2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
ホテルに着き車が停まると、ドアマンの男性がにこやかに車のドアを開けてくれたので、テオさんがさっと降りる。そして私に手を差し出してくれた。ゴクリと息を呑み、その手を取ると柔らかく微笑んでくれる。
なんだかお金持ちのお嬢様になったみたい。
こんな扱いを受けた経験がない私は、胸が張り裂けそうなくらいドキドキしていた。車から降りると、若いポーターが飛んできて、荷物を降ろして運んでくれる。そこには私の荷物があった。
あ! 私の荷物! 見つかったのね……!
荷物を見ながら立ち止まっていると、テオさんが背中をさすってくれる。
「ミーナ、荷物は約束通り取り返してきたよ。何もなくなってはいないとは思うけど、念のためにあとで確認しようか」
「はい。ありがとうございます」
自分の荷物が戻ってきたことに、まずは安心してホッと胸を撫で下ろす。
一人だったら、きっと今頃途方に暮れていただろう。無事に見つかって本当に良かった。これもテオさんのおかげね。
やっぱりテオさんはいい人だったのだと直感が確信に変わった。
「わぁ、すごい!」
テオさんエスコートのもと、ホテルの中に入ると、思わず感嘆の声が漏れた。お行儀が悪いと思いつつも、キョロキョロしてしまう。
踏み込んだエントランスホールは広々としており、宮殿と見紛うほど豪奢で美しかった。あっちを向いても、こっちを向いても煌びやかで、何かしらが金色だ。私はその美しさに目が眩みそうだった。
「なんだか緊張しちゃいます。とても素敵……!」
テオさんに手を引かれ、ふかふかの大きなソファーに腰掛けながら、私は初めて訪れる五つ星ホテルに心が浮き立った。
置かれている椅子もテーブルも、今座っているこのソファーも、素人目で見ても素晴らしい逸品だということが分かる。
「ミーナは可愛いね」
私が浮かれていると、テオさんがそう言って目を細めて笑う。
あ……私……はしたなかったよね。
「すみません。浮かれすぎですよね……」
「違うんだ、そんな顔しないで。気分を害したかい? 見るものすべてに目を輝かせている君はとても可愛く魅力的だと言いたかったんだ」
「~~~っ!」
テオさんのストレートな褒め言葉に、顔にボッと火がつく。熱くなった頬を両手で覆うと、ベルマンが目の前にウェルカムドリンクを置いてくれたので、気持ちを落ち着かせるために一口飲んだ。
ここはイタリアよ。少しの賛辞くらいで動揺しちゃダメ。落ち着くのよ、私。……こんなふうに褒められたのは久しぶりだから、やっぱり動揺しちゃうのよね。
「あ、美味しい」
「それは良かった。ミーナ、チェックインするためにパスポートを見せてもらうよ」
「はい」
私が頷くと、彼が私の代わりにチェックインの手続きを行なってくれる。私はそれを見ながら、ドリンクをもう一口飲んだ。
「え? ミーナ、二十三歳なの? てっきり、もう少し若いと思ってた」
彼は私のパスポートを見て目を瞬かせ、私とパスポートを見比べる。その意外そうなものを見る目が少し居心地悪く感じて、私は彼の視線から逃れるように俯いた。
彼には――不注意で荷物をなくし、その上泣いたところまで見られてしまっている。そりゃ年齢より幼く見られても仕方がない。彼にとっては、母親とはぐれて泣いていた男の子と私、どちらも大して変わらないのだろう。もしかすると私のことも迷子を保護したように思っているのかもしれない。
「そ、そういうテオさんは、おいくつなんですか?」
「僕? 僕は三十歳だよ。ミーナからすると、おじさんに見えるかな?」
「いいえ。そんなことありません! テオさんはとても素敵です!」
あははと笑うテオさんに力一杯首を横に振ると、彼は私の勢いに一瞬驚いた顔をした。でもすぐに「ありがとう」と微笑んでくれる。
私ったら、力むようなことじゃなかったわ。恥ずかしい。でも本当にとても素敵なんだもん。
私は熱くなった頬を押さえた。
その後は部屋へ移動し、テオさんから設備やルームサービスについての説明を受ける。
さすが、高級ホテル。部屋の中もすごい。それにベッドも大きくてふかふかだ。でも覚悟したほどゴージャスで派手ではなかったので、少しホッとした。
良かった。これなら落ち着けそう。
「ごめんね、ミーナ」
「え?」
「もっといい部屋を用意したかったんだけど、今はバカンスシーズンでこの部屋しか空いていなかったんだ」
「謝らないでください! このお部屋もとても立派ですし、私にはもったいないくらいです。それに豪華すぎても落ち着かないので」
「そう?」
「はい!」
テオさんの言葉に力一杯頷く。
というより、バカンスシーズンに部屋が空いていただけでも奇跡だ。それにこんな素晴らしいホテルに泊まるという経験をさせてもらえるだけで、とても幸せだ。
「なら、いいんだけど。じゃあ、荷物の確認をしようか?」
テオさんは申し訳なさそうに、ページボーイが部屋まで運んでくれた荷物を私の前に差し出した。スーツケースを開き、一つずつ丁寧に確認していく。
「良かった……。全部あります」
「そう? それは良かった。でも、もし足りないものとか出てきたら、いつでも言ってね。すぐに用意させるから」
「ありがとうございます。でも大丈夫なので、お気持ちだけ受け取らせてください」
「……ミーナ。遠慮は美徳かもしれないけど、困った時はちゃんと隠さずに言うんだよ」
「はい……」
私が頷くと、彼は「モルトベーネ」と言って、また褒めてくれる。その優しい笑顔にふにゃっと笑った。テオさんに褒めてもらえると、なんだか嬉しい。
「ミーナ、コーヒーと紅茶どっちの気分?」
照れ笑いをしながら広げた荷物を片づけていると、テオさんが問いかけてくれる。
「それは私がするので、テオさんは座っていてください」
「ダメだよ。ミーナはゲストだって言っただろう。ほら、どっち飲みたい?」
「えっと、じゃあ紅茶で」
「OK!」
ウインクして私の申し出をスマートに躱す彼に戸惑っている間にも、彼は手際よくロイヤルミルクティーを淹れてくれる。
「さて、じゃあそろそろゆっくり過ごして」
彼はテーブルに一人分のミルクティーを置くと、そう言って部屋を出ようとした。その言葉に私は思わず首を傾げて尋ねた。
「え? 一緒に飲まないんですか?」
「でも今日は色々あって疲れただろう? だから、これを飲んだあとは温かいお湯に浸かって当ホテル自慢のダイニングを楽しんで、ゆっくり休んだほうがいい。あと、それからこれはミーナへの宿題。明日行きたいところを考えておいて」
「え? そんな……。そこまでお世話になったら悪いです……!」
「ノー、ミーナ。言っただろう。君は一人にすると何かをやらかしそうで心配だって。僕の心の平穏のためにもミラノを案内させてほしい」
ここまで至れり尽くせりしてもらって、本当にいいのかしら?
「いい子だね、ゆっくりおやすみ」
ガイドブックを渡してくる彼に気圧されるように頷くと、そう言って、私の頭を撫でて彼は部屋を出て行った。
誰もいなくなってしんと静まり返った部屋で、彼が淹れてくれたミルクティーに口をつける。深いコクとやさしい香りが私を包んで、ホッと息を吐いた。
まあ私一人だと、また何か失くしそうだし迷子にもなりそうだから、任せたほうが安心なのかしら。それに現地の方に案内してもらったほうが、色々と楽しめそう。
そうは思っても、迷惑をかけてしまったら申し訳ないわ。
「……」
私はどうしたらいいのだろうと思いながら、ミルクティーを飲みきり、ふかふかのベッドに大の字で寝転がった。すると、疲れからか急速に眠気が襲ってくる。
私ったらお風呂に入らなきゃいけないのに……。テオさんもお風呂に入りなさいって言ってた。それに夕食もまだなのに……。でも今日は色々あって疲れちゃったから、食事やお風呂は朝でも大丈夫よね。
私は言い訳をしながらも、襲ってくる眠気に従い、目を閉じた。
***
「ん~、よく寝た」
私はカーテンを開けて朝日を浴びながら、伸びをした。
昨日は夕食も食べずに早々に寝てしまったせいか、今朝は早く目が覚めた。そのおかげで、ゆっくりとお風呂に入れて気分爽快なので、早く寝て良かったのかもしれない。
そしてメイクをしながら、昨夜テオさんから出された宿題をするためにガイドブックを開く。
ミラノって、有名なのはやっぱりミラノコレクションよね。だから、古代の遺跡や中世の街並みというよりは、モードやデザインの発信地ってイメージが大きい気がするわ。……ということはやっぱりハイブランドのブティックとかが多いのかしら。
私はそういうものには興味がないので、買い物より観光を中心にしたい。行き当たりばったりの一人旅をするつもりだったから、黄金のマリア像があるミラノ大聖堂以外はどこに行こうか、まだ考えていなかったのよね。
えっと。ミラノ大聖堂は絶対でしょ。あとは、教会にあるという『最後の晩餐』が見たいかも。
「あ、『最後の晩餐』は予約制なのか」
じゃあ、今日は無理ね。
独り言ちながら、ガイドブックとにらめっこをしているとノックが聞こえた。その音に顔を上げる。
あら、テオさんかしら?
「ミーナ、おはよう。早起きだね。よく眠れたかい?」
「おはようございます、テオさん。はい、おかげさまで。朝までぐっすりでした」
「昨夜は当ホテル自慢のダイニングを楽しまなかったと聞いたけど、まさかあのあとからずっと眠っていたのかい?」
扉を開けると、案の定テオさんがにこやかに立っていた。挨拶を交わしながら招き入れると、彼は今日の新聞をテーブルに置き、モーニングティーを淹れる準備を始めてくれる。そんな彼を見ながら、えへへと笑った。
「安心したら気が抜けてしまって……」
「まあ、到着したばかりで疲れていたんだろうね。それに昨日は色々あったから仕方ないよ。じゃあ、ミーナは今とてもお腹が空いているだろう? 朝食会場には、フレッシュジュースもあるし、ミーナが好みそうなパンやペイストリーもあるから、これを飲んだら行ってくるといい」
「はい、そうします」
頷くと、彼がいい子だねとウインクしてくれる。
とても細やかに世話を焼いてくれる彼の姿に、私の胸がトクンと高鳴った。胸の高鳴りに動揺して、はたと動きを止める。
ちょっと私ったら……。でもこれはテオさんが素敵だから……
自分の気持ちに言い訳をしても、私の胸はドキドキとけたたましい。
ついこの間失恋したばかりで、もう恋なんてこりごりだと思っていたのに、旅先で素敵な男性に出会ったからってときめくなんてダメだわ。彼は親切なだけ! 変な勘違いはいけないわ、美奈!
このまま好きになってしまうのは絶対にダメだ。これでは元カレのことを節操なしと言えなくなる。
気をしっかり持つのよ、私!
私はティーカップをガシッと掴んで、浮ついた心を落ち着かせるためにモーニングティーを一気に飲み干した。それを見たテオさんが目を見開く。
「ミーナ⁉ そんなに急いで飲むと火傷しちゃうよ。大丈夫?」
「は、はい。そんなに熱くなかったので大丈夫です」
「……ミーナはなんとなく猫舌そうだから、温度には気をつけたんだ。それでも急いで飲むのはよくないよ」
テオさんは「良かった。飲みごろにしておいて」と胸を撫で下ろしている。でも、私は猫舌とバレていることに正直驚きが隠せない。私はテオさんの言葉に目を丸くした。わざわざ伝えていないことまで、先読みして動いてくれるのはさすがとしか言いようがない。
バトラーってすごい……!
「さぁ、早く朝食を食べておいで。ただし、朝食はさっきみたいに急いで食べちゃダメだよ」
私が感心していると、彼はティーカップを片づけながら、揶揄うように笑う。
「はい。ゆっくり食べます……」
「そうしてくれると助かるよ。あと、ミーナ。観光に出掛けている間にルームメイドを入れてもいいかい?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
「了解」
テオさんに朝食会場まで案内してもらいながら、そう答えると、彼はウインクをして承諾してくれる。たったそれだけなのに、また私の胸はトクントクンと高鳴ってしまう。
本当にどうしちゃったのよ? 私ってば……
彼はイケメンだし、とても優しく気遣いにあふれている。だからって、旅先で会っただけの人なのに本気で好きになってどうするつもり? そんなの……あとで絶対つらくなるだけだわ。
私は自分の心に戸惑いながら、テオさんと朝食会場の前で別れた。
***
「うう、お腹がいっぱいで苦しい……」
「ミーナ、良かった。たくさん食べられたようだね」
「はい。どれもとても美味しくて、選べませんでした」
私が好みそうなパンやペイストリーがあるとは言われていたけど、本当に好きなものがたくさんあって、ついつい食べ過ぎてしまったのだ。
昨日夕食を食べていないからって欲張りすぎたわ。恥ずかしい……。食いしんぼうだと思われたらどうしよう。
私は頬を赤らめながら、いっぱいになったお腹をさすった。すると、テオさんが昨日と同じ運転手つきの高級車へスマートに乗せてくれる。
「さて、どこに行くか決めた?」
「はい。まずは定番のミラノ大聖堂に行ってみたいです」
「それはいい。大聖堂はミラノの象徴的存在でもあるし、聖母マリアに捧げられた世界最大級のゴシック建築でもあるんだ。それを一番に選ぶ君は素晴らしいよ」
「そ、そうですか?」
事あるごとに褒めてくれる彼の言葉に面映ゆい気持ちになって、私は誤魔化すように笑った。そして、視線をガイドブックに落とす。
女性を褒めることはイタリア人男性の礼儀だと聞いたことがあるけど、本当に彼は息をするように私を褒めてくれる。この褒め言葉攻撃に慣れないといけないのに、ついつい反応してしまう。私は小さくかぶりを振った。
このままずっと彼にお姫様のように扱われていたら、本当に好きになってしまいそうだ。彼には何でもないことなのよ。勘違いは絶対にダメ。それに恋はもういいって決めたじゃない。でも……彼が恋人だったら毎日が幸せであふれていそう。
……テオさんみたいな人が恋人だったら良かったのに……
私は俯きながら視線だけで彼を盗み見た。
2
「わぁ!」
大聖堂に着くと、ドゥオーモ広場に面して堂々と聳え立っている建築物の正面に目を奪われた。白大理石と彫刻が美しい。
「素晴らしいですね」
「この彫刻はね、聖書の人物や聖人、預言者など、全体で約三千五百体あるんだよ。特に『テラモン』という男性の像を探してごらん。他の装飾や柱を支える役割も兼ねているから、色々な所にいるよ」
そう言って、指を差す彼の指の方向に視線を向ける。
確かに色々なポーズで柱を支えていて、とても遊び心があって面白い。
このテラモンさんは何体いるのかしら?
テオさんの解説を聞きながら興味深く見ていると、扉が五つあることに気づく。
「テオさん。扉がたくさんありますが、どこから中に入ればいいんですか?」
「入場口は一番右の扉だよ。でも、その前に中央扉を見よう。五つの扉の中で一番大きいんだ」
彼はイタリアの有名な彫刻家が手掛けたレリーフがあると教えてくれた。花や果物、動物をモチーフにして聖母マリアの生涯が彫られているらしい。
「扉に向かって左側中央のレリーフが表現しているのは、天に召されたキリストを後ろで支える聖母マリアの姿だ。そして右側中央は、彼女の有名なエピソードの一つ『聖母マリアの被昇天』が彫られているよ」
「すごい……」
口を大きく開けたまま、テオさんの説明を聞きながら、そのとても大きな扉のレリーフを見つめる。もう全部が素晴らしすぎて、すごいとしか言葉が出てこない。
私がスマートフォンを取り出し、パシャリと写真を一枚撮ると、テオさんが私の手からスマートフォンを取った。
「あ!」
もしかして撮っちゃいけない場所だったのかしら。私ったら……
やってしまったという顔をした途端、彼が微笑みながら首を横に振った。
「違うよ、撮影はオッケーだよ。ただ大聖堂だけを撮るんじゃなくて、ミーナも写るといいって言いたかったんだ。撮ってあげるから、そこに立って」
「え? で、でも……」
「ほら、遠慮しないで。少し後ろに下がろうか」
戸惑いつつも言われたとおりに後ろに下がって、中央扉の前に立つ。髪を手櫛でさっと整え、テオさんに向かってニコッと微笑んだ。
「じゃあ、撮るよ」
そう声をかけて、彼が二、三枚シャッターを切ってくれる。
「これで大丈夫? 可愛く撮れたと思うんだけど」
「はい。ありがとうございます」
スマートフォンの画面を見せてくれる彼と思わず体が触れ合って、胸がドキンと跳ねた。ほのかな甘さと男性的なセクシーな香りに、なぜかは分からないけど、ゾクゾクしてしまう。
私ったら……!
「つ、次はテオさんと一緒に撮りたいです!」
「喜んで、ミーナ」
上擦った声で、この勢いに乗って図々しいお願いをしてみる。彼が快諾してくれたのでどさくさ紛れにテオさん一人の写真もゲットし、ご満悦でスマートフォンを抱き締めた。
嬉しい! いい思い出になったわ!
「テオさんが撮ってくれた写真、とても綺麗に写っていてびっくりしました。写真撮るのお上手なんですね」
「ノー。僕が上手なんじゃなくて、被写体がいいんだよ。ミーナはとても可愛く美しい。だから、綺麗に写るのは当たり前のことだ」
「~~~っ!」
頬を撫でながらそう言われて、全身の血液が頬に集まったんじゃないかと思うくらい、彼が触れている場所が熱をもつ。
彼の態度に、自分がとても大切にされている錯覚に陥ってしまう。勘違いしちゃいけないのに、勘違いしてしまいそうになる。私は慌てて触れられていないほうの頬をパシーンと叩いた。それを見たテオさんがすごく驚いている。
「ミーナ? 急にどうしたんだい?」
「いいえ。ちょっと弱い自分の心と戦うために気合を入れようと思いまして……」
どうやら私の心は失恋を新しい恋で癒そうと思っているらしい。でも、テオさんと私はこの旅行中だけの関係だ。本気で好きになっても実らない。それにそんなの親切なテオさんにも迷惑がかかっちゃうわ。いいかげんフラフラしてないで、純粋に旅行を楽しまなきゃ!
「は?」
私の言葉にテオさんは訝しげな表情で首を傾げている。
「ほら、早く中に入りましょう」
そんな彼に誤魔化すように笑って、私は手を引いた。
「違うよ。こっち」
「……え?」
先ほどテオさんが言った一番右の扉に並ぼうとすると、彼は私の腰に手を添えて体の向きを変える。そして、入場口には目もくれずに歩き出した。
え? 入らないの?
私の手を引いて歩き出すテオさんに、顔を後ろに向けながら離れていく入場口を見つめた。
「あの、テオさん? ついさっき一番右の扉が入場口だって言いませんでしたか?」
「うん、言ったよ。でも見て分かるとおり、とても混雑しているから、屋上テラス行きの入場口から入ったほうが早いんだ」
へぇ、そうなんだ。私一人だったら、あそこに並んでいたかもと思いながら、空いている手でガイドブックを開く。あ、本当だ。屋上テラス行きのほうがおすすめって書いてある。エレベーターか階段か選べるのね。テオさんの後ろを歩きながらガイドブックを確認していると、突然彼が立ち止まったので、背中にぶつかってしまう。
「すまない、大丈夫かい?」
鼻を押さえながら俯くと、慌てた彼が振り返って私の顔を覗き込む。
「大丈夫です。ごめんなさい、ガイドブックを見ながら歩いていた私が悪いです」
「いや、気をつけていなかった僕が悪い。ちょっと見せて」
「……っ!」
テオさんが私の頬に手を添えて、ぶつけたところを確認する。彼の吐息を感じてしまうくらい近くに顔が近づいてきて、私は思わず息を止めた。
その時、数人のスタッフらしき人が近づいてくる。そしてテオさんに恭しく頭を下げた。
……え? どういうこと?
「お待ちしておりました、ミネルヴィーノ様。こちらからどうぞ」
「ありがとう」
「……」
状況が理解できずにテオさんと数人のスタッフを交互に見ていると、テオさんが私の腰に手を添え、そのスタッフの案内で中へ入っていく。その光景になんとなく違和感を覚えながらも私は黙ってテオさんについていく。
「昨日、ホテルの名で予約を取っておいたんだ」
「あ……そうなんですね」
なんだかお金持ちのお嬢様になったみたい。
こんな扱いを受けた経験がない私は、胸が張り裂けそうなくらいドキドキしていた。車から降りると、若いポーターが飛んできて、荷物を降ろして運んでくれる。そこには私の荷物があった。
あ! 私の荷物! 見つかったのね……!
荷物を見ながら立ち止まっていると、テオさんが背中をさすってくれる。
「ミーナ、荷物は約束通り取り返してきたよ。何もなくなってはいないとは思うけど、念のためにあとで確認しようか」
「はい。ありがとうございます」
自分の荷物が戻ってきたことに、まずは安心してホッと胸を撫で下ろす。
一人だったら、きっと今頃途方に暮れていただろう。無事に見つかって本当に良かった。これもテオさんのおかげね。
やっぱりテオさんはいい人だったのだと直感が確信に変わった。
「わぁ、すごい!」
テオさんエスコートのもと、ホテルの中に入ると、思わず感嘆の声が漏れた。お行儀が悪いと思いつつも、キョロキョロしてしまう。
踏み込んだエントランスホールは広々としており、宮殿と見紛うほど豪奢で美しかった。あっちを向いても、こっちを向いても煌びやかで、何かしらが金色だ。私はその美しさに目が眩みそうだった。
「なんだか緊張しちゃいます。とても素敵……!」
テオさんに手を引かれ、ふかふかの大きなソファーに腰掛けながら、私は初めて訪れる五つ星ホテルに心が浮き立った。
置かれている椅子もテーブルも、今座っているこのソファーも、素人目で見ても素晴らしい逸品だということが分かる。
「ミーナは可愛いね」
私が浮かれていると、テオさんがそう言って目を細めて笑う。
あ……私……はしたなかったよね。
「すみません。浮かれすぎですよね……」
「違うんだ、そんな顔しないで。気分を害したかい? 見るものすべてに目を輝かせている君はとても可愛く魅力的だと言いたかったんだ」
「~~~っ!」
テオさんのストレートな褒め言葉に、顔にボッと火がつく。熱くなった頬を両手で覆うと、ベルマンが目の前にウェルカムドリンクを置いてくれたので、気持ちを落ち着かせるために一口飲んだ。
ここはイタリアよ。少しの賛辞くらいで動揺しちゃダメ。落ち着くのよ、私。……こんなふうに褒められたのは久しぶりだから、やっぱり動揺しちゃうのよね。
「あ、美味しい」
「それは良かった。ミーナ、チェックインするためにパスポートを見せてもらうよ」
「はい」
私が頷くと、彼が私の代わりにチェックインの手続きを行なってくれる。私はそれを見ながら、ドリンクをもう一口飲んだ。
「え? ミーナ、二十三歳なの? てっきり、もう少し若いと思ってた」
彼は私のパスポートを見て目を瞬かせ、私とパスポートを見比べる。その意外そうなものを見る目が少し居心地悪く感じて、私は彼の視線から逃れるように俯いた。
彼には――不注意で荷物をなくし、その上泣いたところまで見られてしまっている。そりゃ年齢より幼く見られても仕方がない。彼にとっては、母親とはぐれて泣いていた男の子と私、どちらも大して変わらないのだろう。もしかすると私のことも迷子を保護したように思っているのかもしれない。
「そ、そういうテオさんは、おいくつなんですか?」
「僕? 僕は三十歳だよ。ミーナからすると、おじさんに見えるかな?」
「いいえ。そんなことありません! テオさんはとても素敵です!」
あははと笑うテオさんに力一杯首を横に振ると、彼は私の勢いに一瞬驚いた顔をした。でもすぐに「ありがとう」と微笑んでくれる。
私ったら、力むようなことじゃなかったわ。恥ずかしい。でも本当にとても素敵なんだもん。
私は熱くなった頬を押さえた。
その後は部屋へ移動し、テオさんから設備やルームサービスについての説明を受ける。
さすが、高級ホテル。部屋の中もすごい。それにベッドも大きくてふかふかだ。でも覚悟したほどゴージャスで派手ではなかったので、少しホッとした。
良かった。これなら落ち着けそう。
「ごめんね、ミーナ」
「え?」
「もっといい部屋を用意したかったんだけど、今はバカンスシーズンでこの部屋しか空いていなかったんだ」
「謝らないでください! このお部屋もとても立派ですし、私にはもったいないくらいです。それに豪華すぎても落ち着かないので」
「そう?」
「はい!」
テオさんの言葉に力一杯頷く。
というより、バカンスシーズンに部屋が空いていただけでも奇跡だ。それにこんな素晴らしいホテルに泊まるという経験をさせてもらえるだけで、とても幸せだ。
「なら、いいんだけど。じゃあ、荷物の確認をしようか?」
テオさんは申し訳なさそうに、ページボーイが部屋まで運んでくれた荷物を私の前に差し出した。スーツケースを開き、一つずつ丁寧に確認していく。
「良かった……。全部あります」
「そう? それは良かった。でも、もし足りないものとか出てきたら、いつでも言ってね。すぐに用意させるから」
「ありがとうございます。でも大丈夫なので、お気持ちだけ受け取らせてください」
「……ミーナ。遠慮は美徳かもしれないけど、困った時はちゃんと隠さずに言うんだよ」
「はい……」
私が頷くと、彼は「モルトベーネ」と言って、また褒めてくれる。その優しい笑顔にふにゃっと笑った。テオさんに褒めてもらえると、なんだか嬉しい。
「ミーナ、コーヒーと紅茶どっちの気分?」
照れ笑いをしながら広げた荷物を片づけていると、テオさんが問いかけてくれる。
「それは私がするので、テオさんは座っていてください」
「ダメだよ。ミーナはゲストだって言っただろう。ほら、どっち飲みたい?」
「えっと、じゃあ紅茶で」
「OK!」
ウインクして私の申し出をスマートに躱す彼に戸惑っている間にも、彼は手際よくロイヤルミルクティーを淹れてくれる。
「さて、じゃあそろそろゆっくり過ごして」
彼はテーブルに一人分のミルクティーを置くと、そう言って部屋を出ようとした。その言葉に私は思わず首を傾げて尋ねた。
「え? 一緒に飲まないんですか?」
「でも今日は色々あって疲れただろう? だから、これを飲んだあとは温かいお湯に浸かって当ホテル自慢のダイニングを楽しんで、ゆっくり休んだほうがいい。あと、それからこれはミーナへの宿題。明日行きたいところを考えておいて」
「え? そんな……。そこまでお世話になったら悪いです……!」
「ノー、ミーナ。言っただろう。君は一人にすると何かをやらかしそうで心配だって。僕の心の平穏のためにもミラノを案内させてほしい」
ここまで至れり尽くせりしてもらって、本当にいいのかしら?
「いい子だね、ゆっくりおやすみ」
ガイドブックを渡してくる彼に気圧されるように頷くと、そう言って、私の頭を撫でて彼は部屋を出て行った。
誰もいなくなってしんと静まり返った部屋で、彼が淹れてくれたミルクティーに口をつける。深いコクとやさしい香りが私を包んで、ホッと息を吐いた。
まあ私一人だと、また何か失くしそうだし迷子にもなりそうだから、任せたほうが安心なのかしら。それに現地の方に案内してもらったほうが、色々と楽しめそう。
そうは思っても、迷惑をかけてしまったら申し訳ないわ。
「……」
私はどうしたらいいのだろうと思いながら、ミルクティーを飲みきり、ふかふかのベッドに大の字で寝転がった。すると、疲れからか急速に眠気が襲ってくる。
私ったらお風呂に入らなきゃいけないのに……。テオさんもお風呂に入りなさいって言ってた。それに夕食もまだなのに……。でも今日は色々あって疲れちゃったから、食事やお風呂は朝でも大丈夫よね。
私は言い訳をしながらも、襲ってくる眠気に従い、目を閉じた。
***
「ん~、よく寝た」
私はカーテンを開けて朝日を浴びながら、伸びをした。
昨日は夕食も食べずに早々に寝てしまったせいか、今朝は早く目が覚めた。そのおかげで、ゆっくりとお風呂に入れて気分爽快なので、早く寝て良かったのかもしれない。
そしてメイクをしながら、昨夜テオさんから出された宿題をするためにガイドブックを開く。
ミラノって、有名なのはやっぱりミラノコレクションよね。だから、古代の遺跡や中世の街並みというよりは、モードやデザインの発信地ってイメージが大きい気がするわ。……ということはやっぱりハイブランドのブティックとかが多いのかしら。
私はそういうものには興味がないので、買い物より観光を中心にしたい。行き当たりばったりの一人旅をするつもりだったから、黄金のマリア像があるミラノ大聖堂以外はどこに行こうか、まだ考えていなかったのよね。
えっと。ミラノ大聖堂は絶対でしょ。あとは、教会にあるという『最後の晩餐』が見たいかも。
「あ、『最後の晩餐』は予約制なのか」
じゃあ、今日は無理ね。
独り言ちながら、ガイドブックとにらめっこをしているとノックが聞こえた。その音に顔を上げる。
あら、テオさんかしら?
「ミーナ、おはよう。早起きだね。よく眠れたかい?」
「おはようございます、テオさん。はい、おかげさまで。朝までぐっすりでした」
「昨夜は当ホテル自慢のダイニングを楽しまなかったと聞いたけど、まさかあのあとからずっと眠っていたのかい?」
扉を開けると、案の定テオさんがにこやかに立っていた。挨拶を交わしながら招き入れると、彼は今日の新聞をテーブルに置き、モーニングティーを淹れる準備を始めてくれる。そんな彼を見ながら、えへへと笑った。
「安心したら気が抜けてしまって……」
「まあ、到着したばかりで疲れていたんだろうね。それに昨日は色々あったから仕方ないよ。じゃあ、ミーナは今とてもお腹が空いているだろう? 朝食会場には、フレッシュジュースもあるし、ミーナが好みそうなパンやペイストリーもあるから、これを飲んだら行ってくるといい」
「はい、そうします」
頷くと、彼がいい子だねとウインクしてくれる。
とても細やかに世話を焼いてくれる彼の姿に、私の胸がトクンと高鳴った。胸の高鳴りに動揺して、はたと動きを止める。
ちょっと私ったら……。でもこれはテオさんが素敵だから……
自分の気持ちに言い訳をしても、私の胸はドキドキとけたたましい。
ついこの間失恋したばかりで、もう恋なんてこりごりだと思っていたのに、旅先で素敵な男性に出会ったからってときめくなんてダメだわ。彼は親切なだけ! 変な勘違いはいけないわ、美奈!
このまま好きになってしまうのは絶対にダメだ。これでは元カレのことを節操なしと言えなくなる。
気をしっかり持つのよ、私!
私はティーカップをガシッと掴んで、浮ついた心を落ち着かせるためにモーニングティーを一気に飲み干した。それを見たテオさんが目を見開く。
「ミーナ⁉ そんなに急いで飲むと火傷しちゃうよ。大丈夫?」
「は、はい。そんなに熱くなかったので大丈夫です」
「……ミーナはなんとなく猫舌そうだから、温度には気をつけたんだ。それでも急いで飲むのはよくないよ」
テオさんは「良かった。飲みごろにしておいて」と胸を撫で下ろしている。でも、私は猫舌とバレていることに正直驚きが隠せない。私はテオさんの言葉に目を丸くした。わざわざ伝えていないことまで、先読みして動いてくれるのはさすがとしか言いようがない。
バトラーってすごい……!
「さぁ、早く朝食を食べておいで。ただし、朝食はさっきみたいに急いで食べちゃダメだよ」
私が感心していると、彼はティーカップを片づけながら、揶揄うように笑う。
「はい。ゆっくり食べます……」
「そうしてくれると助かるよ。あと、ミーナ。観光に出掛けている間にルームメイドを入れてもいいかい?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
「了解」
テオさんに朝食会場まで案内してもらいながら、そう答えると、彼はウインクをして承諾してくれる。たったそれだけなのに、また私の胸はトクントクンと高鳴ってしまう。
本当にどうしちゃったのよ? 私ってば……
彼はイケメンだし、とても優しく気遣いにあふれている。だからって、旅先で会っただけの人なのに本気で好きになってどうするつもり? そんなの……あとで絶対つらくなるだけだわ。
私は自分の心に戸惑いながら、テオさんと朝食会場の前で別れた。
***
「うう、お腹がいっぱいで苦しい……」
「ミーナ、良かった。たくさん食べられたようだね」
「はい。どれもとても美味しくて、選べませんでした」
私が好みそうなパンやペイストリーがあるとは言われていたけど、本当に好きなものがたくさんあって、ついつい食べ過ぎてしまったのだ。
昨日夕食を食べていないからって欲張りすぎたわ。恥ずかしい……。食いしんぼうだと思われたらどうしよう。
私は頬を赤らめながら、いっぱいになったお腹をさすった。すると、テオさんが昨日と同じ運転手つきの高級車へスマートに乗せてくれる。
「さて、どこに行くか決めた?」
「はい。まずは定番のミラノ大聖堂に行ってみたいです」
「それはいい。大聖堂はミラノの象徴的存在でもあるし、聖母マリアに捧げられた世界最大級のゴシック建築でもあるんだ。それを一番に選ぶ君は素晴らしいよ」
「そ、そうですか?」
事あるごとに褒めてくれる彼の言葉に面映ゆい気持ちになって、私は誤魔化すように笑った。そして、視線をガイドブックに落とす。
女性を褒めることはイタリア人男性の礼儀だと聞いたことがあるけど、本当に彼は息をするように私を褒めてくれる。この褒め言葉攻撃に慣れないといけないのに、ついつい反応してしまう。私は小さくかぶりを振った。
このままずっと彼にお姫様のように扱われていたら、本当に好きになってしまいそうだ。彼には何でもないことなのよ。勘違いは絶対にダメ。それに恋はもういいって決めたじゃない。でも……彼が恋人だったら毎日が幸せであふれていそう。
……テオさんみたいな人が恋人だったら良かったのに……
私は俯きながら視線だけで彼を盗み見た。
2
「わぁ!」
大聖堂に着くと、ドゥオーモ広場に面して堂々と聳え立っている建築物の正面に目を奪われた。白大理石と彫刻が美しい。
「素晴らしいですね」
「この彫刻はね、聖書の人物や聖人、預言者など、全体で約三千五百体あるんだよ。特に『テラモン』という男性の像を探してごらん。他の装飾や柱を支える役割も兼ねているから、色々な所にいるよ」
そう言って、指を差す彼の指の方向に視線を向ける。
確かに色々なポーズで柱を支えていて、とても遊び心があって面白い。
このテラモンさんは何体いるのかしら?
テオさんの解説を聞きながら興味深く見ていると、扉が五つあることに気づく。
「テオさん。扉がたくさんありますが、どこから中に入ればいいんですか?」
「入場口は一番右の扉だよ。でも、その前に中央扉を見よう。五つの扉の中で一番大きいんだ」
彼はイタリアの有名な彫刻家が手掛けたレリーフがあると教えてくれた。花や果物、動物をモチーフにして聖母マリアの生涯が彫られているらしい。
「扉に向かって左側中央のレリーフが表現しているのは、天に召されたキリストを後ろで支える聖母マリアの姿だ。そして右側中央は、彼女の有名なエピソードの一つ『聖母マリアの被昇天』が彫られているよ」
「すごい……」
口を大きく開けたまま、テオさんの説明を聞きながら、そのとても大きな扉のレリーフを見つめる。もう全部が素晴らしすぎて、すごいとしか言葉が出てこない。
私がスマートフォンを取り出し、パシャリと写真を一枚撮ると、テオさんが私の手からスマートフォンを取った。
「あ!」
もしかして撮っちゃいけない場所だったのかしら。私ったら……
やってしまったという顔をした途端、彼が微笑みながら首を横に振った。
「違うよ、撮影はオッケーだよ。ただ大聖堂だけを撮るんじゃなくて、ミーナも写るといいって言いたかったんだ。撮ってあげるから、そこに立って」
「え? で、でも……」
「ほら、遠慮しないで。少し後ろに下がろうか」
戸惑いつつも言われたとおりに後ろに下がって、中央扉の前に立つ。髪を手櫛でさっと整え、テオさんに向かってニコッと微笑んだ。
「じゃあ、撮るよ」
そう声をかけて、彼が二、三枚シャッターを切ってくれる。
「これで大丈夫? 可愛く撮れたと思うんだけど」
「はい。ありがとうございます」
スマートフォンの画面を見せてくれる彼と思わず体が触れ合って、胸がドキンと跳ねた。ほのかな甘さと男性的なセクシーな香りに、なぜかは分からないけど、ゾクゾクしてしまう。
私ったら……!
「つ、次はテオさんと一緒に撮りたいです!」
「喜んで、ミーナ」
上擦った声で、この勢いに乗って図々しいお願いをしてみる。彼が快諾してくれたのでどさくさ紛れにテオさん一人の写真もゲットし、ご満悦でスマートフォンを抱き締めた。
嬉しい! いい思い出になったわ!
「テオさんが撮ってくれた写真、とても綺麗に写っていてびっくりしました。写真撮るのお上手なんですね」
「ノー。僕が上手なんじゃなくて、被写体がいいんだよ。ミーナはとても可愛く美しい。だから、綺麗に写るのは当たり前のことだ」
「~~~っ!」
頬を撫でながらそう言われて、全身の血液が頬に集まったんじゃないかと思うくらい、彼が触れている場所が熱をもつ。
彼の態度に、自分がとても大切にされている錯覚に陥ってしまう。勘違いしちゃいけないのに、勘違いしてしまいそうになる。私は慌てて触れられていないほうの頬をパシーンと叩いた。それを見たテオさんがすごく驚いている。
「ミーナ? 急にどうしたんだい?」
「いいえ。ちょっと弱い自分の心と戦うために気合を入れようと思いまして……」
どうやら私の心は失恋を新しい恋で癒そうと思っているらしい。でも、テオさんと私はこの旅行中だけの関係だ。本気で好きになっても実らない。それにそんなの親切なテオさんにも迷惑がかかっちゃうわ。いいかげんフラフラしてないで、純粋に旅行を楽しまなきゃ!
「は?」
私の言葉にテオさんは訝しげな表情で首を傾げている。
「ほら、早く中に入りましょう」
そんな彼に誤魔化すように笑って、私は手を引いた。
「違うよ。こっち」
「……え?」
先ほどテオさんが言った一番右の扉に並ぼうとすると、彼は私の腰に手を添えて体の向きを変える。そして、入場口には目もくれずに歩き出した。
え? 入らないの?
私の手を引いて歩き出すテオさんに、顔を後ろに向けながら離れていく入場口を見つめた。
「あの、テオさん? ついさっき一番右の扉が入場口だって言いませんでしたか?」
「うん、言ったよ。でも見て分かるとおり、とても混雑しているから、屋上テラス行きの入場口から入ったほうが早いんだ」
へぇ、そうなんだ。私一人だったら、あそこに並んでいたかもと思いながら、空いている手でガイドブックを開く。あ、本当だ。屋上テラス行きのほうがおすすめって書いてある。エレベーターか階段か選べるのね。テオさんの後ろを歩きながらガイドブックを確認していると、突然彼が立ち止まったので、背中にぶつかってしまう。
「すまない、大丈夫かい?」
鼻を押さえながら俯くと、慌てた彼が振り返って私の顔を覗き込む。
「大丈夫です。ごめんなさい、ガイドブックを見ながら歩いていた私が悪いです」
「いや、気をつけていなかった僕が悪い。ちょっと見せて」
「……っ!」
テオさんが私の頬に手を添えて、ぶつけたところを確認する。彼の吐息を感じてしまうくらい近くに顔が近づいてきて、私は思わず息を止めた。
その時、数人のスタッフらしき人が近づいてくる。そしてテオさんに恭しく頭を下げた。
……え? どういうこと?
「お待ちしておりました、ミネルヴィーノ様。こちらからどうぞ」
「ありがとう」
「……」
状況が理解できずにテオさんと数人のスタッフを交互に見ていると、テオさんが私の腰に手を添え、そのスタッフの案内で中へ入っていく。その光景になんとなく違和感を覚えながらも私は黙ってテオさんについていく。
「昨日、ホテルの名で予約を取っておいたんだ」
「あ……そうなんですね」
1
マシュマロを送る

お気に入りに追加
808
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。
石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。
すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。
なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。