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はかりごと①

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「ん……ここは?」

 ハッとすると、また真っ暗闇な空間に一人佇んでいた。きょろきょろと辺りを見回すが、やはり何もない。

(やだ、また夢……?)

「原田さん」

 頭をかかえたのと同時に露口が瑞希を呼ぶ。やっぱりと思い振り返ると、彼が優しげな表情で立っていた。おそるおそる近づくと、彼が瑞希の手を取る。

「社長……」
「社長ではなく康弘と呼んでください。俺も瑞希さんと呼ぶので」
「え? で、でも……」
「瑞希さん」

 突然の甘い雰囲気に戸惑いを通り越して動揺がすごい。勝手に下の名前で呼びながら顔を近づけてくる彼の唇を両手で押さえた。

「きゅ、急に何するんですか?」
「何ってキスですよ」
「そ、そんなのセクハラですよ!」

 顔を引き攣らせると、露口が指をパチンと鳴らした。その瞬間、真っ暗闇だった空間がラグジュアリーな部屋に変わる。


「は? 何?」

 状況が飲み込めずきょろきょろと見回すと、自分と露口が薔薇の花びらを散らしたベッドの上にいることに気づく。途端、血の気が引いてくる。

「瑞希……。セクハラだなんて俺たちには不要な言葉だと思いませんか? 分からないなら今宵はここでゆっくりと教えて差し上げます」
「だ、駄目。駄目です。夢だからって、こんな不埒なこと許さないんだからっ!」

 そう叫んだとき、またしても自分のいる場所が崩れて体が落ちた。


「…………やっぱり夢だった」

(で、でも夢だからって……夢だからって……)

 瑞希は羞恥のあまり顔を押さえてごろごろと転がった。

 ***

「原田さん、おはようございます」
「おはようございます」

 露口と会社の前でばったりと会って、にこやかに挨拶を交わす。

 見合いの日から数日が経ち、彼とは社内で顔を合わせれば普通に挨拶をするようになった。
 桜井から露口の話を聞けたのと、露口本人が見合いの件に触れてこないのが大きいのだろうが、近頃怖さや警戒心が薄れてきているようにも思う。

(慣れって恐ろしいわね……)

 というより、最近よく見る夢のせいが一番大きい気もする。彼は甘く迫ってくる時もあれば、普通にお話をしたりデートを楽しむ時もあったりして、正直なところ最近脳がバグりつつある。

(夢の中だと恋人同士なせいか、夢とうつつの区別がつかなくなってきそうで怖いわ……)


「原田さんはいつも早いですね」
「社長だって早いじゃないですか。いつもお疲れさまです」

 夢のことを考えていた心の内を隠して平然を装いぺこりと頭を下げると、彼が嬉しそうに笑う。その表情が一瞬可愛く見えて、瑞希は驚きと共に自分の頬を叩いた。

(やだもう。今は現実なのよ。しっかりして!)

 だが、綺麗に整えられた黒髪に意志の強そうな瞳。その上すらりとして長身で、均整の取れた体躯。とてもかっこよくて、やはり瑞希好みだ。夢の中で、この力強い腕に何度抱き締められたか……


「原田さん、突然どうしたんですか?」
「ごめんなさい。なんだか急に動悸が……」

 彼のとても驚いた表情に誤魔化すようにえへへと笑うと、露口の手が頬に伸びてきて心配そうにさする。

「自分の体をもう少し大切にしてください。顔を叩くなんて、原田さん本人といえど今後は許可できません」
「許可って……。自分の頬なのに社長に許してもらわないといけないんですか?」

 彼の言葉を茶化すと、彼が真顔で頷いた。その真摯な目に何も言えなくなる。

(えっと……心配してくれているのよね?)

 なんだか照れ臭くなって目を伏せると、社長が顔を覗きこんできて考えるより先に後退ってしまう。

「……っ!」
「良かった。赤くなったりしていませんね」
「べ、別にそんなに強く叩いたりしていませんから」

(これは現実。夢とは違うのよ!)

「そうですか。それを聞けて安心しました。そういえば原田さんは、仕事中はメイクをしないタイプなんですか?」
「はい?」

 必死な思いで自分に言い聞かせていた時、予想外の言葉が飛んできて一瞬思考が止まった。しかし、彼はそんな瑞希の動揺などお構いなしに、まだ瑞希の頬をさすっている。

「もちろん今のままでも可愛らしいのですが、メイクをしたところも見てみたいなと思いまして」

(え? え……そ、それって……私がお見合い相手かどうか確認したいってこと?)

 近頃普通に挨拶を交わすだけだったので油断していた。

 まだ諦めていなかったのか……

 大きく一歩さがって顔を背け、「は、肌が弱くて……」と苦し紛れの嘘をつく。途端、彼が思案顔になった。

(何? やだ……怖いんだけど)

 この沈黙が怖くてたまらない。先ほどまでもう大丈夫な気がして警戒心が緩くなっていた自分を殴りたくなって、瑞希はきゅっと唇を引き結んだ。

「なるほど。肌が……。ふむ、触った感じ乾燥しているわけでもなく脂性肌というわけでもなさそうですね。もしかして敏感肌ですか?」
「へ……?」

 露口の分析に一瞬呆ける。瑞希が固まっていると優しく微笑みかけてくれた。

「それとも混合肌ですか? 今度肌に合う化粧品を贈りたいので教えてくださると嬉しいのですが……」 
「え……えーっと、び、敏感肌です。化粧品選びに失敗すると、いつも荒れてしまうんですよね。だからあまりメイクができなくて……」

 見合いでは濃いめのメイクをしていたので、こう言っておけば疑いも逸れるだろうと、瑞希は露口に嘘をついた。

「分かりました。近々、うちの化粧品部門から肌に優しい化粧品が出るので、それをプレゼントします。その時は是非使った貴方を見せてください」

 彼の気遣いと柔らかい笑顔が、今はなぜか突き刺さるように痛かった。

 ***

「はぁ~っ」

 翌日、瑞希はいつもより遅めに出社した。ロッカールームに荷物を放り込んで白衣を手に持ったまま、のそのそと研究室に向かう。

(いつもより遅いせいか社長と会わなかったな……。しばらくはこの時間に出社しようかしら。それによく見る夢のことも本当にどうにかしないと……)

 正直なところ心身がもたない。
 ふぅっと小さく息をつくと、知紗が小声で笑いかけてくる。

「おはよ。今日は遅いね」
「うん。ちょっと寝坊しちゃったの」

 露口に会いたくないからとはなんとなく言えず笑って誤魔化し、白衣を羽織る。その間も彼女は瑞希をジーッと見ていた。その張りつくような視線に首を傾げる。

「何? 何かついてる?」
「ううん、何も。いや、最近社長と仲良さそうだから、観念したのかなって。結婚式はいつ?」
「……っ!」

 爆弾発言にゲホゲホと咽せてしまうと、彼女が「大丈夫?」と呑気な声を出しながら背中をさすってくれる。
 キッと睨むとキョトンとされてしまって、力が抜けた。大仰な溜息をつき、パソコンの電源を入れる。


「やめてよ。結婚なんてしないわよ。そもそも社長は私のこと気づいていないんだから!」
「えー。絶対分かってると思うよ。瑞希こそ気づいてないの? 社長が構うのってあんただけだよ」
「へ?」

(社長が構うのは私だけ? いいえ、それは夢の中だけだわ)

「そ、そんなわけないでしょう! 変な先入観を持ってるからそう見えるのよ!」

 声を荒らげた瞬間、所長からの咳払いが聞こえて二人して縮こまる。

(やば……)

「し、仕事しなきゃ!」

 わざとらしく声を出してパソコンを操作する。その時、スマートフォンがメッセージを受信した。

(ん?)

『今日の昼、知紗と一緒にこっちに来てくれませんか? 新商品の意見を聞かせてほしいんです』

 化粧品部門の研究員――天崎あまさきかおりからのメッセージに、そういえば露口も新商品の話をしていたなと昨日の記憶が蘇る。


「ねぇ、天崎さんが新商品のテストをしてほしいんだって。お昼に一緒に行かない?」

 所長に聞こえないように声をひそめて、知紗にメッセージアプリの画面を見せた。

「行きたい! あ、でもそれだとメイクをすることになるけどいいの?」
「クレンジングと洗顔までしっかりすれば大丈夫でしょ。じゃあ、OKで返事しちゃうね」

(うちの会社の化粧品ってどれも使い心地がよくて好きなのよね。社長にはもう試しましたって言って断る口実にもなるし、ちょうど良かったかも)

 瑞希はほくそ笑みながら、天崎に返信した。
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