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第35章 穏やかな夕暮れ

穏やかな夕暮れⅣ

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 その部屋の中に人影が居たのだ。ルーナだ。
 ルーナは様子を窺いながら、そっとこちらに歩み寄る。その隙に、カイルが部屋へと飛び込んだ。

「此方は私がお預かりしておりました。お返し致しますね」

 差し出されたのは、リネットとアンジェラの為に縫ったハンカチだった。事件も解決したし、招待しても良い頃だろうか。
 振り返り、クラウの左手を握ってみる。

「此処でお茶会をしたいの。リネットとアンジェラを呼んでも良いかなぁ」

「勿論、良いよ」

 良かった。ほっと胸を撫で下ろし、クラウにハグをする。
 ただ、お茶会はリビングで行うだろうから、この部屋を二人に見せられないのは残念だ。改めて、写真でもあればな、と思う。

「ね、座って話そう?」

「そうだね」

 クラウの手を引き、新調されたソファーへと座った。嗅いだ事の無い、僅かな木の香りが鼻をくすぐる。この香りも数日経てば無くなるのかもしれない。何度か深呼吸してみる。

「そうだ、俺からも、一つお願いがあるんだ」

「何~?」

「お茶会が終わったら、今度こそ一緒にスケートリンクに行こう。きっと楽しいよ」

「うん!」

 私も前回のスケートは中途半端で終わってしまった感じがしていたし、クラウが居るならもっと楽しめそうだ。先の予定がまた少しずつ埋まっていく。ワクワクして仕方が無い。
 にこやかに話すクラウに、大きく頷いた。
 徐々に暗くなっていく部屋に明かりが灯されていく。カーテンも閉められ、気分はすっかり夜だ。
 カイルに再び遊びに誘われ、今度は綱引きをしてみる。やはり片手の握力だけでは呆気なくカイルに負けてしまい、クラウにその役目を任せた。
 唸り声を上げながら、力ずくで綱を引っ張るカイルに、思わず小さな笑い声が漏れる。
 その時、明らかに焦った様子のメイドが一人、部屋の中に入ってきたのだ。一礼し、ルーナへと駆け寄る。
 何かあったのだろうか。訝る間にも耳打ちをされたルーナの顔は青ざめていき、此方を見る事もせずに床を蹴っていた。

「何かあったのかな」

「君、俺たちにも話してくれる?」

「はい⋯⋯」

 取り残されたメイドは俯き、両手を強く握る。

「ルーナの父親が足を滑らせて、階段から転落してしまったらしく⋯⋯」

「えっ!?」

「怪我はしてるの?」

「いえ、そこまでは連絡が来ていなくて」

 メイドは静かに首を横に振ると、ぎゅっと口を結ぶ。

「今はルーナのお父さんが心配だ。実家に帰らせてあげて」

「はい」

 そのメイドも小さくお辞儀をすると、そそくさと部屋から出ていってしまった。
 部屋に静寂が訪れる。

「ルーナのお父さん、大丈夫かな」

「分からない。今は無事を祈ろう」

 又してもルーゼンベルクの身内に不幸が訪れてしまった。神様は何故、此処まで無慈悲なのだろう。自分たちにそっくりな神様たちの顔を思い浮かべてしまい、そっと首を横に振る。

「私、神様は嫌い」

「俺もだよ。あんな奴、好きにはなれない」

 そう言い合った後で気付く。これでは自分で自分の事を『嫌い』と言っているのと同じなのではないか、と。
 違う。分身であったとしても、人格は全くの別人だ。同じなんかではない。
 クラウも自問自答をしていたのかもしれない。溜め息が重なった。

「深くは考えないでおこう?」

「うん、その方が良いよね」

 神様が私たちであったとしても、私たちは神様ではない。そう結論を出した。
 無性に眠い。自分でも、何故こんなにも眠いのか分からない。クラウの左手を握り、頭を預ける。

「ミユ?」

「クラウは今、幸せ?」

「幸せだよ」

「良かった⋯⋯」

 自分の意思とは関係無く、瞼は閉じていた。

――――――――

 黄緑色のラナンキュラスが舞う花畑に一人放り出され、途方に暮れていた。私は此処で、何をすべきなのだろう。
 理由も無く足を前に動かし、前へと進み続ける。
 すると、前方に人影が現れたのだ。それも、二つ。何処かで見た気がする人たちの後ろ姿――
 近付くにつれて、二人の姿がはっきりと見えてくる。

「カノンと⋯⋯リエル?」

 近寄り難い。私はもう、過去に戻りたくはない。足を止めようと指令を送るのに、勝手に身体は前へと進んでいく。お願いだから、立ち止まって。その思いも虚しく、とうとうカノンとリエルは振り返る。

「実結」

「こうして会うのは初めまして、だね」

 リエルはにこっと微笑むと、静かに右手を差し出した。どうしてもその手を握る気にはなれず、両手を後ろへ隠してしまった。
 カノンとリエルは苦笑する。

「俺、嫌われてる?」

「違うよ~。リエルとクラウを同一視したくないだけ」

「なんだ、そういう事か」

 私の想いをカノンが代弁してくれ、うんうんと頷いてみせた。リエルは素直に手を引っこめる。

「実結、なんで私たちが夢に出てきたか分かる~?」

 考えてみても、理由なんて全く思い付かない。又、首をブンブンと振ってみせる。

「そりゃそうだよね。予兆なんて無かったし」

「予兆?」

 リエルは小さく「うーん」と唸ると、カノンと顔を見合わせた。頷き合うと、二人の視線は此方へ向く。

「これから先、ミユは誰かの事を恨む日が来ると思う。でも、覚えておいて欲しい」

 リエルはすっと息を吸い込むと、クリクリの瞳を若干つり上げる。

「恨んだ相手は、ミユ以上に傷付くかもしれない。たとえ、全ての非が相手にあったとしても」

 カノンは俯き、唇を小さく動かす。

「私は最期まで恨んだ相手を許せなかった。実結にはそうなって欲しくないの」

「これは、俺たちの勝手な押し付けだから、必ず許せとは言わない。俺たちが言えるのは此処まで」

 景色が段々と白んでいく。
 カノンとリエルはにっこりと笑う。カノンの手が此方に伸びてきたかと思うと、ポンポンと私の頭に触れた。

「またね、実結」

 声だけが頭に木霊する。

 起きた時にはソファーではなく、ベッドに寝かされていた。傍には椅子に腰掛けたクラウが居る。私が目覚めたと分かった瞬間、抱き着いてきた。

「良かった⋯⋯」

「クラウ?」

「急に意識が無くなったんだよ。医者は心労が原因だろうって。ごめん、心配ばっかり掛けて」

 そんなに疲れていたのだろうか。自分では良く分からない。

「兎に角、今は休んで」

「うん⋯⋯」

 この様子では、夢の中での出来事は伝えられないな、と感じた。ただの夢かもしれないし、そもそも伝える必要は無いのかもしれない。
 クラウの身体が離れると、小さな吐息を吐いた。
 どういう訳か、やたらと眠い。睡魔には抗えず、視界は閉ざされていった。
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