33 / 70
【33】
しおりを挟む鈴彦の胸に、桜子は顔をうずめる。それから呼吸を整えて、肝心要の内容をくちにし始めた。
「……そんな今の私にとって、あの子は……美月は、人間界の象徴なの。あの子がなにも悪くないのは、わかってる。でも、あの子を見ると思い出しちゃうのよ。……人間界でのこと……苦しかったこと……泣いた記憶……。思い出すだけで胸が痛くなって、どうすればいいのかわからなくなる。だから――」
「攻撃を……してしまったのかい……?」
言葉の続きを鈴彦が受け継いだ。桜子は頷く。
「……体の中でね、痛いのと苦しいのと怖いのが、混ざってる感じなの。あの子は悪くない。でも、あの子の顔も見たくない……。私はもう、人間界のことは忘れたいの。全部わすれて、ふたをして、楽になりたいの。苦しいのは、もう嫌なの。人間界でのことを全部わすれて、異界で新しい人生を送りたいの……っ」
涙で声がにじんだ。自分の台詞に、自分の心が傷付いているようだった。
相変わらず、背中を撫でてくれる鈴彦の手は温かく、優しい。そのぬくもりと優しさが嬉しくて、桜子は嗚咽をもらして泣いた。不思議なくらいに、涙があとからあとからあふれてきた。
鈴彦は、桜子が泣きやむまで背中をさすり続けてくれた。
しばらくして桜子が泣きやむと、彼は包容力のある低い声で話を始める。
「――美月ちゃんは人間界の象徴……。そう言ったね」
桜子は首肯した。鈴彦は続ける。
「それは、つまるところ、君と人間界の繋がりがまだ途切れていないことを意味している。美月ちゃんが君を見て、嬉しそうにしたということもね」
意図がわからず、桜子は顔を上げた。鈴彦が柔和に微笑する。
「……君が人間界から姿を消してからも、その美月ちゃんの中で桜子ちゃんは生きていたんだよ。いや、美月ちゃんだけじゃないだろう。家族や近所のひと、友人や先生……。皆が君のことを覚えている限り、君と人間界の繋がりが切れることはない」
「……そんな繋がり……私はもう欲しくない……」
鈴彦は、肯定も否定もしなかった。彼は静かな語調で、桜子に尋ねてくる。
「……君は、人間界に居場所はないと言った。でも、本当にそうだったのかな?」
数拍の間をはさんで、鈴彦が半ばひとりごとのように言う。
「居場所がないように感じただけで、瞼を閉じて、耳をふさいでいただけだった可能性は――ない?」
ぎくりとして、桜子の胸が苦しくなった。不安や恐怖と共に込み上げてくる吐き気を抑えて、桜子は反論する。
「……もし、そうだったとして……それが、いけないことなの……?」
ふ、っと鈴彦は穏やかに微笑んだ。この表情の柔らかさは、あたたかさは、出会った当初から少しも変わっていない。そんな顔をされてしまうと、桜子は観念して両手をあげたくなってしまうのだった。
「……生きていくのはね、怖いことだよ。つらいことでもある。そしてそれは、人間界も異界も、同じことだ。……僕も、人間界での自分が、好きではないんだよ。息苦しいばかりの現実から解放されたいといつも思っていて、そしてそんなとき、偶然にも人間界と異界のひずみに巻き込まれて、こっちに来た」
初めて聞いた話だった。聞き上手という性質も無関係ではないのだろうが、鈴彦は基本的に自分の話はあまりしない。
なつかしそうに目を宙にやって、彼は続ける。
「……異界には数多くの妖怪がいて恐ろしかったけど、人間界に帰りたいとは……思わなかったな。……今も、思わない。異界が恐ろしい世界とわかっていながら、それでも、帰りたいという気持ちは湧いてはこなかった……」
郷愁を宿していた瞳が、寂しげに揺れた。その眼差しは、桜子の心をも切なく締めつける。
「僕は、弱い人間だ。傷付くことが、すごく怖い。人間界で、僕はたくさん傷付いてきた。だから、人間界に帰るのが嫌だというより……怖かったんだよ。また、傷付くんじゃないかって」
彼は桜子に薄く笑いかけた。
「……不思議だよね。どれだけ傷付いても、少しも強くならないんだよ。傷付くことに、ちっとも慣れない。だから、傷痕は増えていく一方だ」
自身の胸をさすりながら、鈴彦は呟く。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説

異世界転移しましたが、面倒事に巻き込まれそうな予感しかしないので早めに逃げ出す事にします。
sou
ファンタジー
蕪木高等学校3年1組の生徒40名は突如眩い光に包まれた。
目が覚めた彼らは異世界転移し見知らぬ国、リスランダ王国へと転移していたのだ。
「勇者たちよ…この国を救ってくれ…えっ!一人いなくなった?どこに?」
これは、面倒事を予感した主人公がいち早く逃げ出し、平穏な暮らしを目指す物語。
なろう、カクヨムにも同作を投稿しています。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
アイムキャット❕~異世界キャット驚く漫遊記~
ma-no
ファンタジー
神様のミスで森に住む猫に転生させられた元人間。猫として第二の人生を歩むがこの世界は何かがおかしい。引っ掛かりはあるものの、猫家族と楽しく過ごしていた主人公は、ミスに気付いた神様に詫びの品を受け取る。
その品とは、全世界で使われた魔法が載っている魔法書。元人間の性からか、魔法書で変身魔法を探した主人公は、立って歩く猫へと変身する。
世界でただ一匹の歩く猫は、人間の住む街に行けば騒動勃発。
そして何故かハンターになって、王様に即位!?
この物語りは、歩く猫となった主人公がやらかしながら異世界を自由気ままに生きるドタバタコメディである。
注:イラストはイメージであって、登場猫物と異なります。
R指定は念の為です。
登場人物紹介は「11、15、19章」の手前にあります。
「小説家になろう」「カクヨム」にて、同時掲載しております。
一番最後にも登場人物紹介がありますので、途中でキャラを忘れている方はそちらをお読みください。

ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。

せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います
霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。
得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。
しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。
傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。
基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。
が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。
なろう380000PV感謝! 遍歴の雇われ勇者は日々旅にして旅を住処とす
大森天呑
ファンタジー
〜 報酬は未定・リスクは不明? のんきな雇われ勇者は旅の日々を送る 〜
魔獣や魔物を討伐する専門のハンター『破邪』として遍歴修行の旅を続けていた青年、ライノ・クライスは、ある日ふたりの大精霊と出会った。
大精霊は、この世界を支える力の源泉であり、止まること無く世界を巡り続けている『魔力の奔流』が徐々に乱れつつあることを彼に教え、同時に、そのバランスを補正すべく『勇者』の役割を請け負うよう求める。
それも破邪の役目の延長と考え、気軽に『勇者の仕事』を引き受けたライノは、エルフの少女として顕現した大精霊の一人と共に魔力の乱れの原因を辿って旅を続けていくうちに、そこに思いも寄らぬ背景が潜んでいることに気づく・・・
ひょんなことから勇者になった青年の、ちょっと冒険っぽい旅の日々。
< 小説家になろう・カクヨム・エブリスタでも同名義、同タイトルで連載中です >
ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる