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フィレンツェ

花梨奈の父②

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「……っう」
「大丈夫ですか、赤司様。警察を呼んだほうがよろしいでしょうか?」

 ホテル内医務室で看護師が手当てをしてくれている横で、一部始終を見ていたバトラーやホテリエ。コンシェルジュの方がそう問いかけてくれる。

 それもそうだ。ロビーラウンジであれだけ騒げば、そうなるだろう。

 いっそ警察につき出してやれたら……そう考えてしまう黒い自分を振り払うようにかぶりを振った。

「いいえ。父なので、その必要はありません。このようなところで騒いでしまって申し訳ございませんでした」

 私が頭を下げると、彼らは微笑みながら首を横に振る。そして、「気にしないでください」と言ってくれた。

 本当に優しくていい方たちだ。


「カリナ、大丈夫? 痛いよね」
「うん、大丈夫よ……」

 痛いのは頰じゃない。心だ。
 やっぱりどうあっても相容れられない。分かり合えない。

 そんな思いが心を支配してしまうと――勝手に涙がはらはらと流れ落ちて止まらない。
 その涙をシモーネがハンカチで拭いながら、私の背中をさすり励ましてくれる。

「大丈夫だよ、カリナ。きっとトモヒトがなんとかしてくれるよ」
「うん……。ごめん、なさい」
「謝らないで」

 シモーネの優しさに応えたくて、なんとか笑おうとしたけど笑えなかった。

 すると、私が泣いているのを見たホテルスタッフたちが何も言わずに部屋から退室していってくれる。

 その配慮が嬉しい反面申し訳なくもあった……


「花梨奈さん、大丈夫ですか?」

 シモーネが渡してくれたハンカチで涙を拭いていると、ノックと一緒にトモの声が聞こえてきた。嬉しくなって立ち上がりドアを開くと、彼がそこにいた。

 トモ……!

 私が無言で抱きつくと、彼は「もう大丈夫ですよ」と抱き締め返してくれる。その途端、決壊したようにさっきよりもたくさんの涙が出てきた。


「花梨奈……」

 私がトモの腕の中で泣いていると、父の声がして体が強張る。それが分かったのか、トモが何度も「大丈夫ですよ」と言って、優しく背中をさすってくれる。


「花梨奈さんに謝りたいそうです。ですが、嫌なら話す必要もありませんし、今後関わる必要もありません」
「トモ……」

 その言葉に、私はきゅっと唇を引き結んだ。

 ここで話さずにトモの背中に隠れて守ってもらうのは簡単だろう。でも、それじゃダメな気がする。ちゃんと話さないと……

 そう思い、涙を拭いながら顔を上げた。


「ううん、話すわ」

 首を小さく横に振ってトモから体を離そうとすると、彼が先ほどよりも強く抱き締めてくれる。

「万が一、嫌なことを言われた時はすぐに部屋から出てくるんですよ」
「うん……」

 頷くと、トモは私と父を残してシモーネと医務室を出ていった。

 トモの言葉に、本当なら怖くて仕方がない気持ちが、とても落ち着いてくるのが分かる。

 どんな時でも守ってくれる。助けてくれる。彼は私の絶対的な味方だ。そう思うと、とても心強かった。


「花梨奈。彼がただの運転手なら、早く言いなさい。勘違いをして、とんだ失態だ」
「……」

 深い溜息をつく父を無言で見つめる。

 私の話を聞く気なんてなかったくせに……
 この人、やっぱり謝る気なんてないんだわ。トモの手前、そう言っただけなんだということが分かって、私の心の中を諦めの気持ちが占めていく。


「だが、よくやった。どこで知仁くんと接点を持ったのかは知らんが、気に入られているようじゃないか」
「そうですね……おかげさまで……」
「もっと頑張りなさい。お前が気に入られれば気に入られるほど、価値が上がる。なんなら、結婚前に一度くらい既成事実を作っておきなさい。そうすれば、こちらが交渉する上で優位に立てるからな」

 は……?
 その信じられない言葉に目を見張る。

 この人は嫁入り前の娘に、交渉を優位に進めるために婚前交渉を持ちかけているのだ。大方、『娘に手を出しただろう!』とかなんとか言って難癖をつけて、さっきの失態を取り戻し優位に立つつもりなのだろう。

 最低。まあ、もうしているけどね……
 何度もしています、なんて言ったらこの人は一体どんな顔をするのかしら……

 けど、それがこの人にとって有利になるなら、絶対に教えてなんてやらない。


「花梨奈。ずっと気になっていたのだが、その髪はなんだ? 汚いとは思わんのか。今すぐ、染め直しなさい。恥晒しもいいところだ」
「……」

 汚くないわよ。髪くらい染めて何が悪いのよ……。トモは綺麗だって言ってくれたもん。

 そう思いながら、私は歯噛みした。

 トモとの結婚は政略結婚だ。彼が画策したのだから、紛れもない事実だ。お互いの会社の利益が絡んでいることも、この人がその利益しか見ていないことも百も承知の上で、私はトモの手を取った。そこに文句はない。

 でも私たちはただの政略結婚じゃない。お互いちゃんと話し合って自分たちで結婚を決めたのだ。だから、これは紛うことなき私の意志。貴方の意のままなんかじゃないわ。

 ふんと心の中でそう言い返す。
 だけど、失望の中に僅かにある――父親を求める厄介な気持ちが胸を痛くさせる。

 そのあと、父はへりくだってトモの言うことをよく聞けだとか、髪の色を今日中に戻せだとか、色々好き放題言っていた。

 そのついでとばかりに、トモの実家について聞いてみると、旧家の子息だということを教えてもらえた。

 それを聞いて、父がトモの申し出を受けた意味を理解した。母の実家とはすでに仲が悪いから、同じような家柄と懇意にしておきたかったのだろう。

 そうよね。いくらトモの会社が順調だからって、できて五年しか経っていない新しめな企業と縁を結ぶなんておかしいと思っていたのよね。

 家柄をとても重要視するこの人のことだもの。トモの実家との縁は喉から手が出るくらい欲しいのだろう。



「花梨奈さん、大丈夫でしたか?」
「カリナ……」

 話を終えて医務室を出ると、前で待っていてくれた二人が駆け寄ってきてくれる。

「大丈夫よ」
「赤司さんは僕が見送ってくるので、花梨奈さんはシモーネさんと一緒に部屋に戻っておいてください」
「え? ええ、分かったわ。ありがとう」

 トモの提案にホッと胸を撫で下ろし、あとのことは彼に託すことにする。

 これ以上、顔を見ていたくなかったから助かったわ。ごめんね、トモ。

 心の中で謝りながら、シモーネと一緒に部屋へ戻った。


「カリナ、本当に大丈夫? 変なこと言われなかった?」
「変なこと……。そうね、髪の色が汚いって言われちゃったわ」
「は? そんなことないよ! カリナの髪、とてもキレイだよ」
「ありがとう」

 私が笑うと、シモーネが「本当だよ。トモヒトも絶対そう言うよ」と言って励ましてくれる。

 こんな時、一人じゃなくて本当によかったと思う。一人だったら、きっと絶望に打ち拉がれていただろう。ううん、もしかしたら日本に無理矢理連れて帰られていたかも……

 私はそこまで考えて、小さく震え両腕をさすった。


 ***


「トモ、おかえりなさい」

 その日、トモが帰って来たのは十七時をまわったところだった。見送りに行ったのは十一時頃だったはずなのに、一向に戻ってこなくてとても心配で――不安だったのだ。

 帰ってきたトモに抱きつくと、「遅くなってすみません」と、私の額にキスをくれる。そしてぎゅっと抱きしめてくれた。


「トモヒト、大丈夫? カリナのパパに何かされたの?」
「いいえ、違います。今後について話し合っていたんですよ。花梨奈さんの側にいられなかったのは忍びなかったんですが、重要なことだったので……。待たせてしまってすみませんでした」

 トモの胸から顔を上げて彼の顔を見ると、彼が困ったように微笑む。

「不安にさせて、すみませんでした」
「謝らないで……トモは何も悪くないわ。私こそ、全部任せちゃってごめんなさい」

 思った以上に弱々しい声が出たが、精一杯首を横に振って、謝らないでほしいと伝えた。

「シモーネさん。実はフィレンツェ観光を打ち切って申し訳ないんですが……明日の昼以降で構わないのでローマへ移動できませんか?」
「ローマ? それはいいけど……急だね」
「ええ。あちらで会わなければならない人がいるんです」

 会わなければならない人?

 二人の言葉に首を傾げると、トモが私の背中を宥めるように優しくさする。

「花梨奈さん、今度ゆっくりフィレンツェを観光できる時間を設けると約束するので、ローマへ行きましょう」
「うん、それはいいけど……お仕事?」
「まあ、そんなところです。詳しいことはあとで話します」

 元々、フィレンツェのあとはローマに行くつもりだったし、ちょうどいいと思う。それにシモーネがついて来てくれるなら、とても心強くて嬉しい。

 私が頷くと、彼が笑顔で私の頭を撫でてくれる。

「花梨奈さん、今日のことは忘れて楽しいことだけ考えましょう。行きたいところを考えておいてください」
「ありがとう」

 すると、シモーネが私たちの肩を叩いて、ウインクする。

「カリナ、今日のことをたくさん慰めてもらうといいよ。但し、寝坊しないようにね」
「うん。慰めてもらうけど……。寝坊はしないわよ」
「じゃあ邪魔しちゃ悪いからボク帰るね。トモヒト、明日カリナが寝坊しないようにほどほどにするんだよ」
「はい、今日はありがとうございました」

 え? どういう意味?
 シモーネの意味深な言葉がよく理解できないでいると、彼はウインクをして部屋から出ていった。
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