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忘れていた過去①

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「はあぁぁ~っ」

 詩音は大きな溜息をついて、社長室内の応接用テーブルに勢いよく突っ伏した。そんな詩音を見て、母の兄――詩音が勤めている製薬会社の社長が笑う。

 顔を少し動かして、手ずからコーヒーを淹れてくれる伯父をちらりと見た。

 幼い頃から、この会社は詩音の憩いの場だった。伯父だけじゃなく、ここの研究員の皆は詩音を可愛がってくれ、色々教えてくれた。そのおかげもあって、今では詩音も立派な創薬研究者だ。


「お疲れさま。左手首の具合はどうだい? 痛みは?」

 突っ伏している詩音の横に伯父が淹れたてのコーヒーを置いてくれたので、詩音は体を起こしてソファーに座り直した。彼は笑みを絶やさないまま、詩音の向かいに腰掛ける。

「最初は痛かったんだけど、今は全然」
「そりゃ良かった。階段から落ちて骨折と聞いた時は本当にびっくりしたよ」
「骨折といってもヒビが入っただけだから、大したことはないわ」

 詩音は左手を持ち上げて、ひらひらと振った。そのときにギプスが目に入って、げんなりしてしまう。


「でも、このギプスなんとかならないかしら。動かしづらいのよね」
「動かせないようにするためのものだからね」
「……」

 伯父の正論に言葉が詰まる。

 もちろん分かっている。ヒビとはいえ骨折は骨折。治療の一環として固定しなければならないのは理解できる。が、こんなにも範囲を大きく固定する必要はあったのだろうか。

 詩音は肘の下から手まで固定されたギプスを不満げに見つめた。

(仕事しづらいのよね)

 骨折の度合いよりも大袈裟に見えるギプスは――実は父と稀一がオーバーワーク気味の詩音を休ませるためにしたことではないのかと疑っている。

(きっとそうよ。お父様も『どうせ手が使えなければ仕事もままならないだろう』とか言っていたもの)

 詩音の表情と態度を見て、伯父が大仰に溜息をつく。その目も表情も呆れに満ちていた。


「詩音。痛みはなくとも骨折しているのは事実なのだから、ちゃんと皆の言うことを聞いておきなさい」
「……分かっているわ」
「分かっていない。詩音はこれくらいなら大丈夫だと過信しがちなところがあるだろう。治療よりも研究を優先させそうだ。勝手にギプスを外すんじゃないぞ」
「さすがの私でも、そこまでバカなことはしないわよ」

 心外だ。一体人をなんだと思っているのか。不満は漏らすが、治療方針については一応理解しているつもりだ。だが、伯父は詩音のことが信じられないのか「稀一くんに詩音を見張っておいてくれと頼んでおかねば」と、さらに失礼なことを言いだした。

 詩音はその伯父の言葉に嘆息する。


「わざわざ頼む必要なんてないわよ。稀一さん、めちゃくちゃ過保護だから」

 骨折して一週間半。通院しながら超音波治療を受け、経過に応じて可動域訓練をしているのだが、稀一はいつも付き添ってくれる。実家の病院なので、当然ながら働いている医師や看護師は皆知り合い。なんの心配もいらないと、何度伝えても彼は頑として譲らず、いつも付き添ってくれるのだ。


「稀一さんったら私の診察の時間は必ず時間を空けてくるし、家ではさらに過保護さが増して私に何もさせてくれないの。移動する時でさえ抱き上げられて動くのよ。ヒビが入ったのは足じゃないのに!」

 お風呂も同様だ。彼は詩音の左手にギプス専用防水カバーを装着してくれ、甲斐甲斐しく入浴介助をしてくれる。そのせいで恥ずかしがっている自分のほうが恥ずかしくなったほどだ。

 詩音の言葉に伯父がくつくつと笑い出した。 

「笑いごとじゃないわ」
「すまんすまん。まあ目の前で階段から落ちたんだ。稀一くんからすれば、今の詩音は目を離せばさらに大きな怪我をしてきそうで恐ろしいのかもな」
「で、でも、適切な運動を行わないと、治癒後に関節の動く範囲が狭くなってしまったり、手首の筋力や握力が弱くなってしまう恐れだってあるのよ。それを分からない人ではないのに」

 出社する許しすら、もぎ取るのに苦労したのだ。稀一は詩音を宝物のように扱う。それは体を重ねてからより顕著になったように思う。

 家にいる時は、常に稀一と一緒に過ごしている。食事もお風呂も寝る時も……。正直なところ、トイレにいる間以外は体の一部が常に密着していると言っても過言ではないと思う。


「そうか。そこまで大袈裟か。まあいいじゃないか。詩音はそもそも人に頼ったりすることが苦手だろう。この機会に慣れるといい。稀一くんの好きなようにさせてやりなさい」
「……」

 楽しげに笑う伯父に溜息をつく。

(でもそれを嫌と思えないから困るのよね)

 詩音が苦笑すると、伯父がコーヒーを飲みながら愉快そうに笑った。


「子供の頃から稀一くんは詩音が大好きだったからな。世話をやける今のうちに目一杯甘やかしたいのかもしれないぞ。許してやれ」
「え? 子供の頃?」

 その言葉に目を瞬かせる。
 詩音が首を傾げると、伯父はやれやれと肩を竦め、立ち上がった。そしてデスクの引き出しから何かを取り出し詩音の前に置いてくれる。それらを覗き込んで、詩音はハッとした。

 テーブルに置かれた写真には子供の時の詩音と稀一が写っていた。

「こ、これは……! いつの写真?」
「二十四、五年前かな。詩音は小さかったから覚えていないかもしれないが、水篠さんが緒方さんに会いに行くたび、一緒に行きたいとせがんでいた時期があるんだ。そのとき稀一くんが詩音の面倒をよく見てくれていたらしいぞ」

 伯父の顔と写真を交互に見比べる。詩音は脳をフル稼働させて忘れていた記憶を引っ張り出そうと頑張った。


「詩音の家でパーティーをした時、稀一くんが詩音にプロポーズしたんだよ。とても可愛かったな。だからつい写真を撮ったんだ」
「それ覚えてる!」

 その伯父の言葉にハッとする。詩音は震えながら写真を手に取った。

(そういえば小さい頃、よく遊んでくれるお兄ちゃんがいたわ。まさかそれが稀一さんだったなんて)

 詩音は一人っ子ということもあり、幼い頃は兄や姉という存在に憧れを抱いていた。そんな時によく一緒に遊んでくれた少年を兄と慕っていたのを覚えている。

 だが、初等部に進学する頃には伯父の会社の研究員の皆に遊んでもらうほうが楽しくなり、いつしか父について行かなくなった。


「あのお兄ちゃんは稀一さんだったのね。……稀一さんは覚えているのかしら?」
「もちろん覚えていると思うよ。水篠家が緒方家に婚約の打診をした時、稀一くんは詩音が相手ならと快諾したそうだし。あの時のプロポーズを思い出したんじゃないのかなぁ」

 写真を見ながら懐かしそうに話す伯父に、詩音は今まで何も知らずにいた自分に驚愕した。

(私、稀一さんと会った時、『はじめまして』って言っちゃったわ)

 きっと彼は落胆したに違いない。逆の立場なら絶対に泣いている。詩音は心の中で何度も稀一に謝り、猛省した。


「それならそうと早く言ってよ。私、ずっと知らなくて……。稀一さんになんて失礼なことを」
「と言っても、幼いうちのほんの二年間の関わりだけだからな。二十五年近くも会っていなかったのだから、覚えていなくとも無理はないだろう」
「そ、それでもよ」

 愕然としている詩音を軽快に笑い飛ばす伯父に、詩音は露骨に肩を落とした。

(稀一さんにちゃんと謝らなきゃ。彼はなんと言うかしら? 気にしてないって言う? それとも今夜はお仕置きされるかも……)

 そこまで考えて思考がはたと止まる。一体自分は何を考えているのか――
 みるみるうちに顔に熱が集まってきて、詩音は慌てて顔を俯けた。

 骨折した次の日。彼と結ばれた。それから毎晩彼に愛されているので、すっかり心も体も慣らされているのかもしれない。

 詩音は真っ赤な顔を隠すように両手で顔を覆った。

 いつも優しくしてほしいと思うのに、ベッドの中の――意地悪な彼に悦んでいる自分がどこかにいるのを否定できない。

(わ、私ったら!)

 詩音はその考えを打ち払うようにソファーから勢いよく立ち上がった。


「きょ、今日は早く帰って稀一さんに昔のことを謝らなきゃ! だから仕事。仕事しなきゃ!」

 わざとらしく大声でそう言い、社長室を出ていく。伯父はそんな詩音を笑いながら見送ってくれた。
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