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息の詰まるエレベーター

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「――で、血相変えて逃げてきたと……」
「ちょっと笑いごとじゃないから」
「ごめんごめん。だから、今日すっぴんなのね。バレるのが怖いんだ」

 見合いの翌日――瑞希はいつもどおりの時間に出社した。昨日の今日なので休みたかったが社長と平社員が遭遇する確率はゼロに近いと信じて、足取り重く会社に来たのだ。

(どうしてお見合いを日曜日にしたのよ。せめて土曜日だったら……丸一日ワンクッションが置けたのに)

 そうすれば露口も瑞希の顔を忘れてくれたかもしれない。そんなあり得ないことを考えながら、肩を震わせて笑っている友人の相馬そうま知紗ちさをじろりと睨む。
 彼女とは就職してからの付き合いだが、とても気が合う友人だ。良い知恵が欲しくて相談したのに笑うなんて酷いと思う。

「そりゃ怖いわよ。社長……あんまりいい噂聞かないし……。昨日はメイクが濃いめだったから、すっぴんならさすがにバレないと思ってメイクをするのやめたの。ねぇ、大丈夫よね?」

 完璧主義で使えないと判断した人間への切り捨て方が容赦がないという噂をよく聞く。嘘か本当かは知らないが、そんな人に目をつけられたくない。

(うちの会社……能力主義なところあるから噂は本当かも……)

 瑞希が縋るように知紗の白衣を掴むと、彼女が肩を竦める。


「昨日の貴方を見ていないから何とも言えないけど……たぶん大丈夫じゃないの? でもさ、大学生の時のことをまだ気にしてるの? 私は過去の男なんて、さっさと忘れて新しい恋をしたほうがいいと思うけどね。この機会に社長とお試しで付き合ってみたら? 噂とは違って、優しくて素敵な人かもしれないよ」
「冗談はやめてよ。もうお見合いはしたくないから結婚しようとか言いだす人のどこに素敵さがあるのよ。きっとあの人からしたら結婚もタスクの一つなのよ。絶対に噂通りの冷徹社長に決まってるわ」

 思いっきり首を横に振る。すると、彼女は大きな溜息をついてロッカーの扉を閉めた。そんな彼女の表情を見て何も言えないまま俯く。

 大学の時に付き合っていた人に裏切られて捨てられてからというもの、恋愛から縁遠く生きてきた。恋なんて不毛なもの――もう二度としないと決めたのだ。

 だが、彼女は一度の失敗で未来にあるかもしれない幸せを諦めるのはもったいないと、頑なな瑞希をいつもたしなめてくれる。

(……)

 ぐっと唇を噛む。
 彼女が心配してくれていることくらい分かっているのだ。それでも過去を過ぎたことだと片づけることはできない。


「決めるのは貴方だけど……ずっと隠れて仕事をするわけにはいかないんだから、断るつもりならちゃんと話し合って結婚の話を白紙に戻してもらったほうがいいわよ」
「それは分かってるわ。昨日のうちに父には断りの連絡を入れてとお願いしておいたから、きっと大丈夫だと思う。そのうち社長も私のことを忘れるだろうから、しばらくの辛抱よ」

 このまま露口と再会しなければお互いに昨日のことは風化していくだろう。そうすれば、関係は元通りだ。何も怖がることはない。

「それなら、いいんだけど……瑞希の考えているように簡単にいくかな」
「ちょっとやめてよ……。不安になるでしょ」

 ぼそっと恐ろしいことを呟く知紗を肘で突く。

 少し寒くなったように感じて両腕をさすりながら、知紗と一緒に研究室に入る。気を取り直して、パソコンの電源を入れ進行途中の製剤化研究について確認しようとした。

(えっと……)


「原田さん」
「はい!」

 すると、所長に呼ばれたので顔を上げた。目が合うと手招きをされたので、なんだろうと思いながら彼の前に立つ。

「なんでしょうか?」
「悪いんだけど今から本社ビル内の第二会議室に行ってくれないかな」
「え……? どうしてですか?」
「この前の原田さんの論文の評価がよくてね。だから色々と話を聞きたいらしいよ」

(論文……)

 研究成果を認めてもらえるのは嬉しいが手放しには喜べない。注目されれば、それだけ露口に自分のことを知られる可能性が高くなってしまう。

 瑞希が難色を示すと、所長が「社長の要望だから拒否権はないよ」と言った。その言葉が鼓膜に突き刺さる。

「……今なんと仰いました?」
「だから社長の要望だと言ったんだ」
「……」

(う、嘘……!?)

 所長の言葉に大きく後退る。激しく動揺する瑞希に彼が怪訝な顔をしたが、今は彼の態度を気にしている場合ではない。

 入社して一度も関わりのなかった人が突然自分に興味を持ってくる。これは運命の悪戯か……だとしたら運命の神様はドSだ。

 背後に知紗からの観念しろという視線をびしびしと感じながら、瑞希はがっくりと肩を落とした。


 運命というか……おそらく昨日の見合い相手と同じ名前を見つけて気になったから呼んだだけだ。
 今の瑞希はすっぴんで髪を簡単にまとめ上げているだけで、昨日のような着飾った姿とは別人のように見た目の印象も雰囲気も違う。自分でもそう感じるのだから、他人なら尚さらだろう。だから怖がる必要はないと言い聞かせながら研究棟と同じ敷地内にある本社ビルへ向かった。


(うう、胃が痛い……)

 胃のあたりをさすりながらエレベーターを呼ぶためにボタンを押そうとした。すると、後ろから手が伸びてきて誰かが代わりに押してくれる。

「ありがとうございま……っ!」

 振り返ってお礼を言おうとした瞬間、エレベーターを押した人の顔に目を見張る。

(社長……!?)

 こんなところで再会するとは思っていなくて、予想外の事態に動けなかった。エレベーターの扉が開いた音がやけに耳に響く。


「乗らないんですか?」
「……あ! の、乗ります!」

 瑞希が立ち尽くしていると、先に露口がエレベーターに乗って声をかけてくる。慌てて乗り込み隅に寄った。心なしかエレベーターがいつもよりゆっくりな気がして冷や汗が止まらない。

(ど、どうしよう……)

 やっぱり運命の神様はドSだ。密室でこの人と二人きりにするなんて意地悪のレベルを超えている。

「白衣を着ているということは……貴方が原田瑞希さんですか?」
「え? は、はい……」

 頷くと、彼が顔をジッと見てくる。瑞希は顔を俯けて、これ以上ないくらい隅に寄った。


「雰囲気が違うのでよく分からないな……。原田さん。少しマスクを外してもらえませんか?」
「え……い、いやです!」
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