした。
ずいぶんと長い間、閉鎖されたままでいたようだ。
湿気た床の上に湿気たほこり、その上に今はまだ乾燥している塵のようなほこりが上積みされている。
そして外観以上に広く感じられる内部には、明かりがついていた。
その明かりは倉庫の中央付近だけはまるでスポットライトのようにはっきりと照らしていたが、それ以外のまわりの空間は全て闇に沈んでいた。
少なくとも明かりの照らされている範囲には、何の荷物も置かれておらず、誰一人見当たらない。
龍夜がライトのところまで歩き、立ち止まった。
細かいほこりが下から小さく砂塵のように舞い上がる。
龍夜はそこで、顔を少し上にあげて強く息を吸い込むと、倉庫じゅうに響きわたるほどの大きな声をあげた。
「この暮れの忙しい時に、わざわざ出向いて来てやったぞ! おい、そこにいるんだろう。俺はおまえらみたいに、お暇じゃないんだ。さっさと出てきやがれ!」
すると奥の暗がりの中から男が一人出てきた。
白人の男性である。見た目の年齢は四十歳くらいであろうか。
深く頬のこけた顔は、髑髏を連想させる大きな丸い目以外にこれといって特徴のない顔立ちをしていたが、その体つきは異様であった。
身長はどう見ても二メートルをゆうに超えており、そして手足を中心に胴体も含めて体の全てが、異常なほどに細かった。
おまけにその細い手足が、冗談かと思えるほどに長い。
別に身をかがめることもなく真っ直ぐに立っていたが、左手首から先が膝の関節のすぐ横にまで伸びている。
そしてその右手には、鎌が握られていた。
それはまさしく、西洋の伝説に出てくる死神が持つ鎌そのものである。
おまけにその鎌は柄の部分もかなり長いが、それ以上に刃の部分がとてつもなく長かった。
鎌を持つ長身の男の背丈に、負けないくらいの長さがある。
まさに骸骨のような男が死神の大鎌を持っているのである。
男は能面のような顔で黙って龍夜を見ていたが、やがてにやけた笑いを浮かべた。
「よく来たな。このあほうが。罠とも知らずにのこのことやって来て。ほんとにおめでたいことだ。この国のことわざであったな。確か――飛んで火に入る夏の虫――だったかな。おまえは今まさに、そのとおりになってるんだぜ」
それを聞いて龍夜が、男に負けじとにやけた笑いを浮かべ返した。
「ふん、何を言ってやがる、偉そうに。このバーカ。これが罠だってことは、俺ははなから知っていたぜ」
「何だと?」
「罠だとわかっていて、それでもわざわざ出向いて来てやったんだぜ。ちっとはありがたく思いやがれ、この野郎。それでよお、もちろんそれなりに楽しませていただけるんだろうな。ええっ、どうなんだい?」
男は少しばかり動揺の色を見せたが、それはほんの短い間だった。
龍夜を不気味で怖いものが宿る眼で見ると、大鎌を両手で持って頭上に構えて、龍夜にむかって威圧するようにじりじりと近づいてきた。
龍夜がズボンのポケットから、糸で派手に装飾された棒を取り出した。
そして両手で強く握りしめると上段に構えた。
「いでよ、魍魎丸!」
その声に答えるかのように、柄の先が棒状に光った。
激しい炎を連想させるその光は、紫色に強く光り輝いていた。
やがてその光が消えると、そこには長い日本刀が姿を現わした。
それと同時に老人のしわがれた声が聞こえてきた。
「――いでよ、魍魎丸――じゃないじゃろうが。この大馬鹿者が。そんな時代がかった大げさなせりふをはかんでも、すんなり出てくるわい」
「でもかっこいいだろう。そうは思わないかい、えっ、じじい。前々から一度言ってみたいと思ってたんだぜ」
「まったく、このお子ちゃまが」
白人の男は歩みを止めて立ち止まり、大鎌を上段に構えたままでそれを見ていたが、やがて口を開いた。
「ほほう、それだな。その日本刀が、イストヴァンを殺した武器だな。とは言え、ただの金属の塊ではなさそうだ。生きている。妖怪か何かは判らないが、とにかく生きていることだけは確かなようだ。おまけに何か不思議な力をも持っているようだな。なるほど、まさにリリアーナの言ったとおりだ」
「ほほう、その女はリリアーナと言うのか。確か〝視る〟力を持っているとかいう話だが」
「そうだ、小僧。よく知っているな。そう言えば貴様らのところにも、視る力を持つ者がいると、リリアーナが言っていたな。そいつが言ったのだな。でも貴様らは俺たちのことは、それほどわかってはいないはずだ。ところがこっちはリリアーナのおかげで、貴様らのことはなにからなにまでわかっているのだ。貴様らは強力な力を持ちながら、同時に自らの力を隠す技を持っているようだが、リリアーナにかかれば、そんなものは全てお見通しだ。だから全力でかからないとこの俺は倒せないぞ。わかったか、小僧!」
龍夜が首を右、左と強く倒し、こきこき鳴らせながら言った。
「黙って聞いてりゃ、さっきから自分の手の内を、べらべらとよくしゃべる野郎だな。よほど自信があるのか、それとも単なるおバカさんなのか。それにしてもリリアーナとか言う女が、そんなことを言ったのか。うちのゆづきと同じようなことを言うな。奴らは強大な力を持ちながら、それを隠す術を持っていると、ゆづきが言っていたが」
「ほう、その少女の名は、ゆづきという名前なのか」
龍夜の顔からにやけた笑いが消えた。
「おいおいおい、ゆづきが少女という事までわかっているのか。そのリリアーナとか言う女、はったりじゃなくて、なかなかの力を持っているようだな」
「だから言っただろう。貴様らのことはリリアーナが全て視たと。何からなにまでだ。だからさっきも言ったように全力でかからんと、お前死ぬぞ」
「……」
「それにしても、実に面白いものだな。お互いに〝視る〟力を持つ女が一人いて、お互いに自分の力を隠す技を持っている。こんなやつらは初めてお目にかかるが、案外俺たちは、似たもの同士かもしれんな」
「おいおい冗談じゃないぜ。あんたみたいなさえない中年男に似たもの同士と言われても、嬉しくもなんともないぜ。若くてきれいなおねちゃんならともかくよお。そんでさっきも言っただろう。もう忘れたのか。俺は忙しいんだ。これ以上のおしゃべりは無駄なだけだ。さっさとおっぱじめようぜ」
龍夜はそう言うと、魍魎丸を上段に構えて走り出した。
そして男に向かって何のフェイントもないままに、魍魎丸を振り下ろした。
男は大鎌を両手で持ち、その刃を受けた。
カン
乾いた大きな音が倉庫じゅうに木霊した後、二人は全く動かなくなった。
いや、動かないのではない。
動けないでいるのだ。
男の鎌を押す力と、龍夜が魍魎丸を押す力が全く同じであるがために、お互いに全力で踏ん張っているにもかかわらず、二人とも動きが止まっているのである。
その時、高い天井のはりのところで、何かが動いた。
龍夜からは死角になっていて見えない位置である。
男が一人いた。背が低く、小太りな男だ。
その顔は白人に近い顔立ちをしていたが、太い眉もオールバックの長い髪も、まるで東洋人のように黒い。
そして男はその手に木の棒を持っていた。
そしてその棒の先には、鋭い刃物がつけられていた。
それは槍であった。
男は槍を両手で下に向けて構えると、高いはりの上からから飛んだ。
男の身体は糸を引くように、龍夜へ向かって一直線に落ちていった。
そしてその槍の先が龍夜の体を貫こうとしたまさにその瞬間、龍夜が真横に飛びのいた。
鎌を持つ男は、押していた龍夜が目の前から急にいなくなったためにバランスを崩し、体が少し前のめりになった。
その直後、槍を持つ男がそこに落ちてきた。
その槍は鎌を持つ男の左耳を真上から貫いて、そのまま地面に刺さった。
男は慌てて槍を、地面と鎌男の耳から引き抜いた。
「いてっ! なにをする、このバカ。気をつけろ!」
鎌男が怒鳴る。
「すまない、悪かった」
槍男が頭を下げた。
「すまない、じゃない。いったい何処に目をつけているんだ」
「だから悪かったと言ってるだろう。あの小僧が急にいなくなったから、こうなったんだ。あの小僧が悪いんだ」
「……そうだな、おまえの言うとおりだ。あの小僧が全部悪い。とにかく今は仲間同士で言い争いをしている場合ではないな」
二人は大鎌と槍を構えなおし、龍夜の方に向きなおった。
鎌を持った男が耳からだらだらと赤い血をたれ流しながら言った。
「おい、よく避けられたな、小僧。まるでドゥシャンが隠れていたことが、最初からわかっていたみたいに」
「ヘイ、ユー、何を言ってやがる。いくら外国人だからと言ってもさあ、あんた日本語は正しく使うもんだぜ。最初からわかっていたみたいに、じゃなくて、最初からわかっていたさ。ゆづきが相手は二人だと言っていたからな」
「なんだと? 俺はわざと自分の気配を強く発し、このドゥシャンは逆にその気配を完全に消しさっていたというのに。それでも二人だとわかっていたのか。……なるほどそのゆづきとかいう少女、確かにリリアーナが言ったとおり、なかなかの力を持っているようだな。しかし小僧、安心するのはまだ早いぞ。これからが本番だ。俺とドゥシャン、俺たち二人を相手にして果たしておまえは、生きて帰ることができるかな」
ドゥシャンと呼ばれた槍を持つ男が言った。
「俺は左に行く。カルロスは右へ行け」
カルロスと呼ばれた鎌を持つ男が答える。
「わかった」
二人は走り、左右に分かれた。
ドゥシャンが龍夜の左に、そしてカルロスが右側に立った。
龍夜を中心にして三人の男が一直線上に並んだ。
龍夜は首を横に向けると、まず左にいるドゥシャンを見て、次に右にいるカルロスを見た。
――さあてどっちのほうが、やりやすいかな?
二人がじりじりと確実に龍夜に迫ってきている。
龍夜はもう一度素早く二人を見比べた。
そしてカルロスの方に目を留めた。
――この背の高い男に決めたぜ。
龍夜はドウシャンの方に体を向けると、魍魎丸を右手で高くさし上げた。
そして魍魎丸をドゥシャンめがけて投げた。
ドゥシャンがとっさに反応し、魍魎丸を槍の先で叩き落とした。
龍夜の後ろでカルロスが高笑いをはじめた。
「このバカめ。あせったな小僧。たった一つのえものを、投げてしまうなんて」
すると龍夜はくるりとカルロスの方へ振り返った。
そしてカルロスめがけて走った。
そのスピードは、とても人間とは思えないほどの速さであった。
瞬時に龍夜とカルロスの距離が縮まった。
「ぬうっ!」
カルロスはすぐ目の前にまで迫ってきた龍夜に向かって、大鎌をふりおろした。
しかし猛スピードで真っ直ぐ自分にむかって来る者に対して、その距離感はつかみ難いものだ。
カルロスの鎌はむなしく空を切った。
その時すでに、龍夜はカルロスの懐に飛び込んでいた。
龍夜は全く止まることなく、そのまま全体重を乗せた右拳をカルロスのみぞおちあたりに叩きこんだ。
その動きは空手の正拳突きに似ていた。
「げほっ」
苦悶の表情を浮かべて、カルロスの体が前のめりに折れた。
そこをすかさず龍夜が、すばやく体を回転させながらの左アッパーを突き上げた。
その拳はカルロスのとがったあごの先端を、的確にとらえた。
「ぐふっ」
カルロスが今度は後ろにのけぞった。
「カルロス!」
ドゥシャンはそう叫ぶと、慌てて二人に向かって走った。
その時ドゥシャンの腹を、激しい痛みが襲った。
「ぐわっ!」
見ればドゥシャンの腹から、長い金属の刃物が突き出していた。
それは、さっきドゥシャンが叩き落したはずの日本刀である。
その日本刀がドゥシャンの背中から腹に突き抜けていたのだ。
低くてしわがれた力強い声が聞こえてくる。
「ほんにおぬしたちも、バカじゃのう。この武器は生きている、と自分で言っておいて。そうよ、わしはこのとおり生きておるわい。生きていればこそ、こうやってしゃべることもできるし、飛ぶこともできるし、そしておぬしの腹を突き破ることもできる。それくらいは思いつかんかったかのう。まことにおろかな奴じゃ。さてと、そろそろその血をいただくとするか。この間と違ってもう一人おるもんでな。さっさと吸わせてもらうぞい」
魍魎丸と呼ばれた日本刀は、ドゥシャンの血を吸いはじめた。
それは以前にイストヴァンの血を吸った時とは、比べものにならないほどの速さである。
たちまちのうちにドゥシャンの血は全て吸いとられた。
カルロスは全てを見ていた。
龍夜の左後ろ回し蹴りをその顎に、右ストレートをその顔面に受けながらも、しっかりとドゥシャンの断末魔を見ていた。
「ドゥシャン!」
ダメージはあったが、かまわずカルロスは半ば闇雲に、大鎌を龍夜に向かって振り下ろした。
しかし大鎌は龍夜には当たらなかった。
龍夜が大きく後方に飛びのいたからだ。
龍夜はさらに二度ほど連続して後ろにふわりと飛ぶと、ドゥシャンの横に立った。
そしてカルロスから視線をはずことなく、ドゥシャンの体から日本刀を右手一本で引き抜いた。
ドゥシャンの小太りの体が力なく床にどたりと倒れる。
そして龍夜が見ている目の前で、ドゥシャンはあっと言う間に真っ白い灰の塊となった。
龍夜が言った。
「さあて、やっとお邪魔虫がいなくなったな、死神の大将よ。さあ二人っきりで、思う存分やりあおうぜ」
「きさま、よくもドゥシャンを!」
カルロスは走った。
真っ直ぐに龍夜に向かって。
そして怒りを込めて大鎌を振り下ろした。
龍夜は魍魎丸でそれを受けた。
カルロスはかまわずに鎌を振り回し続けた。
上から下から、右から左から、死神の大鎌がたて続けに龍夜をおそう。
まさにかまいたちを思わせるものすごい速さで、そして巨大なハンマーを振り回しているかのようなとてつもない力で、龍夜にむかって息もつかせず攻撃をし続けた。
しかし龍夜はその攻撃の全てを受けた。
そしてカルロスが大鎌に力を込めすぎて体のバランスを崩し、一瞬攻撃の手を緩めた時、龍夜が真後ろに飛んだ。
それは通常の人間ではありえない距離である。
つっ立った状態からそのまま後ろにぽんとジャンプしただけだというのに、軽く十メートルは飛んでいた。
驚くカルロスをしりめに龍夜が言った。
「あんた、ものすげえ速さだな。それ以上にほんと、とんでもないバカ力だ。いやーっ、腕がしびれてきたぜ。そこで提案があるんだけど、いいかな。ほんの少しだけでいいから、ちょいと休憩させてくれないかい?」
それを聞いてカルロスは、怒りとも笑いともつかない表情をし、そしてどちらともとれる口調で言った。
「休憩だと。ふざけるな小僧! 死んでたっぷり休憩しやがれ」
カルロスは走った。
そして再び龍夜にむかって大鎌を振り下ろした。
龍夜は両手を上に上げ、魍魎丸を真横にしてそれを受けた。
全身の力を込めて大鎌を上から押すカルロス。
それを下から受ける龍夜。二人の動きが再び止まった。
両者の力が完全に同じだ。
龍夜が言った。
「最初の状態にもどったな。しかし今度はもう、加勢してくれる仲間はいないぜ」
「やかましい! そんな奴いなくとも、きさまをばらばらにしてくれる」
「あんたにそんなこと、果たしてできるかな。あんたはとてつもない速さとパワーを持っている。それは素直に認めよう。しかし残念ながら、一つだけ大きな欠点があるぜ」
「なんだと、小僧。ほざくな。そんなはったりなど聞く耳もたぬわ」
「はったりなんかじゃないぜ。それを今から証明してみせるぜ」
龍夜は力を込めて魍魎丸を持つ両手のうち、刃物側にある右手の力を少しだけ抜いた。
すると魍魎丸の刃先が、するりと下がった。
全体重をのせて魍魎丸を押していた大鎌の刃は、魍魎丸にそって斜め下に流れて、そのまま床に突き刺さった。
と同時にカルロスの体が前につんのめる。
一瞬の間をおいて龍夜が、すでに大鎌の力を受けなくなった魍魎丸を、そのまま真横にはらった。
魍魎丸の刃がカルロスの首にあたり、そしてその後ろへと抜けた。
カルロスの首が床の上にぼとりと落ち、その切り口から血が吹き出してきた。
龍夜がその顔に、冷たく、同時に美しいとも言える笑みを浮かべた。
「おまえの欠点はその大きな鎌さ。そんなバカでかくて小回りのきかない武器は、実践では何の役にもたたないんだよ。だから言っただろう。はったりなんかじゃないって」
そう言いながら龍夜は、魍魎丸の刃をカルロスの首の切り口に突き刺した。
「やめろーーーっ!」
転がっているカルロスの首が、まさに絶叫した。
しかし魍魎丸はすでにカルロスの血を吸いはじめていた。
「おっ、お願いだ。頼む。助けて…く…れ……」
龍夜がカルロスの首を見る。
その首は口を大きく開けてはいたが、そこからはもう何も聞こえなくなっていた。
やがて魍魎丸が血を吸うのをやめた。
カルロスの血を全て吸い尽くしたのだ。
龍夜が魍魎丸を引き抜いた。
カルロスの体が床に倒れる。
そしてその体と首が、別々の場所で同時に白い灰の塊となった。
それを待っていたかのように、しわがれた声が言った。
「おう、またやったな」
龍夜が答える。
「ああ、やったな。第二ラウンドのハンディキャップマッチ、とりあえず完全KОで終了と言ったところかな。……ところで」
龍夜が倉庫の入り口近くの闇溜まりに目を移した。
「さっきからそこに隠れて黙って見ている奴。今すぐ出てきて、姿を見せろ!」
龍夜は目線の先を魍魎丸で指した。
するとその暗がりから、音もなく鋭い眼つきの男が出てきた。
その男は二階堂進だった。
その手にはしっかりと拳銃が握られている。
二階堂が言った。
「おいおいおいおい、いったいぜんたいなんなんだ、あいつらは。……一瞬で灰になるわ、落ちた首がしゃべるわ。……それ以前にあいつら、とても人間とは思えない動きをしていたぜ。もちろんおまえもな。お前はいったい何者なんだ」
龍夜が二階堂に、刺すような視線をむけた。
「……見たな」
それを受けて、ただでさえ鋭い二階堂の眼が、さらに怖々いものになった。
「ああ、見たさ。途中からだが。お前が男に日本刀を投げたところからだが。お前たち三人がやりあうのを、ずっと見てたさ。……本来なら止めにはいるところだが、あまりのことに見入ってしまって、止めるのも忘れて最後まで見てしまったぜ」
龍夜は二階堂の顔をじっと見つめた後に言った。
「おまえ、刑事だな」
その言葉に二階堂は、軽い驚きの表情をその顔にうかべた。
しかしすぐさま、深くきつい眼で龍夜を見返した。
「おう、刑事だ。よくわかったな」
「そんなやばい眼つきの奴は、この日本では刑事かやくざしかいないぜ。そんであんたはさっき、〝本来なら止めるところだが〟とか言ったな。やくざは他人の争いを面白がって見物することはあっても、わざわざ止めたりなんかはしないぜ。すると残りは刑事しかないだろう。……それはさておいて、俺もあんたに少々びっくりしているところなんだ。あんたはあんなものを見たもんで、
充分に驚いている。充分に驚いてはいるが、全く怖がってはいない。普通ではとてもありえないよな。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはおつむのどっか大事なところが、一本抜けているのか。それとも――」
「それとも……なんだ」
「いや、なんでもない。まさかそんなことが、あるはずがない」
「そんなこととは、なんだ? いやその前に、あの灰になった白人はなんなんだ。それ以前にお前はいったい何者なんだ。答えてもらおうか」
「そんなことに答えるつもりはないな。俺はもう、お家に帰らせてもらうぜ。良い子はとっくに寝る時間だぜ」
二階堂が拳銃を構え直した。
「待て。お前には聞きたいことが、山ほどある」
「ほほう、その拳銃でどうするつもりだ。この俺を撃つのか。いったい何の罪で? 白人男二人を灰にした、殺人罪でか」
「お前の返答次第では、そうなるな」
龍夜が――おもしろくて仕方がない――という顔つきになった。そして言った。
「へへえーーっ、殺人罪ね。それじゃあ死体はいったいぜんたい、何処にあるんだ? 二人とも全部ただの灰になって、血の一滴すら残ってないぜ。それにあんた報告書には、いったいどう書くつもりなんだい。――白人の男二人と日本人の少年一人の三人が、武器を持って争っていました。三人とも、てんで人間ばなれした動きをしていました。そのうちにその少年が持っていた日本刀が勝手にぴゅぴゅんと飛んできて、槍を持った男の背中に突き刺さりました。すると日本刀が、その男の血を全部吸ってしまいました。血を吸われた男の体は全て真っ白い灰になりました。少年はその次に、鎌を持った男の首をはねました。その首はぽとんと床に落ちても、まだ未練たらしくしゃべっていました。少年がその男の体に日本刀を刺すと、またもやその日本刀が男の血をおいしくいただいて、その男の体も灰になりました。ついでに落ちた首も、お手手つないで仲良くいっしょに灰になりました。以上がこの私が、この目ではっきりと見た全てです。神に誓って真実です。間違いありません。私、絶対、嘘つかないアル。お願いです。どうか信じてください――とでも、書くのかい?」
「……」
二階堂は力なく拳銃を下におろした。
「ようやくわかったようだな、このど石頭の公務員が。この件に関して刑事さんの出る幕なんか、一幕もないぜ」
龍夜はそう言うと、すでに刃物の部分が消えている魍魎丸の柄を、後ろのポケットにねじ込んだ。
そして残っていた大鎌と槍を鼻歌まじりに拾うと、倉庫を出ようとした。
その時二階堂が声をかけてきた。
「おい、そいつを、どうするつもりだ?」
「そんなこと、聞くまでもないだろう。こんなものがこんなところに残っていたら、ちょっとした騒ぎになる。まあ結局は何がなんだかわからないままにうやむやにはなるだろうが、よけいな騒ぎは起こさせないに越した事はないからな。こっちで勝手に処分させてもらうぜ。文句無いだろう。刑事さんよ」
「……」
「返事は!」
「……ない」
「よしよしいい子だ。それじゃあ失礼させてもらうぜ」
「ちょっと待て」
「おいおいまだ何かあるのか。全く公務員と中年男は、しつこいぜ。中年の公務員とくれば、なおさらだな」
「とにかく、一応お前の名前だけでも聞いておこう。名前は何と言う」
「名前か。名前くらいなら、いいかな。俺の名は、九龍龍夜。数字の九に、龍神様の龍。複雑で字数の多いほうの龍だぜ。で、もひとつ龍に、真夜中の夜。くりゅうりゅうやだ。アー・ユー・アンダスタンド?」
「九龍龍夜か。……変わった名前だな」
「おう、もちろん本名だ。芸名じゃないぜ。俺は芸能人なんかじゃないからな。ごくごく平凡でどこにでもいる、人畜無害な小市民さ。おっと刑事さん。住民票で調べても無駄というもんだぜ。住民登録してないからな。ついでに税金も今まで一度も払ったことがないんだけど。そんな訳で俺は、刑事さんのお給料には一切関係の無い人間なのさ。それじゃあもういいだろう。行かせてもらうぜ」
九龍龍夜は倉庫を出ようとした。
しかし数歩歩いたところでふと立ち止まり、振り返った。
「ところで刑事さんよ。あんたいったい、ここになにしに来たんだ」
「ただのカンだよ」
「カン?」
「そう、カンだ」
龍夜は、興味ありありと言った真剣なまなざしで、二階堂を見た。
「カン、とは?」
二階堂は龍夜のやけに力のあるその大きな〝眼〟を、吸い込まれるように見た。
そして二階堂は龍夜の眼を見ているうちに、何故だかわからないが、自分のカンに関する――全て――を話さなくてはならないような気がしてきた。
それはまるで催眠術にでもかかっているかのようだった。
「……ええと……なんと言っていいか……とにかく俺は、子供の頃から人並みはずれてカンが鋭かったんだ」
「ほう、カンが鋭かったってか。……例えば?」
「例えば? ……そうだな、最初に気がついたのは……そう小学一年のときだ。俺のお気に入りだった女の子が、クマのブローチがなくなったと泣いていたんだ。その時、突然視えたんだ」
「視えた……とは?」
「その子と仲の悪い女の子が、ブローチを体育館の裏にある植え込みの中に隠しているところが、まるで今見ているかのように視えたんだ」
「視えたのか……それで」
「それで? ……それからも、何度もそういうことがあった」
「どんなことが?……いや、それよりあんた、いつも〝視える〟のかい?」
「視えることが多いが……他には感じたりとか……文字や数字が頭に浮かぶこともある。まあ、いろいろだ」
「……」
「おかげで刑事になった今では、ずいぶんと重宝させてもらっている。と言うか刑事になってから、ますますカンがさえるようになったような気がする」
「なるほどな」
「それで今夜もそのカンが、この時間にこの場所に行けと、俺に告げたんだ。だからやって来た。まさかあんなにもわけのわからないものを見せられることになるとは、夢にも思っていなかったがな」
「そうか、よくわかったぜ」
龍夜は射抜くような眼で二階堂を見ていたが、やがて言った。
「異能力者だな」
「異能力者?」
「まあ、超能力者と言ったほうが、わかりやすいかな、一般的には。だいたいあんたのその能力、〝カン〟の一言で片付けられるようなレベルじゃ、全然ないぜ。……それにしても、まるでうちの、ゆづ……おっと、この話は、いいか」
「おい、今何を言いかけたんだ。〝ゆづ〟とか。……それはなんだ?」
龍夜が右手を――なんでもないよ――とでも言いたげに振った。
「そんなことどうでもいいじゃないか。こっちの話だよ。あんたには関係ないことだぜ。で、あんたの話に戻るとだな、たまーーにいるんだよな、あんたみたいな人が。で、もしあんたが本当に異能力者なら、俺たち、又会う機会があるかもしれないぜ」
「……出来ればお前なんかとは、もう二度と会いたくないものだな」
「おいおい言うなよな、そんなこと。もし実際にこの俺と付き合ってみたなら、案外気の合ういい奴かもしれないぜ。て、自分で自分のこと、いい奴って言ってるけど。……おっと、話が無駄に長くなってしまったようだな。もうそろそろ帰らないと。お家で心配しながら待っている、愛しい愛しい人がいるもんでね。早く帰ってやらないと、彼女がかわいそうなんでね。それじゃあせいぜい達者でな、刑事さん」
龍夜はそのまま武器を抱えて倉庫を出て行った。
二階堂はしばらくその場に残っていた。
その様子は、何かを深刻に考えているようである。
しかしおもむろに歩き出すと倉庫を出て、前に停めてある車に乗り込んだ。
そして車は走り出した。
闇の中に薄っすらと浮かび上がる、広く豪華な洋館の部屋。
その奥の黒革張りのソファーに、男が独り座っている。
その前に三人の人影があった。
二人は男、一人は女である。
ソファーの男以外は三人とも立っている。
四人はソファーの前に置かれた一つのテーブルを囲んでいた。
小さくて丸くて、足が一本しかない質素なテーブルだ。
その上に大きな水晶玉が置かれていた。
妖艶な若い女が目を閉じて、水晶玉に両手をかざしている。
周りの三人の男がその水晶玉を覗き込んでいた。
水晶玉には映像が写っていた。
それはまるで映画かテレビでも見ているような、はっきりとした映像だった。
今その水晶玉には、港の倉庫の前を走り去る一台の車が写っていた。
二階堂の乗った車である。
女が両手をかざすのを止めて、ゆっくりと腕をおろす。
すると水晶玉に写っていた映像が、かき消すように消えた。
女が、ふうっ、と大きな息を一つ吐く。
ソファーの男が目を閉じ、ソファーに深くその身をあずけた。
女と二人の男は何も言わずに、ソファーの男をただ見ていた。
やがてソファーの男がもったいぶったようにやんわりとその目を開けた。
「改めて聞くまでもないが、一応聞いておこう。みんな、今のを見たか」
右の男が言った。
「はい、伯爵様。確かに見ました」
左の男が後に続く。
「私も確かに、この目で見ました」
しばしの沈黙の後、再びソファーの男が言った。
「カルロスとドゥシャンの二人で戦えば、奴らの力がわかると提案したのは、リリアーナだ。我が自らの判断で、その提案を採用した。その結果として、残念なことにカルロスとドゥシャンの二人の仲間を失うことにはなったが。……そこで、この件に関して我に何か異議があると言う者は、遠慮なく申し出てみよ」
右の男が言った。
「いえ、異議など一切ございません」
左の男が再び続いた。
「伯爵様に異議の申し立てなど、めっそうもございません」
それを聞いてソファーの男はわずかに微笑むと言った。
「できればあ奴を、カルロスとドゥシャンの二人で倒して欲しかったが、本当に残念なことだ。ただ二人の尊い犠牲によって、重要な情報を得ることができた。奴らの力が全てわかった。もう恐れることは何も無い。我々の勝利は目の前だ」
今度は左の男が先に言った。
「はい、伯爵様」
そして右の男が続く。
「おっしゃるとおりでございます。伯爵様」
「それでは二人とも、それぞれ部屋に戻って奴らへの対策を考えるように。我は我で考えてみる。二人とも、もう下がってもよいぞ」
二人の男がほぼ同時に答えた。
「わかりました、伯爵様」
「仰せのとおりに、伯爵様」
二人の男は深々と一礼をすると、部屋を出て行った。
部屋には一人の男と一人の女が残された。
ややあって、男が女の顔をのぞきこむように見た。
「どう思う、リリアーナ」
リリアーナと呼ばれた女が答える。
「あいつらの力を見ました。あれがあいつらの力の全てであれば、ヴォルフガングとクリフトフの二人で、十分倒すことができるでしょう」
「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」
「それに仮に、何かの間違いであの二人がやられたとしても、ここには伯爵様がおられます。伯爵様にかかればあんなやつらなど、赤子の手をひねるがごとく、あっさりと殺すことができるでしょう」
「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」
「なにしろ伯爵様は〝ドラゴンの子〟なのですから」
「そうだな」
伯爵様と呼ばれた男は、リリアーナの顔に自らの顔を近づけた。
しばらく二人で見つめ合った後、リリアーナがその目をゆっくりと閉じる。
伯爵は自分の唇を、リリアーナの柔らかくて厚い唇にあてた。
二人はお互いにお互いの唇を激しく求め合った。
二階堂は自分のアパートに帰った。
もう午前二時を過ぎている。
十分に疲れていた。
そのまま風呂にも入らずに、寝巻きに着替えてベッドに入った。
明日は早くに署のほうに顔を出さなくてはならない。
もしも遅れようものならば、あの若くうすらバカの笹本刑事に、何を言われるかわかったものではない。
二階堂は、何故だか自分でもよくはわからないが、あの笹本に文句を言われるとひどく気分を害する自分がいることを知っていた。
それは笹本が、二階堂がとっくの昔に、おそらくまだ幼少といって言いころに無くした何かを、大人になった今でも後生大事に抱えて生きているからかもしれない。
しかしはっきりとしたことは二階堂にもわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。
そういった訳で二階堂は、無理やりにでも早く寝て早く起きようと考えていた。
ところがついさっき、あんなとんでもないものを見たばかりだ。
体は十分に疲れていたが、その精神は極度の興奮の中にある。
とてもすんなりと眠りにつける状態にはほど遠い。
二階堂はベッドの中で何度となく寝返りをうち、しばらく無駄な努力を重ねていたが、やがてその努力を放棄した。
――こうなったら、酒でも飲むか。
彼はベッドから起きて、いかにも重たそうに台所へむかった。
冷蔵庫の中にいつも冷やしている冷酒がある。
自分用ではなくめったに来ることのない来客用だが、とりあえずそれで一杯やろうと思っていた。
ところが台所に通ずる短い廊下を歩きはじめた時、突然に声がした。
「おい、刑事さんよ」
それはあの九龍龍夜の声だった。
二階堂は慌ててまだ点けていなかった廊下の明かりのスイッチを押した。
明かりがつくとすぐ目の前に、九龍龍夜が立っていた。
「なんだお前! いったいどうやってここに入った」
やや興奮ぎみの二階堂をなだめるように、龍夜が言った。
「まあまあまあ、そんなに怒りなさんなって。どうやって入ったかと聞かれれば、玄関のドアを開けて入りました、としか答えようがないけど」
「そのドアには、確か鍵がかかっていたはずだが」
「カギぃ? ああ、あのカギね。あんなちゃちなカギなんか、この俺は二秒で開けられるけど。それはともかく刑事さん、いますぐ来てくれ」
「来てくれって、いったい何処に?」
「俺たちの住みかさ。で、なんでこんなおっさんを呼ばなきゃならないのか、俺にもさっぱり判らないんだがな。でもゆづきが刑事さんを呼んでくれと言うものだから。それで仕方なくおっさんを呼びに来たんだ」
「ゆづき? それは人の名前か……ああ、おまえたしか前に、ゆづ、とか言っていたな。あれだな。それで、ゆづきとは誰なんだ」
「ゆづきは俺の仲間さ。とは言っても、まだ十歳の女の子だけどな。でもおっさん、だだの女の子とは、全然ちがうぜ。普通の人間にないすごい力を持っているんだぜ。まあ、なんと言うか、おっさんの持っている異能力に近いかもな。とは言っても、どう考えてもまるで違うけどな。なんせおっさんの持っている力より、はるかに強力で、上等で、上品で、可憐で、華麗だからな。ものが違うぜ、ものが」
「えっ? なんだと。それでそのゆづきとかいうほんの十歳のガキが、この俺を呼べと言っているのか」
龍夜がその顔を、二階堂の顔におもいっきり近づけてきた。
「おいおいおい! 俺の愛しい愛しいゆづきをガキ呼ばわりとは、とんでもねえ野郎だぜ。全く。本来ならそんなたわけたことを言う奴は、たたんでのしてしまうんだが、ゆづきが何事も無く無事に連れて来てくれと言うものだから、それはできないな。残念だけど。……えっと、それはそうと。……まあそんなにごちゃごちゃ言わずに、とにかく来てゆづきに会ってくれよ。ゆづきはかわいいぜ。あと十年もたたないうちに、超絶世の美女になるだろうな。町中の男がひれ伏すようないい女にな。で、おっさんがもしロリコンだったなら、もう一発でゆづきの虜になっちゃうぜ。……そんでもって、おっさん……ひょっとしてロリコンかい?」
「なにをバカな事を言ってる! とにかくそのゆづきとか言う女の子が、俺を呼んでいるという事はわかった。それでその子は、なんで俺を呼んでるんだ」
二階堂が負けじと、さらに顔を近づけた。
あまり身長の変わらない二人の鼻が、ほとんど触れ合う直前になっている。
「おい、それはさっきも言っただろう。人の話はちゃんと聞きやがれ! このボケナス野郎が。そんで、それがさっぱりなんだよな。とにかく早く連れて来いの、一点ばりなんだぜ。本当なら二人っきりのうれしはずかし我が家のはずが、ただでさえ魍魎丸がいつもいつも邪魔をしていることろなのに。そこにもってきて、こんな超むさくるしいおっさんをプラスするなんて。いったい何を考えてんだか、あいつは。……で、話をもとに戻すとだな、とにかくそんな訳なんで、四の五の言わずに大人しくさっさと来てくれないかい。おっさん、ゆづきが待っている。あまり待たせたら、ゆづきがかわいそうだぜ」
「魍魎丸とは何だ?」
お互い少し離れた。
「魍魎丸は、俺の持ってる日本刀さ」
「やっぱり。あの血を吸う日本刀か」
「そうさ。あの血を吸う日本刀さ。おっさんなら、細かいこと言わなくてもわかるよな。そう、あいつは生きている。なんで生きているかを説明すると、話がとてつもなく長くなるんで今は止めとくけど。で、その魍魎丸が俺とゆづきが仲良くしていると、いい年こいてやきもちを焼いて、いっつも邪魔をするんだよなあ。あのくそじじい、困ったもんだぜほんとに。あの野郎、いつかぎっちょんぎっちょんにしてやるぜ。覚えてろよ。……おっと、話がほんのちょっとだけそれたみたいだな。とにかく何べんも言うけど、今すぐゆづきのところに来てくれないか」
「さっきから来てくれ来てくれと言ってるが、俺がそんなところへ行かなければならない義理とか義務でも、あるのか」
龍夜が西洋人のように両手をひろげ、肩をすくめた。
「またあ、義務とか義理とか。これだから公務員はいやなんだよな。すぐに小難しい言葉を、意味もなくいっぱい並べたがる。そのくせ話の中身はほとんどないか、てんででたらめときたもんだ。政治家どもがいい例だよな。……よしわかった。俺が悪かった。そんなに言うなら、恥を忍んでここはお願いする。おっさんお願いだ、今すぐゆづきのところに来てくれ。頼む」
龍夜はちょこんと頭をさげたが、すぐに上げ、二階堂の顔をのぞきこむように見た。
「おい、この野郎。この俺が人に頭をさげるなんて、めったにないことなんだぞ。ちゃんとわかってんのか。ちょっとはありがたく思いやがれ」
二階堂が龍夜のまねをして、両手をひろげ肩をすくめた。
「こいつだけは、ほんとに。それで人に頭を下げているつもりか。……まあそれはいいか。実は俺もお前たちには大いに興味がある。その住処とやらに連れて行ってくれるというなら、こっちは大歓迎だ」
「なんだよ。それならそうと、さっさと言えよ。おかげで無駄に長くしゃべっちまったじゃないか。大体俺は口下手なんだ。しゃべるのは大の苦手なんだよな」
「……いったいどの口が口下手なんだ。まあそれはさておいて、すぐに承諾しなかったのは、お前からいろいろと聞きたかったからさ。今度はそのゆづきという女の子から、面白い話が聞けるかもしれんな」
「おおっ、いやと言うほど聞けるさ。よし、そうと決まれば、早速行こうぜ」
龍夜は二階堂の手を引っ張って玄関にむかおうとした。
二階堂が足を踏ん張る。
「おい、ちょっと待て。俺はまだ寝巻きだぞ。着替えさせろ」
「おいおいおっさん、何をそんな小さなこと言ってるんだ。そんなんじゃ大物になれないぜ。そんなこと気にしない気にしない」
龍夜は再び二階堂の手を引っ張り、外に出た。
そしてそのまま階段のほうへと向かう。二階堂が慌てて言った。
「おい、玄関の鍵、まだ閉めてないぞ」
「またあ。刑事の部屋に入るどろぼうなんて、世界中探しても何処にもいないさ。そんな小さなこと気にしない気にしない」
そのまま階段を降りると、階段を出たところにバイクが停めてあった。
カワサキの900CCのヨーロピアンスタイルバイクである。
龍夜はバイクにまたがるとヘルメットをかぶり、後ろに乗るように二階堂にあごで指示をした。
二階堂がバイクにまたがると、龍夜はバイクのエンジンをかけた。
二階堂が龍夜の背中を数回叩いた。
「おい、ちょっと待て。俺のヘルメットはどこだ?」
「ヘルメット? そんなもん、ひとつしかないぜ。今俺がかぶってるやつだけだ」
「おい、冗談じゃないぜ。この俺がノーヘルでバイクになんか乗れるか」
「そんなあ、また小さいことを言って。そんなこと気にしない気にしない」
龍夜は二階堂の頬を軽く叩くとバイクのギアを入れ、スロットルを思いっきり回した。バイクは急発進してそのまま道路に出た。
「ばかやろう! 俺を誰だと思ってるんだ。俺は刑事だぞ。おまえ、わかってんのか。これでも法の番人なんだぞ」
「まったく。これだから公務員てやつは、いやなんだよな。ほんと小さい小さい」
バイクはそのまま猛スピードで走り去って行った。
伯爵がふと、その動きを止めた。
「どうかしましたか? 伯爵様」
リリアーナが聞いた。
「……いや、ちょっと気になることがあってな」
「何でしょうか?」
「あの男だ」
「あの男?」
「あの男だ。最後に車で走り去った男だ」
二階堂のことだ。
「ああ、あの男ですか」
伯爵はリリアーナの目を、強く見た。
「リリアーナ、あの男はいったいなんなのだ? 何故あそこにいたのだ?」
彼らはリリアーナの水晶玉を通じて、龍夜たちの映像は視ていた。
しかし姿を写しとるだけの水晶玉では、龍夜たちの会話を一切聞くことが出来なかったのである。
「さあ? わかりませんが」
「わからないだと……お前がか? ……何か問題はないのか」
「問題ですか? そうですね。……あの男からは、何の力も感じませんが」
「感じないのか」
「はい、見事なくらいに何の力も危険も、まるで感じません。こんなにも感じない人間は、逆に珍しいくらいです。というよりここまで何もない人間は、今までに一人も見たことがありません。ごくあたりまえの人間でさえ、わずかばかりの力は感じ取れるというのに。あの男はあまりにもその力がないがために、私が何者かわからないのだと思われますが」
「問題はないんだな」
「はい、あんな力なき男、たとえ千人いたとしても、何の問題もありません」
伯爵の目が和らぐ。
「そうか。それを聞いて安心したぞ」
「安心しましたか」
「うむ、何故かちょっと気になったのだが、今の話で憂いはなくなったぞ」
「そうですか。……それでは、伯爵様」
二人は見つめ合った後、再び互いの唇を求め合った。
バイクは市の中心を大きく離れて、郊外に出た。
そしてそのまま山間部の方へとむかって走って行った。
山に入ったバイクは、しばらくは車が対向できるくらいの道を走っていたが、突然横のわきの坂道に入って行った。
一応舗装はされているが、普通乗用車一台がやっと通れるくらいの幅しかない道である。
おまけに急な上がり坂のうえに、大小のカーブが連続してうねうねと目の前に現れる。
バイクのライト一つでは十分には見ることが出来ないが、どうやら道の片側は深い崖になっているようだ。
おまけにガードレールもどこにも見当たらない。
車はもちろんのこと、二人乗りのバイクではさらに危険なその道を、龍夜の運転する大型バイクは信じられないほどのスピードで走っていた。
「……」
二階堂は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
崖から落ちたら命が無いことは想像がつく。
だからといって、危険な運転を続けている龍夜に何かに声をかけたら、それが原因で事故を起こしてしまうような気がしたからだ。
ただひたすら龍夜の背中に、しっかりとしがみついているだけである。
そして単純な原始的恐怖を感じ続けている二階堂を乗せた荒馬バイクは、二階堂が感じる時間からすればかなりの時間が過ぎたと思われる頃、なんの前触れも無く急にスピードを落とした。
そこはちょっとした平地になっていた。大きなカーブの内側に、車が二、三台止まれるくらいの土のスペースがある。
バイクはその中心あたりに停まった。
その平地の奥に石段があった。
バイクのライトしか明かりがなかったが、それはずいぶん昔に造られたもののように、二階堂には見えた。
そして石段のすぐ手前に、小さな鳥居があった。
これもまた、ずいぶんと年季がはいったものだった。
かつては真っ赤に塗られていたであろうその鳥居は、今はその赤かった部分がほとんど剥げ落ちており、その大半が永年風雪にさらされてきた木の黒茶色で占められている。
おまけにあちらこちらで木の表面が、哀れなくらいにえぐられていた。
特に地面に近い部分は――おそらく白蟻にでも食われたのだろう――その太さが半分近くになるくらいまで周りを食い散らかされていた。
今建っていることが不思議に思えるほどの状態である。
二階堂がそれらをぼんやりと見ていると、龍夜がバイクのエンジンを切った。
とたんにあたりが真っ暗な闇につつまれる。
龍夜がバイクを降りると言った。
「おい、おっさん。いつまで後生大事にバイクにしがみついているんだ。さっさとゆづきのところへ行こうぜ」
二階堂もバイクを降りた。
「暗くて何も見えないぜ」
「もうほんとに、これだから公務員は。って、これは公務員とは関係ないか。しょうがねえなあ。引っ張ってやるから、ついて来い」
龍夜は二階堂の手をつかむと、すたすたと歩き出した。
二階堂が半ば引ずられるような形のまま、ついて行く。
二階堂は足元のよく見えない石段で何度か転びそうになったが、そのたびに龍夜が手を引いて助けてくれた。
恩着せがましく文句を言いながらだが。
その石段は神社に通じる石段としては、そんなに長くはなかった。
十数段ほど登ったと思われた時、開けた場所に出た。
そしてその奥に明かりが見えた。
その明かりはそこに建っている古い神社からもれていた。
その神社は、神社としてはかなり小さいほうだろう。
その大きさが、一般的な民家より少し大きいくらいの大きさしかない。
そして本堂の横に小さな古びた蔵のようなものがあるだけで、他には何の建造物も存在しない。
狛犬とか灯篭とかといったものもなかった。
あきれたことに、神社には、たとえそれがどんなに寂れていたとしても違いなくあるはずの賽銭箱さえ、どこにも見当たらなかった。
敷地の面積もさして広くはない。
龍夜はじっと神社を見ている二階堂を無視して、本堂の左側にある扉を開けて、中に入った。
二階堂が慌てて龍夜の後を追う。
中には幅の狭い土間があり、その先には同じく幅の狭い広縁があった。
柱や天井などを含めた全体の様子から、かなり年月の経ったもののように思える。
広縁の先には六枚の障子が並んでいた。
龍夜は靴を脱ぐと広縁にあがり、真ん中にある二枚の障子を左右に開けた。
そこは日本間となっていた。
その二十畳以上ある日本間の真ん中の奥に、巫女が着る衣装を身にまとった少女が正座をしていた。
その少女が龍夜ごしに二階堂を見た。
二階堂はあっけにとられていた。龍夜から〝かわいい〟とか〝絶世の美女になる〟とか聞かされてはいた。
しかし身内の欲目がかなりあると考えていたので、まさかこれほどまでとは思ってもいなかったからだ。
日本中、いや世界中のどこにだしても遜色のない、完全無欠で正真正銘の美少女である。
そのうえに二階堂を見るその大きな黒い瞳の中に、広い知性と強靭な意志、そして大きくて深い母のような愛が宿っていることが、二階堂には瞬時に理解できた。
もって生まれた奇跡的ともいえる顔立ちのよさ、それに加えてその内面の強さと美しさを、彼は痛いほどに理解した。
決してロリコンの気はない二階堂だったが、今目の前にいる少女を、心の底から〝美しい〟と感じていた。
ゆづきの顔を、穴が十個も二十個も開くほどじっと見つめている二階堂を見て、龍夜があからさまに不機嫌な口調で言った。
「おい、おっさん。さっきから何、ゆづきに見とれているんだ。このおっさん、やっぱりロリコンだったんだな。危ねえ危ねえ。おい、おっさん、ゆづきに会うのはこれっきりだぞ。もう二度と会わせねえからな。わかったか!」
龍夜をなだめるように、ゆづきが柔らかく言う。
「まあまあ龍夜様、もうそれくらいにしてくださいませ」
「……」
龍夜がおとなしくなったのを見とどけてから、ゆづきが二階堂に目を向けた。
「ようこそおいでくださいました二階堂様。遠路はるばる本当にご苦労様でございます。さあ遠慮なさらずに、どうぞお上がりくださいませ」
その声にあやつられるかのように、二階堂は日本間に上がった。
そしてすでに用意されていた二枚の座布団のうち、右側に座った。
龍夜が、子供がふてくされたような顔で二階堂を睨みつけながら、左側の座布団に座る。
二人が座り終えると、ゆづきが言った。
「では二階堂様。二階堂様におかれましては、いろいろとこのゆづきにお聞きになりたいことがございましょう。何なりと遠慮なさらずに、聞いてくださいませ。出来る限りお答えいたしましょう」
二階堂はしばらく黙ってゆづきを見ていたが、やがて口を開いた。
「じゃあ聞こう。何故俺をここに連れてきたんだ?」
「その質問には残念ですが、今はお答えすることができません。誠に申しわけありませんが。しかしその疑問については、そのうちにわかる時がくるでしょう。それまでしばしの間、お待ちくださいませ」
「では聞くが、お前達はいったい何者なんだ?」
「それについてはお答えできます。私達は……」
龍夜が突然声を荒げた。
「おいおい、ゆづき。こんな一度会っただけの公務員で国家権力の犬のおっさんになあ、俺たちの正体を明かしていいのかよ」
ゆづきが龍夜の顔をじっと見つめた。
その顔はまるで、母親が幼い我が子を優しくあやすような、そんな表情である。
「はい、龍夜様。それに関しましては、全く憂いはございません。龍夜様はこのゆづきが、他の誰よりも慎重で用心深い性格であることは、よくご存知のはずでしょう。それにいまさら言うまでもないことですが、私には〝視る〟力があります。そのことも含めて、この私が大丈夫だと判断して言っているのです。いらぬ御心配をなさらずに、このゆづきに全てをまかせていただけないでしょうか」
「……ああ、わかったよ。ゆづきがそこまで言うのなら、仕方がないな。おまえの好きなようにしていいぞ」
「はい、お言葉に甘えまして、そうさせていただきます。では二階堂様、お答えいたします。実は私達は、九龍一族です。龍の一族とも呼ばれております。そしてもう一つの名を、〝もののけ狩り師〟と、言います」
「もののけ狩り師?」
その時龍夜が、またいらぬ口を挟んできた。
「おい、もののけ狩り師、だってよ、おっさん。だっさいネーミングだろう。ほんと、だせえぜ。言ってて恥ずかしくなるぜ、まったく。でもってこの俺としてはだな、こんなださださじゃなくて、もっと気の利いたかっこいい名前に変えたいんだが。例えばおっさん、横文字なんか、かっこいいと思わないかい?でも先祖代々使ってきた由緒ある名前だからだめだとゆづきが言うもんで、それで仕方なく……おいおいゆづき、そうにらむなよ。はいはい、わかりました。静かにしてますよ。九龍龍夜は、とってもいい子ですよ」
「おさわがせいたしました、二階堂様。申しわけありません。どうかお気になさらないでくださいませ。いつものことでございますから。こう見えても龍夜様は、美しい心の持ち主でございます。確かにその口は、少々悪いところがあるかもしれませんが、決して悪気はないのでございます。本当はとてもお優しい心をお持ちになっております」
「よせやい。体中が痒くなるぜ」
ゆづきは龍夜を見て軽く微笑むと、再び二階堂に視線を移した。
「では二階堂様。先ほどの話の続きでございますが、私達はもののけ狩り師として、そして九龍一族として千年もの長きにわたって、妖怪、もののけ、悪霊、あやかしといった悪しき存在と、戦ってまいりました。龍夜様とこの私はその末裔でございます。申し遅れましたが私の名は、九龍ゆづきと申します」
「二人は兄弟なのか」
「いいえ、兄弟ではございません。二人とも九龍の血を継ぐ者ではありますが」
二階堂が、ゆづきの右に置かれている刀掛けの上の日本刀を見た。
「それはわかった。ところで、その魍魎丸とは、いったいなんなんだ」
「はい、この者のことですね。者という言い方は、あまり正確とは言えませんが。お話しするととても長くはなりますが、申し上げましょう。魍魎丸はもともとは、龍夜様のおじいさまが造られたものです。この姿になる前は、四国のとある集落の土地神様と妖怪でした。最初はその土地で、ある妖怪が暴れたことから始まりました。困り果てたその土地のものが、みなで古くからその地で信仰されていました土地神様に熱心にお願いしましたところ、土地神様がそのお姿を現わしになられて、妖怪を退治しに向かったそうでございます。ところが妖怪と土地神様が戦っている最中に、その二人といいましょうか二匹といいましょうか、とにかく体がくっついてしまいまして一つになってしまったそうです。おそらく〝気〟が合ったのでございましょう。この場合の〝気〟とは、気持ちや人格などのことではございません。一方は悪しき妖怪で、一方は善なる土地神様なのですから、この双方の気持ちが合うわけがないのです。ところが、体のほうの〝気〟が合ってしまったのでございます。気と言うものは人間とっても大変重要なものですが、神様や妖怪といったある意味において人間以上ともいえる存在にとっては、人間よりもさらに大事なものでございます。例えば人間は、たとえ気がなくなって死んでしまっても体は土になるまで残りますが、神様や妖怪などは気が無くなると、途端にその存在自体が消滅してしまいます。体を構成する上においてそれほどまでに重要な気が合ってしまったわけですから、妖怪と土地神様はひとつになってしまわれたのでございます」
「それで一つになって、日本刀になったのか?」
「いえ二階堂様、まだ先がございます。ふたつはひとつになりましたが、それでみなが救われたわけではございません。ふたつがひとつになったが為に、その力はより強力になりました。それも二倍になったわけではありません。お互いの力の相乗効果で、最初に比べて数倍もの力を持つようになりました。そして土地神様の精神が勝っているときは、良かったのですが。なにせふたつの力は非常に拮抗しておりましたので、妖怪の心が勝るときがありました。そうなればより強力な力で、暴れることになるのです。人間も善と悪のふたつの心を持っているといいますが、そんななまやさしいものではございません。なにせ完全な善と、そして完全な悪なのでございますから。困り果てた人々を、修行の旅で偶然通りかかった一人のもののけ狩り師が、お助けいたしました。その人が龍夜様のおじい様です」
「そして、魍魎丸になったと」
「いいえ、まだでございます、二階堂様。おじい様は最初、その怪物を退治しようといたしました。ところが怪物があまりに強力なものですから、今度は封印することにしたのです。そしていつものように自分の持っているひょうたんに、封印しようとしたのでございます。今までに幾多の悪しき者達を封印してきたひょうたんでした。しかしこの怪物は今までの妖怪たちとは、その力が全然違っておりました。何十年もの長きにわたって数々の妖怪たちを閉じ込めてきたそのひょうたんを、内側から破壊しようとしたのです。このままではひょうたんが壊されてしまうと判断したおじい様は、急ぎ一振りの日本刀を作り、そのなかに怪物を封印したのです。それがこの魍魎丸です。一度お会いになったことがあるかと思いますが」
魍魎丸の中心部分が、わずかに紫色に光った。
「そうわしが魍魎丸じゃ。会うのはたしか二度目かのう、刑事さん」
口もないのに人間のようにしゃべる刀にむかって、二階堂が言った。
「確かに二度目だな。しかしこの年になって刀と会話することになるとは、全く想像してなかったが」
「おい刑事さんよ。刀、刀と気安く言うな。これでもわしは、もともとは強力な妖怪と力強い土地神が一つになった、この広い日本においてもまれにみる貴重で高貴な存在じゃぞ。もうちょっと敬わんかい。この未熟者めが!」
「これ、魍魎丸。もうそれくらいにしなさい」
「……」
「二階堂様、大変失礼をいたしました。それで日本刀に封印された魍魎丸ですが、刀から抜け出すことも刀を破壊することもできませんでしたが、その心ねは、最初はかわりませんでした。つまり善と悪との二つの心を持っていたのでございます。そこでおじい様が一日も欠かさず毎日気の通った念を送り、悪しき心のほうだけを消そうといたしました。おじい様が数年間もの長きにわたって、毎日一心に念じ続けたおかげで、ほとんど土地神様の心だけが残るようになったのです。正義にあふれる強く美しい心です。ただし悪しき妖怪の心と言うかその性格の一部分が、少しばかりではありますが残ってしまいましたので、そのなんと申しましょうか……はっきり申し上げてしまえばその口だけは、先ほどのようにあまりよろしくない結果となってしまいました。その点におきましては、龍夜様と全く同じでございます」
「おいおいゆづき、それは違うぜ。俺は確かに他の人と比べるとほんのちょっとだけ口が悪いかもしれないが、そこのくそじじいみたいに、いじわるじゃあないぜ」
「なにをぬかす。このわしがいじわるじゃと? いじわるなのは、おぬしのほうじゃ」
「なんだとぉ、このくそじじい」
「おやめなさい、二人とも」
「……」
「……」
ゆづきにそう言われると、二人とも借りてきた猫のように、大人しくなる。
二人、いや一人と一匹とでも言ったほうがいいのかもしれないが、ともにゆづきには完全に尻にひかれているようだ。
二階堂にはそのやりとりが面白くてしかたがなかった。
笑いをかみ殺すのにかなり苦労していた。
ゆづきはしばらくの間、龍夜と魍魎丸を交互に見ていたが、やがて二階堂に目を移した。
「他に何かございますでしょうか」
「うーん、そうだな。重要な質問がある。それはここにいる龍夜とやりあった、表面上の姿形は人間の姿をしているあいつらは、いったいなんなんだ?」
「あやつらでございますか。あやつらは一言で言うと、吸血鬼でございます」
「吸血鬼だと!」
「はい二階堂様、吸血鬼でございます。今風に申し上げれば、ヴァンパイアということになりましょうか。全部で七人いたようでございますが、そのうちの三人は、龍夜様がすでに倒しております。ヨーロッパから来たようです。国籍もさまざまで、ヨーロッパではありますが、一人一人違う国で生まれた人間のようです。人間と言いましたが、もともとはみな人間であった存在でございます」
「吸血鬼ということはわかった。おそらく間違いないだろう。発見されたガイシャの体には血が一滴も残っていなかったからな。それで、あいつらはヨーロッパ人なのに、なんであんなにも流暢に日本語がしゃべれるんだ」
「それは日本人の血を吸ったからでございます」
「日本人の血を吸っただと?」
「はい、そうでございます。吸血鬼は人間の血を吸うと、その者の知識を得ることが出来るようです。この場合あくまで知識であって、その者の思い出とか記憶とかいったものではございません。おそらく血を吸った人間の記憶をいちいち自分の頭に取り込んでいたのでは、自らの記憶と交じり合って混乱をきたすために、自然とそういうふうになったのだと思われます。そして血を吸った者のなかでも最後に吸った者の知識が、より強く記録されるようでございます。あやつらは全員日本に来て日本人の血を吸いました。最後に血を吸った人間が日本人なのです。ですからあやつらは自然と日本語を使っているのです」
二階堂の眼がきつくなった。
普段はどちらかといえば不真面目な彼が、真剣になっている。
その針のようなまなざしでゆづきを見た。
「やつらは全員日本人の血を吸っているのか。すると元は日本人で、今は吸血鬼になっている者がいるのか」
ゆづきが二階堂の鋭いまなざしに臆することなく答える。
「いいえ、それは心配におよびません。今のところそんな者は、誰一人いないようでございます。あやつらはヨーロッパで数百年にもわたって、人の血を吸い続けてきました。もちろん最初は一人でした。しかし聖騎士団と呼ばれている者たちにたおされた数名を加えましても、吸血鬼は全部で十人くらいかと思われます。ただ数名の吸血鬼をたおすために、数百人もの聖騎士団の方々が、尊い犠牲となってしまいました。とても悲しいことでございます……話を元にもどしますと、あやつらは基本的には、空腹を満たすために人間の血を吸っています。食料というわけです。それ以外で誰かを仲間にするには、条件があるようでございます」
「その条件とは?」
「はい、その条件とは一言で言いますと、強い、と言うことでございます。例えば弱い人間を吸血鬼にした場合ですが、それでも普通の人間とは比べものにならないほどに強くはなりますが、吸血鬼としては弱い存在にしかなりません。あやつらの首領は独特の美学を持っているようです。仮に弱い仲間だとしても、その数を増やせば増やすほど全体の力は強くなりますが、それを決してやらないのです。――弱い吸血鬼を生み出すぐらいなら組織が強くならなくてもよい ――と考えているようでございます。ですから首領自らが選んだ強い人間のみが、あやつらの仲間になっていくようです」
「被害者の死体は俺が知っている限り、今のところ一人しか見つかっていない。他の被害者は、いったいどうなった」
「あやつらは人間の血を吸った後、その〝精〟も吸いつくします。精もあやつらの食料というわけでございます。精を吸い尽くされた人間は、からからのミイラのようになってしまいます。そしてそれは持ち帰り燃やしてしまいます。まるで紙のようによく燃えるようでございます。証拠隠滅というわけです。まことに恐ろしいことでございます……あやつらがそうするのは、いくらあやつらでも、死体が見つかって騒ぎが大きくなれば、いろいろと都合の悪いことがあるからだと思われます。そのためにあやつらの存在が公になったことは、一度もございません。ただ秘密裏にあやつらと戦っている組織が、一つだけございます。それが〝聖騎士団〟と呼ばれる人々です。私が〝視た〟ところによりますと、それは古くからカトリック教会に属する、非公式の組織のようでございます」
「見つかったガイシャの首のところに、犬の噛み跡があったが」
「特に強い人間を吸血鬼にしますと、ある種の変身能力をそなえるようでございます。大コウモリであったり、大型の猫科の動物であったりしますが、その中でも特別に強い力を持つ者は、狼に変身するようでございます」
「狼……か」
「はい、狼でございます。でも完全に狼になりきってしまうわけではございません。半人半獣のような存在になるようです。ただ獣人化した吸血鬼は、首から上は完全な獣の姿になるようでございます」
「それで大型犬、つまり狼の噛み跡があったのか」
「はい、そのとおりでございます」
今まで黙っていた龍夜が、口をはさんできた。
「でもよお、ゆづき。今まで俺と戦った三人は、人間の姿のままだったぜ」
龍夜がそう言うと、ゆづきは深刻なまなざしで龍夜の顔をじっとみつめたまま黙り込んでしまったが、ややあってようやく口を開いた。
ただその口調はさっきまでと比べると、ずいぶんと弱く重々しい口調である。
「それは今までは龍夜様が、あやつらの中でも、弱きほうの三人と戦ったからでございます。残りの四人のうち視る力を持つ女を除く三人は、みな狼に変身することができます。三人とも人間の姿のままでも、今までの三人に比べればはるかに強うございます。そのうえに狼に姿を変えたならば、さらにその強さが増していくことでしょう。今後龍夜様がその者たちと戦ったならば、あやつらは最初から獣となって戦いを挑んでくることでしょう」
「……」
ゆづきは、無意識のうちに唇を強く噛んでいる龍夜をじっと見ていたが、やがて二階堂に話しかけた。
「他に何か聞きたいことはございますか、二階堂様」
「やつらをたおす方法は」
「テレビや映画などでは、十字架、にんにく、聖水、木の杭などといった物を使いますが、それは物語の中だけの話でございます。あやつらにそのようなものは一切通用いたしません。太陽の光だけは苦手なようでございますが、それはただたんに嫌っているだけでございます。あやつらは暗がりが好きなだけでございます。太陽の光でその肉体が傷ついたり、ましてや死んだりするようなことは、全くありません。あやつらを倒す方法は、二つしかありません。魍魎丸がやったように、あやつらの力の源であるその血を全て吸い尽くしてしまうか、あるいは再生が不可能なほどまでに、その肉体を大きく破壊しなければなりません。そのどちらかのみで、あやつらを倒すことができるのでございます」
「切られて落ちた首が、まだしゃべっていたが」
「はい、首を切られたくらいでは、あやつらは死には至りません。もっと大きく体を損傷すれば、別でございますが」
「そうか。やはり人間とは根本的に違うようだな」
「はい、仮に人間が首を切られた場合のことを考えれば、その生命力の大きさの違いがわかるかと思われます」
「わかった。では、答えにくいことを聞くが、いいか?」
「はい、なんでございましょうか。ご質問の内容にもよりますが、出来る限りお答えしたいと思います」
二階堂が身を乗り出し、より大きな声で言った。
「では聞くぞ。吸血鬼どもはあと四人いると言ったな。そのうちの三人は狼になれるわけだ。つまり今までの三人より、少しは強いわけだな」
「少しではございません。これまでの三人と残りの三人では、その強さにかなりの開きがございます」
「やはりな。で、ここからが肝心なところだが、その三人をここにいる龍夜と魍魎丸で、倒すことができるのか?」
龍夜はおもわず二階堂を見た。
そしてゆづきを見た。ゆづきはしばらく黙っていたが、やがて二階堂に言った。
「本当にお答えしにくいことをお聞きになるのですね、二階堂様。それは今まで以上に厳しい戦いとなると、申し上げておきましょう。首領を除く二人でさえかなりのものですが、あやつらの首領、この一連の出来事において全ての根源となる存在ですが、他の者とは比べものにならないほどの脅威だと思われます」
「その奴らの首領とは、いったいどんな奴なんだ」
「先ほど申し上げましたように、全ての源となった者です。仲間、というより下僕達と言ったほうがよろしいのですが、その者たちからは普段は伯爵様と呼ばれているようでございます。しかしもう一つの呼び名がございます。普段はあまりにも恐れ多くて下僕達でさえ口に出すのをはばかる、半ば封印された呼び名でございます。その呼び名は〝ドラゴンの子〟でございます」
「ドラゴンの子! ……だって」
龍夜が叫ぶような大声をあげた。
二階堂が思わず龍夜を見る。
その表情には明らかな驚きの色が現れていた。
ゆづきがゆっくりと噛みしめるように言った。
「はい、龍夜様。ドラゴンの子、でございます」
思わず中腰になっていた龍夜だが、やがてどたりと床の上に腰を下ろした。
そして力なくつぶやいた。
「ドラゴンの……子。……よりによって……ドラゴンの子……ってか」
二階堂が激しく首を振り、龍夜とゆづきを交互に見た。
「おいっ、いったいなんなんだ、そのドラゴンの子、とか言う奴は?」
ゆづきが努めて静かに答える。
「それに関しましては、いくら二階堂様でも、申し上げることはいたしかねます」
龍夜が、強く吐き出すように言った。
「ドラゴンの子は、ドラゴンの子さ」
二階堂は何も言わなかった。
いや言えなかった。
あのふてぶてしさを絵に描いたような龍夜が、尋常でなく動揺している。
そして表面上はあくまで静かながらも、その内面においては何かを押し殺して必死に耐えているように見える、十歳の少女であるゆづき。
その二人の雰囲気に完全に飲まれていた。
ややあって、何かを思い出したかのようにゆづきが言った。
「他に、何か質問がございますか、二階堂様」
「……いや、ない」
「そうですか。わかりました。誠にお手数をおかけいたしました……龍夜様、二階堂様を、お送りしてくださいませ」
「……わかった……おっさん、もうおうちに帰るぜ」
龍夜は立ち上がるとまだ座っていた二階堂の手を取って、大根でも抜くようにその体を引き上げ、有無を言わさず外に引っ張って行った。
後にはゆづきが一人残された。その黒い瞳は涙で濡れていた。
バイクが二階堂のアパートに着いた。
二階堂がバイクから降りると、龍夜は何も言わずにその場を走り去った。
二階堂はそのまま龍夜の後ろ姿を見送っていたが、やがて自分の部屋へと戻っていった。
洋館にある広く仄暗く、中世ヨーロッパの宮殿を模した部屋。
湿気に満ちた部屋に存在する優雅さや華やかさを隠す乾いた闇は、この世のものでない者の住処にふさわしい雰囲気をかもし出している。
男が独り黒いソファーに深々と座っている。館の主だ。突然扉が開かれて女が入ってきた。リリアーナである。
「伯爵様、大変です」
「なんだ騒々しい。いったい何があった」
「あいつらの力が、変わりました」
伯爵の眼が大きく見開かれた。
「変わった。それはいったいどういうことだ。どう変わったと言うのだ。まさか、強くなったとでも言うのか?」
「それが全くわかりません。とても信じられないことですが、変わったということははっきりとわかるのですが、何がどうかわったのかは、私には何もわからないのです。しかしあいつらの中で何かが確かに、それも大きく変わりました。それだけは間違いありません」
「なんだと! リリアーナ。あいつらが変わったという事はわかるのに、なにがどうかわったのかが、まるでわからないと言うのか……こんなことは今まで一度もなかったことだな。実に由々しきことだ」
伯爵が何かを懸命に考えている。そのまま心配そうに見ていたリリアーナが、おそるおそる声をかけた。
「どうしましょう。伯爵様」
伯爵がリリアーナをしっかりと見た。
「このままほおっておくと、事態がややこしいことになるやもしれぬ。そういう事にならないよう、何か早急に事を起こさねばなるまいな。そうと決まればこの事態の決着は、案外と早いかもしれぬぞ」
そう言うと伯爵は、にまり、と笑った。それは氷のように冷たい笑みだった。
龍夜のバイクが、住みかである神社に戻った。
龍夜はバイクから降りると、そのままものすごい勢いで石段を駆け上がり、その勢いのままゆづきの前まで来て、尻からドンと大きな音をたてて座ると言った。
「ゆづき、お前に聞きたいことがある。正直に答えてくれないか」
「……はい、龍夜様」
ゆづきは返事をしたが、それは消え入りそうな声である。
龍夜がそれにかまわず続けた。
「言いにくいとは思うが、あいつらの残りとこの俺と魍魎丸、いったいどっちが強いのか、はっきりと答えてくれないか」
「……残りの三人は、先ほども申し上げましたように、今まで戦った相手より、数段強いようでございます」
「俺がカルロスともう一人……名前なんだったっけ? ……いや名前なんてもうどうでもいいが、その二人と戦う前に、この戦いがどうなるかとお前に聞いた時、お前は確か〝わからない〟と言ったな」
「はい、そのように申しました」
「なら今度の戦いは〝わからない〟のか〝だめ〟なのか、いったいどっちなんだ。正直に答えてくれないか」
「……勝負は時の運、とも申します。最初からどちらが勝つと決まっている戦いなど、ほとんどございません。それは相当の実力差があるときだけでございます。ただもう龍夜様もお気づきになっているとは思いますが、私の〝わからない〟という言葉には、いろいろな意味がございます」
「そう、その意味のことを、詳しく聞きたい」
「前に戦った二人ですが、その戦いはよほどのことがない限りにおいて、おそらく龍夜様が勝つと思っておりました。もちろん絶対に、ではありませんでしたが、龍夜様と魍魎丸の力が上回っているとは思っていました。ただ圧倒的と言うには、力の差がそれほどはありませんでした。龍夜様たちが負けても、おかしくはありませんでした。ただ私が見抜けなかったことが、一つありました。龍夜様はあの場に相手が二人いるということを知っておりました。ところがあの二人はそのこと知りませんでした。二人は龍夜様が相手は一人だと思い込んでいる、と考えておりました。これについて私は、視ることができませんでした。ですからあの戦いは私が思っておりました以上に、龍夜様が優位に戦うことができたのです。しかし残る三人ですが、おそらく最初に龍夜様がお相手をいたすのは首領を除く二人かと思われますが、その二人の力は正直に申し上げれば、龍夜様と魍魎丸の力を上回っております」
「……」
「ただ、圧倒的な実力差ではありません。ですから龍夜様たちが勝つ可能性もございます」
「じゃあ聞こう。正確に確立で言うと勝つ確立はどのくらいだ」
「確立ですか。それは……数学的なことは、正確にはわかりかねますが……おそらく一割くらいではないかと思われます」
「ふーん、そんでもってドラゴンの子は、その二人より強いわけね」
「はい、その二人よりさらに強い存在でございます」
「それじゃあ、そいつにこの俺が勝つ確立は、いったいどのくらいだ」
「……全くないわけではございませんが」
「ほとんどゼロに等しいと」
「……はい」
「わかった。言いにくいことを、よく正直に言ってくれた。悪かったな。さぞつらかったろうな、ゆづき」
龍夜はゆづきに体を寄せると、その体を優しく抱きしめた。
「はい、つろうございました、龍夜様」
ゆづきは龍夜に強く抱きついた。
そしてその大きな瞳から、大粒の涙を流し始めた。
「泣け。今は好きなだけ泣くといい」
「はい、龍夜様」
ゆづきは嗚咽を繰り返しながら、ひたすら泣き続けた。
龍夜はそのゆづきを、黙って抱きしめていた。
「事を起こすのですか?」
リリアーナが伯爵に聞いた。
「そうだ」
伯爵が答える。
「それはどのような……」
「あわてるなリリアーナ。その前に必要な情報があるのだ」
「どんな、情報ですか?」
「もちろん奴らのことだ。特にその住処に関する情報が、真っ先に必要だ」
「奴らの住処ですか。それならもうつきとめましたが」
伯爵の表情が変わった。
黒い怒りをそこに含んでいた。
「何故、それを早く言わないのだ!」
「いえ……いえ伯爵様、言おうと思っていたのです。奴らの変化を告げた後に……」
伯爵の顔が少しだけ和らいだ。
ただ眼は変わらず、きつくリリアーナを見ている。
「そうであったか。なるほどな。それなら話が早いな」
「それともうひとつ」
「もうひとつ……なんだ?」
「実は……」
そういった後リリアーナは、前と同じく内緒話でもするかのように、伯爵の耳元で何かをささやいた。
二階堂はとりあえず署に戻った。
自分のデスクで椅子に重く身を預けていた。
彼は考えていた。
――吸血鬼か。
同時に悩んでもいた。
――今回の事件は、おそらく迷宮入りだろうな。
まさか吸血鬼を捕まえて――こいつが犯人です――と引っ張ってくるわけにはいかない。
――署長にどう言ったものか。
捜査にはいろいろな事がある。
あれこれあるが署長は、最終的には二階堂が何とかしてくれると思っているようだ。
実際に二階堂は、今まで一つ残らず何とかしてきた。
二階堂は署に親密な者は一人もいない。
個性が強すぎて並の人間ではついていくことが出来ないからだ。
二階堂も並の人間には興味がなかった。
しかし署長だけは別だ。
上司という以前に何か惹かれるものがある。人間的に。
そんなことを考えていると、新人の婦人警官が二階堂を見ながらこちらに歩いてくるのが、目の端に写った。
彼が若くして結婚していたなら、これぐらいの娘がいても不思議ではないくらいの年齢だ。
彼女が何か言う前に二階堂が言った。
「なんだ?」
「二階堂さん。署長がお呼びです」
「……わかった」
婦人警官は軽く一礼をすると、背を向けた。
二階堂は天井を見上げた。
――こっちがごまかす前に、むこうから言ってきたか。
二階堂は椅子から力なく立ち上がると、ゆるりと歩き出した。
「入れ!」
ノックすると、間髪いれずに返事があった。
相変わらず力強い声だ。
「二階堂です。入ります」
「おお、待ってたぞ」
中にはいると、署長は両手をデスクの上に置き、身を乗り出しついでに首も突き出して二階堂を迎えた。
そして一度見たら二度と忘れられないほど見事にまんまるい眼で、じっと二階堂を見た。
そのギョロ眼には、凡人にはない眼力があった。
その眼を含めた彼の顔を一言で言うと、異相である。
それは子供が見たら、ひきつけを起こしそうなほどだ。
そして恰幅のいい体格に加え、心身ともにみなぎるエネルギーが人並み外れている。
エネルギッシュと言う言葉をそのまま人間に変換したら、こうなるのではないかと思えるような男だった。
おまけにキャリア組みとは思えないほど融通が利き、その懐も深い。
現場の苦労もよくわかっている。
――ここで二人っきりになるのは久しぶりだが、相変わらずだな
二階堂は軽く微笑んだ。
ゴマすりではなく、署長の顔を見るとついついそうなってしまう自分がいる。
署長が言った。
「早速だが、例の件はどうなった?」
「西野さやかの件ですか」
「他にないだろう」
「そうですね……」
署長が机を、どすん、と叩いた。
「前置きはいい。単刀直入に話せ」
「……実は、何もわからないのです」
「何もわからない? おまえがか?」
「はい」
「……」
署長は渋い顔をした。
沈黙の後、二階堂がやや小さな声で言った。
「あまりわからないことは時々ありますが、何もわからないというのは、実は初めてなんです」
「……そうだろうな」
「そこで考えたんですが。犯人はもう死んでる可能性があります」
「死んでるだと?」
二階堂は嘘を言った。
そして――自分のつく嘘は誰にも見抜かれることはない――と二階堂自身は思っていた。
「ええ、ここまで何も視えない、何も感じない、何もわからないとなると、もう死んでいる可能性が高いと思いますが」
「……そうか。もしおまえの言うとおりなら、仕方がない。……でも捜査はこのまま続けるんだ。わかったな」
「わかりました。でもこうなると、捜査というより、お守りになると思いますね」
「お守り? それは笹本のことか」
「はい」
「じゃ、お守りを続けてくれ。笹本は訳あっておまえにつけている」
「どんな訳ですか?」
「決まってるだろう。あの単細胞馬鹿正直は、このままではまるでものにならん。だからまるっきり正反対のおまえにつけた」
「……そうですか」
「とにかく、今すぐに笹本のお守り……じゃなかった捜査を続けろ」
「わかりました」
二階堂は一礼すると部屋を出た。
署長は二階堂が去った後もそのドアを鋭い眼で見続けていたが、やがてそろり視線を落とした。
――あいつ……。
彼はペン立てにささっているペンを、人差し指で軽くはじいた。
――どういう訳かはまるでわからんが、悪意があるともとても思えんが……この俺に初めて嘘をついたな。
署長は眠るように目を閉じた。
――今回があいつの初黒星になりそうだ。
その姿は、寂しがっている幼子のように見えた。
広く暗く、そしてヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢で無機質な部屋。
大きな革張りのソファーに男が独り座っている。
そこに二人の男が入ってきた。
「何かご用でしょうか、伯爵様」
「何かご用でしょうか、伯爵様」
伯爵が座ったままで、二人を上目づかいに見る。
「お前たちを呼んだのは他でもない。あいつらのことだ。リリアーナがついに、あいつらの居場所をつきとめたぞ」
「それでは、あいつらを殺しに行くのでございますね、伯爵様」
「必ず仕留めてまいります、伯爵様」
二人は相変わらず交互にしゃべる。
伯爵が右手を上げて二人を制する。
「いや、仕掛けにいくのではない。あいつらをこちらに来させるのだ。あいつらの死に場所ははここだ」
「いったいどうなさるおつもりなのでございますか、伯爵様」
「なんなりとお申しつけください、伯爵様」
「それについてはリリアーナが説明する。リリアーナ、入ってまいれ」
リリアーナが入って来た。
リリアーナは伯爵と二人の男の間に立つと、二人の顔を淫靡な眼で見比べた後、言った。
「明日の夜、あいらの家は、十歳くらいの少女が一人きりになる。その子をここに連れて来ればよいのです」
「わかった、リリアーナ」
「おまえの言うとおりにしよう」
リリアーナが、二人に言って聞かせるように言う。
「必ず連れて来るのです。ただし、決してその子を傷つけてはなりません。無傷で連れて来るのです。わかりましたか」
「わかった。そうしよう」
「なるほど。その娘を餌に、あいつらをここに呼び込むのだな」
伯爵がソファーからゆっくりと立ち上がる。
そして二人の男たちを見回した。
「おそらく明日が奴らとの最後の戦いとなるであろう。お前たち二人の力は、あいつらを上回っている。自信をもってあたれ。しかしくれぐれも油断をするな」
「わかりました、伯爵様」
「仰せのとおりにいたします、伯爵様」
「ではもう明日に備えるように。二人ともさがってよいぞ」
「はい、伯爵様」
「はい、伯爵様」
二人は深々と一礼をすると、素早く部屋を出て行った。
伯爵はそれを見とどけると黒ソファーに座り、リリアーナに顔を向けた。
「これでよかったのかな、リリアーナ」
「はい、これで全てが解決することでしょう」
「そうか、おまえがそう言うなら、間違いはないな」
「とにかく私はその少女に会ってみたいのです。私と同じ〝視る〟力を持っているという、その少女に」
「慌てなくても明日になれば、いやでも会えるというものだ。で、その少女に会って、いったいどうするつもりなのだ」
「あの二人が少年と仲間の妖怪を倒したならば、私がその少女の血をいたたぎます。その上で私の〝精〟を注ぎ込みます。それでよろしいですか、伯爵様」
伯爵の目が大きく見開いた。
「精を注ぎ込むだと? おまえの仲間にするのか」
「はい、そうです。もし仲間にしたならば、その少女が私のよき右腕になることは間違いありません。なにせこの私と同じ〝視る〟力を持っているのですから。このような人間には、めったなことではおめにかかれません。私とその少女、二人の力をあわせれば、これまで以上の成果が期待できることでしょう」
「そうか、そうなれば私も嬉しいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様」
「明日が楽しみだな」
「はい、とても楽しみです、伯爵様」
「とにかく今夜は、明日に備えて早く休むとしよう。もう下がってよいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様。それでは失礼します」
リリアーナは軽く一礼すると、部屋を出た。
伯爵はしばらく宙を眺めていたが、やがてぞっとするような氷の笑みを浮かべるとソファーに横になり、その目を閉じた。
不意に気配がした。
それ、が何かはわからない。
おまけに、それ、を何と説明していいかもわからない。
強いて言えば
嫌なもの、よくないもの、怖いもの、
〝死〟
そういったものを数限りなく集めて、一箇所に濃縮したような。
そんな何かが、確かに背に、べたりと張り付いてきたような気がした。
――なんなの?
女は振り返ろうとした。
そこに――ココン――と乾いた音が、フローリング床の八畳間の部屋に、小さく響いた。
女の全身が固まった。
背中をぞわぞわ怖気が這い登る。
――どうしよう?
そのまま見ないほうが、逆に怖い。
とても耐えられるものではない。
彼女はゆっくりと、ゆっくりと、振り返った。
……何もなかった。
ここは女の住む部屋。
市の中心から離れた郊外にある、若い独身女性専門のワンルームマンションである。
深夜、外出から帰ってきた彼女は、部屋の入り口近くにある小ぶりなクローゼットにコートを入れようとしていた。
そこからは部屋全体が隅々まで見わたせる。物の少ないこの部屋に死角はない。猫の子一匹が隠れる場所さえなかった。
でも何も見当たらないのだ。
ただ小さなガラステーブルの上にあったはずのコーヒーカップが、何故かフローリング床の上に転がっていた。
――あら、なんでカップが落ちてるのかしら?
彼女は不思議に思いながらも手にずしりと重いコートを、とりあえずクローゼットに押し込めることを優先した。
そしてしまい終えると、何気に振り返った。
部屋の隅に男が一人立っていた。
見も知らぬ白人男性だった。
そして獲物を狙う肉食獣を思わせる眼で、彼女の全身をなめるように見ていたのだ。
――うそっ!
彼女は声に出して叫ぼうとした。
しかしその前に男が動いた。
それは信じられないほどに速かった。
一瞬で彼女の目の前まで来ると、そのまま彼女の体に覆いかぶさった。
その場に立つ二階堂進は、不機嫌を大々的に宣伝しているかのような顔をみんなの前にさらしていた。
二階堂が不機嫌な理由はただ一つ。
こんな夜中に呼び出しをくらったからである。
殺人課の刑事と言う職業柄、夜中にお出かけしなければならないことは、別に珍しいこととは言えない。
それでも二階堂は、新人の頃から真夜中に出かけることは、理由がどうであれ大嫌いだったのだ。
「おい、もう夜中の二時前だぜ」
隣にいた笹本刑事に愚痴る。
「はあ? なんですか」
笹本のその気の抜けた返事に、二階堂は笹本にそう言ったことが、全くの無駄であることをあらためて悟った。
ついこの間刑事になったばかりのこの若い男は、容姿もその性格も、一昔前の青春ドラマからまんま抜け出してきたような男だった。
バカがつくほど生真面目で、刑事という仕事に熱い熱い情熱を燃やしているようなタイプである。
好きな言葉は、「青春」と「汗」と「友情」であるにちがいない。
そんなわけで夜中の二時に現場に出向いて行くことなど、休みの日にちょっと近所をぶらつくのと同じ労力、とくらいにしか考えてない。
その上大好きな仕事ができるなんて至福の喜びだと思っているという、救いようの無い天然ぶり。
そ
んな男に愚痴をこぼしてもとても共感など得られるはずもなく、現に笹本は二階堂の言ったことの意味を、ものの見事に理解していなかった。
「なんでもない。それより現場を見るか」
「はい!」
実に明るくさわやかで、ついでに言えば元気よく気持ちのいい返事だった。
それがさらに二階堂の気分を害することになった。
部屋に入ると、すでに鑑識があちらこちらを調べていた。
被害者の死体はもう運び出されていて、玄関の床に白いテープが荒く人型に貼られている。
聞きもしないのに、別に聞きたくもないのに笹本が言った。
「隣の住人、二十一歳の大学生ですが、居酒屋のアルバイトから帰ってきた時に、時間は十二時半を少し回ったぐらいだそうですが、自分の部屋に入ろうとしたら、西野さやか、ガイシャの名前ですが、ガイシャの部屋から、ドスン、と大きな物音がしたので声をかけてみたけれど、返事がなかったそうです。それでガイシャの部屋のドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなくて、中を覗きこむと、ガイシャが玄関のところに倒れていたそうです。その時彼女はすでに死んでいたようですね」
「そうか、わかった」
二階堂は部屋を一瞥した。
それだけで十分だ。
――これ以上ここにいても、なにもでないな。あとはまかして本署にもどるか。
彼がそう考えた根拠は、二階堂のカンにあった。
二階堂は、お世辞にも仕事熱心な刑事とは言えなかった。
むしろ逆であると言ったほうが正しいほどだ。
それでも署長からの信頼は厚かった。
それは彼が今までに、いくつもの難事件を解決したからにほかならない。
基本的にあまりやる気のない二階堂にそんな芸当ができたのは、彼の持つ独自で人並みはずれた第六感、その能力よるところが大きかった。
その二階堂のカンが――おい、ここにはなにもないぞ――と彼に告げていた。
「笹本、行くぞ」
「えっ、今来たばっかりなのに、もう行くんですか」
二階堂が笹本を眼で射た。
「つべこべ言わずに、ついて来い!」
笹本は、明確な不満の表情をその顔に浮かべていたが、言われたとおりに、つべこべ言わずについて来た。
――なんて、わかりやすい奴なんだ。
二階堂は思った。
本署に着くと二階堂は、笹本を無理からその場に残し、一人真っ先に検死官のところに向かった。
死因が単純な場合は、もう検死の結果は出ているはずだ。
そして二階堂は、すでに結果が出ていると考えていた。
その根拠はもちろん彼のカンにあった。
それ以外には、あるはずもない。
二階堂は、検死室がひたすらお気にめさなかった。
独特の照明による無機質な光沢、そして何よりあの臭いが、何度嗅いでも好きになれない。
人間の死せる匂いと、人工的な薬品の匂いが、水と油のごとく混じりあっているのだ。
おまけに明るいくせに、陰々滅々としていることおびただしい。
そんな不自然極まりない場所は彼の好むところではなかったが、もちろん今は、そんなことを気にしている場合ではない。
顔なじみの検死官のところに行くと、検死台の上に西野さやかの死体がのせられていた。
二階堂があいさつもなしに、すかさず聞く。
「死因は?」
白衣を着た小太りの検死官が、黒ぶちメガネの奥から、いつものように舐めるようなまなざしで二階堂を上から下まで見た。
そして同じくあいさつ抜きで答える。
「出血死です」
「出血死?」
その返答はさすがの二階堂も、全く予想できていなかった。
何故なら西野さやかの倒れていたあたり、そして部屋の中の何処にも、血は一滴も見当たらなかったからである。
「ええ、出血死です。と言うよりガイシャの体の中に血は、ものの見事に一滴も残っていませんでした。おまけにこれです」
検死官はさやかの首を指さした。
そこにははっきりと、獣の噛みあとと思われる歯形が残されていた。
「これは、いったい」
検死官が冷めた口調で答える。
「犬ですな。……多分」
「犬?」
「詳しく調べてみないとわかりませんが、どう見ても犬、それも大型犬の噛みあとのように見えますね。ただ犬にしては、たとえ大型犬だとしてもやたらとばかでかいのが、気になると言えば気になりますが」
「それじゃあガイシャは……犬に噛まれて死んだと」
「それは正確とは言えませんね。確かに犬に噛まれたことは事実ですが、首の傷はそんなに深いものではありません。この傷だけで死に至るようなものではないですね。さっきも言ったように、死因は出血死です」
「しかしガイシャの部屋には、全く、血の跡はなかったが」
「だとすると、他の場所でやられたのではないですか?」
「……いや、それはありえないな。ガイシャは確かにあそこで殺されているんだ。それは絶対に間違いないさ」
検死官は二階堂の顔を興味深く見つめた後に言った。
「どうしてわかります、二階堂さん」
二階堂はそれに答えずに、部屋の出口のほうへと歩き出した。
そして出口のすぐ手前のところで、検死官の方に振り返った。
「カンだよ、カン」
「カン……そうですか」
検死官の口元だけが、にたりと笑った。
「そうだ!」
二階堂がそのまま部屋を出る。検死官がそれを見送った。
そこにはねずみ色のよれよれのコートを着た、前後左右何処から見てもかたぎにはみえない四十過ぎ男の後ろ姿があった。
二階堂が出て行った後も、検死官はやけに嬉しそうにその出口を眺めていた。
が、やがて鼻歌まじりに振り返り、血をぬかれて文字通り透き通った白い肌となった西田さやかの裸体に、視線を落とした。
部屋の中に二人の男がいる。
部屋は暗くて、床は土がむきだしになっている。
壁もいくつも細長い板を打ち付けてあるが、その板のすきまから真っ黒い土が顔をのぞかしている。
天井からは裸電球が三つほどぶらさがっていた。
ホラー映画に出てくる連続殺人鬼の隠れ家――そんな様相の部屋だった。
どうやらどこかの地下室のようである。
男は二人とも白人の男性だった。
一人は二メートルを超える長身で、もう一人は白人男性としては、かなり低い身長の男だ。
背の低いほうの男は上半身裸で、下半身も下着一枚だけである。
両手を後ろ手に縛られ、土の床の上に裸の両膝をついて座っていた。
背の高いほうの男は、その手に黒皮のムチを持っていた。
そして男のむきだしの背中に、容赦なくそのムチを振り下ろした。
ピシッ
乾いた音がして、男の白い肌の上に、赤くみみずばれが描かれた。
皮膚が裂けて赤い血が滲み出している。
ピシッ
もう一度ムチを振り下ろした。
「うっ!」
ムチを振り下ろされた男の顔が苦痛にゆがみ、小さなうめき声をあげた。
ピシッ
さらに振り下ろした。
ムチを持った男が口を開いた。
「死体を残してくるなんて、なんという失態だ!」
それは日本で生まれ育った人間の使う日本語であった。
ピシッ
再びムチが振り下ろされた。
「うっ……」
「伯爵様はお怒りだ」
ピシッ
「ううっ……」
また振り下ろされた。
その時、磯山一美は、限りなく黒に近い灰色に染まった道を、一人家路へと急いでいた。
二日後に迫ったクリスマスイブのために、彼氏に送るプレゼントを選んでいたのだが、迷ったあげくにすっかり遅くなってしまっていたのだ。
そのため近道をしようと、細い裏路地を足早に歩いていた。
ともに高いブロック塀で囲まれた工場と倉庫の間にあるその道は、一見暗くて不用心に見えるが、普段は夜に人が通ることは、皆目と言っていいほどなかった。
したがって物取りなどがうろつくこともなく、かえって安全であることを近所に住んでいる彼女は知っていた。
だから時々ではあるが、今夜のように早く帰りたいときには、そこを利用させてもらっていた。
今まで何か危ない目にあったことはなく、それ以前に夜にこの道で誰かに出くわしたことも一度もない。
しかし今夜はいつもの夜とは少しばかり違っていた。
もうすぐ主要幹線道路に出るというところの曲がり角を曲がると、そこに男が一人立っていたのだ。
その男の姿は、後方の道の街灯や車のヘッドライトの明かりによって完全なシルエットとなっていて、顔は全く見えなかった。
身長は二メートル近くありそうだ。
そしてがっちりとした筋肉質の体つきをしているのが、シルエットながらはっきりと見てとれた。
男はその大きな体で、幅が一メートル余りしかない狭い裏道をふさぐようにして、磯山一美のほうを向いて立っていた。
両手を軽く左右に広げ、右と左の掌を左右のブロック塀を押すようにそえてある。
彼女は考えた。
そのまま何事もなかったかのように男の横の狭い空間を通りすぎるか、それとももと来た道を引き返すか。
ただ一美には、その男の態度が――彼女がこの道を通るのをあらかじめ知っていて待ち伏せていた――かのように見えた。
だとすれば、ふりかえって男に無防備な背中を見せるのは、どう考えても危険だ。
かといってそのまま男の横を通るにしても、すんなりと通してくれそうな雰囲気は、男の姿からは微塵も感じられない。
――いったいなんなのよ? あの人。
彼女は立ち止まり、必死で考えようとした。
しかし恐怖のためか頭が酔ったように働かずに、いったいどうすればいいのか、何も浮かんでこない。
彼女は動くことも声を出すこともできずに、その場で固まっていた。
その間その男は、なん動きも起こさずただ彼女をじっと見ているようだったが、やがて両手をだらりと下におろすと、まるで何かを思い出したかのようにゆっくりと、彼女に向かって歩き始めた。
その時である。
「おい、待ちな!」
男のすぐ後ろから鋭い声が響いた。
その声は一美には、中学生くらいの男子の声に聞こえた。
一息おいて、前の男がゆるりと振り返る。
その時、それまで大きな男の影に隠れていたその声の主の姿が、彼女にも見えた。
その少年と思われる人物も、前にいる男と同様に姿がシルエットになっていて、顔を見ることはできなかった。
その身長は百七十センチを少し超えるくらいだろうか。
前に立つ男の筋肉質な体とは正反対に細身で、見ようによっては貧弱とも思える体をしている。
彼女には最初の男と比べると、その体重は半分もないように思えた。
少年らしき男が再び言った。
その声は男性にしては少し高めではあるが、張りのある力強い声だった。
「お嬢さん、こいつは俺に任せて、早く逃げな」
一美はその声を聞くとはじかれたように振り返り、そして走り出した。
イストヴァンは戸惑っていた。
若い女がこの道を通るのをかぎつけ、ここで待ち伏せしていた。
そこに予想どおりに女が来たので襲おうとした。
ところが、待ってましたとばかりに邪魔がはいったのだ。
状況によっては邪魔がはいることも、ある程度は予想していた。
この裏路地はほとんど人が通らないようだが、その先の幹線道路の交通量は比較的多い。
歩道を歩く人も時折見うけられる。
女を襲えば、特に女が悲鳴でも上げれば、通りがかりの人間でイストヴァンの邪魔をしようとする者が現れても、なんら不自然ではない。
しかしイストヴァンはまだ女に手をかけていなかったし、女も悲鳴はおろか、一声も発してはいなかった。
それなのにこのありさまなのだ。
しかもこの男、その姿は逆光でよくは見えないが、その体はイストヴァンよりもひとまわりは小さく、声もずいぶんと若いようだ。
――まだ少年――といった雰囲気である。
おまけにこの男、その態度と言い先ほど女に話した内容と言い、彼がここで女を襲うことを最初からわかっていた、としか思えない様相である。
――こいつ、いったい何者だ?
イストヴァンは、自分が目の前にいる少年とおぼしき人間にやられてしまうとは露ほども思ってはいなかったが、それでも何故か、一応は警戒したほうがいいような気がした。
イストヴァンがそんなことを考えながら少年のシルエットを見ていると、ずっと黙っていた少年が右手を上げ、口を開いた。
「その先の角を曲がれば、後ろの道からは俺たちの姿が見えなくなる。あんたもそのほうが、何かと都合がいいだろう」
少年の右手の人差し指は、イストヴァンの後ろを指差していた。
イストヴァンは少なからず驚いた。
――こいつ、この俺とやりあおうと言うのか。ただの人間が、この俺に勝てるとでも思っているのか。
そう考えた瞬間、イストヴァンの中に、粘っこくて残虐なものが、ぞわりこみあげてきた。
「いいだろう」
イストヴァンは流暢な日本語でそう言うと、先に路地の奥に向かった。
そして歩きながら少年が後からついて来るのを、背中でしっかりと感じとっていた。
イストヴァンが適当なところで立ち止まって振り返ると、少し離れたところに少年が立っていた。
イストヴァンは夜目がきいた。
さっきは後ろの光に邪魔されてこの男の姿がよく見えなかったが、今でははっきりと見ることができる。
イストヴァンはその男を、穴が開くほどにじっくりと観察した。
そいつは、やはり若かった。
東洋人の年齢は少しわかりにくいが、平均して白人よりは若く見えることを考慮すれば、その男の年齢は十六歳前後に見えた。
身長はイストヴァンより低く、しかもかなり細身の体をしている。
手足は普通の東洋人と比べると、ずいぶんと長い。
そしてこの寒空だと言うのに、体にぴったりとした薄地で長袖の黒いワイシャツと、これまた足にぴったりの細い黒い皮のズボンをはいているだけである。
男にしては髪が長く、後ろは見えないが、前も横も顔が十分に隠れるくらいの長さがあった。
前髪は真ん中より少し左のところで分けられており、そのまま左右に流している。
右目は前髪で隠れてほとんど見えず、唯一見える左目は東洋人にしてはかなり大きく、少しだけつりあがってはいるが、どちらかといえば西洋人の目に近い形をしていた。
そしてその眼の中の大きな黒い瞳からは、とても十六歳前後とは思えないほどの落ち着きと力強さ、そしてある種の経験からくる自信と聡明さのようなものが感じられた。
鼻は高くて鼻筋が通っており、口は少し大きめで唇も厚めである。
顔の輪郭は丸みを帯びて細長く、全体の印象を一言で言えば、鋭い眼光をのぞけばやや女性的な顔であり、美しいと表現してもさしつかえのない顔立ちである。
イストヴァンは考えていた。
人間、それもまだ子供といっていい年頃の少年に自分がやられるわけはないのだが、その態度があまりにも悠然としている。
特にその眼力の強さは、明らかに尋常ではない。
見たところ武器らしいものは、なにも持ってはいないようだ。
――こいつ、どうしてくれよう。
イストヴァンがそう考えていると、少年が先に動いた。
ゆっくりとイストヴァンに近づいて来る。
その両手はだらりとさげられており、なんの構えもしてはいない。
――バカめが。この俺に無防備に近づいてくるとは。こんなガキ一匹、あっさりと一発で決めてしまうか。
少年がさらに近づいて来た時、イストヴァンはいきなり少年の顔面に向かって右の拳を突き出した。
次の瞬間、イストヴァンの右手首あたりに痛みが走ったかと思うと、彼の体は見えない手に引っぱられでもしたかのようにように、左に流された。
そしてイストヴァンのその拳は、そのまま左にあるブロック塀を突き破った。
イストヴァンは思わず少年を見た。
少年は指を開いた左手を、軽く肘を曲げた状態で自分の顔の前に突き出していた。
イストヴァンは今何が起こったのかを理解した。
イストヴァンの右ストレートを、少年がその左手ではじいたのだ。
イストヴァンは心底驚いた。
彼の右ストレートは、たとえわかっていたとしても、たとえ相手がボクシングの世界チャンピォンだったとしても、避けることは限りなく不可能に近い。
そして避けることができなければ、人間であれば確実に死が訪れる。
ところがその右ストレートを、いきなり放ったにもかかわらず、それを避けるどころか、ついさっきまで肩からだるそうにぶら下がっていたはずの左手一本で、はじき飛ばしたのだ。
拳をブロック塀から抜き、イストヴァンが少し少年から離れた。
――なるほど。こいつ、やはりただ者ではないな。
イストヴァンを見る少年の顔は、少しにやけているように思えた。
イストヴァンは少年に向かって叫んだ。
「きさま、聖騎士団か!」
少年は小首をかしげて、軽く微笑みながらイストヴァンを見ている。
その態度は――幼い子供がなにかちょっと楽しいことがあって喜んでいる――そんな風に見えた。
少年はすぐには返事をせずに、そのまま黙ってイストヴァンを見ていたが、やがて答えた。
「聖騎士団だって? いったい何者なんだい、そりゃ。あんたんところの国では、そんなおもしろそうな奴がいるのかい? それは知らなかったぜ。そういう連中には大いに興味があるな。ぜひ一度お目にかかりたいもんだぜ。――と言ったわけで残念ながら、この俺は違うぜ。ここは日本だ。聖騎士団なんかじゃないぜ」
「聖騎士団でなければ、おまえ何者だ?」
「何者だと聞かれても、あんたに自己紹介するつもりはないね。そんなのただめんどくせえだけだし。どうせあんたはもうすぐ死ぬんだし。とにかく誰か来ると、いろいろとややこしいことになるんでね。さっさと決めさせてもらうぜ」
少年はイストヴァンに近づいて来た。
と同時に手を後ろにまわして、ズボンの後ろポケットから何かを取り出した。
それは短く、切り口が楕円形の棒であった。
木の棒に何種類かの鮮やかな色の糸を複雑に巻きつけた、長さが三十センチほどしかないしろものである。
とても武器としてはなんの役にもたちそうにないものに見えた。
イストヴァンは両ひざを軽く曲げて全身の力を適度に抜き、少年が近づいてくるのを待った。
そして少年が目の前まで来たとき、いきなり上に向かって飛んだ。
イストヴァンには自信があった。
自分の跳躍のスピードは人間の目ではついていけないと。
少年の目には、いきなりイストヴァンが目の前から消えたように見えるだろう。
そして慌てて周りを見わたして、イストヴァンを探すはずだ。
この時、とっさに前後左右を見わたしたとしても、上を見上げる人間は、まずいない。
そこを上から攻撃すればいいのだ。
イストヴァンはこの方法で、今まで何人もの聖騎士団の命を奪ってきた。
しかし十分にジャンプをした後、イストヴァンの身体が重力に捕まり落下し始めた時、それまでなにひとつ行動を起こさなかった少年が、なんの迷いもなく顔を上にあげてイストヴァンを見た。
その眼はしっかりとイストヴァンの姿を見据えていた。
――くそっ!
イストヴァンはかまわず、少年に攻撃を仕掛けた。
落ちながら少年のこちらを見ている顔面にむけて、右足を踏みつけるように蹴ったのだ。
しかしイストヴァンの足は、少年の顔面には当たらなかった。
少年が少しばかり体を後ろに避けたからである。
イストヴァンはそのまま地面に着地した。
気がつけばイストヴァンは、少年と向かい合わせの状態で立っていた。
その直後イストヴァンは自分の目の下に、強い紫色の光を見た。
それと同時に腹部に激しい痛みを感じた。
おもわず腹を見ると、自分のみぞおちあたりに、鈍く銀色に光る金属の刃物が深々と突きささっている。
それは少年が先ほど持っていた短い棒から飛び出した刃物で、それを少年が右手で持ち、イストヴァンの腹に突き刺していたのだ。
そしてその刃先は、イストヴァンの背中を突き破っていた。
――なんだって? さっきまであんな刃物は、なかったはずだ。
しかしイストヴァンは、すぐさま冷静さを取り戻した。
――確かに腹は痛いが、致命傷と言うにはほど遠いな。だいたいこの俺は、腹を貫かれたぐらいでは死にはしない。こいつはもう勝った、もう勝負はついた、と思っているだろう。その油断をつけばいいのだ。逆に今がチャンスだ。
イストヴァンはわざと全身の力をしばらく抜いた後、いきなり自分のあごの下にある少年の頭を、両手でわしづかみにした。
「バカめ。このまま頭をひねりつぶしてくれるわ」
その時イストヴァンは、少年の頭をつかんだその両手から、力が急速に抜けていくのを感じた。
――何?
手だけではなかった。
イストヴァンの全身の力が、どんどん抜けてゆくのだ。
イストヴァンは気がついた。
――俺の力が……俺の力の源が……吸いとられている。
イストヴァンは思わず自分の腹に突き刺さった刃物を見た。その刃物は真っ赤に染まっていた。
それはイストヴァンから流れた出した血が表面に付着したからではなかった。
内側から赤く染まっているのだ。
そのただの金属にしか見えないその刃物は、イストヴァンの血を次々と吸いとっているのである。
――バカな。こんな金属の塊が、この俺の血を吸いとるなんて。……そんなことは……ありえない。
イストヴァンの力の源、それは彼自身の血にほかならない。
イストヴァンは最後の力を振り絞って、少年の両肩に自分の両手をかけた。
少年の体を押して刃物を腹から引き抜こうとしたのだ。
しかし時すでに遅かった。彼の両の手は少年の肩に手をかけた後、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「助けて…く…れ……」
蚊のなくような声で言った後、イストヴァンの動きが完全に止まった。
少年はしばらくイストヴァンを見ていたが、やがて一気に刃物を引き抜いた。
少年の右手には刃の部分が全て真っ赤に染まった日本刀が握られていた。
刃の長さが普通の日本刀より長い、大太刀である。
やがてイストヴァンは、その場に崩れるように倒れた。
「やったな」
突然に声がした。
少年の声ではない。
それはかなりの年齢を経たと思われる男の声である。
低くて多少しわがれてはいるが、よく響く力強い声だ。
「ああ」
少年が返事をした。
しかし少年のまわりには、誰一人その姿を見かけない。
ややあって少年が再び口を開いた。
「なにかわかりそうか?」
老人の声がそれに答える。
「まあ待て。わかるには少し時間がかかる。知っとるだろう、おぬしも」
「それじゃあ質問を変えよう。こいつはわかりやすいほうか?」
「そうじゃなあ。今のところ感じるには、わかりにくいほうじゃな」
少年が、あからさまに不快な顔をした。そしてぶっきらぼうに言った。
「そうか、残念だぜ。でもなにかわかったら、すぐに教えてくれ」
「ああ、わかったわい。いつもそうしとるじゃろうが。おぬし若いわりには、ちょっと話がくどいのう」
会話は続いているが、やはり少年の姿しか見当たらない。
「じじい、とりあえずもう帰るか」
「それがいいじゃろう」
少年は歩き始めた。
そして日本刀の柄をズボンの後ろのポケットに無造作につっこんだ。
その柄の先には、ついさっきまであったはずの真っ赤な日本刀が、完全になくなっていた。
少年はそのまま幹線道路に出ると、夜の闇に紛れてその姿を消した。
仄暗く、そしてかなり広い部屋である。
天井もそうとうな高さがある。
そしてその部屋は、まさしく中世ヨーロッパの宮殿を思わせるものだった。
もし部屋の明かりが充分だったならば、さぞかし豪華な内装をはっきりと見ることができただろう。
その部屋の奥の中央に大きな黒い革張りのソファーがあり、そこに男が独り座っていた。
その部屋には男がかけているソファー以外は、奥の両隅にある二本の高いろうそくの燭台があるだけで、ほかには何の家具も見当たらない。
そこにろうそくが一本ずつとりつけてある。
だだ広い部屋の明かりは、その二本のろうそくだけである。
男は白人の男性だ。
眠っているのか目をとじたままで、その背にもたれかかるようにしてソファーに座っていた。
その時、部屋の入り口である高さも幅も充分にある観音開きの扉が開いて、男が二人入って来た。
その二人も白人の男性だった。
右の男が言った。
「伯爵様、大変です!」
左の男が言った。
「イストヴァンが、殺されました!」
それは完璧な日本語であった。
ソファーの男がゆっくりと目を開ける。
そしてしばらく宙を見つめた後で、視線をその男たちに移した。
「なんだと? まさか聖騎士団か」
やはり日本語である。
今度は左の男が先に答えた。
「わかりません。ただいまリリアーナが調べております」
続いて右の男が答える。
「いずれわかると思われます」
「そうか。何かわかったら、すぐに我に知らせるのだ」
二人の男がほぼ同時に答えた。
「はい、わかりました伯爵様」
「おおせのとおりに伯爵様」
二人の男は深々と一礼をすると、静かに部屋を出て行った。
ソファーの男は再び宙を見つめたが、やがてすうっと、その目を閉じた。
磯山一美の通報を受け、近所の派出所の巡査が現場に駆けつけたころには、そこにはもう誰もいなかった。
ただ裏路地をすこし入った所に、何故だかはわからないが、真っ白い灰の塊が残されていた。
巡査は、女性が襲われそうになったことは署に報告をしたが、灰の塊のことまでは伝えなかった。
そこは古い日本家屋。
ゆうに二十畳はあろうかと思われる日本間の奥に、少女が一人正座をしていた。
その少女の身につけているもの、それは神社の巫女が着る服と基本的には同じであるが、上着の袖のところに二本の赤いラインがあり、さらに全体に小さな赤い牡丹の刺繍がいくつもほどこされ、普段見慣れた巫女の衣装よりも少し派手な印象を受けるものである。
黒髪はきれいなおかっぱ頭をしていた。
そしてその顔立ちはまだ子供ながら、かなりの美形である。
大きくて吸い込まれそうな眼に大きな黒い瞳、つんととがった形の良い小さな鼻、そして十分すぎるほど柔らかさと暖かさを感じさせるつやのある唇が、神秘的ともいえるバランスで配置されている。
年齢は十歳くらいであろうか。
背筋をりんと伸ばし、両手を重ねて足の上に置き、軽く薄目を開けて静かに前を見ていた。
その時、正面の障子が乱暴に開かれた。
そこには先ほどイストヴァンと闘った少年が立っていた。少年が言った。
「ゆづき、何かわかったか」
ゆづきと呼ばれた少女が答える。
「いえ、まだ詳しくはわかっておりませぬ。もう少し探ってみませんと。ただ相手はかなりの力を持っているようです。そして、強大な力を持ちながらも、同時に己の存在を隠す術を心得ている。そんな相手と思われます」
少女の声は、仮に十歳だとしたら、そのわりには少し幼い声だ。
しかしその語り口調は、まるで長い人生経験を積んできた女性のようであった。
その声の響きには人としての深みとか、品格いったものが感じられる。
少年が言った。
「あのくそじじいも、わかりにくいとかほざいていたな。どうやら今回は、ちょっとやっかいな相手みたいだぜ。とにかくどんな小さなことでもいいから、今判っている範囲でいいから、今すぐに教えてくれ」
少女は眼を閉じた。
そしてしばらく黙っていたが、やがてその眼を、そして口を開いた。
「今度の相手は、六、七人いるように思われます。そのうち一人は女性です。みな、遠い国からやって来たようです。先ほど龍夜様が倒された相手が、その中では一番力なき者でしょう。残っている五人か六人は、あの者よりは強いようです。とても強い力を持っております。ただどんな相手なのか、どんな力を持っているのかは、今のところよくわかりかねます。再びさらに念を集中して、より深く探っていきたいと思います」
「そうか。相手の人数が判ったのは、大きな収穫だ。いつものように何かわかったら、すぐに教えてくれ」
「はい、わかりました、龍夜様」
龍夜と呼ばれた少年は出て行った。
残された少女はなにごとかを小さく呟きながら、両手で印を結んだ。
そして再び目を閉じた。
薄暗く、そして広くて中世の宮殿を思わせる豪勢な部屋。
そこにある黒い大きなソファーに男が独り座っている。
そこに女が一人、しずしずと入ってきた。
まだ若い白人の女性である。
年齢は二十歳くらいであろうか。胸のところが大きく開き、体のラインが一目でわかる黒いドレスを着ていた。
胸のⅤ字に開いた部分から、零れ落ちそうな二つのふくよかな乳房が作りだす深い胸の谷間が見える。
挑発的とも言える肉感的な肉体の持ち主である。
顔もかなりの美人であり、そしてその肉体以上にエロスを感じさせる顔立ちをしていた。
女が座っている男に言った。
「伯爵様、少しわかりました」
女もやはり日本語である。
「言ってみろ」
「相手は若い男性です。まだ推測ですが、十五、六歳のようです。日本人です。そしてここが一番重要なのですが、そいつは並の人間ではありません」
伯爵と呼ばれた男が、軽く右手を上げた。
「言わずとも、それは判っていた。並の人間では、とてもイストヴァンは殺せない。いったいどんな奴だ」
「まずその男自身、不思議な力を持っています。とても強い力です。そしてさらに重要なことですが、その男の周りから別の強い力を感じます」
「別の力だと? そいつには仲間がいるのか」
「仲間と言ってさしつかえないでしょう。二つの力を感じます。一つは人間です。そしてもう一つは、人間ではありません」
「人間ではないだと?」
男が少し身を乗り出す。
「はい、力の一つは人間ではありません。まず先に人間の方の一人ですが、少女のようです。年は十歳になるかならないかぐらいだと思われます。まだ子供といったほうがいい年齢です。そして闘う力はあまりないようです。しかし、彼女は別の力を持っています。同じ力です。つまり……この私と」
「おまえと同じだと。〝視る〟力か」
「はい、私と同じ視る力です」
「そうか、それで判った。奴が何故いきなりイストヴァンの前に現れたのかわからなかったが、ようやく謎が解けた」
「はい、この少女がイストヴァンの存在を感じとり、それで少年が現れたのです」
「それで、その少女はいったいどのくらい〝視る〟力を持っているのだ」
「詳しくは判りません。この者達はとても強い力を持ちながら、同時にその力を隠す技を持っているようです。しかし私の見立てによりますと、この少女は私とほぼ同等の力を持っていると思われますが」
「おまえと同等の力か。それはなかなかのものだな。あなどりがたい存在だ。それで、もう一つの人間でないものとは、いったい何だ」
「そいつ、と言うよりも、これ、と言ったほうがいいでしょう。これは人間ではありませんが、イストヴァンを殺した少年と同じくらいの力を持っています。そして常にそいつといっしょに行動しているようです。その正体は、これまたはっきりとはわかりませんが、この国の言葉で言えば、妖怪、あるいはもののけと呼ばれるたぐいの存在のようです」
「妖怪、もののけ、か」
「はい、これもなかなか油断のならない相手のようです」
「わかった。他にはなにかないのか」
「残念ながら今のところ、これくらいです、伯爵様」
「そうか、わかった。それではさらに視てくれ。早急に頼むぞ」
女は返事をしなかった。
男の顔を見ながら、何かを考えているようである。
男も何も言わずに、そのまま女の顔を見つめていた。
長めの沈黙の後、女がようやく口を開いた。
「伯爵様。先ほども言いましたが、この者達は、自らの存在を隠す技を持っています。このまま水晶玉を見つめていても、これ以上の成果はあまり期待できないと思われます。そこである提案をしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「どんな提案だ?」
「はい、少々危険ではありますが」
「危険だと! どんな危険があると言うのだ」
「はい、この方法を使えば、やつらのことがかなりわかると思います。しかし私達の方において、少しばかり犠牲を伴うかもしれません」
男の口元が、微かに笑った。
「犠牲か。犠牲なら、すでにイストヴァンがやられておる。多少なら仕方がないわ。仲間はいつでも増やせるしな」
「わかりました」
女は男の傍にそっと寄った。
そしてこの広い部屋に二人っきりだというのに、まるで内緒話でもするかのように男の耳に手をあてて、その耳元で何事かをつぶやいた。
聞いた男の目が一瞬けわしくなる。
「なるほど……わかった。おまえの言うとおりに、やってみることにしよう」
「はい、ありがとうございます、伯爵様」
「ではリリアーナ、もうさがってもよいぞ」
「わかりました、伯爵様」
リリアーナと呼ばれた女は男から離れると軽く一礼をし、部屋を出て行った。
男は女が出て行った先を見ていたが、やがて視線を移し、そのまま宙を、もの思いにふけるように見つめた。
黒いドレスを着た若く美しい白人の女性が、暗く陰気な廊下を歩いている。
やがて一つのドアを開けて、その中に入った。
そこは窓がなく、壁も床も天井も真っ黒な小さな部屋であった。
その部屋の真ん中に、粗末な木製の小さな丸いテーブルがひとつと、テーブルに比べるとかなり豪華なアンティークの椅子があった。
部屋の奥には、申しわけ程度の小さなクローゼットが備え付けてある。
そしてテーブルの上に太い一本のろうそくと、直径三十センチほどの水晶玉が置かれていた。
女は椅子に座ると、ふわり水晶玉に両手をかざした。
そして静かに目を閉じた。
広い日本間に少女が座っている。
少年にゆづきと呼ばれた少女である。
目を閉じて、その小さな口で何事かをつぶやいている。
不意に目の前の障子がさっと開けられた。
そこに少女に龍夜と呼ばれた少年がいた。
龍夜はゆづきの前に胡坐をかいて座ると、すかさず言った。
「ゆづき、何かわかったか」
「はい、わかりました。あやつらが動きます」
「いつ、どこで」
「今夜です。今夜あやつらが行動します。場所は港です。港のはずれの大きな倉庫です。一番南にある倉庫です。間違いなく動きます」
「港のはずれにある一番南の倉庫だと? そんなところに襲うような女がいるのか」
「それはわかりませぬ。女がいるのかどうかまでは、残念ながら視ることができませんでした。しかしそこに行けば、確実にあやつらに会うことができるでしょう。ただ一つ心配な点がございます」
「心配な点。何だそれは」
「前にも言いましたが、あやつらは自分達の力を隠す術を持っております。ところが今回はあえて隠さずに、この私に見られるがままになっているようでございます。それはわざと見てくれといわんばかりの態度に見えます。まるで龍夜様を自ら呼んでいるかのように、私には思われますが」
龍夜の眼がけわしくなる。
「罠……いうわけか」
「はい、おそらくは罠でございましょう。しかしそのおかげで、あやつらの人数がわかりました。あやつらはあと六人おります。そして今宵はその倉庫に、そのうちの二人がやってくるように思われます。一人づつならおそらく、龍夜様が勝つことができるでしょう。しかしたとえ一人づつだとしても、そうあっさりと勝たしてくれる相手ではございません。そのような者が二人も待ち受けているとなれば、かなりの危険を伴います。そのうえにもう一つ、気になる点がございます」
「気になる点だと」
「はい、気になる点でございます。それは奴らの仲間の中に一人、同じ力を持っている者がおります。つまり、この私と」
「ゆづきと同じ力だと! 〝視る〟力か」
「はい、〝視る〟力でございます。それゆえに私たちのことは、ある程度はあやつらに知られていると考えたほうが、よろしいかと思われます。そこにもってきてこのようにわざと、自分達の力を見せつけてきました。当然何か思惑があってのことだと、考えられますが」
「まあ、どっちにしても罠には違いないな。それで言いにくいことを聞くが、俺は奴らが待っているところに行ったほうがいいのか、それとも行かないほうがいいのか、いったいどっちなんだ。はっきり答えてくれないか」
「……それは、わかりませぬ」
ゆづきが恥じるかのように、うつむく。
龍夜はそんなゆづきを慰めるように、やんわりと声をかけた。
「わからないのか。……お前ほどの者がわからないと言うのは、珍しいな。それほどまでに今度の敵は、やっかいだと言うことだな。心配するなゆづき。お前のせいではない。たまたま相手が悪かっただけだ。しかし今のお前の一言で決まった。俺は行く」
ゆづきはおもわず顔を上げた。
そしてその大きな黒い瞳で、龍夜を見つめながら言った。
「お行きに、なるのですか?」
「ああ、もちろん行くさ。もしゆづきがはっきりと〝行くな〟と言えば、俺は行かなかっただろう。ゆづきの言うことだからな。もちろん〝行け〟と言われても、行くだろう。そして今回は〝わからない〟ときた。俺が行かないのは、ゆづきが〝行くな〟と言った時だけだ。だから俺は行くぜ」
「……わかりました。龍夜様、充分にお気をつけくださいませ」
「わかった。お前の言うとおりに、充分に気をつけよう。なあに大丈夫だよ。そんなに心配するなって」
龍夜はそう言うと立ち上がり、部屋を出て行った。ゆづきはまだ開いている障子を見つめて、一人つぶやいた。
「龍夜様。なにとぞ、ご無事で」
二階堂は何かを感じていた。
それもとてつもなく強く。
しかし何を感じているのかは、二階堂自身がまるでわかっていなかった。
――これはいったい、なんなんだ? こんなことは今まで一度もなかったが……。
二階堂が第六感で何かを感じる時は、それを強く感じれば感じるほど、その内容や感じたものが詳細にわかることができた。
それとは逆に、感じる強さが弱い時は、その内容もわかりにくかった。
それは、彼自身が子供の頃、自分の力を意識しはじめたその日から、始終一貫してきたことである。
ところが今回は違っていた。
何かを強く感じていた。
それも半端ではないほどの強さで。
それなのにその内容が、その感じたものが、全くわからなかったのだ。
わかったのは〝場所〟と〝時間〟、それだけである。
このふたつだけは、何故かはっきりとわかった。
だというのにその時間にその場所で、はたしていったい何が起こるのかは、皆目見当がつかないでいた。
これは彼の人生において初めての経験である。
――これ以上やっても、何もわかりそうにないな。
二階堂は目を閉じて、もう一度だけ意識を集中することにした。
それは二社選択である。
その時間その場所に〝行く〟のか〝行かない〟のか。
それだけを探るために、そのまま意識を集中し続けた。
数瞬後、二階堂は目を開けた。
おもむろに椅子から立ち上がり、自分のアパートの部屋を出ると階段を降りて、すたすたと駐車場へと向かった。
そして一台の車に乗り込んだ。
車は静かに動きはじめた。
一台のバイクが走っている。
大型のヨーロピアンタイプのバイクである。
バイクには真っ黒いワイシャツに黒の皮のズボン、黒い靴に黒い手袋、そして真っ黒のフルフェイスのヘルメットをかぶった、全身黒づくめの男が乗っていた。
バイクは幹線道路をそれて、海沿いの道を走っていた。
そしてしばらく走った後に急にハンドルを右に切って道から外れ、少し進んだ後でその場に止まった。
バイクから男が降りてきてヘルメットをぬいだ。
男は龍夜であった。今彼の見つめている先には、古くて大きな倉庫が二つ並んで建っている。
龍夜は迷わず奥の倉庫に向かって歩き始めた。
龍夜は倉庫の入り口に着いた。
入り口を見ると、鍵はすでに開いていた。
と言うよりもその鍵は、何か強い力で叩き壊されている。
龍夜は何のためらいもなく入り口に手をかけると、ドアを一気にひき開けた。
そして中に入った。
外は乾燥した真冬だというのに、中は少しばかり湿気ていた。
そのうえやけにほこりっぽい。
古いコンクリートの粉をあたり一面にぶちまけたような匂いがした。
ずいぶんと長い間、閉鎖されたままでいたようだ。
湿気た床の上に湿気たほこり、その上に今はまだ乾燥している塵のようなほこりが上積みされている。
そして外観以上に広く感じられる内部には、明かりがついていた。
その明かりは倉庫の中央付近だけはまるでスポットライトのようにはっきりと照らしていたが、それ以外のまわりの空間は全て闇に沈んでいた。
少なくとも明かりの照らされている範囲には、何の荷物も置かれておらず、誰一人見当たらない。
龍夜がライトのところまで歩き、立ち止まった。
細かいほこりが下から小さく砂塵のように舞い上がる。
龍夜はそこで、顔を少し上にあげて強く息を吸い込むと、倉庫じゅうに響きわたるほどの大きな声をあげた。
「この暮れの忙しい時に、わざわざ出向いて来てやったぞ! おい、そこにいるんだろう。俺はおまえらみたいに、お暇じゃないんだ。さっさと出てきやがれ!」
すると奥の暗がりの中から男が一人出てきた。
白人の男性である。見た目の年齢は四十歳くらいであろうか。
深く頬のこけた顔は、髑髏を連想させる大きな丸い目以外にこれといって特徴のない顔立ちをしていたが、その体つきは異様であった。
身長はどう見ても二メートルをゆうに超えており、そして手足を中心に胴体も含めて体の全てが、異常なほどに細かった。
おまけにその細い手足が、冗談かと思えるほどに長い。
別に身をかがめることもなく真っ直ぐに立っていたが、左手首から先が膝の関節のすぐ横にまで伸びている。
そしてその右手には、鎌が握られていた。
それはまさしく、西洋の伝説に出てくる死神が持つ鎌そのものである。
おまけにその鎌は柄の部分もかなり長いが、それ以上に刃の部分がとてつもなく長かった。
鎌を持つ長身の男の背丈に、負けないくらいの長さがある。
まさに骸骨のような男が死神の大鎌を持っているのである。
男は能面のような顔で黙って龍夜を見ていたが、やがてにやけた笑いを浮かべた。
「よく来たな。このあほうが。罠とも知らずにのこのことやって来て。ほんとにおめでたいことだ。この国のことわざであったな。確か――飛んで火に入る夏の虫――だったかな。おまえは今まさに、そのとおりになってるんだぜ」
それを聞いて龍夜が、男に負けじとにやけた笑いを浮かべ返した。
「ふん、何を言ってやがる、偉そうに。このバーカ。これが罠だってことは、俺ははなから知っていたぜ」
「何だと?」
「罠だとわかっていて、それでもわざわざ出向いて来てやったんだぜ。ちっとはありがたく思いやがれ、この野郎。それでよお、もちろんそれなりに楽しませていただけるんだろうな。ええっ、どうなんだい?」
男は少しばかり動揺の色を見せたが、それはほんの短い間だった。
龍夜を不気味で怖いものが宿る眼で見ると、大鎌を両手で持って頭上に構えて、龍夜にむかって威圧するようにじりじりと近づいてきた。
龍夜がズボンのポケットから、糸で派手に装飾された棒を取り出した。
そして両手で強く握りしめると上段に構えた。
「いでよ、魍魎丸!」
その声に答えるかのように、柄の先が棒状に光った。
激しい炎を連想させるその光は、紫色に強く光り輝いていた。
やがてその光が消えると、そこには長い日本刀が姿を現わした。
それと同時に老人のしわがれた声が聞こえてきた。
「――いでよ、魍魎丸――じゃないじゃろうが。この大馬鹿者が。そんな時代がかった大げさなせりふをはかんでも、すんなり出てくるわい」
「でもかっこいいだろう。そうは思わないかい、えっ、じじい。前々から一度言ってみたいと思ってたんだぜ」
「まったく、このお子ちゃまが」
白人の男は歩みを止めて立ち止まり、大鎌を上段に構えたままでそれを見ていたが、やがて口を開いた。
「ほほう、それだな。その日本刀が、イストヴァンを殺した武器だな。とは言え、ただの金属の塊ではなさそうだ。生きている。妖怪か何かは判らないが、とにかく生きていることだけは確かなようだ。おまけに何か不思議な力をも持っているようだな。なるほど、まさにリリアーナの言ったとおりだ」
「ほほう、その女はリリアーナと言うのか。確か〝視る〟力を持っているとかいう話だが」
「そうだ、小僧。よく知っているな。そう言えば貴様らのところにも、視る力を持つ者がいると、リリアーナが言っていたな。そいつが言ったのだな。でも貴様らは俺たちのことは、それほどわかってはいないはずだ。ところがこっちはリリアーナのおかげで、貴様らのことはなにからなにまでわかっているのだ。貴様らは強力な力を持ちながら、同時に自らの力を隠す技を持っているようだが、リリアーナにかかれば、そんなものは全てお見通しだ。だから全力でかからないとこの俺は倒せないぞ。わかったか、小僧!」
龍夜が首を右、左と強く倒し、こきこき鳴らせながら言った。
「黙って聞いてりゃ、さっきから自分の手の内を、べらべらとよくしゃべる野郎だな。よほど自信があるのか、それとも単なるおバカさんなのか。それにしてもリリアーナとか言う女が、そんなことを言ったのか。うちのゆづきと同じようなことを言うな。奴らは強大な力を持ちながら、それを隠す術を持っていると、ゆづきが言っていたが」
「ほう、その少女の名は、ゆづきという名前なのか」
龍夜の顔からにやけた笑いが消えた。
「おいおいおい、ゆづきが少女という事までわかっているのか。そのリリアーナとか言う女、はったりじゃなくて、なかなかの力を持っているようだな」
「だから言っただろう。貴様らのことはリリアーナが全て視たと。何からなにまでだ。だからさっきも言ったように全力でかからんと、お前死ぬぞ」
「……」
「それにしても、実に面白いものだな。お互いに〝視る〟力を持つ女が一人いて、お互いに自分の力を隠す技を持っている。こんなやつらは初めてお目にかかるが、案外俺たちは、似たもの同士かもしれんな」
「おいおい冗談じゃないぜ。あんたみたいなさえない中年男に似たもの同士と言われても、嬉しくもなんともないぜ。若くてきれいなおねちゃんならともかくよお。そんでさっきも言っただろう。もう忘れたのか。俺は忙しいんだ。これ以上のおしゃべりは無駄なだけだ。さっさとおっぱじめようぜ」
龍夜はそう言うと、魍魎丸を上段に構えて走り出した。
そして男に向かって何のフェイントもないままに、魍魎丸を振り下ろした。
男は大鎌を両手で持ち、その刃を受けた。
カン
乾いた大きな音が倉庫じゅうに木霊した後、二人は全く動かなくなった。
いや、動かないのではない。
動けないでいるのだ。
男の鎌を押す力と、龍夜が魍魎丸を押す力が全く同じであるがために、お互いに全力で踏ん張っているにもかかわらず、二人とも動きが止まっているのである。
その時、高い天井のはりのところで、何かが動いた。
龍夜からは死角になっていて見えない位置である。
男が一人いた。背が低く、小太りな男だ。
その顔は白人に近い顔立ちをしていたが、太い眉もオールバックの長い髪も、まるで東洋人のように黒い。
そして男はその手に木の棒を持っていた。
そしてその棒の先には、鋭い刃物がつけられていた。
それは槍であった。
男は槍を両手で下に向けて構えると、高いはりの上からから飛んだ。
男の身体は糸を引くように、龍夜へ向かって一直線に落ちていった。
そしてその槍の先が龍夜の体を貫こうとしたまさにその瞬間、龍夜が真横に飛びのいた。
鎌を持つ男は、押していた龍夜が目の前から急にいなくなったためにバランスを崩し、体が少し前のめりになった。
その直後、槍を持つ男がそこに落ちてきた。
その槍は鎌を持つ男の左耳を真上から貫いて、そのまま地面に刺さった。
男は慌てて槍を、地面と鎌男の耳から引き抜いた。
「いてっ! なにをする、このバカ。気をつけろ!」
鎌男が怒鳴る。
「すまない、悪かった」
槍男が頭を下げた。
「すまない、じゃない。いったい何処に目をつけているんだ」
「だから悪かったと言ってるだろう。あの小僧が急にいなくなったから、こうなったんだ。あの小僧が悪いんだ」
「……そうだな、おまえの言うとおりだ。あの小僧が全部悪い。とにかく今は仲間同士で言い争いをしている場合ではないな」
二人は大鎌と槍を構えなおし、龍夜の方に向きなおった。
鎌を持った男が耳からだらだらと赤い血をたれ流しながら言った。
「おい、よく避けられたな、小僧。まるでドゥシャンが隠れていたことが、最初からわかっていたみたいに」
「ヘイ、ユー、何を言ってやがる。いくら外国人だからと言ってもさあ、あんた日本語は正しく使うもんだぜ。最初からわかっていたみたいに、じゃなくて、最初からわかっていたさ。ゆづきが相手は二人だと言っていたからな」
「なんだと? 俺はわざと自分の気配を強く発し、このドゥシャンは逆にその気配を完全に消しさっていたというのに。それでも二人だとわかっていたのか。……なるほどそのゆづきとかいう少女、確かにリリアーナが言ったとおり、なかなかの力を持っているようだな。しかし小僧、安心するのはまだ早いぞ。これからが本番だ。俺とドゥシャン、俺たち二人を相手にして果たしておまえは、生きて帰ることができるかな」
ドゥシャンと呼ばれた槍を持つ男が言った。
「俺は左に行く。カルロスは右へ行け」
カルロスと呼ばれた鎌を持つ男が答える。
「わかった」
二人は走り、左右に分かれた。
ドゥシャンが龍夜の左に、そしてカルロスが右側に立った。
龍夜を中心にして三人の男が一直線上に並んだ。
龍夜は首を横に向けると、まず左にいるドゥシャンを見て、次に右にいるカルロスを見た。
――さあてどっちのほうが、やりやすいかな?
二人がじりじりと確実に龍夜に迫ってきている。
龍夜はもう一度素早く二人を見比べた。
そしてカルロスの方に目を留めた。
――この背の高い男に決めたぜ。
龍夜はドウシャンの方に体を向けると、魍魎丸を右手で高くさし上げた。
そして魍魎丸をドゥシャンめがけて投げた。
ドゥシャンがとっさに反応し、魍魎丸を槍の先で叩き落とした。
龍夜の後ろでカルロスが高笑いをはじめた。
「このバカめ。あせったな小僧。たった一つのえものを、投げてしまうなんて」
すると龍夜はくるりとカルロスの方へ振り返った。
そしてカルロスめがけて走った。
そのスピードは、とても人間とは思えないほどの速さであった。
瞬時に龍夜とカルロスの距離が縮まった。
「ぬうっ!」
カルロスはすぐ目の前にまで迫ってきた龍夜に向かって、大鎌をふりおろした。
しかし猛スピードで真っ直ぐ自分にむかって来る者に対して、その距離感はつかみ難いものだ。
カルロスの鎌はむなしく空を切った。
その時すでに、龍夜はカルロスの懐に飛び込んでいた。
龍夜は全く止まることなく、そのまま全体重を乗せた右拳をカルロスのみぞおちあたりに叩きこんだ。
その動きは空手の正拳突きに似ていた。
「げほっ」
苦悶の表情を浮かべて、カルロスの体が前のめりに折れた。
そこをすかさず龍夜が、すばやく体を回転させながらの左アッパーを突き上げた。
その拳はカルロスのとがったあごの先端を、的確にとらえた。
「ぐふっ」
カルロスが今度は後ろにのけぞった。
「カルロス!」
ドゥシャンはそう叫ぶと、慌てて二人に向かって走った。
その時ドゥシャンの腹を、激しい痛みが襲った。
「ぐわっ!」
見ればドゥシャンの腹から、長い金属の刃物が突き出していた。
それは、さっきドゥシャンが叩き落したはずの日本刀である。
その日本刀がドゥシャンの背中から腹に突き抜けていたのだ。
低くてしわがれた力強い声が聞こえてくる。
「ほんにおぬしたちも、バカじゃのう。この武器は生きている、と自分で言っておいて。そうよ、わしはこのとおり生きておるわい。生きていればこそ、こうやってしゃべることもできるし、飛ぶこともできるし、そしておぬしの腹を突き破ることもできる。それくらいは思いつかんかったかのう。まことにおろかな奴じゃ。さてと、そろそろその血をいただくとするか。この間と違ってもう一人おるもんでな。さっさと吸わせてもらうぞい」
魍魎丸と呼ばれた日本刀は、ドゥシャンの血を吸いはじめた。
それは以前にイストヴァンの血を吸った時とは、比べものにならないほどの速さである。
たちまちのうちにドゥシャンの血は全て吸いとられた。
カルロスは全てを見ていた。
龍夜の左後ろ回し蹴りをその顎に、右ストレートをその顔面に受けながらも、しっかりとドゥシャンの断末魔を見ていた。
「ドゥシャン!」
ダメージはあったが、かまわずカルロスは半ば闇雲に、大鎌を龍夜に向かって振り下ろした。
しかし大鎌は龍夜には当たらなかった。
龍夜が大きく後方に飛びのいたからだ。
龍夜はさらに二度ほど連続して後ろにふわりと飛ぶと、ドゥシャンの横に立った。
そしてカルロスから視線をはずことなく、ドゥシャンの体から日本刀を右手一本で引き抜いた。
ドゥシャンの小太りの体が力なく床にどたりと倒れる。
そして龍夜が見ている目の前で、ドゥシャンはあっと言う間に真っ白い灰の塊となった。
龍夜が言った。
「さあて、やっとお邪魔虫がいなくなったな、死神の大将よ。さあ二人っきりで、思う存分やりあおうぜ」
「きさま、よくもドゥシャンを!」
カルロスは走った。
真っ直ぐに龍夜に向かって。
そして怒りを込めて大鎌を振り下ろした。
龍夜は魍魎丸でそれを受けた。
カルロスはかまわずに鎌を振り回し続けた。
上から下から、右から左から、死神の大鎌がたて続けに龍夜をおそう。
まさにかまいたちを思わせるものすごい速さで、そして巨大なハンマーを振り回しているかのようなとてつもない力で、龍夜にむかって息もつかせず攻撃をし続けた。
しかし龍夜はその攻撃の全てを受けた。
そしてカルロスが大鎌に力を込めすぎて体のバランスを崩し、一瞬攻撃の手を緩めた時、龍夜が真後ろに飛んだ。
それは通常の人間ではありえない距離である。
つっ立った状態からそのまま後ろにぽんとジャンプしただけだというのに、軽く十メートルは飛んでいた。
驚くカルロスをしりめに龍夜が言った。
「あんた、ものすげえ速さだな。それ以上にほんと、とんでもないバカ力だ。いやーっ、腕がしびれてきたぜ。そこで提案があるんだけど、いいかな。ほんの少しだけでいいから、ちょいと休憩させてくれないかい?」
それを聞いてカルロスは、怒りとも笑いともつかない表情をし、そしてどちらともとれる口調で言った。
「休憩だと。ふざけるな小僧! 死んでたっぷり休憩しやがれ」
カルロスは走った。
そして再び龍夜にむかって大鎌を振り下ろした。
龍夜は両手を上に上げ、魍魎丸を真横にしてそれを受けた。
全身の力を込めて大鎌を上から押すカルロス。
それを下から受ける龍夜。二人の動きが再び止まった。
両者の力が完全に同じだ。
龍夜が言った。
「最初の状態にもどったな。しかし今度はもう、加勢してくれる仲間はいないぜ」
「やかましい! そんな奴いなくとも、きさまをばらばらにしてくれる」
「あんたにそんなこと、果たしてできるかな。あんたはとてつもない速さとパワーを持っている。それは素直に認めよう。しかし残念ながら、一つだけ大きな欠点があるぜ」
「なんだと、小僧。ほざくな。そんなはったりなど聞く耳もたぬわ」
「はったりなんかじゃないぜ。それを今から証明してみせるぜ」
龍夜は力を込めて魍魎丸を持つ両手のうち、刃物側にある右手の力を少しだけ抜いた。
すると魍魎丸の刃先が、するりと下がった。
全体重をのせて魍魎丸を押していた大鎌の刃は、魍魎丸にそって斜め下に流れて、そのまま床に突き刺さった。
と同時にカルロスの体が前につんのめる。
一瞬の間をおいて龍夜が、すでに大鎌の力を受けなくなった魍魎丸を、そのまま真横にはらった。
魍魎丸の刃がカルロスの首にあたり、そしてその後ろへと抜けた。
カルロスの首が床の上にぼとりと落ち、その切り口から血が吹き出してきた。
龍夜がその顔に、冷たく、同時に美しいとも言える笑みを浮かべた。
「おまえの欠点はその大きな鎌さ。そんなバカでかくて小回りのきかない武器は、実践では何の役にもたたないんだよ。だから言っただろう。はったりなんかじゃないって」
そう言いながら龍夜は、魍魎丸の刃をカルロスの首の切り口に突き刺した。
「やめろーーーっ!」
転がっているカルロスの首が、まさに絶叫した。
しかし魍魎丸はすでにカルロスの血を吸いはじめていた。
「おっ、お願いだ。頼む。助けて…く…れ……」
龍夜がカルロスの首を見る。
その首は口を大きく開けてはいたが、そこからはもう何も聞こえなくなっていた。
やがて魍魎丸が血を吸うのをやめた。
カルロスの血を全て吸い尽くしたのだ。
龍夜が魍魎丸を引き抜いた。
カルロスの体が床に倒れる。
そしてその体と首が、別々の場所で同時に白い灰の塊となった。
それを待っていたかのように、しわがれた声が言った。
「おう、またやったな」
龍夜が答える。
「ああ、やったな。第二ラウンドのハンディキャップマッチ、とりあえず完全KОで終了と言ったところかな。……ところで」
龍夜が倉庫の入り口近くの闇溜まりに目を移した。
「さっきからそこに隠れて黙って見ている奴。今すぐ出てきて、姿を見せろ!」
龍夜は目線の先を魍魎丸で指した。
するとその暗がりから、音もなく鋭い眼つきの男が出てきた。
その男は二階堂進だった。
その手にはしっかりと拳銃が握られている。
二階堂が言った。
「おいおいおいおい、いったいぜんたいなんなんだ、あいつらは。……一瞬で灰になるわ、落ちた首がしゃべるわ。……それ以前にあいつら、とても人間とは思えない動きをしていたぜ。もちろんおまえもな。お前はいったい何者なんだ」
龍夜が二階堂に、刺すような視線をむけた。
「……見たな」
それを受けて、ただでさえ鋭い二階堂の眼が、さらに怖々いものになった。
「ああ、見たさ。途中からだが。お前が男に日本刀を投げたところからだが。お前たち三人がやりあうのを、ずっと見てたさ。……本来なら止めにはいるところだが、あまりのことに見入ってしまって、止めるのも忘れて最後まで見てしまったぜ」
龍夜は二階堂の顔をじっと見つめた後に言った。
「おまえ、刑事だな」
その言葉に二階堂は、軽い驚きの表情をその顔にうかべた。
しかしすぐさま、深くきつい眼で龍夜を見返した。
「おう、刑事だ。よくわかったな」
「そんなやばい眼つきの奴は、この日本では刑事かやくざしかいないぜ。そんであんたはさっき、〝本来なら止めるところだが〟とか言ったな。やくざは他人の争いを面白がって見物することはあっても、わざわざ止めたりなんかはしないぜ。すると残りは刑事しかないだろう。……それはさておいて、俺もあんたに少々びっくりしているところなんだ。あんたはあんなものを見たもんで、
充分に驚いている。充分に驚いてはいるが、全く怖がってはいない。普通ではとてもありえないよな。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはおつむのどっか大事なところが、一本抜けているのか。それとも――」
「それとも……なんだ」
「いや、なんでもない。まさかそんなことが、あるはずがない」
「そんなこととは、なんだ? いやその前に、あの灰になった白人はなんなんだ。それ以前にお前はいったい何者なんだ。答えてもらおうか」
「そんなことに答えるつもりはないな。俺はもう、お家に帰らせてもらうぜ。良い子はとっくに寝る時間だぜ」
二階堂が拳銃を構え直した。
「待て。お前には聞きたいことが、山ほどある」
「ほほう、その拳銃でどうするつもりだ。この俺を撃つのか。いったい何の罪で? 白人男二人を灰にした、殺人罪でか」
「お前の返答次第では、そうなるな」
龍夜が――おもしろくて仕方がない――という顔つきになった。そして言った。
「へへえーーっ、殺人罪ね。それじゃあ死体はいったいぜんたい、何処にあるんだ? 二人とも全部ただの灰になって、血の一滴すら残ってないぜ。それにあんた報告書には、いったいどう書くつもりなんだい。――白人の男二人と日本人の少年一人の三人が、武器を持って争っていました。三人とも、てんで人間ばなれした動きをしていました。そのうちにその少年が持っていた日本刀が勝手にぴゅぴゅんと飛んできて、槍を持った男の背中に突き刺さりました。すると日本刀が、その男の血を全部吸ってしまいました。血を吸われた男の体は全て真っ白い灰になりました。少年はその次に、鎌を持った男の首をはねました。その首はぽとんと床に落ちても、まだ未練たらしくしゃべっていました。少年がその男の体に日本刀を刺すと、またもやその日本刀が男の血をおいしくいただいて、その男の体も灰になりました。ついでに落ちた首も、お手手つないで仲良くいっしょに灰になりました。以上がこの私が、この目ではっきりと見た全てです。神に誓って真実です。間違いありません。私、絶対、嘘つかないアル。お願いです。どうか信じてください――とでも、書くのかい?」
「……」
二階堂は力なく拳銃を下におろした。
「ようやくわかったようだな、このど石頭の公務員が。この件に関して刑事さんの出る幕なんか、一幕もないぜ」
龍夜はそう言うと、すでに刃物の部分が消えている魍魎丸の柄を、後ろのポケットにねじ込んだ。
そして残っていた大鎌と槍を鼻歌まじりに拾うと、倉庫を出ようとした。
その時二階堂が声をかけてきた。
「おい、そいつを、どうするつもりだ?」
「そんなこと、聞くまでもないだろう。こんなものがこんなところに残っていたら、ちょっとした騒ぎになる。まあ結局は何がなんだかわからないままにうやむやにはなるだろうが、よけいな騒ぎは起こさせないに越した事はないからな。こっちで勝手に処分させてもらうぜ。文句無いだろう。刑事さんよ」
「……」
「返事は!」
「……ない」
「よしよしいい子だ。それじゃあ失礼させてもらうぜ」
「ちょっと待て」
「おいおいまだ何かあるのか。全く公務員と中年男は、しつこいぜ。中年の公務員とくれば、なおさらだな」
「とにかく、一応お前の名前だけでも聞いておこう。名前は何と言う」
「名前か。名前くらいなら、いいかな。俺の名は、九龍龍夜。数字の九に、龍神様の龍。複雑で字数の多いほうの龍だぜ。で、もひとつ龍に、真夜中の夜。くりゅうりゅうやだ。アー・ユー・アンダスタンド?」
「九龍龍夜か。……変わった名前だな」
「おう、もちろん本名だ。芸名じゃないぜ。俺は芸能人なんかじゃないからな。ごくごく平凡でどこにでもいる、人畜無害な小市民さ。おっと刑事さん。住民票で調べても無駄というもんだぜ。住民登録してないからな。ついでに税金も今まで一度も払ったことがないんだけど。そんな訳で俺は、刑事さんのお給料には一切関係の無い人間なのさ。それじゃあもういいだろう。行かせてもらうぜ」
九龍龍夜は倉庫を出ようとした。
しかし数歩歩いたところでふと立ち止まり、振り返った。
「ところで刑事さんよ。あんたいったい、ここになにしに来たんだ」
「ただのカンだよ」
「カン?」
「そう、カンだ」
龍夜は、興味ありありと言った真剣なまなざしで、二階堂を見た。
「カン、とは?」
二階堂は龍夜のやけに力のあるその大きな〝眼〟を、吸い込まれるように見た。
そして二階堂は龍夜の眼を見ているうちに、何故だかわからないが、自分のカンに関する――全て――を話さなくてはならないような気がしてきた。
それはまるで催眠術にでもかかっているかのようだった。
「……ええと……なんと言っていいか……とにかく俺は、子供の頃から人並みはずれてカンが鋭かったんだ」
「ほう、カンが鋭かったってか。……例えば?」
「例えば? ……そうだな、最初に気がついたのは……そう小学一年のときだ。俺のお気に入りだった女の子が、クマのブローチがなくなったと泣いていたんだ。その時、突然視えたんだ」
「視えた……とは?」
「その子と仲の悪い女の子が、ブローチを体育館の裏にある植え込みの中に隠しているところが、まるで今見ているかのように視えたんだ」
「視えたのか……それで」
「それで? ……それからも、何度もそういうことがあった」
「どんなことが?……いや、それよりあんた、いつも〝視える〟のかい?」
「視えることが多いが……他には感じたりとか……文字や数字が頭に浮かぶこともある。まあ、いろいろだ」
「……」
「おかげで刑事になった今では、ずいぶんと重宝させてもらっている。と言うか刑事になってから、ますますカンがさえるようになったような気がする」
「なるほどな」
「それで今夜もそのカンが、この時間にこの場所に行けと、俺に告げたんだ。だからやって来た。まさかあんなにもわけのわからないものを見せられることになるとは、夢にも思っていなかったがな」
「そうか、よくわかったぜ」
龍夜は射抜くような眼で二階堂を見ていたが、やがて言った。
「異能力者だな」
「異能力者?」
「まあ、超能力者と言ったほうが、わかりやすいかな、一般的には。だいたいあんたのその能力、〝カン〟の一言で片付けられるようなレベルじゃ、全然ないぜ。……それにしても、まるでうちの、ゆづ……おっと、この話は、いいか」
「おい、今何を言いかけたんだ。〝ゆづ〟とか。……それはなんだ?」
龍夜が右手を――なんでもないよ――とでも言いたげに振った。
「そんなことどうでもいいじゃないか。こっちの話だよ。あんたには関係ないことだぜ。で、あんたの話に戻るとだな、たまーーにいるんだよな、あんたみたいな人が。で、もしあんたが本当に異能力者なら、俺たち、又会う機会があるかもしれないぜ」
「……出来ればお前なんかとは、もう二度と会いたくないものだな」
「おいおい言うなよな、そんなこと。もし実際にこの俺と付き合ってみたなら、案外気の合ういい奴かもしれないぜ。て、自分で自分のこと、いい奴って言ってるけど。……おっと、話が無駄に長くなってしまったようだな。もうそろそろ帰らないと。お家で心配しながら待っている、愛しい愛しい人がいるもんでね。早く帰ってやらないと、彼女がかわいそうなんでね。それじゃあせいぜい達者でな、刑事さん」
龍夜はそのまま武器を抱えて倉庫を出て行った。
二階堂はしばらくその場に残っていた。
その様子は、何かを深刻に考えているようである。
しかしおもむろに歩き出すと倉庫を出て、前に停めてある車に乗り込んだ。
そして車は走り出した。
闇の中に薄っすらと浮かび上がる、広く豪華な洋館の部屋。
その奥の黒革張りのソファーに、男が独り座っている。
その前に三人の人影があった。
二人は男、一人は女である。
ソファーの男以外は三人とも立っている。
四人はソファーの前に置かれた一つのテーブルを囲んでいた。
小さくて丸くて、足が一本しかない質素なテーブルだ。
その上に大きな水晶玉が置かれていた。
妖艶な若い女が目を閉じて、水晶玉に両手をかざしている。
周りの三人の男がその水晶玉を覗き込んでいた。
水晶玉には映像が写っていた。
それはまるで映画かテレビでも見ているような、はっきりとした映像だった。
今その水晶玉には、港の倉庫の前を走り去る一台の車が写っていた。
二階堂の乗った車である。
女が両手をかざすのを止めて、ゆっくりと腕をおろす。
すると水晶玉に写っていた映像が、かき消すように消えた。
女が、ふうっ、と大きな息を一つ吐く。
ソファーの男が目を閉じ、ソファーに深くその身をあずけた。
女と二人の男は何も言わずに、ソファーの男をただ見ていた。
やがてソファーの男がもったいぶったようにやんわりとその目を開けた。
「改めて聞くまでもないが、一応聞いておこう。みんな、今のを見たか」
右の男が言った。
「はい、伯爵様。確かに見ました」
左の男が後に続く。
「私も確かに、この目で見ました」
しばしの沈黙の後、再びソファーの男が言った。
「カルロスとドゥシャンの二人で戦えば、奴らの力がわかると提案したのは、リリアーナだ。我が自らの判断で、その提案を採用した。その結果として、残念なことにカルロスとドゥシャンの二人の仲間を失うことにはなったが。……そこで、この件に関して我に何か異議があると言う者は、遠慮なく申し出てみよ」
右の男が言った。
「いえ、異議など一切ございません」
左の男が再び続いた。
「伯爵様に異議の申し立てなど、めっそうもございません」
それを聞いてソファーの男はわずかに微笑むと言った。
「できればあ奴を、カルロスとドゥシャンの二人で倒して欲しかったが、本当に残念なことだ。ただ二人の尊い犠牲によって、重要な情報を得ることができた。奴らの力が全てわかった。もう恐れることは何も無い。我々の勝利は目の前だ」
今度は左の男が先に言った。
「はい、伯爵様」
そして右の男が続く。
「おっしゃるとおりでございます。伯爵様」
「それでは二人とも、それぞれ部屋に戻って奴らへの対策を考えるように。我は我で考えてみる。二人とも、もう下がってもよいぞ」
二人の男がほぼ同時に答えた。
「わかりました、伯爵様」
「仰せのとおりに、伯爵様」
二人の男は深々と一礼をすると、部屋を出て行った。
部屋には一人の男と一人の女が残された。
ややあって、男が女の顔をのぞきこむように見た。
「どう思う、リリアーナ」
リリアーナと呼ばれた女が答える。
「あいつらの力を見ました。あれがあいつらの力の全てであれば、ヴォルフガングとクリフトフの二人で、十分倒すことができるでしょう」
「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」
「それに仮に、何かの間違いであの二人がやられたとしても、ここには伯爵様がおられます。伯爵様にかかればあんなやつらなど、赤子の手をひねるがごとく、あっさりと殺すことができるでしょう」
「おまえもそう思うか。我もそう思うぞ」
「なにしろ伯爵様は〝ドラゴンの子〟なのですから」
「そうだな」
伯爵様と呼ばれた男は、リリアーナの顔に自らの顔を近づけた。
しばらく二人で見つめ合った後、リリアーナがその目をゆっくりと閉じる。
伯爵は自分の唇を、リリアーナの柔らかくて厚い唇にあてた。
二人はお互いにお互いの唇を激しく求め合った。
二階堂は自分のアパートに帰った。
もう午前二時を過ぎている。
十分に疲れていた。
そのまま風呂にも入らずに、寝巻きに着替えてベッドに入った。
明日は早くに署のほうに顔を出さなくてはならない。
もしも遅れようものならば、あの若くうすらバカの笹本刑事に、何を言われるかわかったものではない。
二階堂は、何故だか自分でもよくはわからないが、あの笹本に文句を言われるとひどく気分を害する自分がいることを知っていた。
それは笹本が、二階堂がとっくの昔に、おそらくまだ幼少といって言いころに無くした何かを、大人になった今でも後生大事に抱えて生きているからかもしれない。
しかしはっきりとしたことは二階堂にもわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。
そういった訳で二階堂は、無理やりにでも早く寝て早く起きようと考えていた。
ところがついさっき、あんなとんでもないものを見たばかりだ。
体は十分に疲れていたが、その精神は極度の興奮の中にある。
とてもすんなりと眠りにつける状態にはほど遠い。
二階堂はベッドの中で何度となく寝返りをうち、しばらく無駄な努力を重ねていたが、やがてその努力を放棄した。
――こうなったら、酒でも飲むか。
彼はベッドから起きて、いかにも重たそうに台所へむかった。
冷蔵庫の中にいつも冷やしている冷酒がある。
自分用ではなくめったに来ることのない来客用だが、とりあえずそれで一杯やろうと思っていた。
ところが台所に通ずる短い廊下を歩きはじめた時、突然に声がした。
「おい、刑事さんよ」
それはあの九龍龍夜の声だった。
二階堂は慌ててまだ点けていなかった廊下の明かりのスイッチを押した。
明かりがつくとすぐ目の前に、九龍龍夜が立っていた。
「なんだお前! いったいどうやってここに入った」
やや興奮ぎみの二階堂をなだめるように、龍夜が言った。
「まあまあまあ、そんなに怒りなさんなって。どうやって入ったかと聞かれれば、玄関のドアを開けて入りました、としか答えようがないけど」
「そのドアには、確か鍵がかかっていたはずだが」
「カギぃ? ああ、あのカギね。あんなちゃちなカギなんか、この俺は二秒で開けられるけど。それはともかく刑事さん、いますぐ来てくれ」
「来てくれって、いったい何処に?」
「俺たちの住みかさ。で、なんでこんなおっさんを呼ばなきゃならないのか、俺にもさっぱり判らないんだがな。でもゆづきが刑事さんを呼んでくれと言うものだから。それで仕方なくおっさんを呼びに来たんだ」
「ゆづき? それは人の名前か……ああ、おまえたしか前に、ゆづ、とか言っていたな。あれだな。それで、ゆづきとは誰なんだ」
「ゆづきは俺の仲間さ。とは言っても、まだ十歳の女の子だけどな。でもおっさん、だだの女の子とは、全然ちがうぜ。普通の人間にないすごい力を持っているんだぜ。まあ、なんと言うか、おっさんの持っている異能力に近いかもな。とは言っても、どう考えてもまるで違うけどな。なんせおっさんの持っている力より、はるかに強力で、上等で、上品で、可憐で、華麗だからな。ものが違うぜ、ものが」
「えっ? なんだと。それでそのゆづきとかいうほんの十歳のガキが、この俺を呼べと言っているのか」
龍夜がその顔を、二階堂の顔におもいっきり近づけてきた。
「おいおいおい! 俺の愛しい愛しいゆづきをガキ呼ばわりとは、とんでもねえ野郎だぜ。全く。本来ならそんなたわけたことを言う奴は、たたんでのしてしまうんだが、ゆづきが何事も無く無事に連れて来てくれと言うものだから、それはできないな。残念だけど。……えっと、それはそうと。……まあそんなにごちゃごちゃ言わずに、とにかく来てゆづきに会ってくれよ。ゆづきはかわいいぜ。あと十年もたたないうちに、超絶世の美女になるだろうな。町中の男がひれ伏すようないい女にな。で、おっさんがもしロリコンだったなら、もう一発でゆづきの虜になっちゃうぜ。……そんでもって、おっさん……ひょっとしてロリコンかい?」
「なにをバカな事を言ってる! とにかくそのゆづきとか言う女の子が、俺を呼んでいるという事はわかった。それでその子は、なんで俺を呼んでるんだ」
二階堂が負けじと、さらに顔を近づけた。
あまり身長の変わらない二人の鼻が、ほとんど触れ合う直前になっている。
「おい、それはさっきも言っただろう。人の話はちゃんと聞きやがれ! このボケナス野郎が。そんで、それがさっぱりなんだよな。とにかく早く連れて来いの、一点ばりなんだぜ。本当なら二人っきりのうれしはずかし我が家のはずが、ただでさえ魍魎丸がいつもいつも邪魔をしていることろなのに。そこにもってきて、こんな超むさくるしいおっさんをプラスするなんて。いったい何を考えてんだか、あいつは。……で、話をもとに戻すとだな、とにかくそんな訳なんで、四の五の言わずに大人しくさっさと来てくれないかい。おっさん、ゆづきが待っている。あまり待たせたら、ゆづきがかわいそうだぜ」
「魍魎丸とは何だ?」
お互い少し離れた。
「魍魎丸は、俺の持ってる日本刀さ」
「やっぱり。あの血を吸う日本刀か」
「そうさ。あの血を吸う日本刀さ。おっさんなら、細かいこと言わなくてもわかるよな。そう、あいつは生きている。なんで生きているかを説明すると、話がとてつもなく長くなるんで今は止めとくけど。で、その魍魎丸が俺とゆづきが仲良くしていると、いい年こいてやきもちを焼いて、いっつも邪魔をするんだよなあ。あのくそじじい、困ったもんだぜほんとに。あの野郎、いつかぎっちょんぎっちょんにしてやるぜ。覚えてろよ。……おっと、話がほんのちょっとだけそれたみたいだな。とにかく何べんも言うけど、今すぐゆづきのところに来てくれないか」
「さっきから来てくれ来てくれと言ってるが、俺がそんなところへ行かなければならない義理とか義務でも、あるのか」
龍夜が西洋人のように両手をひろげ、肩をすくめた。
「またあ、義務とか義理とか。これだから公務員はいやなんだよな。すぐに小難しい言葉を、意味もなくいっぱい並べたがる。そのくせ話の中身はほとんどないか、てんででたらめときたもんだ。政治家どもがいい例だよな。……よしわかった。俺が悪かった。そんなに言うなら、恥を忍んでここはお願いする。おっさんお願いだ、今すぐゆづきのところに来てくれ。頼む」
龍夜はちょこんと頭をさげたが、すぐに上げ、二階堂の顔をのぞきこむように見た。
「おい、この野郎。この俺が人に頭をさげるなんて、めったにないことなんだぞ。ちゃんとわかってんのか。ちょっとはありがたく思いやがれ」
二階堂が龍夜のまねをして、両手をひろげ肩をすくめた。
「こいつだけは、ほんとに。それで人に頭を下げているつもりか。……まあそれはいいか。実は俺もお前たちには大いに興味がある。その住処とやらに連れて行ってくれるというなら、こっちは大歓迎だ」
「なんだよ。それならそうと、さっさと言えよ。おかげで無駄に長くしゃべっちまったじゃないか。大体俺は口下手なんだ。しゃべるのは大の苦手なんだよな」
「……いったいどの口が口下手なんだ。まあそれはさておいて、すぐに承諾しなかったのは、お前からいろいろと聞きたかったからさ。今度はそのゆづきという女の子から、面白い話が聞けるかもしれんな」
「おおっ、いやと言うほど聞けるさ。よし、そうと決まれば、早速行こうぜ」
龍夜は二階堂の手を引っ張って玄関にむかおうとした。
二階堂が足を踏ん張る。
「おい、ちょっと待て。俺はまだ寝巻きだぞ。着替えさせろ」
「おいおいおっさん、何をそんな小さなこと言ってるんだ。そんなんじゃ大物になれないぜ。そんなこと気にしない気にしない」
龍夜は再び二階堂の手を引っ張り、外に出た。
そしてそのまま階段のほうへと向かう。二階堂が慌てて言った。
「おい、玄関の鍵、まだ閉めてないぞ」
「またあ。刑事の部屋に入るどろぼうなんて、世界中探しても何処にもいないさ。そんな小さなこと気にしない気にしない」
そのまま階段を降りると、階段を出たところにバイクが停めてあった。
カワサキの900CCのヨーロピアンスタイルバイクである。
龍夜はバイクにまたがるとヘルメットをかぶり、後ろに乗るように二階堂にあごで指示をした。
二階堂がバイクにまたがると、龍夜はバイクのエンジンをかけた。
二階堂が龍夜の背中を数回叩いた。
「おい、ちょっと待て。俺のヘルメットはどこだ?」
「ヘルメット? そんなもん、ひとつしかないぜ。今俺がかぶってるやつだけだ」
「おい、冗談じゃないぜ。この俺がノーヘルでバイクになんか乗れるか」
「そんなあ、また小さいことを言って。そんなこと気にしない気にしない」
龍夜は二階堂の頬を軽く叩くとバイクのギアを入れ、スロットルを思いっきり回した。バイクは急発進してそのまま道路に出た。
「ばかやろう! 俺を誰だと思ってるんだ。俺は刑事だぞ。おまえ、わかってんのか。これでも法の番人なんだぞ」
「まったく。これだから公務員てやつは、いやなんだよな。ほんと小さい小さい」
バイクはそのまま猛スピードで走り去って行った。
伯爵がふと、その動きを止めた。
「どうかしましたか? 伯爵様」
リリアーナが聞いた。
「……いや、ちょっと気になることがあってな」
「何でしょうか?」
「あの男だ」
「あの男?」
「あの男だ。最後に車で走り去った男だ」
二階堂のことだ。
「ああ、あの男ですか」
伯爵はリリアーナの目を、強く見た。
「リリアーナ、あの男はいったいなんなのだ? 何故あそこにいたのだ?」
彼らはリリアーナの水晶玉を通じて、龍夜たちの映像は視ていた。
しかし姿を写しとるだけの水晶玉では、龍夜たちの会話を一切聞くことが出来なかったのである。
「さあ? わかりませんが」
「わからないだと……お前がか? ……何か問題はないのか」
「問題ですか? そうですね。……あの男からは、何の力も感じませんが」
「感じないのか」
「はい、見事なくらいに何の力も危険も、まるで感じません。こんなにも感じない人間は、逆に珍しいくらいです。というよりここまで何もない人間は、今までに一人も見たことがありません。ごくあたりまえの人間でさえ、わずかばかりの力は感じ取れるというのに。あの男はあまりにもその力がないがために、私が何者かわからないのだと思われますが」
「問題はないんだな」
「はい、あんな力なき男、たとえ千人いたとしても、何の問題もありません」
伯爵の目が和らぐ。
「そうか。それを聞いて安心したぞ」
「安心しましたか」
「うむ、何故かちょっと気になったのだが、今の話で憂いはなくなったぞ」
「そうですか。……それでは、伯爵様」
二人は見つめ合った後、再び互いの唇を求め合った。
バイクは市の中心を大きく離れて、郊外に出た。
そしてそのまま山間部の方へとむかって走って行った。
山に入ったバイクは、しばらくは車が対向できるくらいの道を走っていたが、突然横のわきの坂道に入って行った。
一応舗装はされているが、普通乗用車一台がやっと通れるくらいの幅しかない道である。
おまけに急な上がり坂のうえに、大小のカーブが連続してうねうねと目の前に現れる。
バイクのライト一つでは十分には見ることが出来ないが、どうやら道の片側は深い崖になっているようだ。
おまけにガードレールもどこにも見当たらない。
車はもちろんのこと、二人乗りのバイクではさらに危険なその道を、龍夜の運転する大型バイクは信じられないほどのスピードで走っていた。
「……」
二階堂は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
崖から落ちたら命が無いことは想像がつく。
だからといって、危険な運転を続けている龍夜に何かに声をかけたら、それが原因で事故を起こしてしまうような気がしたからだ。
ただひたすら龍夜の背中に、しっかりとしがみついているだけである。
そして単純な原始的恐怖を感じ続けている二階堂を乗せた荒馬バイクは、二階堂が感じる時間からすればかなりの時間が過ぎたと思われる頃、なんの前触れも無く急にスピードを落とした。
そこはちょっとした平地になっていた。大きなカーブの内側に、車が二、三台止まれるくらいの土のスペースがある。
バイクはその中心あたりに停まった。
その平地の奥に石段があった。
バイクのライトしか明かりがなかったが、それはずいぶん昔に造られたもののように、二階堂には見えた。
そして石段のすぐ手前に、小さな鳥居があった。
これもまた、ずいぶんと年季がはいったものだった。
かつては真っ赤に塗られていたであろうその鳥居は、今はその赤かった部分がほとんど剥げ落ちており、その大半が永年風雪にさらされてきた木の黒茶色で占められている。
おまけにあちらこちらで木の表面が、哀れなくらいにえぐられていた。
特に地面に近い部分は――おそらく白蟻にでも食われたのだろう――その太さが半分近くになるくらいまで周りを食い散らかされていた。
今建っていることが不思議に思えるほどの状態である。
二階堂がそれらをぼんやりと見ていると、龍夜がバイクのエンジンを切った。
とたんにあたりが真っ暗な闇につつまれる。
龍夜がバイクを降りると言った。
「おい、おっさん。いつまで後生大事にバイクにしがみついているんだ。さっさとゆづきのところへ行こうぜ」
二階堂もバイクを降りた。
「暗くて何も見えないぜ」
「もうほんとに、これだから公務員は。って、これは公務員とは関係ないか。しょうがねえなあ。引っ張ってやるから、ついて来い」
龍夜は二階堂の手をつかむと、すたすたと歩き出した。
二階堂が半ば引ずられるような形のまま、ついて行く。
二階堂は足元のよく見えない石段で何度か転びそうになったが、そのたびに龍夜が手を引いて助けてくれた。
恩着せがましく文句を言いながらだが。
その石段は神社に通じる石段としては、そんなに長くはなかった。
十数段ほど登ったと思われた時、開けた場所に出た。
そしてその奥に明かりが見えた。
その明かりはそこに建っている古い神社からもれていた。
その神社は、神社としてはかなり小さいほうだろう。
その大きさが、一般的な民家より少し大きいくらいの大きさしかない。
そして本堂の横に小さな古びた蔵のようなものがあるだけで、他には何の建造物も存在しない。
狛犬とか灯篭とかといったものもなかった。
あきれたことに、神社には、たとえそれがどんなに寂れていたとしても違いなくあるはずの賽銭箱さえ、どこにも見当たらなかった。
敷地の面積もさして広くはない。
龍夜はじっと神社を見ている二階堂を無視して、本堂の左側にある扉を開けて、中に入った。
二階堂が慌てて龍夜の後を追う。
中には幅の狭い土間があり、その先には同じく幅の狭い広縁があった。
柱や天井などを含めた全体の様子から、かなり年月の経ったもののように思える。
広縁の先には六枚の障子が並んでいた。
龍夜は靴を脱ぐと広縁にあがり、真ん中にある二枚の障子を左右に開けた。
そこは日本間となっていた。
その二十畳以上ある日本間の真ん中の奥に、巫女が着る衣装を身にまとった少女が正座をしていた。
その少女が龍夜ごしに二階堂を見た。
二階堂はあっけにとられていた。龍夜から〝かわいい〟とか〝絶世の美女になる〟とか聞かされてはいた。
しかし身内の欲目がかなりあると考えていたので、まさかこれほどまでとは思ってもいなかったからだ。
日本中、いや世界中のどこにだしても遜色のない、完全無欠で正真正銘の美少女である。
そのうえに二階堂を見るその大きな黒い瞳の中に、広い知性と強靭な意志、そして大きくて深い母のような愛が宿っていることが、二階堂には瞬時に理解できた。
もって生まれた奇跡的ともいえる顔立ちのよさ、それに加えてその内面の強さと美しさを、彼は痛いほどに理解した。
決してロリコンの気はない二階堂だったが、今目の前にいる少女を、心の底から〝美しい〟と感じていた。
ゆづきの顔を、穴が十個も二十個も開くほどじっと見つめている二階堂を見て、龍夜があからさまに不機嫌な口調で言った。
「おい、おっさん。さっきから何、ゆづきに見とれているんだ。このおっさん、やっぱりロリコンだったんだな。危ねえ危ねえ。おい、おっさん、ゆづきに会うのはこれっきりだぞ。もう二度と会わせねえからな。わかったか!」
龍夜をなだめるように、ゆづきが柔らかく言う。
「まあまあ龍夜様、もうそれくらいにしてくださいませ」
「……」
龍夜がおとなしくなったのを見とどけてから、ゆづきが二階堂に目を向けた。
「ようこそおいでくださいました二階堂様。遠路はるばる本当にご苦労様でございます。さあ遠慮なさらずに、どうぞお上がりくださいませ」
その声にあやつられるかのように、二階堂は日本間に上がった。
そしてすでに用意されていた二枚の座布団のうち、右側に座った。
龍夜が、子供がふてくされたような顔で二階堂を睨みつけながら、左側の座布団に座る。
二人が座り終えると、ゆづきが言った。
「では二階堂様。二階堂様におかれましては、いろいろとこのゆづきにお聞きになりたいことがございましょう。何なりと遠慮なさらずに、聞いてくださいませ。出来る限りお答えいたしましょう」
二階堂はしばらく黙ってゆづきを見ていたが、やがて口を開いた。
「じゃあ聞こう。何故俺をここに連れてきたんだ?」
「その質問には残念ですが、今はお答えすることができません。誠に申しわけありませんが。しかしその疑問については、そのうちにわかる時がくるでしょう。それまでしばしの間、お待ちくださいませ」
「では聞くが、お前達はいったい何者なんだ?」
「それについてはお答えできます。私達は……」
龍夜が突然声を荒げた。
「おいおい、ゆづき。こんな一度会っただけの公務員で国家権力の犬のおっさんになあ、俺たちの正体を明かしていいのかよ」
ゆづきが龍夜の顔をじっと見つめた。
その顔はまるで、母親が幼い我が子を優しくあやすような、そんな表情である。
「はい、龍夜様。それに関しましては、全く憂いはございません。龍夜様はこのゆづきが、他の誰よりも慎重で用心深い性格であることは、よくご存知のはずでしょう。それにいまさら言うまでもないことですが、私には〝視る〟力があります。そのことも含めて、この私が大丈夫だと判断して言っているのです。いらぬ御心配をなさらずに、このゆづきに全てをまかせていただけないでしょうか」
「……ああ、わかったよ。ゆづきがそこまで言うのなら、仕方がないな。おまえの好きなようにしていいぞ」
「はい、お言葉に甘えまして、そうさせていただきます。では二階堂様、お答えいたします。実は私達は、九龍一族です。龍の一族とも呼ばれております。そしてもう一つの名を、〝もののけ狩り師〟と、言います」
「もののけ狩り師?」
その時龍夜が、またいらぬ口を挟んできた。
「おい、もののけ狩り師、だってよ、おっさん。だっさいネーミングだろう。ほんと、だせえぜ。言ってて恥ずかしくなるぜ、まったく。でもってこの俺としてはだな、こんなださださじゃなくて、もっと気の利いたかっこいい名前に変えたいんだが。例えばおっさん、横文字なんか、かっこいいと思わないかい?でも先祖代々使ってきた由緒ある名前だからだめだとゆづきが言うもんで、それで仕方なく……おいおいゆづき、そうにらむなよ。はいはい、わかりました。静かにしてますよ。九龍龍夜は、とってもいい子ですよ」
「おさわがせいたしました、二階堂様。申しわけありません。どうかお気になさらないでくださいませ。いつものことでございますから。こう見えても龍夜様は、美しい心の持ち主でございます。確かにその口は、少々悪いところがあるかもしれませんが、決して悪気はないのでございます。本当はとてもお優しい心をお持ちになっております」
「よせやい。体中が痒くなるぜ」
ゆづきは龍夜を見て軽く微笑むと、再び二階堂に視線を移した。
「では二階堂様。先ほどの話の続きでございますが、私達はもののけ狩り師として、そして九龍一族として千年もの長きにわたって、妖怪、もののけ、悪霊、あやかしといった悪しき存在と、戦ってまいりました。龍夜様とこの私はその末裔でございます。申し遅れましたが私の名は、九龍ゆづきと申します」
「二人は兄弟なのか」
「いいえ、兄弟ではございません。二人とも九龍の血を継ぐ者ではありますが」
二階堂が、ゆづきの右に置かれている刀掛けの上の日本刀を見た。
「それはわかった。ところで、その魍魎丸とは、いったいなんなんだ」
「はい、この者のことですね。者という言い方は、あまり正確とは言えませんが。お話しするととても長くはなりますが、申し上げましょう。魍魎丸はもともとは、龍夜様のおじいさまが造られたものです。この姿になる前は、四国のとある集落の土地神様と妖怪でした。最初はその土地で、ある妖怪が暴れたことから始まりました。困り果てたその土地のものが、みなで古くからその地で信仰されていました土地神様に熱心にお願いしましたところ、土地神様がそのお姿を現わしになられて、妖怪を退治しに向かったそうでございます。ところが妖怪と土地神様が戦っている最中に、その二人といいましょうか二匹といいましょうか、とにかく体がくっついてしまいまして一つになってしまったそうです。おそらく〝気〟が合ったのでございましょう。この場合の〝気〟とは、気持ちや人格などのことではございません。一方は悪しき妖怪で、一方は善なる土地神様なのですから、この双方の気持ちが合うわけがないのです。ところが、体のほうの〝気〟が合ってしまったのでございます。気と言うものは人間とっても大変重要なものですが、神様や妖怪といったある意味において人間以上ともいえる存在にとっては、人間よりもさらに大事なものでございます。例えば人間は、たとえ気がなくなって死んでしまっても体は土になるまで残りますが、神様や妖怪などは気が無くなると、途端にその存在自体が消滅してしまいます。体を構成する上においてそれほどまでに重要な気が合ってしまったわけですから、妖怪と土地神様はひとつになってしまわれたのでございます」
「それで一つになって、日本刀になったのか?」
「いえ二階堂様、まだ先がございます。ふたつはひとつになりましたが、それでみなが救われたわけではございません。ふたつがひとつになったが為に、その力はより強力になりました。それも二倍になったわけではありません。お互いの力の相乗効果で、最初に比べて数倍もの力を持つようになりました。そして土地神様の精神が勝っているときは、良かったのですが。なにせふたつの力は非常に拮抗しておりましたので、妖怪の心が勝るときがありました。そうなればより強力な力で、暴れることになるのです。人間も善と悪のふたつの心を持っているといいますが、そんななまやさしいものではございません。なにせ完全な善と、そして完全な悪なのでございますから。困り果てた人々を、修行の旅で偶然通りかかった一人のもののけ狩り師が、お助けいたしました。その人が龍夜様のおじい様です」
「そして、魍魎丸になったと」
「いいえ、まだでございます、二階堂様。おじい様は最初、その怪物を退治しようといたしました。ところが怪物があまりに強力なものですから、今度は封印することにしたのです。そしていつものように自分の持っているひょうたんに、封印しようとしたのでございます。今までに幾多の悪しき者達を封印してきたひょうたんでした。しかしこの怪物は今までの妖怪たちとは、その力が全然違っておりました。何十年もの長きにわたって数々の妖怪たちを閉じ込めてきたそのひょうたんを、内側から破壊しようとしたのです。このままではひょうたんが壊されてしまうと判断したおじい様は、急ぎ一振りの日本刀を作り、そのなかに怪物を封印したのです。それがこの魍魎丸です。一度お会いになったことがあるかと思いますが」
魍魎丸の中心部分が、わずかに紫色に光った。
「そうわしが魍魎丸じゃ。会うのはたしか二度目かのう、刑事さん」
口もないのに人間のようにしゃべる刀にむかって、二階堂が言った。
「確かに二度目だな。しかしこの年になって刀と会話することになるとは、全く想像してなかったが」
「おい刑事さんよ。刀、刀と気安く言うな。これでもわしは、もともとは強力な妖怪と力強い土地神が一つになった、この広い日本においてもまれにみる貴重で高貴な存在じゃぞ。もうちょっと敬わんかい。この未熟者めが!」
「これ、魍魎丸。もうそれくらいにしなさい」
「……」
「二階堂様、大変失礼をいたしました。それで日本刀に封印された魍魎丸ですが、刀から抜け出すことも刀を破壊することもできませんでしたが、その心ねは、最初はかわりませんでした。つまり善と悪との二つの心を持っていたのでございます。そこでおじい様が一日も欠かさず毎日気の通った念を送り、悪しき心のほうだけを消そうといたしました。おじい様が数年間もの長きにわたって、毎日一心に念じ続けたおかげで、ほとんど土地神様の心だけが残るようになったのです。正義にあふれる強く美しい心です。ただし悪しき妖怪の心と言うかその性格の一部分が、少しばかりではありますが残ってしまいましたので、そのなんと申しましょうか……はっきり申し上げてしまえばその口だけは、先ほどのようにあまりよろしくない結果となってしまいました。その点におきましては、龍夜様と全く同じでございます」
「おいおいゆづき、それは違うぜ。俺は確かに他の人と比べるとほんのちょっとだけ口が悪いかもしれないが、そこのくそじじいみたいに、いじわるじゃあないぜ」
「なにをぬかす。このわしがいじわるじゃと? いじわるなのは、おぬしのほうじゃ」
「なんだとぉ、このくそじじい」
「おやめなさい、二人とも」
「……」
「……」
ゆづきにそう言われると、二人とも借りてきた猫のように、大人しくなる。
二人、いや一人と一匹とでも言ったほうがいいのかもしれないが、ともにゆづきには完全に尻にひかれているようだ。
二階堂にはそのやりとりが面白くてしかたがなかった。
笑いをかみ殺すのにかなり苦労していた。
ゆづきはしばらくの間、龍夜と魍魎丸を交互に見ていたが、やがて二階堂に目を移した。
「他に何かございますでしょうか」
「うーん、そうだな。重要な質問がある。それはここにいる龍夜とやりあった、表面上の姿形は人間の姿をしているあいつらは、いったいなんなんだ?」
「あやつらでございますか。あやつらは一言で言うと、吸血鬼でございます」
「吸血鬼だと!」
「はい二階堂様、吸血鬼でございます。今風に申し上げれば、ヴァンパイアということになりましょうか。全部で七人いたようでございますが、そのうちの三人は、龍夜様がすでに倒しております。ヨーロッパから来たようです。国籍もさまざまで、ヨーロッパではありますが、一人一人違う国で生まれた人間のようです。人間と言いましたが、もともとはみな人間であった存在でございます」
「吸血鬼ということはわかった。おそらく間違いないだろう。発見されたガイシャの体には血が一滴も残っていなかったからな。それで、あいつらはヨーロッパ人なのに、なんであんなにも流暢に日本語がしゃべれるんだ」
「それは日本人の血を吸ったからでございます」
「日本人の血を吸っただと?」
「はい、そうでございます。吸血鬼は人間の血を吸うと、その者の知識を得ることが出来るようです。この場合あくまで知識であって、その者の思い出とか記憶とかいったものではございません。おそらく血を吸った人間の記憶をいちいち自分の頭に取り込んでいたのでは、自らの記憶と交じり合って混乱をきたすために、自然とそういうふうになったのだと思われます。そして血を吸った者のなかでも最後に吸った者の知識が、より強く記録されるようでございます。あやつらは全員日本に来て日本人の血を吸いました。最後に血を吸った人間が日本人なのです。ですからあやつらは自然と日本語を使っているのです」
二階堂の眼がきつくなった。
普段はどちらかといえば不真面目な彼が、真剣になっている。
その針のようなまなざしでゆづきを見た。
「やつらは全員日本人の血を吸っているのか。すると元は日本人で、今は吸血鬼になっている者がいるのか」
ゆづきが二階堂の鋭いまなざしに臆することなく答える。
「いいえ、それは心配におよびません。今のところそんな者は、誰一人いないようでございます。あやつらはヨーロッパで数百年にもわたって、人の血を吸い続けてきました。もちろん最初は一人でした。しかし聖騎士団と呼ばれている者たちにたおされた数名を加えましても、吸血鬼は全部で十人くらいかと思われます。ただ数名の吸血鬼をたおすために、数百人もの聖騎士団の方々が、尊い犠牲となってしまいました。とても悲しいことでございます……話を元にもどしますと、あやつらは基本的には、空腹を満たすために人間の血を吸っています。食料というわけです。それ以外で誰かを仲間にするには、条件があるようでございます」
「その条件とは?」
「はい、その条件とは一言で言いますと、強い、と言うことでございます。例えば弱い人間を吸血鬼にした場合ですが、それでも普通の人間とは比べものにならないほどに強くはなりますが、吸血鬼としては弱い存在にしかなりません。あやつらの首領は独特の美学を持っているようです。仮に弱い仲間だとしても、その数を増やせば増やすほど全体の力は強くなりますが、それを決してやらないのです。――弱い吸血鬼を生み出すぐらいなら組織が強くならなくてもよい ――と考えているようでございます。ですから首領自らが選んだ強い人間のみが、あやつらの仲間になっていくようです」
「被害者の死体は俺が知っている限り、今のところ一人しか見つかっていない。他の被害者は、いったいどうなった」
「あやつらは人間の血を吸った後、その〝精〟も吸いつくします。精もあやつらの食料というわけでございます。精を吸い尽くされた人間は、からからのミイラのようになってしまいます。そしてそれは持ち帰り燃やしてしまいます。まるで紙のようによく燃えるようでございます。証拠隠滅というわけです。まことに恐ろしいことでございます……あやつらがそうするのは、いくらあやつらでも、死体が見つかって騒ぎが大きくなれば、いろいろと都合の悪いことがあるからだと思われます。そのためにあやつらの存在が公になったことは、一度もございません。ただ秘密裏にあやつらと戦っている組織が、一つだけございます。それが〝聖騎士団〟と呼ばれる人々です。私が〝視た〟ところによりますと、それは古くからカトリック教会に属する、非公式の組織のようでございます」
「見つかったガイシャの首のところに、犬の噛み跡があったが」
「特に強い人間を吸血鬼にしますと、ある種の変身能力をそなえるようでございます。大コウモリであったり、大型の猫科の動物であったりしますが、その中でも特別に強い力を持つ者は、狼に変身するようでございます」
「狼……か」
「はい、狼でございます。でも完全に狼になりきってしまうわけではございません。半人半獣のような存在になるようです。ただ獣人化した吸血鬼は、首から上は完全な獣の姿になるようでございます」
「それで大型犬、つまり狼の噛み跡があったのか」
「はい、そのとおりでございます」
今まで黙っていた龍夜が、口をはさんできた。
「でもよお、ゆづき。今まで俺と戦った三人は、人間の姿のままだったぜ」
龍夜がそう言うと、ゆづきは深刻なまなざしで龍夜の顔をじっとみつめたまま黙り込んでしまったが、ややあってようやく口を開いた。
ただその口調はさっきまでと比べると、ずいぶんと弱く重々しい口調である。
「それは今までは龍夜様が、あやつらの中でも、弱きほうの三人と戦ったからでございます。残りの四人のうち視る力を持つ女を除く三人は、みな狼に変身することができます。三人とも人間の姿のままでも、今までの三人に比べればはるかに強うございます。そのうえに狼に姿を変えたならば、さらにその強さが増していくことでしょう。今後龍夜様がその者たちと戦ったならば、あやつらは最初から獣となって戦いを挑んでくることでしょう」
「……」
ゆづきは、無意識のうちに唇を強く噛んでいる龍夜をじっと見ていたが、やがて二階堂に話しかけた。
「他に何か聞きたいことはございますか、二階堂様」
「やつらをたおす方法は」
「テレビや映画などでは、十字架、にんにく、聖水、木の杭などといった物を使いますが、それは物語の中だけの話でございます。あやつらにそのようなものは一切通用いたしません。太陽の光だけは苦手なようでございますが、それはただたんに嫌っているだけでございます。あやつらは暗がりが好きなだけでございます。太陽の光でその肉体が傷ついたり、ましてや死んだりするようなことは、全くありません。あやつらを倒す方法は、二つしかありません。魍魎丸がやったように、あやつらの力の源であるその血を全て吸い尽くしてしまうか、あるいは再生が不可能なほどまでに、その肉体を大きく破壊しなければなりません。そのどちらかのみで、あやつらを倒すことができるのでございます」
「切られて落ちた首が、まだしゃべっていたが」
「はい、首を切られたくらいでは、あやつらは死には至りません。もっと大きく体を損傷すれば、別でございますが」
「そうか。やはり人間とは根本的に違うようだな」
「はい、仮に人間が首を切られた場合のことを考えれば、その生命力の大きさの違いがわかるかと思われます」
「わかった。では、答えにくいことを聞くが、いいか?」
「はい、なんでございましょうか。ご質問の内容にもよりますが、出来る限りお答えしたいと思います」
二階堂が身を乗り出し、より大きな声で言った。
「では聞くぞ。吸血鬼どもはあと四人いると言ったな。そのうちの三人は狼になれるわけだ。つまり今までの三人より、少しは強いわけだな」
「少しではございません。これまでの三人と残りの三人では、その強さにかなりの開きがございます」
「やはりな。で、ここからが肝心なところだが、その三人をここにいる龍夜と魍魎丸で、倒すことができるのか?」
龍夜はおもわず二階堂を見た。
そしてゆづきを見た。ゆづきはしばらく黙っていたが、やがて二階堂に言った。
「本当にお答えしにくいことをお聞きになるのですね、二階堂様。それは今まで以上に厳しい戦いとなると、申し上げておきましょう。首領を除く二人でさえかなりのものですが、あやつらの首領、この一連の出来事において全ての根源となる存在ですが、他の者とは比べものにならないほどの脅威だと思われます」
「その奴らの首領とは、いったいどんな奴なんだ」
「先ほど申し上げましたように、全ての源となった者です。仲間、というより下僕達と言ったほうがよろしいのですが、その者たちからは普段は伯爵様と呼ばれているようでございます。しかしもう一つの呼び名がございます。普段はあまりにも恐れ多くて下僕達でさえ口に出すのをはばかる、半ば封印された呼び名でございます。その呼び名は〝ドラゴンの子〟でございます」
「ドラゴンの子! ……だって」
龍夜が叫ぶような大声をあげた。
二階堂が思わず龍夜を見る。
その表情には明らかな驚きの色が現れていた。
ゆづきがゆっくりと噛みしめるように言った。
「はい、龍夜様。ドラゴンの子、でございます」
思わず中腰になっていた龍夜だが、やがてどたりと床の上に腰を下ろした。
そして力なくつぶやいた。
「ドラゴンの……子。……よりによって……ドラゴンの子……ってか」
二階堂が激しく首を振り、龍夜とゆづきを交互に見た。
「おいっ、いったいなんなんだ、そのドラゴンの子、とか言う奴は?」
ゆづきが努めて静かに答える。
「それに関しましては、いくら二階堂様でも、申し上げることはいたしかねます」
龍夜が、強く吐き出すように言った。
「ドラゴンの子は、ドラゴンの子さ」
二階堂は何も言わなかった。
いや言えなかった。
あのふてぶてしさを絵に描いたような龍夜が、尋常でなく動揺している。
そして表面上はあくまで静かながらも、その内面においては何かを押し殺して必死に耐えているように見える、十歳の少女であるゆづき。
その二人の雰囲気に完全に飲まれていた。
ややあって、何かを思い出したかのようにゆづきが言った。
「他に、何か質問がございますか、二階堂様」
「……いや、ない」
「そうですか。わかりました。誠にお手数をおかけいたしました……龍夜様、二階堂様を、お送りしてくださいませ」
「……わかった……おっさん、もうおうちに帰るぜ」
龍夜は立ち上がるとまだ座っていた二階堂の手を取って、大根でも抜くようにその体を引き上げ、有無を言わさず外に引っ張って行った。
後にはゆづきが一人残された。その黒い瞳は涙で濡れていた。
バイクが二階堂のアパートに着いた。
二階堂がバイクから降りると、龍夜は何も言わずにその場を走り去った。
二階堂はそのまま龍夜の後ろ姿を見送っていたが、やがて自分の部屋へと戻っていった。
洋館にある広く仄暗く、中世ヨーロッパの宮殿を模した部屋。
湿気に満ちた部屋に存在する優雅さや華やかさを隠す乾いた闇は、この世のものでない者の住処にふさわしい雰囲気をかもし出している。
男が独り黒いソファーに深々と座っている。館の主だ。突然扉が開かれて女が入ってきた。リリアーナである。
「伯爵様、大変です」
「なんだ騒々しい。いったい何があった」
「あいつらの力が、変わりました」
伯爵の眼が大きく見開かれた。
「変わった。それはいったいどういうことだ。どう変わったと言うのだ。まさか、強くなったとでも言うのか?」
「それが全くわかりません。とても信じられないことですが、変わったということははっきりとわかるのですが、何がどうかわったのかは、私には何もわからないのです。しかしあいつらの中で何かが確かに、それも大きく変わりました。それだけは間違いありません」
「なんだと! リリアーナ。あいつらが変わったという事はわかるのに、なにがどうかわったのかが、まるでわからないと言うのか……こんなことは今まで一度もなかったことだな。実に由々しきことだ」
伯爵が何かを懸命に考えている。そのまま心配そうに見ていたリリアーナが、おそるおそる声をかけた。
「どうしましょう。伯爵様」
伯爵がリリアーナをしっかりと見た。
「このままほおっておくと、事態がややこしいことになるやもしれぬ。そういう事にならないよう、何か早急に事を起こさねばなるまいな。そうと決まればこの事態の決着は、案外と早いかもしれぬぞ」
そう言うと伯爵は、にまり、と笑った。それは氷のように冷たい笑みだった。
龍夜のバイクが、住みかである神社に戻った。
龍夜はバイクから降りると、そのままものすごい勢いで石段を駆け上がり、その勢いのままゆづきの前まで来て、尻からドンと大きな音をたてて座ると言った。
「ゆづき、お前に聞きたいことがある。正直に答えてくれないか」
「……はい、龍夜様」
ゆづきは返事をしたが、それは消え入りそうな声である。
龍夜がそれにかまわず続けた。
「言いにくいとは思うが、あいつらの残りとこの俺と魍魎丸、いったいどっちが強いのか、はっきりと答えてくれないか」
「……残りの三人は、先ほども申し上げましたように、今まで戦った相手より、数段強いようでございます」
「俺がカルロスともう一人……名前なんだったっけ? ……いや名前なんてもうどうでもいいが、その二人と戦う前に、この戦いがどうなるかとお前に聞いた時、お前は確か〝わからない〟と言ったな」
「はい、そのように申しました」
「なら今度の戦いは〝わからない〟のか〝だめ〟なのか、いったいどっちなんだ。正直に答えてくれないか」
「……勝負は時の運、とも申します。最初からどちらが勝つと決まっている戦いなど、ほとんどございません。それは相当の実力差があるときだけでございます。ただもう龍夜様もお気づきになっているとは思いますが、私の〝わからない〟という言葉には、いろいろな意味がございます」
「そう、その意味のことを、詳しく聞きたい」
「前に戦った二人ですが、その戦いはよほどのことがない限りにおいて、おそらく龍夜様が勝つと思っておりました。もちろん絶対に、ではありませんでしたが、龍夜様と魍魎丸の力が上回っているとは思っていました。ただ圧倒的と言うには、力の差がそれほどはありませんでした。龍夜様たちが負けても、おかしくはありませんでした。ただ私が見抜けなかったことが、一つありました。龍夜様はあの場に相手が二人いるということを知っておりました。ところがあの二人はそのこと知りませんでした。二人は龍夜様が相手は一人だと思い込んでいる、と考えておりました。これについて私は、視ることができませんでした。ですからあの戦いは私が思っておりました以上に、龍夜様が優位に戦うことができたのです。しかし残る三人ですが、おそらく最初に龍夜様がお相手をいたすのは首領を除く二人かと思われますが、その二人の力は正直に申し上げれば、龍夜様と魍魎丸の力を上回っております」
「……」
「ただ、圧倒的な実力差ではありません。ですから龍夜様たちが勝つ可能性もございます」
「じゃあ聞こう。正確に確立で言うと勝つ確立はどのくらいだ」
「確立ですか。それは……数学的なことは、正確にはわかりかねますが……おそらく一割くらいではないかと思われます」
「ふーん、そんでもってドラゴンの子は、その二人より強いわけね」
「はい、その二人よりさらに強い存在でございます」
「それじゃあ、そいつにこの俺が勝つ確立は、いったいどのくらいだ」
「……全くないわけではございませんが」
「ほとんどゼロに等しいと」
「……はい」
「わかった。言いにくいことを、よく正直に言ってくれた。悪かったな。さぞつらかったろうな、ゆづき」
龍夜はゆづきに体を寄せると、その体を優しく抱きしめた。
「はい、つろうございました、龍夜様」
ゆづきは龍夜に強く抱きついた。
そしてその大きな瞳から、大粒の涙を流し始めた。
「泣け。今は好きなだけ泣くといい」
「はい、龍夜様」
ゆづきは嗚咽を繰り返しながら、ひたすら泣き続けた。
龍夜はそのゆづきを、黙って抱きしめていた。
「事を起こすのですか?」
リリアーナが伯爵に聞いた。
「そうだ」
伯爵が答える。
「それはどのような……」
「あわてるなリリアーナ。その前に必要な情報があるのだ」
「どんな、情報ですか?」
「もちろん奴らのことだ。特にその住処に関する情報が、真っ先に必要だ」
「奴らの住処ですか。それならもうつきとめましたが」
伯爵の表情が変わった。
黒い怒りをそこに含んでいた。
「何故、それを早く言わないのだ!」
「いえ……いえ伯爵様、言おうと思っていたのです。奴らの変化を告げた後に……」
伯爵の顔が少しだけ和らいだ。
ただ眼は変わらず、きつくリリアーナを見ている。
「そうであったか。なるほどな。それなら話が早いな」
「それともうひとつ」
「もうひとつ……なんだ?」
「実は……」
そういった後リリアーナは、前と同じく内緒話でもするかのように、伯爵の耳元で何かをささやいた。
二階堂はとりあえず署に戻った。
自分のデスクで椅子に重く身を預けていた。
彼は考えていた。
――吸血鬼か。
同時に悩んでもいた。
――今回の事件は、おそらく迷宮入りだろうな。
まさか吸血鬼を捕まえて――こいつが犯人です――と引っ張ってくるわけにはいかない。
――署長にどう言ったものか。
捜査にはいろいろな事がある。
あれこれあるが署長は、最終的には二階堂が何とかしてくれると思っているようだ。
実際に二階堂は、今まで一つ残らず何とかしてきた。
二階堂は署に親密な者は一人もいない。
個性が強すぎて並の人間ではついていくことが出来ないからだ。
二階堂も並の人間には興味がなかった。
しかし署長だけは別だ。
上司という以前に何か惹かれるものがある。人間的に。
そんなことを考えていると、新人の婦人警官が二階堂を見ながらこちらに歩いてくるのが、目の端に写った。
彼が若くして結婚していたなら、これぐらいの娘がいても不思議ではないくらいの年齢だ。
彼女が何か言う前に二階堂が言った。
「なんだ?」
「二階堂さん。署長がお呼びです」
「……わかった」
婦人警官は軽く一礼をすると、背を向けた。
二階堂は天井を見上げた。
――こっちがごまかす前に、むこうから言ってきたか。
二階堂は椅子から力なく立ち上がると、ゆるりと歩き出した。
「入れ!」
ノックすると、間髪いれずに返事があった。
相変わらず力強い声だ。
「二階堂です。入ります」
「おお、待ってたぞ」
中にはいると、署長は両手をデスクの上に置き、身を乗り出しついでに首も突き出して二階堂を迎えた。
そして一度見たら二度と忘れられないほど見事にまんまるい眼で、じっと二階堂を見た。
そのギョロ眼には、凡人にはない眼力があった。
その眼を含めた彼の顔を一言で言うと、異相である。
それは子供が見たら、ひきつけを起こしそうなほどだ。
そして恰幅のいい体格に加え、心身ともにみなぎるエネルギーが人並み外れている。
エネルギッシュと言う言葉をそのまま人間に変換したら、こうなるのではないかと思えるような男だった。
おまけにキャリア組みとは思えないほど融通が利き、その懐も深い。
現場の苦労もよくわかっている。
――ここで二人っきりになるのは久しぶりだが、相変わらずだな
二階堂は軽く微笑んだ。
ゴマすりではなく、署長の顔を見るとついついそうなってしまう自分がいる。
署長が言った。
「早速だが、例の件はどうなった?」
「西野さやかの件ですか」
「他にないだろう」
「そうですね……」
署長が机を、どすん、と叩いた。
「前置きはいい。単刀直入に話せ」
「……実は、何もわからないのです」
「何もわからない? おまえがか?」
「はい」
「……」
署長は渋い顔をした。
沈黙の後、二階堂がやや小さな声で言った。
「あまりわからないことは時々ありますが、何もわからないというのは、実は初めてなんです」
「……そうだろうな」
「そこで考えたんですが。犯人はもう死んでる可能性があります」
「死んでるだと?」
二階堂は嘘を言った。
そして――自分のつく嘘は誰にも見抜かれることはない――と二階堂自身は思っていた。
「ええ、ここまで何も視えない、何も感じない、何もわからないとなると、もう死んでいる可能性が高いと思いますが」
「……そうか。もしおまえの言うとおりなら、仕方がない。……でも捜査はこのまま続けるんだ。わかったな」
「わかりました。でもこうなると、捜査というより、お守りになると思いますね」
「お守り? それは笹本のことか」
「はい」
「じゃ、お守りを続けてくれ。笹本は訳あっておまえにつけている」
「どんな訳ですか?」
「決まってるだろう。あの単細胞馬鹿正直は、このままではまるでものにならん。だからまるっきり正反対のおまえにつけた」
「……そうですか」
「とにかく、今すぐに笹本のお守り……じゃなかった捜査を続けろ」
「わかりました」
二階堂は一礼すると部屋を出た。
署長は二階堂が去った後もそのドアを鋭い眼で見続けていたが、やがてそろり視線を落とした。
――あいつ……。
彼はペン立てにささっているペンを、人差し指で軽くはじいた。
――どういう訳かはまるでわからんが、悪意があるともとても思えんが……この俺に初めて嘘をついたな。
署長は眠るように目を閉じた。
――今回があいつの初黒星になりそうだ。
その姿は、寂しがっている幼子のように見えた。
広く暗く、そしてヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢で無機質な部屋。
大きな革張りのソファーに男が独り座っている。
そこに二人の男が入ってきた。
「何かご用でしょうか、伯爵様」
「何かご用でしょうか、伯爵様」
伯爵が座ったままで、二人を上目づかいに見る。
「お前たちを呼んだのは他でもない。あいつらのことだ。リリアーナがついに、あいつらの居場所をつきとめたぞ」
「それでは、あいつらを殺しに行くのでございますね、伯爵様」
「必ず仕留めてまいります、伯爵様」
二人は相変わらず交互にしゃべる。
伯爵が右手を上げて二人を制する。
「いや、仕掛けにいくのではない。あいつらをこちらに来させるのだ。あいつらの死に場所ははここだ」
「いったいどうなさるおつもりなのでございますか、伯爵様」
「なんなりとお申しつけください、伯爵様」
「それについてはリリアーナが説明する。リリアーナ、入ってまいれ」
リリアーナが入って来た。
リリアーナは伯爵と二人の男の間に立つと、二人の顔を淫靡な眼で見比べた後、言った。
「明日の夜、あいらの家は、十歳くらいの少女が一人きりになる。その子をここに連れて来ればよいのです」
「わかった、リリアーナ」
「おまえの言うとおりにしよう」
リリアーナが、二人に言って聞かせるように言う。
「必ず連れて来るのです。ただし、決してその子を傷つけてはなりません。無傷で連れて来るのです。わかりましたか」
「わかった。そうしよう」
「なるほど。その娘を餌に、あいつらをここに呼び込むのだな」
伯爵がソファーからゆっくりと立ち上がる。
そして二人の男たちを見回した。
「おそらく明日が奴らとの最後の戦いとなるであろう。お前たち二人の力は、あいつらを上回っている。自信をもってあたれ。しかしくれぐれも油断をするな」
「わかりました、伯爵様」
「仰せのとおりにいたします、伯爵様」
「ではもう明日に備えるように。二人ともさがってよいぞ」
「はい、伯爵様」
「はい、伯爵様」
二人は深々と一礼をすると、素早く部屋を出て行った。
伯爵はそれを見とどけると黒ソファーに座り、リリアーナに顔を向けた。
「これでよかったのかな、リリアーナ」
「はい、これで全てが解決することでしょう」
「そうか、おまえがそう言うなら、間違いはないな」
「とにかく私はその少女に会ってみたいのです。私と同じ〝視る〟力を持っているという、その少女に」
「慌てなくても明日になれば、いやでも会えるというものだ。で、その少女に会って、いったいどうするつもりなのだ」
「あの二人が少年と仲間の妖怪を倒したならば、私がその少女の血をいたたぎます。その上で私の〝精〟を注ぎ込みます。それでよろしいですか、伯爵様」
伯爵の目が大きく見開いた。
「精を注ぎ込むだと? おまえの仲間にするのか」
「はい、そうです。もし仲間にしたならば、その少女が私のよき右腕になることは間違いありません。なにせこの私と同じ〝視る〟力を持っているのですから。このような人間には、めったなことではおめにかかれません。私とその少女、二人の力をあわせれば、これまで以上の成果が期待できることでしょう」
「そうか、そうなれば私も嬉しいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様」
「明日が楽しみだな」
「はい、とても楽しみです、伯爵様」
「とにかく今夜は、明日に備えて早く休むとしよう。もう下がってよいぞ、リリアーナ」
「はい、伯爵様。それでは失礼します」
リリアーナは軽く一礼すると、部屋を出た。
伯爵はしばらく宙を眺めていたが、やがてぞっとするような氷の笑みを浮かべるとソファーに横になり、その目を閉じた。
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キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
【完結】かみなりのむすめ。
みやこ嬢
キャラ文芸
【2022年2月5日完結、全95話】
少女に宿る七つの光。
それは守護霊や悪霊などではなく、彼女の魂に執着する守り神のような存在だった。
***
榊之宮夕月(さかきのみや・ゆうづき)は田舎の中学に通う平凡でお人好しな女の子。
夢は『可愛いおばあちゃんになること』!
しかし、ある日を境に日常が崩壊してしまう。
虚弱体質の兄、榊之宮朝陽(さかきのみや・あさひ)。謎多き転校生、八十神時哉(やそがみ・ときや)。そして、夕月に宿る喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七つの魂。
夕月のささやかな願いは叶うのか。
***
怪異、神様、友情、恋愛。
春の田舎町を舞台に巻き起こる不思議。
きみは大好きな友達!
秋山龍央
キャラ文芸
pixivの「僕だけのトモダチ」企画の画にインスパイアされて書きました。このイラストめっちゃ大好き!
https://dic.pixiv.net/a/%E5%83%95%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81?utm_source=pixiv&utm_campaign=search_novel&utm_medium=referral
素敵な表紙はこちらの闇深猫背様からお借りしました。ありがとうございました!
https://www.pixiv.net/artworks/103735312
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