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忘れていた過去②(稀一視点)
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「緒方せんせっ!」
病院内のコンビニにいると大辻が陽気な声を出して肩を叩いてくる。商品棚から、ゆっくりと視線を動かし薄く目を細めて彼を見ると、好意的ではない視線だと受け取ったのか稀一の肩からさっと手を退けた。
そして少し困ったような表情で頬を掻く。
「えーっと、緒方先生。もしかして、あの噂を詩音ちゃんに話したこと怒ってます?」
「別に」
「あー、やっぱり怒ってるじゃないですか。詩音ちゃんの診察で会っても俺とは目を合してくれないんですもん。ずっと謝りたかったんです。すみません。もしかして喧嘩になりました?」
焦り始めた大辻に嘆息して、商品棚から水のペットボトルを手に取る。そして「別れを告げられました」と告げれば、彼の顔が途端に真っ青になっていく。
「え? 別れを……? 嘘だろ。詩音ちゃん、極端すぎるよ」
彼はぶつぶと呟いたあと、稀一に勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした! ただの世間話のつもりだったんです。まさかそんなことになるなんて思わず、軽率なことをしました。……詩音ちゃんに俺から話をしましょうか?」
「いえ、その必要はありません。結果的に良いほうに転びましたから」
「それなら良かった。本当にすみません。今後は軽率な噂話は控えます」
その言葉を聞いて、大辻が安堵の息をつく。そして改めて稀一に頭を下げた彼に、「もういいです」と首を横に振った。
別れを切り出された時は一瞬にしてどん底に落ちたが、結果として詩音の悩みを知ることができ結ばれたのだから、結果的には転禍為福といえるだろう。
小さく息をついてレジに向かおうとすると、彼も飲み物を手に取ってついてくる。
「でも緒方先生ってどこからどう見ても詩音ちゃんにべた惚れなのに……」
「詩音は自分に向けられる好意に鈍感なところがありますからね。態度だけではなく、はっきり言葉にすることの大切さを今回痛感しました」
「……心中お察しします。もし良ければ、お詫びも兼ねて今日飲みに行きませんか?」
大辻が酒を呷る仕草をする。稀一としても酒は嫌いではないのだが、今は詩音を優先したい。
結ばれてからというもの二人の距離はこの上なく縮まったが、如何せん彼女は今骨折している。彼女はなんでもないように笑って、今日も元気よく出社していったが、本当は無理をしているのではないかと心配でたまらない。
(詩音は仕事を好きすぎるからな。仕事のためならば、多少の無理くらい平気で押し通すきらいがあるから困ったものだ)
小さく息をついて、稀一は首を横に振った。
「すみません。嬉しいんですが詩音が治るまではちょっと……」
「あー、そうですね。了解です。じゃあ、詩音ちゃんが治ったら皆で飲みましょう」
会計を済ませ連れ立ってコンビニを出ると、彼は快活に笑って手を振り去っていった。それを見送ってから踵を返す。
(今夜はいつもよりたくさんマッサージをして、のんびりと過ごしてみてもいいかもしれないな)
稀一はいつも性急に求めてしまう自分に苦笑いをして歩を進めた。
***
「ごめんなさい!」
「は?」
帰ってくるなり、玄関で土下座をしてくる詩音に稀一は硬直した。
(一体何なんだ? まさか……)
「詩音、今度はなんの噂を聞いてきたんだ?」
彼女を立たせ顔を覗き込むと、慌てて首を横に振る。そしてしばらくもじもじしたあと、意を決したように口を開いた。
「稀一さん、私たち……子供の時に会っていますよね? 私、あの時のお兄ちゃんが稀一さんだなんて思ってなくて……あ、あの、ごめんなさい」
その予想もしない言葉に目を瞬かせる。
(まさか詩音が思い出すとは……)
意外すぎて一瞬言葉を失ってしまったが、すぐにハッとして、彼女の手を引きリビングに入る。二人でソファーに腰掛け、申し訳なさそうに俯く彼女の手を握った。
「どうして謝るんだ?」
「だって覚えていなかったから……」
そう答えた詩音の頭を撫でると、「伯父に聞いて思い出したんです」とポツリと呟いた。
「別にそんなに申し訳なさそうにすることないよ。詩音のことは初恋ではあったけど、だからと言ってずっと忘れられなかったわけじゃない。あれは幼い時の淡いものだ」
会わない日が重なり、そのうち思い出になっていった。彼女以外の女性と付き合ったことだってある。だから、詩音が謝る必要は断じてないのだ。
稀一は詩音の手をぎゅっと握り込んで、苦笑いを浮かべた。
「水篠先生から詩音との話をもらった時に、詩音のこと思い出したんだ。どうしているのか気になって、君にまた会ってみたくて日本に帰って来たんだ」
(いや、そんなのは言い訳だ)
あの時の自分はオンコールの対応や当直が続き、激務と不規則な生活で限界だった。日本に帰るかイタリアでもう少し頑張るか――どちらかで悩んでいる時だったので、実のところ初恋の人に会いたいという思いを大義名分にして逃げたのだ。
稀一は詩音の手を握りしめたまま、あの当時を思い出すように視線を上に向けた。そして自嘲気味に笑う。
「稀一さん?」
心配そうに顔を覗き込んでくる詩音の肩に頭を乗せて、甘えるようにすり寄った。
「俺、あの時激務が原因で心も体も限界だったんだ。それなのに婚約の顔合わせで俺の前に現れた初恋の人は、自分以上にオーバーワークなんだもんなぁ。言葉を失ったよ」
「ご、ごめんなさい……」
てっきり着飾ってくると思った相手が、遅刻寸前で白衣のまま駆け込んできた時は面食らったのをよく覚えている。
それどころか詩音は一切自分のことを覚えていなかったのだ。
(会うの久しぶりだし話題に事欠かないように昔話をいっぱい用意してきたのに、全部無駄にしてくれるんだもんな。さすが詩音だよ)
彼女の肩に頭を乗せたまま、肩を震わせて笑い出すと、彼女が慌て出す。
「ごめんなさい。あの時はすごく忙しくて……。夢中で仕事をしていたら、遅刻しそうになって慌てていて……」
「分かってる。いつもの詩音を見ていれば分かる。あの時思ったんだ。何ひとつ覚えていない薄情な初恋の人を何がなんでも振り向かせてやるって」
「え?」
「そう思ったのに、気がついたら自分が夢中にさせられていたんだ」
詩音を振り向かせてやるから、詩音に振り向いてほしいに変わったのはいつからだっただろうか。
「目を輝かせながら好きな仕事の話をしてくれる君が眩しかった。志して就いた職ではあったが、医者という職業が嫌になりつつあった時に、君は一点の曇りもなく自分の選んだ道を突き進んでいた。目が眩むほどに輝いていたよ。接すれば接するほどに、元気をもらえたんだ。ありがとう」
「そんな、私は何もしていません……」
止まっていた恋が動き出すのを胸が痛いほどに感じた。
首を横に振る詩音の頬を両手で挟む。
「充分なくらいしてくれたよ。詩音が側にいてくれるだけで俺は元気になれるんだ」
「稀一さん……」
「詩音が好きだ。君の隣に立つ婚約者として相応しくありたい。医師としても一人の男としても」
そう言うと、詩音の眦に涙が浮かぶ。その涙をキスですくい取ると彼女がゆっくりと目を閉じた。それを合図に二人の唇が深く重なり合う。
詩音は詩音のままいてくれればいい。幼い時から何も変わらない可愛い笑顔。眩しいほどに直向きな性格。その姿に憧憬の念を抱くと共に初恋が色を持って動き出した。
そして婚約者として医師として、ついつい仕事を頑張りすぎてしまう彼女を側で守りたい。その役目を誰にも渡したくないと強く思ったのだ。
病院内のコンビニにいると大辻が陽気な声を出して肩を叩いてくる。商品棚から、ゆっくりと視線を動かし薄く目を細めて彼を見ると、好意的ではない視線だと受け取ったのか稀一の肩からさっと手を退けた。
そして少し困ったような表情で頬を掻く。
「えーっと、緒方先生。もしかして、あの噂を詩音ちゃんに話したこと怒ってます?」
「別に」
「あー、やっぱり怒ってるじゃないですか。詩音ちゃんの診察で会っても俺とは目を合してくれないんですもん。ずっと謝りたかったんです。すみません。もしかして喧嘩になりました?」
焦り始めた大辻に嘆息して、商品棚から水のペットボトルを手に取る。そして「別れを告げられました」と告げれば、彼の顔が途端に真っ青になっていく。
「え? 別れを……? 嘘だろ。詩音ちゃん、極端すぎるよ」
彼はぶつぶと呟いたあと、稀一に勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした! ただの世間話のつもりだったんです。まさかそんなことになるなんて思わず、軽率なことをしました。……詩音ちゃんに俺から話をしましょうか?」
「いえ、その必要はありません。結果的に良いほうに転びましたから」
「それなら良かった。本当にすみません。今後は軽率な噂話は控えます」
その言葉を聞いて、大辻が安堵の息をつく。そして改めて稀一に頭を下げた彼に、「もういいです」と首を横に振った。
別れを切り出された時は一瞬にしてどん底に落ちたが、結果として詩音の悩みを知ることができ結ばれたのだから、結果的には転禍為福といえるだろう。
小さく息をついてレジに向かおうとすると、彼も飲み物を手に取ってついてくる。
「でも緒方先生ってどこからどう見ても詩音ちゃんにべた惚れなのに……」
「詩音は自分に向けられる好意に鈍感なところがありますからね。態度だけではなく、はっきり言葉にすることの大切さを今回痛感しました」
「……心中お察しします。もし良ければ、お詫びも兼ねて今日飲みに行きませんか?」
大辻が酒を呷る仕草をする。稀一としても酒は嫌いではないのだが、今は詩音を優先したい。
結ばれてからというもの二人の距離はこの上なく縮まったが、如何せん彼女は今骨折している。彼女はなんでもないように笑って、今日も元気よく出社していったが、本当は無理をしているのではないかと心配でたまらない。
(詩音は仕事を好きすぎるからな。仕事のためならば、多少の無理くらい平気で押し通すきらいがあるから困ったものだ)
小さく息をついて、稀一は首を横に振った。
「すみません。嬉しいんですが詩音が治るまではちょっと……」
「あー、そうですね。了解です。じゃあ、詩音ちゃんが治ったら皆で飲みましょう」
会計を済ませ連れ立ってコンビニを出ると、彼は快活に笑って手を振り去っていった。それを見送ってから踵を返す。
(今夜はいつもよりたくさんマッサージをして、のんびりと過ごしてみてもいいかもしれないな)
稀一はいつも性急に求めてしまう自分に苦笑いをして歩を進めた。
***
「ごめんなさい!」
「は?」
帰ってくるなり、玄関で土下座をしてくる詩音に稀一は硬直した。
(一体何なんだ? まさか……)
「詩音、今度はなんの噂を聞いてきたんだ?」
彼女を立たせ顔を覗き込むと、慌てて首を横に振る。そしてしばらくもじもじしたあと、意を決したように口を開いた。
「稀一さん、私たち……子供の時に会っていますよね? 私、あの時のお兄ちゃんが稀一さんだなんて思ってなくて……あ、あの、ごめんなさい」
その予想もしない言葉に目を瞬かせる。
(まさか詩音が思い出すとは……)
意外すぎて一瞬言葉を失ってしまったが、すぐにハッとして、彼女の手を引きリビングに入る。二人でソファーに腰掛け、申し訳なさそうに俯く彼女の手を握った。
「どうして謝るんだ?」
「だって覚えていなかったから……」
そう答えた詩音の頭を撫でると、「伯父に聞いて思い出したんです」とポツリと呟いた。
「別にそんなに申し訳なさそうにすることないよ。詩音のことは初恋ではあったけど、だからと言ってずっと忘れられなかったわけじゃない。あれは幼い時の淡いものだ」
会わない日が重なり、そのうち思い出になっていった。彼女以外の女性と付き合ったことだってある。だから、詩音が謝る必要は断じてないのだ。
稀一は詩音の手をぎゅっと握り込んで、苦笑いを浮かべた。
「水篠先生から詩音との話をもらった時に、詩音のこと思い出したんだ。どうしているのか気になって、君にまた会ってみたくて日本に帰って来たんだ」
(いや、そんなのは言い訳だ)
あの時の自分はオンコールの対応や当直が続き、激務と不規則な生活で限界だった。日本に帰るかイタリアでもう少し頑張るか――どちらかで悩んでいる時だったので、実のところ初恋の人に会いたいという思いを大義名分にして逃げたのだ。
稀一は詩音の手を握りしめたまま、あの当時を思い出すように視線を上に向けた。そして自嘲気味に笑う。
「稀一さん?」
心配そうに顔を覗き込んでくる詩音の肩に頭を乗せて、甘えるようにすり寄った。
「俺、あの時激務が原因で心も体も限界だったんだ。それなのに婚約の顔合わせで俺の前に現れた初恋の人は、自分以上にオーバーワークなんだもんなぁ。言葉を失ったよ」
「ご、ごめんなさい……」
てっきり着飾ってくると思った相手が、遅刻寸前で白衣のまま駆け込んできた時は面食らったのをよく覚えている。
それどころか詩音は一切自分のことを覚えていなかったのだ。
(会うの久しぶりだし話題に事欠かないように昔話をいっぱい用意してきたのに、全部無駄にしてくれるんだもんな。さすが詩音だよ)
彼女の肩に頭を乗せたまま、肩を震わせて笑い出すと、彼女が慌て出す。
「ごめんなさい。あの時はすごく忙しくて……。夢中で仕事をしていたら、遅刻しそうになって慌てていて……」
「分かってる。いつもの詩音を見ていれば分かる。あの時思ったんだ。何ひとつ覚えていない薄情な初恋の人を何がなんでも振り向かせてやるって」
「え?」
「そう思ったのに、気がついたら自分が夢中にさせられていたんだ」
詩音を振り向かせてやるから、詩音に振り向いてほしいに変わったのはいつからだっただろうか。
「目を輝かせながら好きな仕事の話をしてくれる君が眩しかった。志して就いた職ではあったが、医者という職業が嫌になりつつあった時に、君は一点の曇りもなく自分の選んだ道を突き進んでいた。目が眩むほどに輝いていたよ。接すれば接するほどに、元気をもらえたんだ。ありがとう」
「そんな、私は何もしていません……」
止まっていた恋が動き出すのを胸が痛いほどに感じた。
首を横に振る詩音の頬を両手で挟む。
「充分なくらいしてくれたよ。詩音が側にいてくれるだけで俺は元気になれるんだ」
「稀一さん……」
「詩音が好きだ。君の隣に立つ婚約者として相応しくありたい。医師としても一人の男としても」
そう言うと、詩音の眦に涙が浮かぶ。その涙をキスですくい取ると彼女がゆっくりと目を閉じた。それを合図に二人の唇が深く重なり合う。
詩音は詩音のままいてくれればいい。幼い時から何も変わらない可愛い笑顔。眩しいほどに直向きな性格。その姿に憧憬の念を抱くと共に初恋が色を持って動き出した。
そして婚約者として医師として、ついつい仕事を頑張りすぎてしまう彼女を側で守りたい。その役目を誰にも渡したくないと強く思ったのだ。
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